めちゃくちゃいい加減な(笑)海軍関係 主要人物事典 |
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海軍関係の人物に関する資料です(・・・一応) (2008年12月現在、リンク切れ多数あり) どのくらいまでファイルが大きくても平気なんだろうか・・・ 随時 ただし、艦隊・戦隊等へのリンクは暫く切れたままです。 本年中にある程度はUPしてリンクを繋げる予定です。 検索サイトから当ページに来られた方へ・・・ すまん、人名が分かってない場合、非常に見つけにくいと思う。 ・・・仕様なんで勘弁(笑) |
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阿部俊雄 | ||||||||||||||
海兵46期 開戦時の第八駆逐隊司令。その後第十駆逐隊司令となり、1943年(昭和18年)2月より水雷学校教頭。 1944年(昭和19年)5月より軽巡洋艦『大淀(連合艦隊旗艦)』艦長となり、同年8月より空母『信濃』艤装員長となり、10月、空母『信濃』艦長となる。 『信濃』は気密試験、防水訓練等も不十分なまま艤装の為横須賀を出港、呉に回航途中に米潜水艦『アーチャーフィッシュ』によって雷撃を受け沈没。その際に艦と運命を共にした。(戦死後、少将に特進) |
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阿部弘毅 | ||||||||||||||
海兵39期 海大23期 開戦時の第八戦隊司令官 ミッドウェー海戦後に第十一戦隊司令官となり、第3次ソロモン海戦に参加。その際に第十一戦隊の戦艦『比叡』『霧島』の2艦を中心に挺進攻撃部隊を率いたが、米艦隊との交戦により戦艦2隻を失う。その責任をとって予備役に編入された。 阿部俊雄(空母『信濃』艦長)の兄にあたる。 |
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有賀幸作 | ||||||||||||||
海兵45期 開戦時の第四駆逐隊司令。その後重巡『鳥海』艦長、水雷学校教頭を勤めた後、昭和19年11月戦艦『大和』艦長に就任した。 昭和20年4月、沖縄海上特攻作戦により第二艦隊と共に沖縄目指して出撃。途中米機動部隊の空襲を受け沈没。戦死した。 |
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有馬正文 | ||||||||||||||
海兵43期 海大26期 開戦時の横須賀航空隊副長。その後珊瑚海海戦で損傷し本土に戻った空母『翔鶴』の艦長となる。 1943年(昭和18年)2月、航空本部教育部長となり、翌年4月に第二六航空戦隊司令官となる。 1944年(昭和19年)10月15日、台湾沖航空戦において、自ら陸攻に搭乗して敵機動部隊に対して攻撃・特攻した。これは二六航戦がフィリピン戦において事実上第一航空艦隊司令部の直轄扱いとなっていたこと。また大西中将が持ち出した特攻に先駆けての士気を鼓舞する為の自発的特攻であったといわれている。 (戦死後、中将に特進) |
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石川信吾 | ||||||||||||||
海兵42期 海大25期 開戦時の軍務局第二課長。 結果から見れば政治軍人とも言うべき海軍将校である。 1931年(昭和6年)、軍令部参謀時代に『日本之危機』という出版物を出版し、対米対抗政策として満蒙占領を主張し、対米戦は避けられないものと主張。結果、これが対米戦に引っ張られる原因ともなったといわれている。(異論有り) また超大型戦艦(後の大和級)建艦を提案し、独立国家間の軍備は均等であるべきと主張した。この意見が艦隊派に支持され第二次ロンドン軍縮会議の方針となる。 石川は1935年(昭和10年)の欧州視察旅行でナチスドイツの伸張に感銘を受けたといわれ、軍備拡張意見書を提出するなどの行動を起こすが、二.二六事件直後に危険視され予備役編入になりそうなる。だが給油艦「知床」特務艦長に左遷されることで現役であり続け、以後陸軍将校・政財界人との交流が活発し、海軍きっての政治軍人と言われるようになっていく。 1940年(昭和15年)11月、軍務局第二課長となり、日独伊三国同盟に伴なう政策指導機関『第一委員会』の中心メンバーとなる。以後、主要な海軍政策は全て同委員会を経由するようになった。海軍の南方進出政策を実質的にリードし、南部仏印進駐は同委員会の方針に従ったものと言われる。 石川曰く、『この戦争(太平洋戦争)は俺が始めたんだ』 その後南西方面艦隊参謀副長、第二三航空戦隊司令官を経て、終戦時には運輸本部長。また終戦工作に於いて高木惣吉を助けたとも言われている。 |
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石崎 昇 | ||||||||||||||
海兵42期 開戦時の戦艦『日向』艦長。 その後第八潜水戦隊司令官、第十一潜水戦隊司令官を歴任。その後第二二戦隊司令官に就任、終戦直前に第二二戦隊は解隊。予備役に編入されて終戦を迎えた。 |
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市丸利之助 | ||||||||||||||
海兵41期 (航空) 開戦時の鈴鹿海軍航空隊司令。 1942年(昭和17年)9月より第二一航空戦隊司令官。 1943年(昭和18年)11月より第十三連合航空隊司令官となり、翌年2月より再び鈴鹿空司令を兼任。8月に第二七航空戦隊司令官となり小笠原諸島方面での索敵・護衛任務に従事する為に硫黄島に着任。 1945年(昭和20年)3月、硫黄島攻防戦にて戦死と推定される。 戦後、硫黄島の戦いにおいて、米大統領に宛てた手紙『ルーズベルトニ与フル書』を書き残しており、これが戦後有名になった |
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伊藤賢三 | ||||||||||||||
海兵41期 海大24期 開戦時の内閣情報局第一部長。 その後南西方面民政府総務局長となり、1943年(昭和18年)4月より第十四戦隊司令官となる。 その後1944年(昭和19年)1月より第三十特別根拠地隊(3月に第三十根拠地隊に改称)司令官となる。 |
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伊藤整一 | ||||||||||||||
海兵39期 海大21期 開戦時の軍令部次長兼海軍大学校長。 太平洋戦争のほぼ全期間を軍令部勤務で勤めたが、フィリピン・レイテ作戦後の昭和19年12月に連合艦隊最後の水上艦隊となった第二艦隊司令長官となる。 昭和20年4月、戦艦『大和』を中心とした海上特攻部隊を指揮して沖縄に向かう途中米機動部隊の空襲を受け戦死した。 |
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伊藤良秋 | ||||||||||||||
海兵43期 開戦時の高雄航空隊司令。その後宇佐空、霞ヶ浦空司令を経て1943年(昭和18年)8月に第二三航空戦隊司令官となる。 1944年(昭和19年)10月、第十三練習航空隊司令官となるが、翌年5月、第十三航空戦隊へと改編。そのまま司令官となり、本土決戦に備えるが終戦となった。 |
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井上成美 | ||||||||||||||
海兵37期 海大22期 開戦時の第四艦隊司令長官。 他の戦線が初戦勝利したにもかかわらず彼の指揮下だけは負けていた。 軍政面は優れているが、実戦指揮の能力はからっきしであったとも言われている。真実は・・・やっぱそうだろうなぁ 昭和17年に海軍兵学校校長に。昭和19年には海軍次官となり、米内光政海軍大臣を助け終戦工作に奔走した。 終戦時には海軍参議官。 |
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井上保雄 | ||||||||||||||
海兵38期 海大22期 開戦時の広東特別根拠地隊司令官。 開戦後に新設された第一海上護衛隊司令官。その後大湊警備府司令長官。 |
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今村 脩 | ||||||||||||||
海兵40期 海大23期 開戦時の第十二戦隊司令官 |
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岩村清一 | ||||||||||||||
海兵37期 海大19期 開戦時の艦政本部長。その後第二南遣艦隊司令長官となる。 |
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岩本徹三 | ||||||||||||||
(移転しました。) |
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上田猛虎 | ||||||||||||||
海兵52期 マリアナ沖海戦当時の第一航空艦隊 261空司令 1944年(昭和19年)7月、戦死(戦死後、大佐に特進) |
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海兵39期 海大23期 開戦時の海南警備府参謀長。その後通信学校長を経て支那方面艦隊参謀長となる。 1945年(昭和20年)3月、第十二航空艦隊司令長官兼大湊警備府司令長官となる。 |
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宇垣 纏 | ||||||||||||||
海兵40期 海大22期 開戦時の連合艦隊参謀長・・・にも関わらず、連合艦隊司令長官山本五十六大将とは不和であったという。航空派の山本と大艦巨砲主義者の宇垣。ある意味最悪の組み合わせだが、参謀長に就任後は山本に同調する姿勢を見せ、高い事務処理能力・危機管理能力を発揮した。 海軍甲事件後、第一戦隊司令官として『大和』『武蔵』『長門』を率いてマリアナ海戦・レイテ海戦に参加した。 その後軍令部出仕後に第五航空艦隊司令長官として沖縄航空戦を指揮した・・・が、何故宇垣が指揮を執ったのだろうか? 航空作戦指揮の際のミス、不手際、情勢判断に関しては戦後多くの問題点が挙げられている。参謀としては優れていたが、指揮官としては疑問があった。 終戦の昭和20年8月15日、多くの特攻隊を送り出した指揮官としての責任感から自ら最後の特攻隊として『彗星』艦爆に同乗し、11機編隊(当初は5機10名の予定だったが、11機22名が出撃。内3機が故障の為途中不時着。6名が生還している。)が沖縄目指して最後の特攻を行った。海軍の将官で特攻作戦を指揮した者が『俺も(特攻の)後に続くから・・・』の言葉を実行し、自決したものは大西瀧次郎中将と宇垣中将だけであったのは特筆に価するだろう。 ただし、この特攻が15日の玉音放送を聴いた後であり、事実上既に停戦となっていた時間帯での特攻作戦であったこと。また特攻出撃にあたり、更に17名もの若者(彗星搭乗員)を道連れにする形で自決したことは遺族に批判されることとなった。無条件にこの最後の特攻を美談に終わらす訳にはいかないのもまた事実である。(連合艦隊司令長官 小沢治三郎中将は『自決するなら一人でやれ。若い者を道連れにするとはもってのほか。』と非難した。) 宇垣の戦時日誌『戦藻録』は当時の第一級の資料としての価値が認められている。 自信家・プライド高し・暴慢不遜・常に不機嫌・・・ついたあだ名が黄金仮面。 |
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浮田秀彦 | ||||||||||||||
海兵37期 海大20期 開戦時の旅順警備府司令長官。その後直に出仕。1942年(昭和17年)8月、予備役に編入。 |
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上野敬三 | ||||||||||||||
海兵41期 開戦時の横須賀航空隊司令。 1942年(昭和17年)11月、第二五航空戦隊司令官としてソロモン航空戦を戦ったが、トラック島空襲以降、ラバウル方面からの撤退、補給途絶により戦隊は解隊となった。 その後第一航空艦隊が連合艦隊の指揮下に入り、所属航空隊を戦隊編制とする際に新設の第六一航空戦隊司令官となる。この戦隊はあ号作戦用の決戦航空隊として編制・訓練された部隊であったが、米機動部隊の前に敗れ去った。その後は乙航空隊2隊だけの部隊となり、11月に解隊する。 その後は軍令部出仕となり、艦政本部等を回った後、東海北陸海軍軍需監督部長として終戦を迎えた。 |
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江戸兵太郎 | ||||||||||||||
海兵40期 開戦時の紀州防備隊司令。1943年(昭和18年)3月に第三水雷戦隊司令官となるが、直ぐに横須賀第二海兵団長、横須賀第一海兵団長(後に横須賀海兵団と改称)となる。 あ号作戦後、再び第三水雷戦隊司令官(直ぐに第三一戦隊と改編)となるが、フィリピン・オルモック湾の戦闘にて戦死した。 |
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遠藤喜一 | ||||||||||||||
海兵39期 海大21期 開戦時に総力戦研究所所長を務める。 その後第一遣支艦隊司令長官を経て第九艦隊司令長官となるが、米軍の反攻により第九艦隊司令部はホーランディアで玉砕、戦死した。 |
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及川古志郎 | ||||||||||||||
