主要人物事典 |
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陸軍関係に関する人物資料です。 (注意) |
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本サイトにおいて、『開戦時』と明記してある部分は1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦を示しています。当然それ以前から中国大陸で日中戦争を継続していますが、便宜上『開戦時』は『太平洋戦争開戦時』示していますのでご了承ください。 | |
(作成途中の為、リンク切れが多数あります。ご了承ください。) |
あ |
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阿南惟幾 | ||||||||||||||
陸軍内部では無派閥。 二.二六事件後、統制派の支配する陸軍内部でも公平な立場で兵務局長に就任した。 昭和14年陸軍次官、昭和16年第十一軍司令官。その後第二方面軍司令官に就任。 鈴木貫太郎内閣では陸相となり終戦の際には徹底抗戦の立場を取った。かつて侍従武官として昭和天皇の傍に使え、天皇に対する忠誠心は人一倍強かったが、陸軍大臣としては天皇のご聖断に対し、あえてポツダム宣言受諾反対を強硬に提言し、最後には天皇を困惑させるに至った。 このため終戦当日未明(14日夜)、責任を取って割腹自決を遂げる。 開戦に関しての責任は彼には無かったが、終戦直前に陸軍大臣になったばかりに陸軍の責任を背負う形となった。 遺書『一死ヲ以ッテ大罪ヲ謝シ奉ル』の大罪が何を指すのか、前後論議の的となった。 |
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阿部信行 | ||||||||||||||
1939年8月、平沼内閣の後をついで首相に就任。 石川県出身の陸軍将官。日露戦争でシベリア出兵に従軍、参謀本部総務部長、陸軍省軍務局長を勤める。浜口内閣では陸軍次官を勤めたが、宇垣一成陸相が退役後は陸軍部内でも中立立場となる。 二.二六事件では軍事参議官として決起将校寄りの態度を見せた。その後予備役編入。 首相に就任後は日中戦争の早期解決・欧州大戦不介入を掲げるが、経済政策に失敗し、僅か5か月で総辞職となった。 |
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甘粕雅彦 | ||||||||||||||
大戦前、国家建設の大望に甘美な陶酔感を存分に振りまいてくれた工作者の一人。 憲兵大尉時代、関東大震災に際して無政府主義者の粛清の為に大杉栄、その妻 伊藤野枝などを殺害し、逆に軍法会議にかけられた。(甘粕事件) その後満州国建国に大きな影響を与える。満州事変が勃発した際に、直後ラストエンペラー溥儀を甘粕が指揮する関東軍特殊機関によって秘密裏に天津を脱出させた。 その後は満州での映画産業の発展に心血を注ぎ、昭和12年満映を設立。新京で満州映画協会を設立。その理事長を務める。 終戦を迎え、無条件降伏のことを聞いた甘粕は8月20日、服毒自殺(青酸カリ)を遂げた。 |
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安藤利吉 | ||||||||||||||
陸士16期 陸大26期 1940年(昭和15年)6月、南支那方面軍司令官として北部仏印進駐を指揮するが、参謀本部富永少将の独断による武力侵攻事件が発生。この責任を取らされて1941年(昭和16年)1月に予備役に編入された。 同年11月、対米開戦を控え、再召集され台湾軍司令官に就任する。以後台湾に在り、1944年(昭和19年)9月、第十方面軍司令官なり、11月には台湾総督を兼任し、そのまま終戦を迎えた。 |
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飯田祥二郎 | ||||||||||||||
陸士20期 陸大27期 開戦時の第十五軍司令官としてビルマ攻略戦に参加。 その後防衛司令部付きを経て1944年(昭和19年)2月、中部軍司令官となるが12月には予備役となる。 終戦間近の1945年(昭和20年)7月、再召集を受け第三十軍司令官となり南満州防衛に就く。8月、ソ連軍との交戦状態となり捕虜となり、5年間シベリアに抑留された。 |
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井桁敬治 | ||||||||||||||
陸士27期 陸大37期 開戦時の第十一歩兵団長。(資料不足により詳細不明) 1943年(昭和18年)2月より第六軍参謀長として満州にいたが、1944年(昭和19年)2月よりマリアナ諸島を中心とする中部太平洋方面防衛担当の第三一軍参謀長に就任する。 米軍のマリアナ侵攻の際に第三一軍司令官小畑中将が出張で不在であった為、井桁が第三一軍を指揮してサイパン島防衛戦を戦った。だが圧倒的火力と物量を前に苦戦を強いられ、サイパン守備隊は玉砕。井桁も自決した。 |
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石井四郎 | ||||||||||||||
京都大学医学部卒業後、軍医となる。 関東軍防疫部長として満州で細菌戦研究の組織化を指導した。 細菌戦部隊(七三一部隊)の責任者として戦後米軍の関心を集め資料提供で戦犯免除の取引があったとされる。 |
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石井嘉穂 | ||||||||||||||
陸士24期 陸大32期 開戦時の下関要塞司令官。 1942年(昭和17年)10月、第三二師団師団長として華北での治安維持に努めるが、戦局の悪化に伴ない師団の南方進出が決定する。 1944年(昭和19年)4月、第十四軍に編入されフィリピンに進出する予定だったが急遽ハルマヘラ島に変更。移動中に輸送船が撃沈され多数の将兵を失いながらも同島の防衛態勢を整える。だが米軍の上陸は無く、そのまま終戦を迎えた。 戦後、復員するまでの間、先に復員した第二軍司令官の後任として現地部隊を纏める為に同軍司令官代理を務める。 |
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石黒貞蔵 | ||||||||||||||
陸士19期 開戦時の第二八師団師団長。1943年(昭和18年)3月から第六軍司令官に就任、1944年(昭和19年)1月から第二九軍司令官に就任した。 |
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石原莞爾 | ||||||||||||||
陸士21期 陸大30期 独断専行の人。アウトサイダー。異能の人・・・まぁこんな感じの人かと。陸大同期に阿南惟幾が居る。 陸大教官時代に軍事研究の一環としてドイツに赴任。留学中もっとも知識を得たのが持久戦争と決戦戦争に関してであったとされる。 昭和3年関東軍参謀として満蒙の地に派遣される。満蒙は対ソ戦略上重要な地域として認識されていたが、その為紛争が絶えない地域でもある。石原は権益確保の為に積極的に作戦を展開する。各民族協和のうちに王道楽土を築こうとする構想から溥儀を象徴として担ぎ出し、満州国建国の発端とする。 その後満州事変を拡大し、少数兵力で満蒙各地を手中に納め、満州国を樹立させた。だが支那戦線不拡大を一貫して主張し中央から睨まれたが、それはソ連国境線をより危険視した為である。 東條英機が関東軍参謀長として満州に着任すると、東条との対立が益々激しくなる。性格的にも石原と東條では水と油であった。結果、石原は早々に予備役に編入されてしまった。 太平洋戦争開戦後、ミッドウェーで大敗し、ソロモンで苦戦している昭和17年12月、満映社長甘粕雅彦の取り計らいで首相となった東條英機と面会した。東條から甘粕を通じて石原に面会を申し込んできたのだ。国家の重大危機に仲が良い悪いなどと言っていられず、呼び出したらしい。
戦後、極東軍事裁判・臨時法定(通称:酒田法廷)にて、検事側証人として呼ばれた石原は判事の質問にこう答えている。
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板垣征四郎 | ||||||||||||||
陸士16期 陸大28期 陸士を出た後日露戦争に少尉として従軍。 陸大卒後、歩兵三三連隊長。中支派遣軍参謀を経て昭和4年に関東軍高級参謀となる。 昭和6年、満州事変をきっかけに満州国建設の最高責任者となった。 近衛内閣・平沼内閣で陸相を務め、大将昇進後、朝鮮軍司令官に就任。 戦後極東軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯に指定、絞首刑に処せられた。 尚、東京裁判の法廷で検事側の証人席に座った者の中には板垣のかつての部下であり、満州国建国の際に中心に居た者達が居た。石原莞爾・田中隆吉である。そして満州国皇帝溥儀が居た。 特に田中の証言は板垣の指揮の下に活動した上海での謀略戦、張作霖爆死事件、盧溝橋事件の真相に及び、法廷で真実を暴露されたことは板垣にとっての致命傷であったが、この証言は他に東条英機・土肥原賢二・武藤章といった人に対する致命傷ともなったという。 |
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板花義一 | ||||||||||||||
陸士23期 陸大35期 開戦時の明野陸軍飛行学校長。 輜重科を専攻し、後に航空に転科した代わった経歴を持つ。 1942年(昭和17年)11月より新設された第六飛行師団としてラバウルに進出し、その後東部ニューギニア方面の航空戦を指揮する。 1944年(昭和19年)4月、陸軍航空本部付となり本土に帰還。5月より陸軍航空通信学校長となるが8月には第二航空軍司令官として満州に赴任する。 1945年(昭和20年)6月、予備役編入となり、そのまま終戦を迎えた。 |
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今村 均 | ||||||||||||||
陸士19期 陸大28期 開戦時、第十六軍司令官としてジャワ攻略作戦を指揮した、作戦を僅か8日間で完了し武勲をあげた。 その後ソロモン方面に。第八方面軍司令官としてラバウルに着任、ガダルカナル島への物資輸送等につとめ、ラバウルが後方化しても同地にあって終戦まで指揮しつづける。 ジャワ攻略後の同地における軍政の評価が高く『仁将』と呼ばれるほどであったが、大本営及び南方軍総司令官の批判を受けるほど穏やかな占領政策であったと言われている。 戦後、戦犯として収容所に入れられたときに部下達が敵兵への残虐行為で次々と処刑されていくのを見た今村は自決をはかった。だが死ぬこと叶わず、一命を取り留める。その後の裁判では禁錮10年の刑に処された。自身は志願して部下の収容されているニューギニア・マヌス島での収容を望み、許可された。昭和28年、巣鴨に転送され、翌年1月釈放された。 |
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岩松義雄 | ||||||||||||||
陸士17期 陸大30期 開戦時の第一軍司令官。1942年(昭和17年)8月に軍事参議官となり、同年12月に予備役に編入された。 (その後は新民会最高顧問に就任?) |
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上村利道 | ||||||||||||||
陸士22期 陸大34期 開戦時の第二九師団師団長。1943年(昭和18年)10月、第五軍司令官に就任。1944年(昭和19年)6月、参謀本部付となり、翌月第三六軍司令官に就任して本土決戦準備を整えつつ終戦を迎えた。 |
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牛島 満 | ||||||||||||||
沖縄戦を指揮した『武将』。 陸士20期 陸大28期 二.二六事件直後に歩兵第一連隊長に就任し、その首謀者を出した連隊を纏め上げた。 日中戦争・北支戦線を戦い、その後南京攻略戦に参加したときには第三六旅団長として参加した。この戦いで味方を鼓舞し、戦果を上げた号令として『チェスト行け』があり、薩摩隼人として突撃時の掛け声として発したものであったが、これにより突進し勇名を馳せ、また牛島の名を轟かせた。 昭和13年に本土に凱旋。一時後方に下がったが、昭和19年に再び前線に。 第三二軍司令官として沖縄防衛戦の指揮をとることとなった。参謀長長勇少将、高級参謀(作戦主任)八原博通大佐が牛島の補佐に着いた。共に有能だが、片や熱血・勇猛の長、片や鋭利で頭脳明晰な八原という相反する二人の副官であった。 作戦方針の変更から兵力配置転換をされ(戦力の一部を台湾防衛に引き抜かれた)、防衛計画の変更をする。結果、沖縄での長期持久防衛作戦となった。 劣勢を挽回する為に仕掛けた反攻作戦も失敗し、既に勝敗は決していた。たが沖縄県民に布告した防衛召集令により約3万人を軍に組み入れ(その中には鉄血勤皇隊やひめゆり部隊を含む)、それ以外の老人婦女子を島の北部に強制疎開させた。だが指揮系統に混乱が生じていた為であろう。軍司令部は5月末に首里から摩文仁へ撤退するに及んで膨大な数の県民が置き去りにされてしまったという。これにより一般市民を含め、多くの年若い子女の血が流れ、犠牲を多くしてしまった。 6月20日、牛島は大将に昇進した。これにより帝國陸軍最後の大将となる。6月23日、摩文仁の洞窟前で割腹自決により生涯を閉じた。 |
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後宮 淳 | ||||||||||||||
陸士17期 陸大29期 開戦時の支那派遣軍総参謀長。その後中部軍司令官をはじめ、軍事参議官・参謀次長・航空総監・航空本部長(一部兼任)を経て、終戦時には第三方面軍司令官。A級戦犯に指名され、シベリアに抑留された。 |
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内山英太郎 | ||||||||||||||
陸士21期 陸大22期 開戦時の第十三師団師団長として第十一軍指揮下にあって華中方面に展開した。 1942年(昭和17年)8月より第三軍司令官に就任、満州東部国境の防衛にあたった。その後1944年(昭和19年)2月より北支那方面軍指揮下の第十二軍司令官となり華北戦線に移動。1945年(昭和20年)4月からは本土決戦に備え第十五方面軍司令官に就任。近畿・中国・四国方面の防衛を担当した。 砲術出身で各砲兵学校の教官・幹事、関東軍砲兵司令官を歴任した。 |
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梅津美治郎 | ||||||||||||||