海兵31期 海大13期 開戦時は軍事参議官。その後海軍大学校長を兼任する。 第二次近衛内閣では海軍大臣に就任。前任者であった吉田善吾の時、海軍は三国同盟に反対の立場を取っていたが、及川の時に賛意を示し、難航していた三国同盟が締結された。結局これにより戦後及川の判断は非難の対象となってしまった。 昭和18年11月、海上護衛総司令部が発足すると初代司令長官に就任した。 |
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大井 篤 | ||||||||||||||
海兵51期 海大34期 最終階級:大佐 海上護衛関係の部署を歴任、海上護衛総司令部設立時には参謀として任務についた。 戦時中の海上護衛作戦をもっとも知り、分からず屋の海軍上層部相手に奮闘しつづけた。 余談ではあるが、彼が登場するか否かで『IF戦記小説』の出来が分かるという(笑) 名言:『国を挙げての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。馬鹿野郎』(戦艦大和の特攻が決定したときのやり取り) 著書『海上護衛戦(又は 護衛参謀の回想)』は必読本。 |
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大川内伝七 | ||||||||||||||
海兵37期 海大20期 開戦時の支那方面艦隊参謀長。その後第一南遣艦隊司令長官、舞鶴鎮守府司令長官となる。 1944年(昭和19年)から海軍省電波本部長、海軍兵学校長を短期だが努め、同年11月より南西方面艦隊司令長官兼第十三航空艦隊司令長官(後に免兼任)となるり、フィリピン・ルソン島で地上戦を指揮して戦い、終戦を迎えた。 戦後、捕虜虐待等の容疑によりB級戦犯に指定されたが、証拠不十分により無罪が確定した。 |
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大熊政吉 | ||||||||||||||
海兵37期 海大19期 開戦時の大湊警備府司令長官。その後軍令部出仕・待命し、1942年(昭和17年)10月予備役編入。 |
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大杉守一 | ||||||||||||||
海兵41期 海大25期 開戦時の青島特別根拠地隊司令官兼第三遣支艦隊参謀長(後に兼青島警備隊司令) 1942年(昭和17年)4月より海軍兵学校教頭兼監事長。 1943年(昭和18年)6月、第十戦隊司令官。 1944年(昭和19年)1月、第二三特別根拠地隊司令官となる。 戦後、BC戦犯におけるマカッサル捕虜収容所内での処遇に関して第二三特別根拠地(マカッサル)の責任者として死刑された。 |
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大角岑生 | ||||||||||||||
海兵24期 海大5期 海軍生活のほとんどを軍政官として過ごした。 海軍大臣を務めた1933年(昭和8年)から翌年にかけて行われた条約派追放人事として知られる大角人事を行った。 海軍の人事権は海軍大臣の先権事項であったが、伏見軍令部総長が軍令部長に就任した時に軍令部の権限強化策を断行した。その際に人事権の軍令部移管が行われた。この結果、艦隊派による条約派中堅幹部を多数追放するように海軍省人事局に圧力をかけた。大角はこれを拒否できず、条約派が多数予備役に編入された。 この人事による海軍最大の損失が堀悌吉中将の予備役編入であった。 |
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大田 実 | ||||||||||||||
海兵41期 海軍における陸戦研究の第一人者にして、沖縄戦における海軍側の防衛指揮官。海軍陸戦隊を指揮し、陸軍・牛島中将(のち大将)と共に沖縄戦を戦った。 開戦時は漢口特務部長。その後横須賀鎮守府附を経て第二連合特別陸戦隊司令官、佐世保第二海兵団長となる。 1942年(昭和17年)11月より第十四根拠地隊司令。その後第八連合特別陸戦隊司令官、佐世保警備隊司令官を経て1945年(昭和20年)1月より沖縄方面根拠地隊司令官(兼第四海防司令官 2/25 免兼)となる。 沖縄戦末期の6月13日、豊見西湾の司令部にて海軍次官宛てに長文の電報を発している。これが後世に残る名電報である。
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大田泰治 | ||||||||||||||
海兵37期 開戦時の華中連絡部長官。その後第三南遣艦隊司令長官に就任した後、待命、予備役編入(1944/1/25) |
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大西新蔵 | ||||||||||||||
海兵42期 海大26期 開戦時の第七潜水戦隊司令官。その後第八艦隊参謀長となり、ソロモン諸島の戦いに参加。 以後呉鎮守府参謀長を経て後方勤務(学校関係・他)を歴任する。 戦後、第八艦隊当時の外国人大量殺害容疑でB級戦犯に指名されるが、軍事裁判で無罪となった。 戦前にドイツ駐在武官としてドイツに赴任したが、ナチスに対しては嫌悪感を抱いていたという。 |
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大西瀧治郎 | ||||||||||||||
海兵40期 開戦時の第十一航空艦隊参謀長。生粋の航空屋として海軍航空を引っ張ってきた数少ない将官であり、開戦初頭に実施された空母機動部隊によるハワイ・真珠湾奇襲攻撃の原案を纏めたのは大西である。 また戦局の困難さから最後には非情の手段として特攻攻撃を発案した。(*) レイテ作戦で自らの指揮する第一航空艦隊から初の神風特別攻撃隊を出撃させている。 特攻の生みの親と知られ、終戦の日に特攻に散った英霊に感謝すとして自決した。 今でも特攻隊の発案者が大西中将であるとの説が有力であるが、実際に特攻隊を編成し、組織化するだけの権限は大西には無かった。終盤、数多くの特攻兵器が運用されたが、これらの開発・製造が開始されたのは大西が特攻隊を編成する以前に行われている。特攻攻撃そのものが困難な戦局に直面した部隊・兵士によって自発的に行われている事例もある。 結局航空機による特攻部隊編成の最初を大西中将の第一航空艦隊が行ったというだけである。 大西は特攻隊の生みの親ではなく、海軍航空の育ての親である。 |
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大野一郎 | ||||||||||||||
海兵38期 海大21期 開戦時は大島根拠地隊司令官。その後上海方面根拠地隊司令官となる。1943年(昭和18年)5月には上海特別陸戦隊司令官を兼任。その後揚子江方面特別根拠地隊司令官を勤めた後、1944年(昭和19年)4月より大阪警備府司令長官となった。同年11月、出仕。12月予備役編入。 |
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大林末雄 | ||||||||||||||
海兵43期 開戦時の空母『瑞鳳』艦長 1942年(昭和17年)12月、戦艦『日向』艦長を経て、翌年7月より第五一航空戦隊司令官となる。 1944年(昭和19年)2月より第三航空戦隊司令官となり、あ号作戦に参加。10月より第一機動艦隊参謀長となるが、翌月には解隊された。12月より第一航空戦隊司令官となるが既に実戦能力は消失していた。 1945年(昭和20年)3月、第一特攻戦隊司令官となり、そのまま終戦を迎えた。 |
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大森仙太郎 | ||||||||||||||
海兵41期 (水雷屋) 開戦時の第一水雷戦隊司令官 その後第五戦隊司令官となったが、ブーゲンビル島沖海戦での稚拙な艦隊指揮により解任された。 その後水雷学校長を経て、終戦時には第七艦隊司令長官となる。 |
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大和田 昇 | ||||||||||||||
海兵44期 海大26期 開戦時の軽巡洋艦『香取』艦長。その後戦艦『山城』艦長を経て第五艦隊参謀長となる。(このときにキスカ撤収作戦が行われている。) 1943年(昭和18年)12月より第七潜水戦隊司令官。1945年(昭和20年)3月より第十特攻戦隊司令官となり、終戦を迎えた。 |
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岡 新 | ||||||||||||||
海兵40期 海大22期 開戦時の上海在勤駐在武官。だが有名なのは開戦前の1940年(昭和15年)12月より総力戦研究所長主事であったことだろう。(開戦直前の昭和16年10月に総力戦研究所長心得) 1943年(昭和18年)9月、第三南遣艦隊司令長官に就任。翌年、軍令部出仕を経て大阪海軍警備府長官となり、終戦を迎えた。 |
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岡 敬純 | ||||||||||||||
海兵39期 海大21期 開戦時の軍務局長 潜水艦畑出身で海大卒業後は軍令部、軍務局といった中央で勤務し、1940年(昭和15年)に軍務局長に就任した際に、陸軍に対抗する為に国防政策担当担当部署として軍務局第二課を新設した。(課長は石川信吾大佐) この石川大佐と共に海軍の対米開戦論者であり、海軍の政策を推し進めていくこととなった。 1944年(昭和19年)7月、澤本大将の後任として海軍次官に就任する。だが同日東條内閣が総解散となり、続いて発足した小磯内閣では海相となった米内大将により次官を追われ、次官は井上中将が就任した。 その後鎮海警備府司令長官として中央から追われ、翌年6月に予備役に編入。終戦を迎えた。 戦後、内大臣木戸幸一により海軍内で最も対米開戦を強硬に主張した人物と指名され、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯に指定され、終身刑の判決を受けた。 |
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岡田啓介 | ||||||||||||||
海兵15期 海大2期 二.二六事件当時の首相(第31代内閣総理大臣) 事件では暗殺されたと思われたが、難を逃れて救出された。 ワシントン軍縮会議当時、海軍次官代理として加藤友三郎海相の軍縮案を支持し、部内の意見を纏めた。 対米開戦に反対し、戦局が悪化したしたときに東条内閣打倒を画策し、鈴木内閣の和平工作を影で支持した。 |
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奥 信一 | ||||||||||||||
海兵38期 海大21期 開戦時、艦政本部・造船造兵監督長(未確認) 1942年(昭和17年)1月より第十特別根拠地隊司令官となるが、11月に軍令部出仕。1943年(昭和18年)2月に死去 |
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奥宮正武 | ||||||||||||||
海兵58期 アリューシャン攻略作戦からマリアナ海戦まで、一期間を除き常に空母機動部隊で勤務した航空参謀(第四航空戦隊・のちに第二航空戦隊)。 マリアナ海戦後は軍令部で本土防空と海上護衛を担当した。 氏自身は戦前の飛行機事故で飛べなくなったが、その後は教官・参謀として戦い続け、戦後多くの著書を執筆している。 |
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小沢治三郎 | ||||||||||||||
海兵37期 海大19期(水雷屋) 太平洋戦争中第4代目にして最後の連合艦隊司令長官であるが、むしろ機動部隊の生みの親とか、開戦時の南遣艦隊司令官とか、第2代目の空母機動部隊(第三艦隊)司令官と言った方が有名であろう。 戦前は将来の連合艦隊司令長官だとか、戦史の本とかでも非常に評価が高い名将の一人ではあるが・・・結果だけを見てみれば彼が空母部隊を指揮してからというものの唯の一隻も敵空母を撃沈していない。 果たして彼が不運の名将だったのか、凡将だったのか・・・評価の分かれるところである。 |
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鴛淵 孝 | ||||||||||||||
(移転しました。) |
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か |
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貝塚武男 | ||||||||||||||
海兵46期 開戦時は横須賀鎮守府付であり、その後大湊警備府参謀長となる。 1943年(昭和18年)7月、空母『鳳翔』艦長となり、12月より空母『瑞鶴』艦長となった。 あ号作戦(マリアナ沖海戦)、レイテ作戦を『瑞鶴』で戦い、捷一号作戦における囮部隊となっての最後の海戦『エンガノ岬沖海戦』で『瑞鶴』と共に戦没した。(戦死後、中将に特進) |
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角田覚治 | ||||||||||||||
海兵39期 海大23期(砲術) 日本海軍でも最高の闘将。 元々砲術屋だが開戦時には第四航空戦隊を指揮しダバオ空襲を指揮。その後ミッドウェー作戦の支作戦であるダッチハーバー空襲作戦に参加。ミッドウェー後はそのまま横滑りで第二航空戦隊(基本的に同じ部隊)司令官となり、南太平洋海戦を戦う。 その後基地機動航空部隊・第一航空艦隊の司令長官となり、マリアナ海戦を戦うが残念ながら適切な配置であったとは言えなかった。 むしろ時の機動部隊司令長官・小沢治三郎と配置を逆にすべきであったと言われる。 マリアナ海戦の後、航空機を全て失い、テニアン島で自決。 |