二.二六事件当時の第二師団師団長として反乱軍鎮圧の指揮をとった。その直後に陸軍次官に栄転。 ノモンハン事件でに際しては関東軍司令官に任命(通常は大将を任に充てるが、中将のまま司令官となった)されて停戦を果す。その後大将となり、対ソ戦研究と関東軍の増強に尽力を尽くす。 かねてより対米戦に反対だった梅津ではあったが、対米戦開始後の昭和19年には陸軍参謀総長に就任していた。その頃の梅津は一日も早く対米戦は止めなければならないが、参謀総長として取りうる手段はあまりにも無いと嘆いている。だが現実に行った対応は必ずしもそうではなかった。 昭和20年8月、ソ連参戦の情報が入り、鈴木貫太郎内閣ではポツダム宣言の受諾の可否をめぐって紛糾していた。阿南惟幾・豊田副武、そして梅津が受諾前に条件をつけることを要求した為である。 この条件というのが降伏後の武装解除や戦犯処理を日本が執り行うという確認を取れ、という趣旨のものであった。彼等の主張は『本土決戦の見通しは究極的に勝つという確信は無いがまだ一戦は交えられる。上陸軍を撃退出来るかも知れない。ポツダム宣言を無条件に受諾するくらいなら、残されたチャンスを試みたい』というものであった。 但し、これを本心から言ったとは疑わしく、亡くなった多くの英霊の為にこのままでは申し訳ない。また本土決戦を強硬に主張する一派に対してそう言わなければ収まりが付かなかったとみるべきであろう。 最終的には昭和天皇の外相案(ポツダム宣言受託)に賛成であるとのお言葉により受諾、終戦への道が開けた。 その後の降伏調印代表団の人選において、梅津は覚悟したが、海軍軍令部総長も一緒に参加するべきであると述べた。だがこれも最終的には天皇の裁可を仰ぎ、梅津に直接お言葉を掛けて頂く事によって解決した。 調印式には重光葵外相と梅津がそれぞれ日本政府と大本営を代表して調印式に参加、降伏文書に署名した。 戦後極東軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯に指定、終身禁固刑の判決を受け、昭和24年巣鴨刑務所の中で癌により人生を閉じた。 |
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大島 浩 | ||||||||||||||
陸大(27期)卒後、参謀本部勤務。 大正10年、ドイツ大使館付武官補佐官としてドイツに赴任。その後参謀本部課長を経て昭和9年にドイツ大使館付武官としてドイツに赴任した。このときドイツはポーランド侵攻を画策している時期であり、そのドイツに接近を試みた大島は武官外交を展開。後の独外相リッベントロップやヒトラーと極めて親密な交友関係を持ち、大島が中心となって日独防共協定が締結された。これが後に日独伊三国同盟に繋がっていく。 独外相となったリッベントロップの後押しを受け、大島は駐独大使に昇進する。 昭和14年、阿部内閣が発足し、野村吉三郎が外相になると、大島は自ら辞任して一旦帰国する。だが第二次近衛内閣が出来ると再び外相に松岡が就任。併せて大島も駐独大使に復活した。 終戦後、極東軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯に指定、終身禁固刑の判決を受けたが昭和30年に釈放され、昭和50年死去した。 |
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岡村寧次 | ||||||||||||||
陸士16期、陸大25期 |
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岡部直三郎 | ||||||||||||||
陸士18期、陸大27期 太平洋戦争開戦時には陸軍技術本部長。その後軍事参議官兼陸軍大学校校長。 1943年(昭和18年)より第三方面軍司令官。1944年(昭和19年)より北支那方面軍総司令官・第六方面軍司令官となる。 戦後、戦犯容疑が掛けられ拘留。翌年病死。 |
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小畑信良 | ||||||||||||||
陸士30期(恩寵) 陸大36期 小畑英良の弟。 陸軍でも数少ない輜重兵出身の将校であり、駐米日本大使館附武官補佐官を勤めたこともある。 最終階級は少将。 開戦前に参謀本部内に設置された南方占領地行政に関する研究班の班長となり、研究を進めた。そして開戦時には南方軍参謀(第二課課長)として現地に赴く。 1942年(昭和17年)2月、近衛師団参謀長。 1943年(昭和18年)3月、少将に昇進し、第十五軍参謀長としてビルマに赴任するが、第十五軍司令官牟田口中将とインパール作戦に関して意見が対立する。アラカン山系のジャングル地帯踏破は不可能とし、作戦の中止を求めるが却下される。補給観点から見れば到底作戦が成功するとは思えず、前線の現場指揮官らもこれに賛同を示したが、結果的には第十五軍司令官牟田口中将の逆鱗に触れ参謀長を解任された。 その後奉天特務機関長に飛ばされ、翌1944年(昭和19年)10月には関東軍隷下の関東防衛軍(新京)の参謀長に就任。(翌年、第四四軍に改編) 1945年(昭和20年)8月のソ連侵攻に対し南満州で防衛戦を行うが、終戦となり、そのままシベリアに抑留された。 1954年(昭和31年)12月、復員。 |
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小畑英良 | ||||||||||||||
陸士23期(恩寵) 陸大31期(恩寵) 騎兵少尉として任官し、陸大卒業後は陸軍大学校教官、イギリス駐在、インド駐剳武官、参謀本部演習課長、騎兵第十四連隊長などを歴任。 1937年(昭和12年)から航空に進み、太平洋戦争開戦時には第五飛行集団長であり、その後第三航空軍司令官となる。 1944年(昭和19年)2月に第三一軍司令官として中部太平洋防衛の任に就く。同年8月、米軍のマリアナ進攻によりグァム島にて戦死した。 |
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か |
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加藤建夫 | ||||||||||||||
(移転しました。) | ||||||||||||||
河田槌太郎 | ||||||||||||||
陸士23期 開戦時の独立混成第10旅団長 1944年(昭和19年)7月、インパール作戦の最中に第三一師団師団長を更迭された佐藤中将に代わって師団長に就任。以後ビルマ戦線から後退。イラワジ会戦を経て、後退しつつ終戦を迎えた。 |
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河辺正三 | ||||||||||||||
陸士19期 陸大27期(恩賜組) 開戦時の第三軍司令官。以後ビルマ方面軍司令官、航空総軍司令官、陸軍航空本部長、第一総軍司令官を歴任(一部兼任)した。 インパール作戦当時、作戦を指揮した第十五軍司令官牟田口中将の上官であった。その兵站計画が最初から無謀なものであったにも関わらず、牟田口の熱意に負けて作戦を許可し、上部組織(南方軍)に上申してしまった。 また作戦が芳しくなく、中止を考えていた頃、牟田口との会見で責任問題の関係から作戦中止を決定するのが遅くなり無用な損害を出すに到った。 |
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神田正種 | ||||||||||||||
陸士23期 陸大31期 開戦時の第六師団師団長。 当初はガダルカナル戦に投入される予定だったが、同島放棄によりブーゲンビル島に進出。以後、終戦まで同方面で主に米豪軍と戦闘を交えることとなる。 1945年(昭和20年)4月、上級司令部である第十七軍司令官百武中将が病により指揮を執れなくなると代わって第十七軍司令官に就任。終戦までブーゲンビル島で指揮を執り続けた。 戦後復員した後、戦犯容疑により服役(禁固14年の判決)。 |
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喜多誠一 | ||||||||||||||
陸士19期 陸大31期 開戦前に第十四師団師団長から第六軍司令官に就任し、関東軍の指揮下で満州方面の防衛に就いた。 1943年(1昭和18年)3月より第十二軍司令官に就任、北支那方面軍の指揮下で華北方面で作戦を展開する。 1944年(昭和19年)9月より満州方面の第一方面軍司令官に就任した。 終戦時、ソ連軍によりシベリアに抑留され、1947年(昭和22年)ハバロフスクの野戦病院で病没した。 |
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北野憲造 | ||||||||||||||
陸士22期 開戦時に第四師団長としてフィリピン攻略戦に参加。 1943年(昭和18年)10月より第十九軍司令官に就任し、アンボン防衛に従事した。 |
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木下 勇 | ||||||||||||||
陸士26期 陸大37期 開戦時の第十一軍参謀長。1942年(昭和17年)12月には第十三軍となる。 元々騎兵将校出身だが1943年(昭和18年)11月に陸軍航空総監部付きとなった後、1944年(昭和19年)3月に第四飛行師団師団長として満州防空任務に就く。だが同師団の航空兵力はフィリピン戦転用のために順次第二飛行師団に移管されていき、基地管理部隊へとなっていく。 その後フィリピン戦が開始される10月に木下も第二飛行師団師団長となり、フィリピン戦戦に参加することとなる。だがその直後(11月)に第四航空軍司令官富永中将に飛行第七五戦隊の無断使用を咎められ職務停止命令を受ける。そして師団長交代(更迭)となり南方軍司令部付きへと転出。その後第五五飛行師団師団長としてシンガポール方面の防空を担当する。 終戦直前の1945年(昭和20年)6月、東部軍管区司令部付きとして本土に帰還。だが7月に搭乗機墜落事故により戦死した。 |
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木下 敏 | ||||||||||||||
陸士20期 陸大29期(恩寵組) 歩兵出身だが、早い時期から航空に転科している。ジュネーブ軍縮条約の随員を務めた。 太平洋戦争開戦前まで第三飛行集団長を務めていたが、開戦前に陸軍航空士官学校長に転任。その後関東防衛軍司令官を経て航空の第一線に戻ったのは1943年(昭和18年)末、第三航空軍司令官としてであった。以後終戦まで同部隊を指揮する。 |
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木村兵太郎 | ||||||||||||||
陸士20期 陸大28期 開戦時の陸軍次官。その後1943年(昭和18年)3月、軍事参議官兼陸軍兵器行政本部長を経て1944年(昭和19年)8月、インパール作戦の失敗により敗戦色の強い同地にビルマ方面軍司令官として着任した。 1945年(昭和20年)になり、ビルマに侵攻してきた英軍部隊を相手に作戦指導不可能なほどのパニック状態となった。前線に出て指揮を執ることを拒否し、ラングーンに残って全軍の指揮を執ると決定したにも係らず、最終的ににはラングーンを放棄して司令部を撤退させた。その際にビルマ政府、自由インド仮政府、駐ビルマ大使や大使館員他民間人多数を置き去りにして逃げ出しており、残された要人・邦人、さらに指揮命令系統の混乱により第二八軍が敵中で包囲されるという大混乱状態に陥ったのである。 尚、戦後木村は極東軍事裁判(東京裁判)においてA級戦犯として逮捕され死刑判決を受けているが、その罪状は陸軍次官当時のものであった。 だがビルマからの撤退にともなう外国要人・在留邦人保護の職務を放棄した件に関しては国内でも厳しい批判がされている。 |
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草場辰巳 | ||||||||||||||
陸士20期 陸大27期 開戦時の関東防衛軍司令官。その後1942年(昭和17年)12月、第四軍に就任。1944年(昭和19年)2月、参謀本部付となり、同年12月予備役に編入されるが同日再召集され大陸鉄道司令官に就任した。 終戦時、シベリア抑留となったが、1946年(昭和21年)りから極東国際軍事裁判に証人として出廷を命ぜられる。そのためウラジオストックから東京に空路送られたが、出廷直前に自決した。 |
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栗林忠道 | ||||||||||||||
陸士26期 陸大35期(恩賜組み) 開戦時は第二三軍参謀長として香港攻略戦に参加。その後1943年(昭和18年)6月に留守近衛第二師団師団長となるが、翌年発生した事故(師団厨房内からの失火)の責任をとり師団長を辞任する。その後第一〇九師団師団長に就任した。 1945年(昭和20年)3月に行われた米海兵隊による硫黄島攻略作戦、この時の硫黄島守備隊司令官が栗林中将である。同島防衛に際し、全島を縦横に走る地下洞窟陣地と化し、徹底的な防衛戦展開。この戦いは戦争期間中唯一攻撃する側(米海兵隊の犠牲者24,000名)に守備隊(栗林兵団23,000名)以上の損害を与えた戦いであった。組織的抵抗線を続けること4日、硫黄島の摺鉢山に星条旗が立つと圧倒的物量を誇る米軍の前に、次第に崩落していった。だが司令官以下の将兵達は1ヶ月近く孤軍奮闘で抵抗を続け。最後には栗林自ら生き残った400名の兵士と共に突撃を敢行。先頭に立って突撃し、重症を負うと拳銃で自決したという。 |
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小磯国昭 | ||||||||||||||
宇垣閥に所属、軍務局長時代に三月事件に関与。陸軍次官、関東軍参謀長などを歴任後予備役に編入される。 平沼内閣・米内内閣では拓務相を務め、その後朝鮮総督に。 東条内閣の後をついで小磯内閣を成立、首相に就任した。以後終戦工作に尽力するも果たせず総辞職となった。 |
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上月良夫 | ||||||||||||||
陸士21期 陸大29期 開戦時の第十九師団師団長。その後第二軍と駐蒙軍司令官を経て1944年(昭和19年)11月に第十一軍司令官となる。 終戦時は第十七方面軍司令官兼朝鮮軍管区司令官。 |
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河野悦次郎 | ||||||||||||||
陸士25期 陸大36期 開戦時の第十二軍参謀長兼山東省特務機関長。その後満洲国軍政部最高顧問となる。 1943年(昭和18年)9月より第五三師団となり、ビルマ作戦(インパール作戦)に参加する為にビルマ方面に移動するが、同作戦開始後罷免される(作戦批判の為?病気?<詳細不明)。 その後参謀本部付となり、1944年(昭和19年)9月、没 |
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さ |
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斎藤義次 | ||||||||||||||