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梶岡定道 | ||||||||||||||
海兵39期 開戦時に第六水雷戦隊司令官としてウェーク島攻略作戦に参加。その後第十八戦隊司令官となり、羅津方面特別根拠地隊司令官を経て予備役に編入された。 その後召集され、第六護衛船団司令官となったが、戦死。戦死後中将に昇進。 |
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金沢正夫 | ||||||||||||||
海兵39期 海大21期 開戦時の横須賀鎮守府参謀長。その後第四艦隊付を経て第八特別根拠地隊司令官、施設本部長となる。 1945年(昭和20年)5月より呉鎮守府司令長官となり、終戦を迎えた。 |
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金子繁治 | ||||||||||||||
海兵42期 海大24期 開戦時の軍令部第四部長兼海軍通信部長。 1943年(昭和18年)1月より第一連合通信隊司令となり、11月より佐世保鎮守府参謀長となった。 1945年(昭和20年)1月より青島方面特別根拠地隊司令官となり、終戦を迎えた。 |
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河瀬四郎 | ||||||||||||||
海兵38期 海大20期 開戦時の水雷学校長。開戦直後に第三遣支艦隊司令長官となったが、同艦隊が青島方面特別根拠地隊に改編される際に大湊警備府司令長官となった。 その後第五艦隊司令長官に転出、このときキスカ脱出作戦が行われている。その後第二南遣艦隊司令長官となった。 |
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河野千万城 | ||||||||||||||
海兵42期 海大24期 開戦時の第六潜水戦隊司令官。その後第三潜水戦隊司令官を経て軍令部第四部長兼大本営海軍部通信部長となる。 1944年(昭和19年)2月、久里浜の横須賀通信学校長に就任。 終戦時には関東信越軍需監督部長。 |
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菅野 直 | ||||||||||||||
(移転しました。) |
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菊池朝三 | ||||||||||||||
海兵45期 開戦時の館山空司令。その後第十一連合航空隊付、航空本部付を経て練習連合航空総隊参謀となる。 1943年(昭和18年)6月、空母『瑞鶴』艦長。12月より空母『大鳳』艤装員長となり、翌年3月に空母『大鳳』艦長となる。 マリアナ沖海戦後、第二五航空戦隊司令官、第二航空艦隊参謀長、第一航空艦隊参謀長(後に参謀副長)となりフィリピン攻防戦、沖縄攻防戦を戦う。 1945年(昭和20年)6月、海軍総隊参謀副長となり、終戦を迎えた。 |
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岸 福治 | ||||||||||||||
海兵40期 海大23期 開戦時の第九戦隊司令官、その後第八戦隊司令官となる。 中将昇進後、海上護衛参謀長、第1海上護衛隊司令官、第1護衛艦隊司令長官、第七艦隊司令長官兼第1護衛艦隊司令長官となる。 |
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木村 進 | ||||||||||||||
海兵40期 開戦時の海軍省水路部第一部長。 1942年(昭和17年)4月より第十戦隊司令官。 1943年(昭和18年)4月より第十一水雷戦隊司令官となる。12月再び第十戦隊司令官となり、あ号作戦、捷一号作戦に参加。 1944年(昭和19年)12月、航海学校長、翌年5月水路部長となって、終戦を迎えた。 |
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木村昌福 | ||||||||||||||
海兵41期 髭の木村と異名をとった名将。 海兵をドン尻に近い成績で卒業し、だれにも期待されずに黙々と海上生活を送ったが、開戦直前に重巡『鈴谷』艦長に抜擢。 その後第一水雷戦隊司令官に栄転した。 司令官として初の任務がキスカ島からの脱出作戦であり、『キスカの奇跡』と言われる作戦であった。 その後もフィリピン方面で活躍し、典型的な有能な現場指揮官であったといえる。 |
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清田孝彦 | ||||||||||||||
海兵42期 開戦時の重巡洋艦『那智』艦長。 その後海軍省水路部第一部長(後に兼総務部長)を経て第十四戦隊司令官となる。 第十四戦隊の解隊後第二護衛船団司令官となり、その後呉防戦司令官、第八特攻戦隊司令官となる。 |
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吉良俊一 | ||||||||||||||
海兵40期 日本人として初めて空母に着艦することに成功した人物。 開戦時の第十二連合航空隊司令官。その後第二二航空戦隊司令官、第五一航空戦隊司令官、横須賀海軍航空隊司令を歴任し、あ号作戦後に第三航空艦隊司令長官に就任。 1944年(昭和19年)11月、予備役に編入。 |
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桑原虎雄 | ||||||||||||||
海兵37期 (航空) 開戦時の第三航空戦隊司令官。 支那事変に第二連合航空隊司令官、続いて第一連合航空隊司令官として重慶爆撃に参加した。 第一段作戦後、青島方面特別根拠地隊司令官となる。 |
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草鹿任一 | ||||||||||||||
海兵37期 海大19期 塚原中将に代わってラバウルのソロモン方面航空部隊を指揮した。 その後同方面が下火になり、ラバウルが後方にとり残されるようになっても現地を死守し、頑張ったらしいのだが・・・実際に頑張っていたのは彼の部下たちであったというのが真実らしい。 |
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草鹿竜之介 | ||||||||||||||
海兵41期 海大24期(水雷→航空) 開戦時の南雲機動部隊(第一航空艦隊)の参謀長。 前半の空母部隊を実質的に指揮した草鹿・源田コンビの片割れ。 航空戦に詳しかったが、なにより彼の真価が発揮されたのはあの無茶苦茶な殴り込みをとにかく作戦として成立させてしまったレイテ作戦だろう。(当時軍令部参謀) |
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久保九次 | ||||||||||||||
海兵38期 開戦時の第一根拠地隊司令官(後に第二一特別根拠地隊に改編)。 1942年(昭和17年)11月、第二二戦隊司令官となる。 1944年(昭和19年)1月より千島方面特別根拠地隊司令官。 1945年(昭和20年)7月に呉連合特別陸戦隊司令官兼警備隊司令官となり終戦を迎える。 |
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栗田健男 | ||||||||||||||
海兵38期 (水雷屋) 開戦時には第七戦隊を指揮、その消極的な戦いで有名、かと思えばソロモン戦では第三戦隊を指揮しガ島砲撃戦を行ってもいる。 その後第二艦隊司令長官としてマリアナ戦を経てレイテ作戦を指揮、このときに最大の謎、敵艦隊直前での謎の反転を行い、戦後長く謎として語られるが、本人は戦後この件に関し何も言明しなかった。 海軍の指揮官としてはもっとも海上生活が長く、実戦派の指揮官であったがこの一件で評価が低くなっている。 |
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黒島亀人 | ||||||||||||||
海兵44期 海大26期 開戦時の連合艦隊先任参謀であり、作戦参謀であり、変人参謀である。 ・・・これで解説を終わりにしても良いかもしれない・・・というか、終わりたいのだが、一応続ける。 連合艦隊司令長官となった山本五十六の良き(?)相談相手にして変人。アイデアマンであり、山本が重用したのだが、ここから真珠湾奇襲が出たのかと思うとちょっと心配。戦艦『長門』関内をふんどし一丁で歩き回り、私室に引篭もってお香を焚いて作戦を立案してたというのだから・・ 連合艦隊司令長官となった山本五十六は、その司令長官在任中の殆ど期間、黒島を手元においていた。それについて三和義勇参謀の記述から推察するに、黒島がつまらない出世に右往左往する軍人が多い中で純粋に戦争のことを考え、身をすりぶす覚悟でいるとろこだからだという。山本をして昭和の秋山真之と引き合いに出したのもその辺りのことだろう。 人の考え及ばぬ所、気が付かないところに着眼して深刻に研究する。それは時に奇想天外なところもあり、またそれを直言してはばからぬ美点がある。こういう人がいなければ天下の大事は成し遂げられない。そう考えて黒島を重用し続けたのであろう。 山本が戦死した後は軍令部第二部長(通常は少将が任命されるが、大佐のまま任命され、後少将に昇進)に補される。海軍戦備考査部会議の際に『必死必殺の兵器の開発』を提案、つまり特攻兵器の発案をしている。この発案に基づいて水陸両用車や人間魚雷の考案に没頭していった。特攻のような『独創』的な兵器開発の推進力となったのは黒島が戦備担当の軍令部第二部部長になった故であり、またそれを期待しての第二部長就任であった。 |
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源田 實 | ||||||||||||||
海兵52期 (航空) 開戦時には南雲機動部隊(第一航空艦隊)の航空参謀。 実質彼が航空部隊を指揮しているとさえ言われた(通称:源田機動部隊)。 ミッドウェー作戦後は空母を離れ、軍令部に。 大戦末期には制空権を奪回すべく各地の部隊から撃墜王を集め、新鋭機・紫電改を集中的に運用した部隊(第三四三海軍航空隊(2代目) 通称『剣』部隊)を編成、自ら航空隊司令になった。 良くも悪くも海軍航空に関してはかならず名前が出てくる人。 戦後は参議院議員 |
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小池四郎 | ||||||||||||||
海兵37期 海大20期 開戦時の海軍省施設本部長。従来の小規模な建設部を太平洋戦争に備えて武官主導の施設本部とし、戦地に派遣した設営隊を指揮した。 1942年(昭和17年)12月より海南警備府司令長官となる。1943年(昭和18年)10月、出仕。翌年3月、待命・予備役編入。 |
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上阪香苗 | ||||||||||||||
海兵43期 海大26期 開戦時の航空本部教育部長。 1943年(昭和18年)2月、第二六航空戦隊司令官。翌年9月より第五十航空戦隊司令官となる。 1943年(昭和18年)11月、航空本部総務部長。翌年3月、航空本部教育部長となり、9月より練習連合航空総隊参謀長を兼任する。 1945年(昭和20年)8月、海軍省教育局長として終戦を迎えた。 |
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古賀峯一 | ||||||||||||||
海兵34期 海大15期 開戦時の支那方面艦隊司令長官であり、後に太平洋戦争中2代目の連合艦隊司令長官となる。 戦死した山本五十六元帥の後をついだが、たいした戦歴は残していない(ように見える(^^; ) 日本がソロモンで苦しみだしたときに前任がいなくなたため、特に自分で作戦を出来たわけではないからだ。 結局ソロモンからやっと抜け出し、絶対国防圏を築くぞっと言った途端に攻撃を受け、机上の空論っぷりを発揮した。 とりあえず前線のトラックが危険になったからパラオに後退したが、そのときに多くの船を沈められている。 またパラオから後退するときに乗った飛行艇が乱気流に巻き込まれ遭難(海軍乙事件)し、そのまま行方不明・戦死となった不運の長官であった。 |
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伍賀啓次郎 | ||||||||||||||
海兵38期 海大20期 開戦時の艦政本部第二部長。1942年(昭和17年)9月、第二一特別根拠地隊司令官となり、1943年(昭和18年)9月出仕、12月待命・予備役編入となった後、東京軍需管理部長となる。 1944年(昭和19年)11月、再召集により海南警備府司令長官となり、そのまま終戦を迎えた。 |
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小暮軍治 | ||||||||||||||
海兵41期 海大25期 開戦時の戦艦『陸奥』艦長。 1942年(昭和17年)7月より第一遣支艦隊参謀長を務めた後、1943年(昭和18年)9月より第二八航空戦隊司令官となる。 終戦前に中将に昇進。予備役編入。 |
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小園安名 | ||||||||||||||