陸士24期 陸大36期 騎兵将校出身で開戦時の軍馬補充部本部長であり、長くその職にあった。 1944年(昭和19年)4月より第四三師団師団長に就任。第三一軍の指揮下に編入されサイパン島防衛任務に就く。米軍のマリアナ諸島侵攻、サイパン島の戦いにおいて善戦するが同年7月5日に全軍総突撃の命令を下達し、『我ら玉砕をもって太平洋の防波堤たらんとす』と決別電を打電、全滅。サイパン島での組織的戦闘を終え、翌6日自決した。 |
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佐藤賢了 | ||||||||||||||
昭和13年3月、衆議院で国家総動員法を審議しているとき、佐藤は法案の趣旨を説明をしていた。当時の佐藤は軍務局課長であり、階級は中佐であった。趣旨説明を始めるや議場は野次、怒声が上がり騒然となった。議案内容が国家総動員法という微妙な案件であっただけに議員も興奮していたのだろうが、佐藤の説明に対し宮脇議員が野次を飛ばした瞬間、「黙れっ!」と叫んだ。これを切欠に議会(委員会)は混乱し、休憩となる。後日、法案は杉山陸相が頭を下げた為に審議再開となり成立した。これを『黙れ事件』という。 これによって佐藤の名は一躍有名となったが、一方では陸軍が世論を圧殺するかのような印象が広められたのである。 太平洋戦争開戦時には軍務局長であり、昭和19年には支那派遣軍参謀副長となる。 終戦時、常に東條英機を補佐するような位置にいたためか、または『黙れ事件』の影響か、佐藤は東條の側近と見られ、A級戦犯に指定された。(判決は終身刑) |
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佐藤幸徳 | ||||||||||||||
1938年(昭和13年)7月の張鼓峰事件で歩兵第七五連隊長として参戦し、部隊の損害が5割に達する中、停戦まで陣地を守りぬき、その大胆不敵な戦闘指揮ぶりで名を馳せた。 1943年(昭和18年)インパール作戦において第三一師団師団長として参加したが、第十五軍司令官牟田口中将と対立。補給を軽視したこの作戦で補給の確約を求めたが、作戦開始後も糧秣・弾薬は補給されなかった。それでも要衝コヒマを攻略したが物資不足を危惧し撤退を進言する。 しかし司令部は作戦継続を強要する。だが師団は武器弾薬・糧秣の不足からこれ以上の進撃は不可能な状況となり、全滅は不可避と判断していた。 5月末日でのコヒマ放棄と主力の撤退を独断で決断、部下の宮崎少将に遅滞戦闘を命じ、補給集積地ウクルルまで後退し、さらにフミネまで後退する。 これにより独断で兵を後退させたとして牟田口中将の逆鱗に触れ、作戦中止後に親補職である師団長にもかかわらず牟田口中将の独断で師団長解任という異常事態を引きこした。 佐藤はもとより死刑を覚悟して軍法会議で第十五軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったと言うが、結局不起訴処分となり、「精神病(心身喪失)」扱いでジャワ島に送られた。第十六軍司令部付という形で軟禁状態となった。これは作戦失敗による原因追求で大本営・南方軍上層部まで責任が及ぶことを避ける為の措置であったという。だが撤退は正しい判断とされ、結果的により多くの兵士たちの生命が救われることになった。 |
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重見伊三雄 | ||||||||||||||
陸軍戦車界の先駆者の一人であり、戦車兵の教育に熱心であった。 フィリピン・ルソン島の戦いにおいて、第三戦車旅団を率いて戦い、最期は自ら率いた戦車部隊で突撃し壮烈な戦死を遂げた。(最終階級:少将) |
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七田一郎 | ||||||||||||||
陸士20期 陸大31期 太平洋戦争開戦時には陸軍予科士官学校長。。駐蒙軍司令官を経て1943年(昭和18年)5月第二軍(満州方面・第一方面軍隷下)司令官となるが、第二軍が南方戦線に抽出されることになると同時に参謀本部付となるた。 翌年3月、陸軍科学学校長兼陸軍戸山学校長となるが1945年(昭和20年)4月予備役に編入された。しかし即再召集により本土決戦・九州方面の第五六軍司令官に就任する。そのまま本土決戦待機のまま終戦を迎えた。 |
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柴山兼四郎 | ||||||||||||||
陸士24期 陸大32期 開戦時の輜重兵監であり、非常に珍しい輜重兵科出身の将官。 1942年(昭和17年)4月、第二六師団師団長に親補。その後南京政府最高軍事顧問となる。 1944年(昭和19年)8月、陸軍次官に就任。 1945年(昭和20年)5月、大本営兵站総監を兼務するが7月に予備役に編入され、終戦を迎えた。 |
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清水規矩 | ||||||||||||||
陸士23期 陸大30期 開戦時の第四一師団師団長。1942年(昭和17年)教育総監部本部長となり、1943年(昭和18年)5月には南方軍総参謀長、1944年(昭和19年)3月には第七方面軍参謀長となり、同年6月には満州防衛の第五軍司令官に就任した。満州国境で対ソ防衛戦闘を行い終戦を迎えた。(戦後はシベリア抑留) |
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下村 定 | ||||||||||||||
陸士20期 陸大28期 開戦時の陸軍大学校校長。その後第十三軍司令官となる。 1944年(昭和19年)3月より西部軍司令官、11月には北支那方面軍司令官となる。 終戦後、東久邇宮内閣と続く続く幣原内閣において陸軍大臣となり、また最後の陸軍大臣となった。 |
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菅原道大 | ||||||||||||||
陸士21期 陸大31期 開戦時の第三飛行集団(1942年(昭和17年)4月に第三飛行師団に改編)長としてマレー方面の航空作戦を指揮する。 その後第三航空軍司令官、陸軍航空士官学校長、航空総監部次長、航空総監兼航空本部長、兼教導航空軍司令官と航空関係の要職を歴任。1944年(昭和19年)12月、教導航空軍が第六航空軍に改編されるとそのまま司令官となり、沖縄航空戦を戦うこととなる。 |
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杉山 元 | ||||||||||||||
陸士12期 陸大22期 開戦時の参謀総長。 陸軍三長官(陸軍大臣・参謀総長・教育総監)を歴任し元帥にまでなった数少ない将官。 小磯内閣で陸軍大臣に再任。 1945年(昭和20年)本土決戦に備えて設立された第一総軍司令官となる。 終戦後9月12日に司令部にて拳銃自決。 |
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鈴木宗作 | ||||||||||||||
陸士24期 陸大31期 開戦時の第二五軍参謀長としてマレー作戦に参加。 その後陸軍兵器本廠付、運輸本部長、兼船舶司令官を経て1944年(昭和19年)7月より第三五軍司令官となり、第十四方面軍の指揮下でフィリピン・レイテ島戦を担当する。(当初の担当区域はミンダナオ島・ビサヤ諸島) レイテ島での戦闘が実質終了した後も持久態勢をとりつづけたが、1945年(昭和20年)4月19日、ミンダナオ島海上の舟艇内にて戦死。 (戦死後、大将に昇進) |