海兵51期 (航空) 開戦時に台南海軍航空隊副長。 海軍夜間戦闘機の御用達・斜め銃の発案者である。そして自ら指揮をとる251空(台南空を改称)で夜戦隊を編成し、ラバウルの夜間防空戦闘を実施する。 大戦後半は厚木航空隊(302空)の司令として本土防空戦を戦った。 しかし終戦時に停戦に反対し、反乱を起こした(厚木航空隊の反乱事件)。 反乱自体は直ぐに治まったが、これが原因で未だ名誉回復にはなっていないらしい。 |
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後藤英次 | ||||||||||||||
海兵37期 開戦時の第二四航空戦隊司令官(開戦前に中将に昇進済み) その後鎮海警備府司令長官、を経て北東方面艦隊司令長官となる。昭和19年12月第十二航空艦隊司令長官となり、翌年2月に大湊警備府司令長官を兼任する。(1945年(昭和20年)5月、予備役編入) |
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五藤存知 | ||||||||||||||
海兵38期 (水雷屋) 開戦時の第六戦隊司令官 サボ島沖海戦の際に敵艦隊を味方艦隊と誤認。敵からの砲撃を味方からの誤砲撃と思い込み、そのまま乗艦『青葉』の艦橋に敵艦からの砲撃を受け戦死した。 |
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小林謙五 | ||||||||||||||
海兵42期 海大24期 開戦時の第一艦隊参謀長。 1943年(昭和18年)に呉鎮守府参謀を経て連合艦隊参謀副長となる。 1945年(昭和20年)4月、旅順方面特別根拠地隊司令官となり終戦。シベリア抑留となり1948年(昭和23年)にシベリアにて死去。 |
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小林宗之助 | ||||||||||||||
海兵35期 海大16期 開戦時の舞鶴鎮守府司令長官。だが1942年(昭和17年)7月の改編時に出仕、そのまま待命・予備役編入(同年12月)となった。 |
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小林徹理 | ||||||||||||||
海兵38期 開戦時の第十七戦隊司令官。その後第三一根拠地隊司令官。 |
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小林 仁 | ||||||||||||||
海兵38期 開戦時は大阪警備府司令長官。その後第四艦隊司令長官となって内南洋防衛にあたる。だが、既に戦局は米軍反攻の時期にであり、ギルバート諸島、マーシャル諸島失陥と続き、1944年(昭和19年)2月のトラック島空襲へと続く。現地では米艦隊来襲に先立ち警戒を強めていたが、来襲予想日の判断ミスから大被害を蒙る。この件により責任を取らされ更送、予備役編入となった。 戦後、小林が第四艦隊司令長官当時にウェーク島での捕虜銃殺が有った為、監督責任を問われ巣鴨拘置所に収監された。 |
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小松輝久 | ||||||||||||||
海兵37期 海大20期(乙) 開戦時の第一遣支艦隊司令長官。その後第六艦隊司令長官、佐世保鎮守府司令長官、海軍兵学校長となる。 北白川宮家出身の侯爵であり、戦後は平安神宮宮司を務める。 |
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古村啓蔵 | ||||||||||||||
海兵45期 海大27期 開戦時の重巡洋艦『筑摩』艦長。真珠湾攻撃、セイロン島沖海戦、ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦に参加し、南太平洋海戦では米軍機の空襲を一手に引き受け艦は大破し、古村もこの海戦で重症を負う。 その後戦艦『扶桑』、『武蔵』の艦長を務め、1943年(昭和18年)12月より第三艦隊参謀長(後に第一機動艦隊参謀長を兼任)となり、あ号作戦に参加。 1944年(昭和19年)10月、第一航空戦隊司令官。(捷一号作戦には不参加。) 1945年(昭和20年)1月、第二水雷戦隊司令官に就任。軽巡『矢矧』に座乗し、沖縄海上特攻作戦に参加する。『矢矧』は坊ノ岬沖海戦で撃沈されたが、『初霜』に救助された古村は尚も沖縄突入を諦めず、残存駆逐艦による沖縄突入を命じる。だが作戦命令の暗号を組んでいる途中で作戦中止命令が届き、残存艦艇を率いて本土に帰還する。 5月、横須賀鎮守府参謀長兼補給長となり、終戦を迎えた。 |
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近藤信竹 | ||||||||||||||
海兵35期 開戦時の第二艦隊司令長官。実戦部隊のナンバー2であり、フィリピン作戦・マレー作戦全般を指揮した。 南方・インド洋・ソロモンと前半は大活躍だったが、昭和18年大将に昇進して後方に下がった。 その後軍事参事官、そして予備役に編入され表舞台から消えていった・・・なぜっ(T^T)< 米内海相とあわなかったからw |
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さ |
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坂井三郎 | ||||||||||||||
(移転しました。) |
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酒巻和男 | ||||||||||||||
海兵68期 特殊潜航艇甲標的の搭乗員として伊二四潜より出撃、開戦劈頭の真珠湾攻撃に出撃した。 だが作戦は失敗、一緒に出撃した全5艇が失われた。乗員計10名中、少尉を除いた9名は全員戦死、九軍神として祭られたが、生き残った酒巻少尉ただ一人は捕虜として米軍に捕らわれた。彼こそが太平洋戦争における捕虜第1号となった。 だが兵が捕虜になった際に対する対応を教育していなかった日本軍にとって、以後戦時期間中に続々と増える捕虜となったもの達に対するアドバイスを収容所内で説いて回った少尉の存在は決して無視できないものであった。 |
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酒巻宗孝 | ||||||||||||||
海兵41期 開戦前(1939年(昭和14年))に海軍省航空本部教育部長として独国に出張。開戦前に帰朝命令により帰国した。 その後1942年(昭和17年)2月より第十一航空艦隊参謀長。 1943年(昭和18年)1月より第五十航空戦隊司令官となり、5月より第二航空戦隊司令官となる。だがソロモンの戦いにおいて空母部隊のソロモン・陸上基地(ブイン)の派遣が決定。航空戦隊司令部要員と所属航空隊が陸揚げされ、そのまま(9月)第二六航空戦隊司令官となった。 その後南東方面からの撤退後に出仕。1944年(昭和19年)8月より大本営参謀となる。10月、軍需省航空兵器総局総務局長となり、翌年終戦を迎えた。 |
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坂本伊久太 | ||||||||||||||
海兵36期 海大19期 開戦時の鎮海警備府司令長官。1942年(昭和17年)9月出仕。同年12月、待命・予備役編入。 |
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左近允尚正 | ||||||||||||||
海兵40期 開戦時の泰王国大使館付武官。 1943年(昭和18年)に第十六戦隊司令官に就任し、南方作戦、渾作戦、多号作戦に参加した。翌年末に支那方面艦隊参謀長に就任し、終戦を迎えた。 戦後、戦犯として逮捕(ビハール事件)、香港で絞首刑に処された。 (但し、この判決は冤罪であり、報復裁判であった可能性が高い。) |
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笹井醇一 | ||||||||||||||
(移転しました。) |
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佐藤 勉 | ||||||||||||||
海兵40期 開戦時の第一潜水戦隊司令長官。同戦隊は開戦時に先遣部隊としてハワイ沖合いに展開。特殊潜航艇『甲標的』を出撃させた。 その後呉海兵団長に転出して待命となっている。 (余談:真珠湾に出撃した際の乗艦『伊号第九潜水艦』には管理人の祖父が乗艦していたwww) |
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鮫島具重 | ||||||||||||||
海兵37期 昭和17年10月より井上茂美中将の後を継いで第四艦隊司令長官に就任。 その後昭和18年4月に第八艦隊司令長官に就任して終戦に至る。 |
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澤本頼雄 | ||||||||||||||
海兵36期 海大17期 開戦時の海軍次官。日米開戦反対の立場であり、開戦が決定した際に海軍大臣嶋田大将に次官辞任を申し出るが、嶋田に大将昇進と連合艦隊司令長官のポストをちらつかれて次官に留まった。(後年、澤本はこれを非常に悔いていたという。) 1944年(昭和19年)7月、軍事参議官を経て呉鎮守府司令長官に就任。翌年5月に軍事参議官に戻り、終戦を迎えた。 |
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海兵40期 海大23期 開戦時は企画院第六部長。その後第五部長、第二四特別根拠地隊司令官、多賀白海軍工廠長となる。終戦時には第二南遣艦隊司令長官。 |
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志摩清英 | ||||||||||||||
海兵39期 海大21期 開戦時の第十九戦隊司令官。その後第十六戦隊司令官、横須賀通信学校長を経て、第五艦隊司令長官となる。北東方面艦隊に属し、千島列島での哨戒任務に従事したが、フィリピン方面の戦いに備える為南西方面艦隊に配置換えされた。 フィリピン決戦・捷一号作戦において、第二遊撃部隊とされ西村中将率いる第一遊撃部隊第三部隊の後方から約2時間送れでスリガオ海峡に突入。この際、指揮系統が別だったこともあり、明確な作戦指示を受けていなかった。前方の状況、西村部隊の惨状と、敵情が不明な為、志摩部隊は反転、引き上げた。このとき敵艦隊と交戦し、後退して来た西村部隊の重巡『最上』と、指揮下の重巡『那智』が接触事故を起こし、『那智』は無事脱出できたが、損害の激しかった『最上』は味方駆逐艦(『曙』)の雷撃を受け自沈している。 その後艦隊戦力が激減した為、艦隊は解隊され、高雄警備府司令長官に転出した。 |
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清水光美 | ||||||||||||||
海兵36期 開戦時の第六艦隊司令長官。 その後第一艦隊司令長官となるが、戦艦部隊が前線に出る機会なかった。 戦艦『陸奥』爆沈事件の責任を執る形で予備役に編入された。 |
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城島高次 | ||||||||||||||
海兵40期 開戦時の空母『翔鶴』艦長。 1942年(昭和17年)5月、佐世保鎮守府付を経て6月より第十一航空戦隊司令官となる。 1943年(昭和18年)5月、第五十航空戦隊司令官を経て9月より第二航空戦隊司令官となり、マリアナ沖海戦を戦う。その後再建された第二一航空戦隊司令官となり、第二航空艦隊の指揮下でフィリピン戦を戦うが、指揮下の航空隊は乙航空隊の台湾空のみであった。その為僅か半年で解隊となる。 1944年(昭和19年)12月より第十一連合航空隊司令官として本土に戻り、その後霞ヶ浦空司令兼第十二連合航空隊司令官となる。その後第十二航空戦隊と改称され、実戦部隊に鞍替えされた後終戦を迎えた。 |
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白石万隆 | ||||||||||||||
海兵42期 海大25期 開戦時の第二艦隊参謀長。南方部隊本隊の司令部にあって南方作戦全般の支援作戦を策定する。 1943年(昭和18年)8月より海大の教頭を務め、1944年(昭和19年)3月より第七戦隊司令官としてあ号作戦、捷一号作戦に参加する。 1944年(昭和19年)12月、海運総局船員局長となり、終戦を迎えた。 |
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小柳富次 | ||||||||||||||
海兵42期 海大24期 開戦時の戦艦『金剛』艦長。 1942年(昭和17年)12月、第二水雷戦隊司令官(二水戦司令官を解任された田中少将の一時的な後任人事?)となり、その後第十戦隊司令官となる。 1943年(昭和18年)7月、第二艦隊参謀長となり、捷一号作戦まで参謀長を務めるが、レイテ湾海戦で重症を負う。 捷一号作戦の直前、連合艦隊主席参謀 神重徳参謀と打合せした際に、作戦目的である連合軍輸送船団撃滅を果す為に海軍に残された唯一の水上攻撃部隊である第二艦隊を・・・つまり連合艦隊をすり潰すというのに納得できなかった小柳、そして第二艦隊司令長官栗田中将は神大佐に念を押して確認している。それに対し『すり潰しても構わない。』と答えた。フィリピンを失えば日本は干上がる。それを阻止する為に連合艦隊は滅んでよいと・・・ 小柳はなおも問い、途中敵主力部隊と遇ったら、輸送船団へり攻撃を後回しにして、その撃滅に専念して良いのかと。これに対し神は異存は無いと断言。小柳はこのことを豊田連合艦隊司令長官ににも伝えるよう念を押した。これがレイテ海戦に於ける栗田歓待の謎の反転に繋がる背景であり、経緯であった。 重症を負った小柳は1945年(昭和20年)2月、横須賀鎮守府付となり、8月に水雷学校長となって終戦を迎えた。 |
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嶋田繁太郎 | ||||||||||||||
海兵32期 海大13期 海軍兵学校の同期に山本五十六、堀悌吉らがいる。 東條内閣が組閣されたときに海軍大臣となり、開戦を迎える。東條の腰巾着とさえ言われた海軍大将。 海軍元帥 伏見宮博恭王の寵愛を受けていたため、勧告を受け海軍大臣に就任したが、当初は対米戦反対だったにも関わらず、伏見宮博恭王の一言で開戦派に転じた。 東條が首相兼陸相兼参謀総長になるのに合わせて軍令部総長を兼任するが支持されなかった。昭和19年6月のマリアナ沖海戦敗北すると東條内閣が潰れ、海相辞任。ついでに8月に軍令部総長も辞任。そして軍事参議官となり、翌年には予備役になった。 東京裁判ではA級戦犯となり、終身禁固刑判決を受ける。開戦時の海軍最高責任者の一人にも関わらず、死刑を免れた稀有な人である。 ちなみに彼のことを高く評価する人を私(管理人)は知らないΣ( ̄▽ ̄;) |
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杉山丑衛 | ||||||||||||||
海兵44期 開戦時の空母『龍驤』艦長。 1942年(昭和17年)4月より航空技術廠飛行実験部長を務める。 1943年(昭和18年)3月、204空司令、9月に第二七航空戦隊司令官となる。 1944年(昭和19年)3月、第六二航空戦隊司令官を経て6月より第二航空艦隊参謀長。9月、再び第二七航空戦隊司令官となり、10月に第二六航空戦隊司令官となる。 1945年(昭和20年)6月、戦死。(戦死後、特進して中将) |
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杉山六蔵 | ||||||||||||||
海兵38期 海大22期 開戦時の第三遣支艦隊司令長官。新編制された第三南遣艦隊司令長官に就任し、フィリピン方面作戦を担当した。その後は艦政本部長、兼電波本部長となる。 終戦時は佐世保鎮守府司令長官。 |
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鈴木貫太郎 | ||||||||||||||
海兵14期 海大1期 海軍次官、連合艦隊司令長官、軍令部長などを海軍職を歴任後、侍従長となる。 二・二六事件で反乱軍の襲撃を受けたが九死に一生を得たのち、枢密院議長となる。 大戦末期、戦時中最後の内閣総理大臣に就任。就任の際には頑なに就任を拒否したが、昭和天皇の説得によりやむなく就任した。 ポツダム宣言受諾を推進し、終戦となった1945年8月15日、辞表提出。17日に総辞職となった。 戦後、ふたたび枢密院議長を務め、新憲法の審議などにあたる。 |
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鈴木清臣 | ||||||||||||||
海機37期 祖父(笑) 開戦時は伊九で真珠湾に行ってたらしいΣ( ̄▽ ̄;)(祖母情報) ・・・のだが、親族はだれもそのことを教えてくれない。伊九を降りた後のことは不明。(終戦時:中佐?) |
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鈴木義尾 | ||||||||||||||
海兵40期 開戦時の軍令部第二部長。 昭和18年7月より第三戦隊司令官として前線に参加。あ号作戦、捷一号作戦に戦艦『金剛』に乗艦して指揮した。 捷一号作戦での艦隊殴りこみ作戦で生還したが、損傷後に本土に回航途中、台湾沖を航行中に米潜水艦『シーライオン』によって『金剛』が撃沈された際に戦死した。 |
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砂川兼雄 | ||||||||||||||
海兵36期 開戦時の海南警備府司令長官。 1942年(昭和17年)12月に出仕、翌年3月に待命・予備役編入。 |
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澄川道男 | ||||||||||||||
海兵45期 海大28期 開戦時の航空技術廠総務部長。 1942年(昭和17年)11月、空母『飛鷹』の艦長となり、翌年8月からは空母『大鳳』の艤装員長となった。 1944年(昭和19年)1月、第四艦隊参謀長となるがトラック・パラオ方面は壊滅状態となり、3月から指揮下の航空部隊第二二航空戦隊司令官となる。だがあ号作戦で航空隊は壊滅状態となり、航空戦隊は無力化。8月から再び第四艦隊参謀長となり、1年後終戦を迎えた。 |
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関 行男 | ||||||||||||||
(移転しました。) |
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副島大助 | ||||||||||||||
海兵38期 海大21期 開戦時の海軍省水路部長。 1943年(昭和18年)6月より第二遣支艦隊司令長官となる。(その後予備役に編入) |
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高木惣吉 | ||||||||||||||
海兵43期 海大16期(次席) 最終階級:少将 旧制中学教育課程を経ず高等小学校卒業のみの学歴で海軍兵学校に合格し、将官にまで達した海軍軍人。そして海軍士官としては珍しく、海上勤務の経験が極めて少なく、殊にフランスからの帰国後は陸上勤務に終始する。その結果海軍以外に豊富な人脈を構築し、これが後に生きてくることとなった。 太平洋戦争の早期終戦を模索した高木は、最終的に東條首相暗殺を計画する。だが実際に暗殺計画を立案し、実行直前に東條がサイパン失陥の責任を問われ内閣総辞職を決意した為、計画は未遂に終わる。 その後の小磯内閣において海軍大臣:米内光政大将、海軍次官:井上成美中将から終戦工作の密命を受け、各方面と連携をとりつつ戦争終結に向け奔走した。 |
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高木武雄 | ||||||||||||||
海兵39期 海大23期 開戦時の第五戦隊司令官。その後馬公警備府司令長官、高雄警備府司令長官となり、1943年(昭和18年)6月、第六艦隊司令長官となる。 開戦当初の南方作戦において、スラバヤ沖海戦をはじめ、消極的な作戦指導の批判を受けることが多く、続いて珊瑚海海戦で第五戦隊・第五航空戦隊を中心とする空母機動部隊を指揮して史上初の空母同士の航空戦を指揮した。(この海戦でも批判が多い。) ガダルカナル島を巡るソロモンの戦いにおいて、ヘンダーソン基地砲撃や、南太平洋海戦にも参加する。 第六艦隊司令長官となってからは『あ号作戦(マリアナ沖海戦)』に挑む。だが幕僚の意見具申を聞くことは少なく、指揮官陣頭指揮の原則に従って、少数の幕僚のみを引き連れてサイパンに進出。(参謀長以下は旗艦『筑紫丸』に乗艦して呉に残留) 少佐時代に潜水艦艦長他を経験しているにも拘らず、潜水艦を敵艦隊攻撃や輸送作戦に従事させ、通商破壊作戦に対する理解は低かったようだ。 1944年(昭和19年)7月、サイパン防衛戦において戦死した。 |
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高間 完 | ||||||||||||||
海兵41期 開戦時の戦艦『榛名』艦長。 第四水雷戦隊司令官、第二水雷戦隊司令官、第十一水雷戦隊司令官を経て軍令部出仕となり終戦となった。 |
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武田盛治 | ||||||||||||||
海兵38期 開戦時の第二四戦隊司令官。その後第三特別根拠地隊司令官を経て第四根拠地隊司令官となる。また中将に昇進後、第二海上護衛隊司令官を兼任する。 |
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高須四郎 | ||||||||||||||
海兵35期 海大17期 開戦時の第一艦隊司令長官。本来なら第一艦隊司令長官が連合艦隊司令長官を兼ねる筈であったが、高須が司令長官となった時に初めて連合艦隊司令部が分離された。 その後1942年(昭和17年)9月に南西方面艦隊司令長官兼第二南遣艦隊司令長官となった。翌1943年(昭和18年)4月に第二南遣艦隊司令長官は免兼となったが、9月には第十三航空艦隊司令長官を兼任することとなった。 1944年(昭和19年)3月、海軍乙事件により連合艦隊司令長官古賀峯一大将が行方不明(後、殉職)となった為、後任人事が決定するまでの1ヶ月、高須が連合艦隊司令長官代理を務めた。 1944年(昭和19年)6月、病気により軍事参議官として内地に帰還。9月、病死。 |
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高次貫一 | ||||||||||||||
海兵44期 開戦時の空母『春日丸(後の大鷹)』艦長。 その後鹿屋空、築城空、552空、筑波空、百里原空の司令を務める。 1945年(昭和20年)5月、第五三航空戦隊司令官となり、本土決戦に備えるが、そのまま終戦を迎えた。 |
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高橋伊望 | ||||||||||||||
海兵36期 海大17期 開戦時の第三艦隊司令長官。その後改編された第二南遣艦隊司令長官となり、直ぐに南西方面艦隊司令長官と兼任する。 1942年(昭和17年)11月に呉鎮守府司令長官となり、終戦前に予備役に編入されて終戦を迎えた。 |
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竹中龍造 | ||||||||||||||
海兵39期 開戦時の第二三航空戦隊司令官。その後空技廠支廠長。 |
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多田武雄 | ||||||||||||||
海兵40期 開戦時の第二一航空戦隊司令官としてフィリピン航空戦に参加。その後ラバウルに移動し、ソロモン航空戦に参加する。 昭和17年、南西方面艦隊兼第二南遣艦隊参謀長に就任。翌年9月に第十三航空艦隊参謀長も兼任する。 航空本部総務部長、海軍省軍務局長を歴任し、終戦時には海軍次官となる。これは事実上最後の海軍次官となった。 |
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田中頼三 | ||||||||||||||
海兵41期 最終階級:中将 開戦時の第二水雷戦隊司令官。同部隊は比島攻略戦・蘭印攻略戦に参加し、スラバヤ沖海戦に参加。 その後ミッドウェー海戦・第2次ソロモン海戦・南太平洋海戦・第3次ソロモン海戦といった主だった海戦に参加し1942年(昭和17年)11月30日ルンガ沖夜戦に参加する。 このルンガ沖夜戦は『鼠輸送』作戦の途中で発生した海戦であり、米艦隊と交戦、勝利するも輸送作戦そのものは失敗した。田中少将(当時)はその後も『鼠輸送』に失敗しており、その後第二水雷戦隊司令官を解任された。 米公刊戦史である『モリソン戦史(著者のサムエル・エリオット・モリソンの名を冠した海戦史)』では、田中少将を非常に優秀な指揮官であったとし、『田中、恐るべし』とまで書いて高評価している。その影響からか非常に優秀な司令官であったにも関わらず、その後閑職に廻された・・・・とされているが、実際にはどうであったのであろうか。 田中少将は勇猛果敢な司令官だったというが、彼の部下たちは決して果敢であったとは言っていない。長年水雷戦隊を率いていた為、統率力・戦闘訓練は非常に優秀だったらしいが、戦時での海軍内評価は決して高くはない。 戦闘の結果が評価されるわけであり、部下たちの評判が良いかどうかは米軍には関係がない。モリソン戦史では戦果だけを見て名将だったとされているが・・・(戦後、モリソン戦史の評価とそれを信じた各書籍の結果ともいえる。) 第二水雷戦隊司令官の後、舞鶴海兵団長・第13特別根拠地隊司令官(ビルマ・ラングーン)に転任。 中将に昇進後、ビルマにて終戦を迎えた。 |
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谷本馬太郎 | ||||||||||||||
海兵35期 海大18期 開戦時の佐世保鎮守府司令長官。(1942年(昭和17年)11月11日、病没) |
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田原吉興 | ||||||||||||||
海兵43期 開戦時の軽巡洋艦『那珂』艦長。 1942年(昭和17年)7月より軽巡洋艦『長良』艦長として第三艦隊(空母機動部隊)直衛任務に就き、ソロモン方面の海戦に参加。同年11月にはサボ島沖夜戦で損傷し、修理に戻った重巡洋艦『青葉』の艦長と兼務で新造軽巡洋艦『大淀』の艤装員長を務める。 1943年(昭和18年)5月、続いて軽巡洋艦『能代』艤装員長を務め、『能代』艦長となる。同年12月、戦艦『山城』艦長となったが、翌年5月5日、病没(死後中将に昇進) |