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澄田ライ四郎 (ライ:表示可能な漢字無し) | ||||||||||||||
陸士24期 陸大33期 開戦時の第三九師団師団長。 1944年(昭和19年)11月より第一軍司令官となり、終戦を迎える。 |
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瀬島龍三 | ||||||||||||||
陸士44期 陸大51期(恩賜組み) 開戦前に参謀本部第一部第二課作戦班班長補佐として就任。以後太平洋戦争中は大本営参謀を兼任し、陸軍作戦のほぼ全てにおいて作戦参謀として指導する。 1944年(昭和19年)8月より軍令部員を兼任し、翌年2月からは連合艦隊参謀を兼任した。 終戦直前の1945年(昭和20年)7月より関東軍参謀として満州に赴く。終戦後捕虜としてシベリアに抑留された。 |
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十川次郎 | ||||||||||||||
陸士23期 陸大33期(恩賜組み) 開戦時の第十師団師団長。 1944年(昭和19年)1月より第六軍司令官に就任。 |
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田中新一 | ||||||||||||||
陸士25期 陸大35期 開戦時の参謀本部第一部長であり、強硬な開戦論者であり、盧溝橋事件の際も拡大派の中心となった。 ガダルカナル島を巡るソロモンの戦いにおいて、主に船舶問題で東條と対立。その結果、左遷として中央から南方軍に飛ばされた。 1943年(昭和18年)3月より第十八師団師団長に親補。ビルマ方面にあってフーコン防衛戦や、指揮下の第一一四連隊をミイトキーナに派遣したりと防衛戦に善戦する。インパール作戦後の10月よりビルマ方面軍参謀長となる。 その後東北軍管区司令部付、第一総軍付となり終戦を迎えた。 |
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長 勇 | ||||||||||||||
陸士28期 陸大40期 開戦時の南方軍司令部付仏印機関長。 その後第十歩兵団長、関東軍総司令部付、参謀本部付を経て1944年(昭和19年)7月より、第三二軍参謀長として沖縄防衛を担当する。 1945年(昭和20年)4月以降、米軍の沖縄侵攻により防衛戦を行うが6月23日、牛島大将らとともに自決した。 直情・猪突猛進型の軍人であり参謀向きとは言えない軍人でありながら、参謀経験が多く、沖縄戦に於いても長期持久を主張する八原高級参謀と対立し、無謀とも取れる反攻作戦を行ったとされる。 |
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辻 政信 | ||||||||||||||
陸士36期(恩賜組み) 陸大43期(恩賜組み) 二.二六事件後関東軍参謀(兵站担当)として転出する。 ノモンハン事件当時、作戦参謀として関東軍にてあった辻は、紛争拡大を狙う関東軍を押さえようとした東京からの電報を握りつぶす事件を起こしている。 太平洋戦争開戦時・・・・・・・・ すまん、辻の説明出来ない(´・ω・`) 『作戦の神様』と謳われ、マレー作戦等において辣腕振りを発揮する・・・のだが、補給を一切無視し、現地調達方式を採用して部隊を進軍させるという無謀っぷりを発揮する。ただし、兵站に関する知識が無いという訳ではない。 ついでに華僑虐殺事件という、史上まれに見る汚点を残したことも忘れてはならない。またバターン半島における捕虜を徒歩で移動させた際に第十六師団師団長及び参謀長に捕虜を殺したらどうかと勧告した。(当然断られるが) 他にもポートモレスビー攻略戦、ガダルカナル戦と陸軍の作戦の大半に絡んでいるが、敗戦の原因が辻の独断による拙劣な作戦指揮の結果であるといわれる。 1944年(昭和19年)7月、大陸に於ける占領政策に関して東條首相と衝突。懲罰人事として激戦のビルマ戦線に送られた。第三三軍参謀となるが、異動を命ぜられた時は第三三軍には高級参謀として2期上の白崎嘉明大佐が赴任したばかりであり、結果2段階下の作戦参謀職となった。(その後白崎大佐は第十八師団参謀長が問題を起こして職を免ぜられた際に同師団に異動した為、辻大佐が第三三軍高級参謀に就任した。) そしてこの後、ミートキーナ防衛に関し同地水上少将に死守命令 |
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土橋勇逸 | ||||||||||||||
陸士24期 陸大32期 開戦時の第四八師団師団長。フィリピン攻略戦、蘭印攻略戦に参加。その後はチモール島に進出し、同島の警備にあたる。 1944年(昭和19年)11月、印度支那派遣軍司令官。その後第三八軍に改編されたが、そのまま司令官を務める。翌1945年(昭和20年)3月より仏印総督代行を兼務。そのまま終戦を迎えた。 |
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豊嶋房太郎 | ||||||||||||||
陸士22期 陸大28期 開戦時の留守近衛師団長。1943年(昭和18年)6月、近衛師団改編に伴ない近衛第一師団長となる。同年10月、満州から南方戦線に引き抜かれた第二軍の司令官に就任し、以後南西方面での戦闘に従事。北豪方面・西部ニューギニア方面で戦闘し、終戦時はセレベス島で迎えた。 |
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寺内寿一 | ||||||||||||||
陸士11期 陸大21期 開戦時の南方軍総司令官であり、開戦当初の作戦は概ね成功し、「自給体制」「永久抗戦」体制を確保した。 その後大本営より「ビルマロード」建設を命じられ、当初5ヶ年かかると予想された計画を1年半で完成させた。 昭和18年6月元帥に昇進。 広大な南方地域の防衛作戦を指揮し、終戦時には「承詔必謹」を宗利速やかに停戦に関する処置を講じた。 |
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寺田済一 | ||||||||||||||
陸士28期 陸大35期 開戦時の航空総監部教育部長兼陸軍航空本部第1部長。その後1943年(昭和18年)5月より第三航空軍参謀長となる。 翌1944年(昭和19年)3月より航空総監部兼陸軍航空本部の総務部長に就任、さらに8月教導航空軍参謀長となる。 その後フィリピン決戦に際し第四航空軍参謀長に任じられる。その間に第二飛行師団師団長更迭が行われ、後任の師団長として第二飛行師団師団長に新補される。 1945年(昭和20年)5月に陸軍航空本部教育部長、7月に航空総軍参謀副長となり、終戦を迎えた。 |
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寺本熊市 | ||||||||||||||
陸士22期 陸大33期 開戦時の第二飛行集団長(後に第二飛行師団に改編・師団長) 歩兵出身だが陸大卒後に参謀本部で米国研究に専念。1925年(大正14年)より航空に転科する。 米国駐在武官補佐官として駐米し、陸軍にあっては昭和初期の数少ない米国通にして航空主兵者。 1943年(昭和18年)5月より第一航空軍司令官、7月より第四航空軍司令官となるが、マリアナ戦後の1944年(昭和19年)8月より航空本部付となり、後に航空審査部本部長となった。 1945年(昭和20年)4月、航空本部長となり終戦を迎える。そして終戦にあたり8月15日、自決。 寺本中将の言として『よくもよくも米国を相手にしたものだ。あちらは種を自動車でバラ撒いただけで、ほっておいても穀物の出来る国だ。その上、石油はある、資源はある、第一次大戦以来、連合国数カ国の台所を賄ってきた国だ。国力を侮ったらいかん。しかし決まってしまった以上は天子様にお仕えするだけだ』というものがある。(大本営参謀の情報戦記(堀 栄三著)より引用) |
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東條英機 | ||||||||||||||
陸士17期 陸大27期 開戦時の内閣総理大臣。1935年(昭和15年)より第二次・第三次近衛内閣にて陸軍大臣を務め、その後第40代内閣総理大臣として東條内閣を組閣する。東條を首相に推したのは木戸幸一内大臣であったという。日米開戦の機運が高まっていたこの当時、激発する陸軍を押さえられるのは東條しか居ないと言う理由であったが、何よりも東條自身が私欲のない、そして天皇に対し忠節であると判断されたからである。 一方で誰が組閣しようとも対米開戦は避けられないだろうという予測。もし纏め上げられるとしたら皇族による組閣しかないだろうと判断されたが、開戦となれば皇族に累が及ぶと判断され東條が推されたとも言われている。 組閣に辺り、近衛内閣が行ってきた対米交渉を引き継ぎ、東條が陸相時代に主張してきた陸軍側の主張を一変させ、一旦『帝国国策遂行要領』を白紙に戻した。だが時既に遅く、対米交渉もままならず日米開戦となった。 開戦後は東南アジア一帯の欧州の植民地の解放と、それらの国、民族との団結を図り、米英の連合国軍に対しての勢力拡大と影響力増大へと突き進む。 また1944年(昭和19年)2月には自ら陸軍参謀総長を兼任するようになる。 この当時懸念されていた米陸軍の新型爆撃機B-29による本土空襲という予想される事態に対処すべく大陸での積極防衛として拠点となる飛行場制圧作戦(1号作戦)を承認するが、参謀本部側は従来の大陸打通作戦の色を濃くした作戦を進め、結局飛行場制圧という目標は達成できないままB-29による本土空襲と、マリアナ諸島近海に於ける海軍機動部隊の敗北、そしてサイパン・グアムといった要衝が陥落した。 この責任を取る形で東条内閣は解散。自身も予備役となった。 敗戦後の1945年(昭和20年)9月11日、東條は連合軍によって戦犯として逮捕される際に拳銃自決を図った。だがこれは失敗し一命を取り留める。その後は一変し、A級戦犯として捕らえられたが極東軍事裁判(東京裁判)で戦い抜く。だがそれでも1948年(昭和23年)12月23日、巣鴨拘置所にて絞首刑とされた。 東條に関する評価は正反対なものが多く、『太平洋戦争の張本人』『カミソリ東條』『器の小さい男』『プライドが高く、傲慢』などであるが、ある意味『公平・無欲』であったという点も上げられる。首相に指名されたのも陸軍を纏められるのが東條しか居ないと判断され、また政治的野心や私欲を持たない人物だからだと言われている。 少なくとも昭和天皇からは非常に高い信任を得ていた。 軍人として、軍官僚としては非常に優秀で、優秀すぎるから故に硬直した考えを持っていた東條が、本人も嫌い、興味のなかった政治家としての任までこなさねばならなかったことこそが、悲劇が生まれる原因だったのかも知れない。 |
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土肥原賢二 | ||||||||||||||
富永恭次 | ||||||||||||||
フィリピン決戦当時の第四航空軍司令官 陸士25期 陸大35期 開戦時の陸軍人事局長 1943年(昭和18年)3月より陸軍次官(人事局長兼任)となるが、東條内閣総辞職の際に失脚となった。 1944年(昭和19年)8月、第四航空軍司令官に就任。だがこれは新しく陸相となった杉山大将曰く、左遷人事であった。 フィリピンにおける陸軍航空部隊を指揮し、米軍と交戦。多数の特攻機を出撃させる。この時『最後の一機で本官も特攻する』と言い特攻隊員を送り出したのだが、フィリピン陥落に伴い大本営からの命令もないまま多くの将兵を見捨てたまま司令部要員だけで脱出であり、軍機違反・敵前逃亡を図ったとして後世の批判に晒される事となる。 この件に関し、陸軍内部でも問題となった為、翌年予備役に編入された。だが敵前逃亡を図った将官を罰することなく予備役に編入し、戦争から遠ざけることは逆におかしいとの声があがり、再び再召集された。 満州に第一三九師団師団長として赴任し、そこで終戦を迎えた。 戦後はシベリヤ抑留となり、1955年(昭和30年)に帰国。 人事局長-陸軍次官当時の渾名は『東條英機の腰巾着』 |
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富永信政 | ||||||||||||||
陸士21期 陸大32期 開戦時の第二七師団師団長。1942年(昭和17年)12月より第十九軍司令官に就任するが発病により翌年10月に交代、参謀本部付となるが、そのまま現地(アンボン)にて病死。 |
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永津佐比重 | ||||||||||||||
陸士23期 陸大32期 開戦時の第二〇師団師団長。 1942年(昭和17年)8月より支那派遣軍総参謀副長兼上海陸軍部長となり、1944年(昭和19年)3月22日より第十三軍となる。 1945年(昭和20年)4月、新編された第五八軍司令官に就任し、済州島防衛に就くが、そのまま終戦を迎えた。 |
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西原貫治 | ||||||||||||||
陸士23期 陸大33期 開戦時の第二三師団師団長。その後化兵監、教育総監部本部長事務取扱を経て1944年(昭和19年)2月より第四軍司令官に就任。終戦間近な1945年(昭和20年)4月には第五七軍司令官として本土決戦のために鹿児島に赴任、決戦準備を進めたが、そのまま終戦となった。 |
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根本 博 | ||||||||||||||
陸士23期 陸大34期 開戦時の第二四師団師団長。 1927年(昭和2年)の南京事件当時、南京領事館附駐在武官として南京に駐在。暴徒と化した国民党軍と交戦し負傷した。本人曰く、自分が死ぬことで、幣原外交(幣原喜重郎:第二次若槻内閣の外相)の軟弱さを変えようとしたと後に語っている。 後に石原莞爾らを中心とする無名会(木曜会)や、後の一夕会といった佐官級陸軍少壮士官を中心とした会に参加した。そして桜会にも参加したが、東條らの進言により会から距離を置いた為、三月事件・十月事件といったクーデターに連座こそしたが一時の拘束程度の処分で済んだ。 二.二六事件当時、陸軍省新聞班長であり、事件の首謀者らに狙われたが、命拾いした。事件後原隊に復帰し連隊長に就任。 1944年(昭和19年)2月、第三軍司令官に就任。同年11月、駐蒙軍司令官に就任する。。以後満州防衛を担当するが、終戦時に停戦を無視して進撃を続けるソ連軍に一切の責任を自分が負うこととし反撃を行う。8月19日以降は北支那方面軍司令官を兼任。 復員後、1949年(昭和24年)6月に極秘に中国に渡り、第五軍管区司令官顧問となる。その後国民政府が台湾へ渡り中華人民共和国が樹立すると、金門島における戦い(古寧頭の戦い)を指揮して、中国人民解放軍を撃破し同島を死守し、現在の台湾に大きく寄与した。 |
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は |