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玉井浅一 | ||||||||||||||
海兵52期 開戦時は筑波航空隊飛行長。1942年(昭和17年)4月より6空飛行長(後、204空と改称)となる。 1943年(昭和18年)10月、新設された一航艦所属253空司令となり、あ号作戦に参加する。だがこの海空戦において部隊は壊滅状態となり、解隊となった。 その後201空副長となる。 1944年(昭和19年)10月19日、負傷した201空山本司令の代理として新しく着任した第一航空艦隊司令長官大西中将を出迎えた。そして初の神風特攻隊編制に同意し、特攻隊隊長として関行男大尉を選んだのである。 その後205空司令として特攻作戦を指揮し続け、終戦を迎えた。 戦後、愛媛県松山市で住職と成り、特攻で散華した隊員たちの冥福を祈り続けたという。 |
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田結 穣 | ||||||||||||||
海兵39期 開戦時の海軍航海学校長。その後支那方面艦隊参謀長を経て第一南遣艦隊司令長官となる。 終戦時は舞鶴鎮守府司令長官。 |
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醍醐忠重 | ||||||||||||||
海兵40期 開戦時:第五潜水戦隊司令官 後、第十一潜水戦隊司令官、第六艦隊司令長官を歴任 貴族出身(侯爵)で、自ら進んで潜水艦畑に進んだ潜水艦戦の専門家 |
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塚原二四三 | ||||||||||||||
海兵36期 海大18期 開戦時、第十一航空艦隊司令長官として基地航空部隊を指揮した。 フィリピンからマレー・西部ニューギニアと転戦、ソロモンで躓いた。 ガダルカナル島航空戦がもっとも厳しい時期に熱帯病を患って後任の草鹿中将と交代した。 その後は内地に戻り、航空本部長・軍令部次長・横須賀鎮守府司令長官と歴任したが・・・その時のことは知らんΣ( ̄▽ ̄;) |
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辻村武久 | ||||||||||||||
海兵42期 開戦時の舞鶴海軍工廠造兵部長。その後横須賀海軍工廠造兵部長となる。 1943年(昭和18年)10月、第五根拠地隊(サイパン)司令官となり、翌年3月に第二海上護衛隊司令官を兼ねるようになる。(トラック空襲により第二海上護衛隊の管轄が『トラック〜横須賀』から『サイパン〜横須賀』に変更になった為、第五根拠地隊司令官が指揮を継承) 1944年(昭和19年)7月、サイパン陥落の際に戦死。(戦死後中将に特進) |
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鶴岡信道 | ||||||||||||||
海兵43 開戦時は造船造兵監督官。その後軽巡『北上』艦長、戦艦『扶桑』艦長。終戦時は第三一戦隊司令官。 |
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寺岡謹平 | ||||||||||||||
海兵40期 海大24期 開戦時の支那方面艦隊司令部付南京政府軍事顧問。 その後は練習連合航空総隊司令官を経て、第一航空艦隊司令長官、第三航空艦隊司令長官を歴任。 |
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東郷平八郎 | ||||||||||||||
アドミラル・トーゴー | ||||||||||||||
今更ではあるが・・・ 日露戦争における連合艦隊司令長官。 日本海海戦における完全勝利は世界海戦史上の最高峰であろう。 |
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戸苅隆始 | ||||||||||||||
海兵37期 海大19期 開戦直前に予備役から召集され第十一特別根拠地隊司令官となる。 1942年(昭和17年)12月、召集解除。 |
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戸塚道太郎 | ||||||||||||||
海兵38期 海大20期 開戦時の第十一連合航空隊司令官。その後練習連合航空隊司令官を兼任する。 1943年(昭和18年)5月、第十二航空艦隊が新編制されると初代司令官に就任。その後北東方面艦隊司令長官を兼任する。 1944年(昭和19年)9月、海軍航空本部長。翌年横須賀鎮守府司令長官兼将官会議議員となり、終戦を迎えた。 |
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豊田副武 | ||||||||||||||
海兵33期 海大15期 開戦時の呉鎮守府司令長官。その後軍事参議官、横須賀鎮守府司令長官を経て、太平洋戦争中の第3代連合艦隊司令長官。 古賀大将の後任として司令長官になったが、古賀大将遭難の際に、別の飛行艇に乗っていた参謀長らの機体が墜落・捕虜となってしまったのだが・・・その際に作戦計画書が敵に渡ってしまっていた。 捕虜の身から脱出した福留参謀長らは作戦計画書は破棄し、敵に渡ってはいないと言った事から当初の計画通り対米艦隊迎撃陣をしいたのだが、総てばれている状態で作戦は失敗した(あ号作戦・マリアナ海戦のことである。) その後の台湾沖航空戦・レイテ作戦と失敗が続いたのだが・・・特に罷免されるわけでも、ましてや戦死するでもなく、次の4代目連合艦隊司令長官と交代している不思議な提督である。 |
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な |
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中川 浩 | ||||||||||||||
海兵42期 開戦時は呉鎮守府付だったが、1942年(昭和17年)10月より軽巡洋艦『阿賀野』艦長を務める。 1943年(昭和18年)9月より戦艦『日向』艦長となるが、この期間は航空戦艦への改造途中であった。同年12月、第三水雷戦隊司令官となるが1944年(昭和19年)7月8日、サイパンの地上戦により戦死(戦死後、中将に昇進) |
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中島寅彦 | ||||||||||||||
海兵39期 海大21期 開戦時は呉鎮守府参謀長。 1943年(昭和18年)1月より第一海上護衛隊司令官。 その後は電波本部長、第二技術廠長を務める。 |
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中瀬 泝 | ||||||||||||||
海兵45期 海大29期 海軍の対ソ専門家の初代であり、在ソ日本大使館附海軍駐在武官を経験。 開戦時は海軍省人事局第1課長。 レイテ海戦の時の航空戦艦『伊勢』の艦長。 同海戦で全ての空母を撃沈した後、米艦載機群の標的となった2隻の航空戦艦『伊勢』『日向』。 敵はこの2隻目掛けて150機の艦載機を向けたが、その全ての攻撃を回避しきった腕をもち、米軍に『回避のエキスパートだ』と負け惜しみを言わせた操艦の神様(・・・だと思うが)。 終戦時には軍令部第三部長兼大本営海軍参謀。 |
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永野修身 | ||||||||||||||
海兵28期 海大8期 最終階級:元帥 開戦時の海軍軍令部総長。 大尉時代、日露戦争に参加し(第四戦隊司令官 瓜生外吉 の副官として巡洋艦『浪速』に乗艦)。旅順逼塞作戦には陸軍第三軍の指揮下に派遣された海軍陸戦重砲兵隊中隊長として参加し、旅順市街及び港湾・艦艇に砲撃して戦果を挙げた。。 その後艦長等を歴任した後、海軍省軍務局や人事局第一課長、米大使館付武官を経て少将に昇進。以後軍令部第三班長(情報)、第三戦隊司令官、第一遣外艦隊司令官、練習艦隊司令官を経て海軍兵学校長となる。その後も軍令部次長、横須賀鎮守府司令長官となった。 ワシントン会議にも全権随員として、ロンドン軍縮会議には全権として出席する。 広田弘毅内閣の海軍大臣に就任する。 1941年(昭和16年)4月、軍令部総長に就任(伏見宮博恭王の後任) 対米早期開戦を主張し、真珠湾攻撃作戦を許可した。 1943年(昭和18年)3月、元帥号授与。これは嶋田大将を軍令部総長に就任させる為の手段であったとも言われている。 帝國海軍史上唯一の海軍三顕職(海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長)を歴任した軍人。 戦後東京裁判で、A級戦犯に指定されたが、肺炎の為獄中死となった。 |
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中村良三 | ||||||||||||||
海兵27期 海大8期 1934年(昭和9年)の友鶴事件の責任をとって艦政本部長を辞任した杉 正人中将の後を受けて艦政本部長となった。(佐世保鎮守府司令長官と兼任)。事件の対策に追われている最中に第四艦隊事件が発生し、こちらの対応にも追われることとなった。 1936年(昭和11年)、二.二六事件により陸軍の将官多数が予備役に編入となった為、海軍側でもバランスを取る為に何人か予備役編入が決定。その際に中村も予備役に編入となった。 |
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南雲忠一 | ||||||||||||||
海兵36期 海大18期(水雷屋) 開戦時、機動部隊指揮官(第一航空艦隊司令長官)として当時世界最強の空母艦隊(第一航空艦隊)を指揮し、太平洋ハワイからインド洋まで駆け回った指揮官である。 元々水雷部隊出身であったが、畑違いの空母を指揮し大戦果を上げた。 ただし水雷時代の積極的な指揮ではなく、幕僚達の意見をそのまま採用したといわれるような指揮ぶりであったという。 ミッドウェーで大敗した後、南太平洋海戦で汚名返上した後、部隊指揮を外れた。 その後佐世保鎮守府、ついで呉鎮守府の司令長官を歴任した後、中部太平洋方面艦隊司令長官に就任。 「あ」号作戦・マリアナ海戦時にはサイパンで防衛の指揮をとったものの最後には洞窟陣地で自決された。 |
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南郷茂章 | ||||||||||||||
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新見政一 | ||||||||||||||
海兵36期 海大17期 開戦時の第二遣支艦隊司令長官。その後舞鶴鎮守府司令長官に転出。 日本海軍有数の知英派であり、第一次世界大戦でのドイツ敗因を研究した。(駐英武官補佐官当時) 第二次世界大戦での総力戦態勢の必要性と、従来日本海軍が想定してきた艦隊決戦は起こり得ないとの持論を説いたが、当時の海軍においては異端児扱いされた。 だが皮肉にも太平洋戦争は新見の見解を証明することとなった。 |
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西沢広義 | ||||||||||||||
(移転しました。) |
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西村祥治 | ||||||||||||||
海兵39期 開戦時の第四水雷戦隊司令官。その後第七戦隊司令官としてソロモン諸島を巡る戦いに参加する。 マリアナ海戦後、第二戦隊司令官となり、フィリピンを巡る戦いに参加。捷一号作戦では第一遊撃部隊第三部隊を率いてレイテ湾を目指したが、栗田中将率いる本隊が一時反転した為当時突入は果たせなかった。たが西村中将指揮下の艦隊は夜戦を企図し、単独レイテ湾目指して進撃を行う。これを米魚雷艇及び駆逐艦部隊が迎撃。艦隊戦力が半減するも突入を諦めず、これを米旧式戦艦部隊が迎え撃った。結局艦隊は全滅し、西村中将も戦死した。 生き残った艦は駆逐艦『時雨』1隻。まさしく全滅であった。 |
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野中五郎 | ||||||||||||||
(移転しました。) |
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野村直邦 | ||||||||||||||
海兵35期 海大18期 1940年(昭和15年)から1943年(昭和18年)7月まで日独伊三国同盟の軍事委員としてベルリンに赴任。独潜水艦U511に便乗して帰国。 その後呉鎮守府司令長官に就任したが1944年(昭和19年)7月17日東條内閣で海相に就任、そして翌日内閣は総辞職となった。次の小磯内閣が成立するまでの僅か5日間だけの海相であった。 その後は軍事参議官、横須賀鎮守府司令長官を経て、同年9月より海上護衛総隊司令長官(兼任)を務める。 戦後、台湾(中華民国)に渡った駆逐艦『雪風』(改名後『丹陽』)の返還運動が起こった際の『雪風永久保存期成会』会長を努めた。 |
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は |
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橋本信太郎 | ||||||||||||||
海兵41期 海大24期 開戦時の第三水雷戦隊司令官、その後水雷学校長を経て第五戦隊司令官となる。 太平洋戦争末期、最期の海戦となったペナン沖海戦にて残存艦艇をもって英国艦隊と交戦、戦死した。 |
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長谷川喜一 | ||||||||||||||
海兵42期 開戦時の空母『赤城』艦長 1942年(昭和17年)4月より土浦空司令となり、11月に航空本部補給部長となる。 1943年(昭和18年)9月、航空本部第四部長を経て11月より第五十航空戦隊司令官となる。翌年1月より第二二航空戦隊司令官となるがトラック島で戦死。(戦死後、中将に特進) |
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早川幹夫 | ||||||||||||||
海兵44期 海大26期 開戦時は水雷学校教頭。 1942年(昭和17年)4月より重巡洋艦『鳥海』艦長となり、第一次ソロモン海戦をはじめとするソロモン方面の海戦に参加する。 1943年(昭和18年)3月、戦艦『山城』艦長。8月、戦艦『長門』艦長を経て12月より第二水雷戦隊司令官としてあ号作戦、捷一号作戦に参加した。 1944年(昭和19年)11月、第三次多号作戦においてフィリピン・オルモック湾にて米機動部隊の攻撃を受け戦没。(戦死後、中将に特進) |
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原 清 | ||||||||||||||
海兵38期 海大21期 開戦直前まで佐世保工廠長、後出仕。開戦後直ぐに逓信省海務院長官となり、翌1942年7月には第二遣支艦隊司令長官となった。 1943年(昭和18年)6月、軍令部出仕。9月には予備役に編入された。 |
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原 顕三郎 | ||||||||||||||
海兵37期 開戦時の第五水雷戦隊司令官。その後、第十六戦隊司令官となり、旅順方面特別根拠地隊司令官となる。 |
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原 忠一 | ||||||||||||||
海兵39期 海大24期 (水雷屋出身) 開戦時の第五航空戦隊司令官、後第八戦隊司令官 あだ名はキングコング |
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原田 覚 | ||||||||||||||
海兵41期 開戦時の水上機母艦『千代田』艦長。 1943年(昭和18年)1月、第七潜水戦隊司令官。 1944年(昭和19年)2月、横須賀鎮守府防備戦隊司令官。8月、第三三特別根拠地隊司令官となり、終戦を迎える。 終戦後の9月、自決(中将に昇進) |
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林 喜重 | ||||||||||||||
(移転しました。) |
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久宗米次郎 | ||||||||||||||
海兵41期 開戦時の重巡『青葉』艦長。その後戦艦『長門』『山城』の艦長職を務め、1943年(昭和18年)12月より第二二戦隊司令官となる。 フィリピン陥落後は輸送船団も特攻部隊編成となり、第五護衛船団司令官、第一〇三戦隊司令官となる。 |
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平田 昇 | ||||||||||||||
海兵34期 海大18期 開戦時の横須賀鎮守府司令長官。 翌年、軍事参議官となり、その後待命、予備役に編入(1443/3/20) |
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福田良三 | ||||||||||||||
海兵38期 海大20期 開戦時は支那方面艦隊司令部附兼興亜院厦門連絡部長官。 開戦後中将に昇進し、軍令部出仕。南西方面艦隊司令部附を経て第二南遣艦隊司令部附兼第二二特別根拠地隊司令官となる。 1943年(昭和18年)11月、高雄警備府司令長官。翌年5月、支那方面艦隊司令長官となり、終戦となる。南京降伏文書調印式署名調印を行った。その後B級戦犯指定を受け(有期徒刑15年)、身柄を拘束されたが1952年(昭和27年)に釈放された。 |
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福留 繁 | ||||||||||||||
海兵40期 恩腸組み 海大24期(首席) 昭和16年4月、軍令部第一(作戦)部長に就任。開戦時には、日本海軍随一の戦略、戦術の大家と認められていた。だが・・・ 昭和19年3月31日、海軍乙事件に遭遇。この事件により海軍の次期決戦(Z作戦・・・後のあ号作戦(マリアナ沖海戦))の作戦概要が連合軍に流出するという大問題が発生した。だが海軍はこの問題を有耶無耶とし、結果連合軍に情報は流出していないものとしてあ号作戦の計画を立案した。そしてマリアナ沖で完敗する。 福留はその後事件の責任を取る訳でもなく、第二航空艦隊の司令長官としてフィリピンに赴任。最初は通常攻撃を行っていたが、大西中将の第一航空艦隊が実施した特攻攻撃が戦果を上げるに、2航艦も特攻隊編成に踏み切る。 その後第十方面艦隊(兼第十三航空艦隊兼第一南遣艦隊)司令長官に就任し、南西方面に残された海軍の全部隊を指揮するようになったが、そのまま終戦をシンガポールで迎えた。 戦後は現地の軍人・在留邦人の復員を指揮し、英軍指揮官から日本海軍の良きマナーをもって復員の難事業に無事完了したことは誠にご苦労であったと賞賛された。だが福留はその後チャンギー刑務所に収監され重禁錮三年を宣告され(後、二年に減刑)、1950年(昭和25年)2月に帰国した。 福留は海軍乙事件に関して、生涯『機密書類は奪われていない』と主張していたという。 |
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伏見宮博恭王 | ||||||||||||||
皇族出身の海軍軍人 最終階級、元帥にして軍令部総長・・・というか、陸軍が皇族出身の閑院宮載仁親王が陸軍参謀総長となった為、対抗して軍令部総長となったらしい。 軍令部総長時代(昭和8年〜)に軍令部の権限強化を行い、艦隊派の政策も推し進めた。 |
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藤田類太郎 | ||||||||||||||
海兵38期 開戦時の第十一航空戦隊司令官。その後第七根拠地隊司令官となったのち青島特別根拠地隊司令官となる。 終戦時には第二遣支艦隊司令長官。 |
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藤本喜久雄 | ||||||||||||||
海軍造船将校(最終階級:少将) 長門型戦艦で採用され、以後の巡洋艦や、諸外国でも採用されることとなる屈曲煙突(通称:芋虫煙突)の考案者。 重巡洋艦『最上』級、駆逐艦『初春』級といった艦船の設計者であり、小型・強武装艦を多数手がけている。これはロンドン軍縮条約により補助艦艇の排水量を制限された海軍がなんとか対応しようとしたものを実現させた艦艇である。だがそのために艦の復元値上の問題を残した。友鶴事件によりその復元値不足が明確となり、責任をとって謹慎処分を受けることとなった。 (藤本は謹慎の翌年、脳溢血により死去) |
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藤吉直四郎 | ||||||||||||||
海兵44期 開戦時の鹿屋空司令。その後木更津空司令、鈴鹿空司令、館山空副長を経て1944年(昭和19年)2月に第五一航空戦隊司令となるが直に第十二練習連合航空隊司令官に転出する。3月より大分空司令を兼任する。 1945年(昭和20年)3月、第二四練習連合航空隊司令。6月、土浦空司令。7月には航空廠要員研究部長を兼任した。 |
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淵田美津雄 | ||||||||||||||
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古川 保 | ||||||||||||||
海兵43期 開戦時の水上機母艦『千歳』艦長。 その後博多空司令を経て1943年(昭和18年)9月より空母『飛鷹』艦長となる。その後霞ヶ浦空司令を経て第二三航空戦隊司令官。 1945年(昭和20年)5月、横須賀鎮守府付。8月、鎮海運輸部長となって終戦を迎えた。 |
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布留川 泉 | ||||||||||||||
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細萱戊子郎 | ||||||||||||||
海兵36期 海大18期 開戦時の第五艦隊司令長官。 アッツ島沖海戦での責任をとらされ更迭、予備役に編入された。 |
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堀 悌吉 | ||||||||||||||
海兵32期 海大16期 海軍兵学校首席で、海軍兵学校・海軍大学・水雷学校・砲術学校の恩寵組みという天才であり、『神様の傑作のひとつ堀の頭脳』と言わしめた。 海兵の同期に嶋田繁太郎・山本五十六がおり、山本五十六の親友。 条約派といわれ、対米戦不戦論者。ロンドン軍縮会議当時の海軍省軍務局長。 ロンドン軍縮会議で補助艦艇対米6割を受け入れた為、以後の海軍内では立場が弱くなった。(当時は艦隊派が台頭していた為である。)その後、艦隊勤務に廻り、中央から離れる。 昭和8年、中将に昇進したが、翌昭和9年には予備役に編入(大角人事)され、太平洋戦争中は民間の日本飛行機や、浦賀ドックの社長に就任する。 |
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堀内茂礼 | ||||||||||||||
海兵39期 海大22期 開戦時の第二二戦隊司令官。その後第十一特別根拠地隊司令官となり、昭和18年9月予備役に編入。軍需省に移り、福岡軍需管理部長となる。 |
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前田 稔 | ||||||||||||||
海兵41期 開戦時の軍令部第三部長兼大本営報道部長。 その後第二四航空戦隊司令官を勤めた後南京駐在武官となり、その後南京政府軍事顧問と駐華武官も兼任する。 沖縄戦時、練習航空隊による特攻隊にて編制された第十航空艦隊司令長官。 |
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牧田覚三郎 | ||||||||||||||
海兵38期 海大20期 開戦時の上海特別根拠地隊司令官。その後第一遣支艦隊司令官、大阪警備府司令長官を経て1944年(昭和19年)4月に舞鶴鎮守府司令長官となる。 |
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松田千秋 | ||||||||||||||
海兵44期 海大26期(砲術屋) 開戦時:標的艦『摂津』艦長。その後戦艦『日向』そして『大和』の艦長を勤める。 1944年(昭和19年)、第四航空戦隊(航空戦艦『伊勢』『日向』)司令官に就任。以後レイテ作戦・北号作戦に参加。 終戦時には横須賀航空隊司令官。(最終階級は少将) 標的艦『摂津』艦長時代に代々の艦長が残した記録に自分の考えを加えて『爆撃回避法』という本を執筆、教育局長に参考に提出する。これが帝國海軍唯一の爆弾回避方法に関する教法となった。 |
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松永貞市 | ||||||||||||||
海兵41期 開戦時の第二二航空戦隊司令官としてマレー沖海戦に参加し、英戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈した。その後第十二連合航空隊司令官、横須賀鎮守府参謀長を歴任し、昭和19年3月に第二七航空戦隊司令官となった。だが病気を患った為後方に下がり、練習連合航空総隊兼第十一連合航空隊司令官に就任する。終戦時には第二海軍技術廠長。 |
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松木益吉 | ||||||||||||||
海兵37期 海大20期 開戦時の艦政本部第一部長。1942年(昭和17年)7月、海務院長官となり、1943年(昭和18年)10月、海南警備府司令長官となる。 1944年(昭和19年)11月出仕。12月、待命・予備役編入となる。 |
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黛 治夫 | ||||||||||||||
海兵47期 海大28期(砲術) 戦前、米海軍の大口径砲の命中率と艦船の防御力の調査研究を行ったことで有名であり、『同一口径砲による命中率では日本海軍の方が米海軍よりも優れている。』のいうのはこの調査研究によるものとされている。(実際のところは・・・) 開戦時の第三遣支艦隊参謀。その後水上機母艦『秋津島』艦長、第十一航空艦隊参謀兼第八艦隊参謀、横須賀砲術学校教頭となる。 1943年(昭和18年)12月、重巡洋艦『利根』艦長となる。このときビハール号事件を起こした。 1945年(昭和20年)1月、横須賀鎮守府参謀副長。その後化学兵戦部員兼軍令部員となり、終戦時には化学戦部長であった。 ビハール号事件の戦犯容疑で逮捕。(懲役7年) (戦艦『大和』砲術長だったのは、開戦前の『大和』艤装段階における『大和』副長兼砲術長時代?) |
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丸茂邦則 | ||||||||||||||
海兵40期 開戦時の第十八戦隊司令官。 昭和17年末より満州大使館附武官兼駐満海軍部参謀長となる。 |
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三川軍一 | ||||||||||||||
海兵38期 海大22期 開戦時の第三戦隊司令官として同戦隊第二小隊を率いて真珠湾攻撃艦隊(南雲機動部隊)の直衛部隊に参加。 その後もインド洋作戦、ミッドウェー作戦に参加。 1942年(昭和17年)7月、新設された第八艦隊司令長官となり、南東方面・ソロモンの戦いに参加する。第一次ソロモン海戦で完勝を収めた。 その後航海学校長を経て第二南遣艦隊、南西方面艦隊、第十三航空艦隊、第三南遣艦隊の司令長官職を務めて1945年(昭和20年)5月に予備役に編入された。 |
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三木森彦 | ||||||||||||||
海兵40期 開戦時は商工省航空局乗員課長。その後航空局第三部長を兼任。 1943年(昭和18年)8月、霞ヶ浦空司令。11月、谷田部空司令を経て1944年(昭和19年)2月に第二七航空戦隊司令官となる・・・が、僅か1ヶ月で第十四練習連合航空隊司令となる。その後第二一練習連合航空隊司令。呉鎮守府付を経て第十五練習連合航空隊司令となって、終戦を迎えた。 |
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水井静治 | ||||||||||||||
海兵40期 開戦時の東京艦政本部監督官 1942年(昭和17年)7月より舞鶴防戦司令官。9月、呉防戦司令官となり、1943年(昭和18年)5月より第五二根拠地隊司令官となる。 1944年(昭和19年)1月より第十八戦隊司令官となり、翌年には第八一戦隊司令官となって終戦を迎えた。 |
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三戸 寿 | ||||||||||||||
海兵42期 海大25期 開戦時の第六艦隊参謀長。その後第一潜水戦隊司令官となる。 1943年(昭和18年)4月より軍令部出仕となり、その後兼海軍省出仕を経て人事局長に就任。 1945年(昭和20年)5月より第四特攻戦隊司令官となり終戦を迎えた。 戦後、中将に昇進した後、最後の海軍次官(就任後10日で海軍次官は廃止)/第二復員次官となり、1946年(昭和和21年)6月に充員召集解除となった。 |
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美濃部正 | ||||||||||||||
海兵64期 大戦末期、沖縄戦を戦い抜いた海軍航空部隊・芙蓉部隊の指揮官。 特攻に反対し、特攻に代わる代案として発案した爆撃機による夜間銃爆撃戦法をもって戦い抜いた不屈の指揮官である。 管理人のもっとも尊敬する人物である。 |
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三輪茂義 | ||||||||||||||
海兵39期 海大22期 開戦時の第三潜水戦隊司令官。その後艦政本部第七部長、海軍潜水艦部長を歴任。あ号作戦後の第六艦隊司令長官となる。 |
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森 友一 | ||||||||||||||
海兵42期 開戦時の重巡洋艦『羽黒』艦長 1942年(昭和17年)11月、第一水雷戦隊司令長官となる。 その後1943年(昭和18年)6月に横須賀工廠機雷実験部長となり、1945年(昭和20年)5月には呉練習戦隊司令官となるが終戦直前に横須賀鎮守府付となって終戦を迎えた。 |
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山縣正郷 | ||||||||||||||
海兵39期 海大22期 開戦時の航空本部総務部長。 当初は水雷畑の軍人であったが、1932年(昭和7年)に航空本部に出仕していらい、航空関係を歩み、航空雷撃の計画実現に協力する。このときの成果が九六式陸上攻撃の開発に結びついた。以後、徐々に航空主兵論者となっていき、主に陸上攻撃機(雷撃・爆撃)に傾倒していくが陸軍から空軍独立の提案が出たときには残念ながらこれに反対する見解を示し、空軍独立を断念させる原因となった。 開戦後の海軍航空隊が南東方面(ラバウル方面)に進出すると、1942年(昭和17年)4月より第二六航空戦隊司令官に就任。 その後1943年(昭和18年)6月に高雄警備府司令長官に転出。これは中将となった山縣が指揮すべき航空艦隊司令長官職が満席でなかった為と言われている。しかし連合国軍による反攻作戦が西部ニューギニアに及ぶと新設された第四南遣艦隊司令長官として再び前線に戻ることとなった。だが同艦隊の担当地域である東部インドネシアは敵の反攻ルートから無視される形となり、結果遊兵化してしまう。その為1945年(昭和20年)3月に艦隊は解隊。帰国命令により本土に戻る途中で輸送機が不時着事故を起こした。捕虜となることを拒んだ山縣は自決したという。(大本営は戦死とみなして、大将に特進させた。) |
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山口儀三郎 | ||||||||||||||
海兵40期 海大24期 開戦時の佐世保鎮守府参謀長。1942年(昭和17年)12月、第十特別根拠地隊司令。1944年(昭和19年)1月より旅順方面特別根拠地隊を経て1945年(昭和20年)4月、鎮海警備府司令長官となり、終戦を迎えた。 |
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山口多聞 | ||||||||||||||
海兵40期 海大24期 開戦時の空母部隊・第二航空戦隊司令官。 将来をもっとも有望視された提督の一人であったが、ミッドウェー海戦で空母『飛龍』とともに自決。 |
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山崎重暉 | ||||||||||||||
海兵41期 海大21期 開戦時の第二潜水戦隊司令官としてハワイ沖に出撃。その後第一潜水戦隊司令官に転出してミッドウェー海戦に参加した。その後、潜水学校校長となり、また呉潜水戦隊司令官を兼任した。 海軍潜水艦部長を経て、特兵部長として終戦を迎えた。 |
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山田定義 | ||||||||||||||
海兵42期 海大26期 開戦時の第二五航空戦隊司令官。その後第三艦隊参謀、横須賀航空隊司令を経て第五一航空戦隊司令官、第一〇一航空戦隊司令官を経て第三航空艦隊司令長官になったとき(但し昭和20年8月26日親補)に終戦となった。 |
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山田道行 | ||||||||||||||
海兵42期 開戦時の鹿島空司令。その後霞ヶ浦空司令を経て1943年(昭和18年)1月、第二四航空戦隊司令官となる。 1944年(昭和19年)2月6日、ルオット島にて戦死。(戦時後、中将に特進) |
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山本五十六 | ||||||||||||||
海兵32期 14期 太平洋戦争中初代の連合艦隊司令長官。 ある意味日本軍の中でもっとも有名な提督である。 しかし、博打好きとしても知られ、マレー沖海戦の時も、何隻の英戦艦を撃沈できるか部下と賭けをしたというのは有名。それ以前に真珠湾攻撃そのものが博打みたいなものであったが・・・ 太平洋戦争に参加した将兵の内、唯一日露戦争・日本海海戦を経験した人物でもあった。 1943年4月18日、前線視察に向かった航空機が暗号の漏れからくる待ち伏せ攻撃により撃墜され、ブーゲンビル島上空で戦死した。 |
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山本親雄 | ||||||||||||||
海兵46期 海大30期 開戦時の航空本部総務部第一課長。(後に第二課長兼任) 1943年(昭和18年)1月より軍令部作戦課長(4月より第二課長兼任) 1945年(昭和20年)1月、第十一航空戦隊司令官、3月より第十航空艦隊参謀長となる。 5月、第七二航空戦隊司令官となり終戦を迎える。 |
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山本 栄 | ||||||||||||||
海兵46期 開戦時の17空司令。その後1942年(昭和17年)5月、2空(後に582空と改称)司令となりソロモン航空戦に参加。 1943年(昭和18年)10月、大分空司令となり、その後高知空司令。 1944年(昭和19年)7月より201空司令としてフィリピン戦に参加。 1945年(昭和20年)5月、第七一航空戦隊司令官となり本土決戦に備えたが終戦を迎えた。 |
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山本弘毅 | ||||||||||||||
海兵36期 (海大19期?) 開戦時の馬公警備府司令官。その後軍令部幕僚として出仕し、1943年(昭和18年)3月、予備役に編入 |
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横井俊之 | ||||||||||||||
海兵46期 海大28期 開戦時の横浜空司令。その後横須賀空副長兼教頭。 1944年(昭和19年)2月、空母『飛鷹』艦長としてマリアナ沖海戦に参加し、自艦を失う。その後呉鎮守府付を経て第二五航空戦隊司令官となる。 1945年(昭和20年)2月より第五航空艦隊参謀長として沖縄戦に参加し、そのまま終戦を迎えた。 |
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吉田善吾 | ||||||||||||||
海兵32期 海大13期 山本五十六の前任の連合艦隊司令長官。幕僚からの起案を片っ端から赤鉛筆で訂正し、全てを自分でやらなければ気が済まない性格であったという。 長官職をを山本に譲った際、山本は自ら吉田の補佐役にして欲しいと米内光正海相に嘆願したといわれているが受け入れられなかった。阿部内閣の海軍大臣なり、日独伊三国同盟に反対する。『日本海軍はアメリカと1年しか戦えない。戦争を始めるのは暴虎馮河の愚である。陸軍に引っ張られず、軍備の再検討を含めて、日本の今後を研究せよ。』と説き、締結に抗し続けた。だが日独伊三国同盟は締結される。 締結直前に病気により辞任するが(後任の及川古志郎が同盟に同意して調印)、この辞任も『激務の疲労による狭心症の発作』とされる一方。実態は『心配の余り強度の神経衰弱にかかり、自殺を企てたが、止められて果せず後辞任した。』と昭和天皇独白録に記されている。 開戦後、支那方面艦隊司令長官となり、その後軍事参議官(兼海軍大学長)、横須賀鎮守府司令長官を勤めて予備役に編入。終戦となった。 |
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吉富説三 | ||||||||||||||
海兵39期 開戦時の第四潜水戦隊司令官。その後呉鎮守府出仕の後、第七潜水戦隊司令官となる。 |
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米内光政 | ||||||||||||||
海兵29期 海大12期 海軍にその人ありと言われた・・・訳ではなく、むしろ目立たない存在で、横須賀鎮守府司令長官に親補された際には、意外と言うか、その存在を知らない者も居たほど目立たない存在であった。横鎮長官時代に二.二六事件が勃発し、その時横鎮の動揺を速やかに抑えたことで有名となる。陸軍が林内閣による軍人内閣を組閣した際、海軍を抑え、陸軍の暴走を食い止められる者は米内をおいて他に居ないといわれるようになった。 海軍内の良識派としられ、米内・山本・井上の海軍左派トリオとして日独伊三国同盟に断固反対し続ける。 1939年(昭和14年)8月8日の五相会議では『海軍と米英が戦ったとして、勝算はありますか?』の問いに対し、『勝てる見込みはありません。だいたい日本の海軍は、米英を向こうにまわして戦争するように建造されていません。』と率直に述べている。そしてその2週間後に独ソ不可侵条約が締結され、これにより平沼内閣は瓦解、一気に日独伊三国同盟締結へと動き始めた。その為、日独伊三国同盟締結を待望する世論に昭和天皇が憂慮して米内に組閣を任命したといわれているが、陸軍の三国同盟締結要求を拒否し畑俊六陸軍大臣を辞任させるが、後継大臣を陸軍が出さなかった為、僅か半年余りで総辞職に追い込まれた。結局(第二次)近衛内閣で海相を務め、三国同盟反対に動くが、同年9月27日、日独伊三国同盟は締結された。 米内が再び国政の場に立つのは、東條内閣がマリアナ陥落の責任を負って総辞職した時、小磯内閣で海軍大臣に就任したときである。次官に江田島(海軍兵学校)に左遷されていた井上を起用し、中央に復帰させると、終戦工作に奔走させるようになる。 その後の鈴木内閣でも海軍大臣を務め、終戦工作を行い、終戦の御聖断を仰いで国家存亡の危機をを乗越えた。終戦処理業務を引き継いだ東久邇内閣でも最後の海軍大臣を務め、帝國海軍を自らの手で葬ったのである。 |
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