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畑 俊六 | ||||||||||||||
陸士12期 陸大22期(首席) 開戦時の支那派遣軍総司令官。 昭和天皇の信任厚く、陸軍の暴走を止められるものと期待され阿部内閣・米内内閣で陸相を務める。だが陸軍の暴走に歯止めをかけることなく、しかも米内内閣では陸軍からの命により単独辞職して後任を陸軍が出さなかった為、陸軍の暴走を加速させたとされている。(これにより米内内閣は総辞職に追い込まれた。) 1941年(昭和16年)7月、関東軍特殊演習と称される対ソ作戦が計画された。だが当時支那派遣軍総司令官であった畑は此れに対し参謀本部に意見具申、これを中止させた。同様に太平洋戦争開戦時にも同様の意見具申を行い、対米英戦回避を主張したが、これは受け入れられなかった。 1945年(昭和20年)4月、本土決戦のため西日本一帯を統率すべく編制された第二総軍司令官に就任。司令部が置かれた広島にて原子爆弾の攻撃を受けるが難を逃れることが出来、そのまま終戦を迎えた。 戦後、A級戦犯の起訴を受けたが、証言により畑を庇ったのは畑によって当時内閣総辞職に追い込まれた米内であった。この証言により畑は死刑を免れ終身禁固刑となる。その後服役6年の刑を経て仮釈放となった。 |
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秦 彦三郎 | ||||||||||||||
馬場正郎 | ||||||||||||||
陸士24期 陸大33期 日中戦争において騎兵集団長として蒙古に出動した生粋の騎兵将校。 開戦時には第五三師団師団長であり、長く本土に待機していたが、1943年(昭和18年)9月に第四師団師団長としてボルネオに進出する。(第五三師団はその後インパール作戦に動員) 1944年(昭和19年)12月に第三七軍司令官となり、引き続きボルネオ防衛を担当したまま終戦を迎える。 戦後、戦犯容疑によって拘留され1946年(昭和21年)6月、収容先のラバウルにて絞首刑に処された。 |
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原田宇一郎 | ||||||||||||||
陸士25期 陸大37期 開戦時の第十四飛行団長。 1942年(昭和17年)3月より独立第二十飛行団長となり、翌1943年(昭和18年)1月より第一飛行師団師団長となる。 1945年(昭和20年)6月、第二航空軍司令官に親補。そのまま終戦を迎え、シベリア抑留となる。 |
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坂西一良 | ||||||||||||||
陸士23期 陸大30期 開戦時の独大使館付武官であり、1943年(昭和18年)1月に帰国。 帰国後の2月より第三五師団師団長、1944年(昭和19年)4月には第二十軍司令官となり、そのまま終戦を迎えた。 |
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東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう) | ||||||||||||||
開戦後まもなく防衛総司令官に任命される。 終戦後は陸軍軍人、皇族で唯一の、かつ戦後初の内閣総理大臣(第43代内閣総理大臣 在任:1945年8月17日-1945年10月9日)であり、処理内閣として最初で最後の皇族内閣を組閣。連合国に対する降伏文書の調印を行った。 |
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百武晴吉 | ||||||||||||||
陸士21期 陸大33期 開戦時の通信兵監。 大尉時代(1924年(大正13年)頃)に参謀本部露西亜班で暗号研究を主催し、ポーランド参謀本部から派遣されたコワレフスキー大尉の指導の下暗号技術を学び、その後参謀本部第3部暗号班長を経てハルピン特務機関長に就任した。 開戦後は1942年(昭和17年)5月よりソロモン方面と東部ニューギニア方面を担当する第十七軍に就任する。激戦となった東部ニューギニアの戦線は新設された第八方面軍第十八軍の指揮下に移され、以後第十七軍はソロモン方面のみの担当となる。 終戦直前の1945年(昭和20年)4月まで同軍司令官の任に当たるが、病気療養により神田中将と交代。その後第八方面軍司令部付きとなって、そのまま終戦を迎えた。 |
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藤江恵輔 | ||||||||||||||
陸士18期 陸大26期 開戦時の西部軍司令官。1944年(昭和19年)3月より東部軍司令官となる。 1945年(昭和20年)2月、改編により新設された第十二方面軍司令官となるが、直に予備役に編入された。同年6月、再び召集され第十一方面軍司令官兼東北軍管区司令官にとなり、終戦を迎えた。 |
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堀 栄三 | ||||||||||||||
陸士46期 陸大56期 マッカーサーの参謀と呼ばれた陸軍情報参謀であり、敵軍の上陸部隊の戦術行動を確実に予測して見せたことからつけられたあだ名である。 開戦時は陸軍大学に在学中。陸大卒後は陸軍戦車学校、陸士戦術教官となる。 1943年(昭和18年)10月より参謀本部第二部参謀に就任。米軍の戦術研究に取り組み、戦術を分析した『敵軍戦法早わかり』を作成した。 1944年(昭和19年)10月、フィリピンの部隊に『敵軍戦法早わかり』を配布・説明しに向かう途中で米機動部隊の台湾来襲における台湾沖航空戦に遭遇。九州鹿屋基地で現地司令部(海軍航空隊)にて味方航空部隊の動静を自らの目で確認し、現地部隊の戦果報告が非常にあやふやな物である事を実感した。この結果、戦果に関して『この成果は信用出来ない。いかに多くても二、三隻、それも航空母艦かどうかも疑問』と緊急電報を大本営第二部長宛に打電した。だがこの情報が参謀本部作戦課に伝えられなかった。 台湾沖航空戦の戦果に関しては大本営発表にて現地部隊が打電した未確認の誇大戦果がそのまま発表された。(これは戦後の調査で、この緊急電報を参謀本部作戦参謀 瀬島龍三によって握り潰された可能性が指摘されている。) その後フィリピンに移動した後、現地部隊の第十四方面軍の作戦参謀に就任。 フィリピン戦末期の1945年(昭和20年)1月末、大本営からの本土帰還命令によりフィリピンを脱出。参謀本部第二部第六課(米国班)参謀に戻った。 戦後、陸上自衛隊に参加。初代駐西独大使館駐在武官(防衛駐在官)とし赴任している。 |
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本多政材 | ||||||||||||||
陸士22期 陸大29期 開戦時の第八師団師団長。1942年(昭和17年)3月より第二十軍司令官として満州防衛に就く。 1944年(昭和19年)4月より新設された第三三軍司令官に就任。ビルマ方面軍の戦闘序列に編入され北ビルマに配備、英軍と交戦し、モールメンで終戦を迎えた。 |
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本間雅晴 | ||||||||||||||
昭和15年に中将で台湾軍司令官に就任。 司令部には「南方研究部」が設けられており、開戦になった場合の南方作戦・フィリピン作戦等の研究が進められた。 開戦時には第十四軍司令官としてフィリピン攻略戦を指揮する。フィリピン戦に勝利したもののバターン半島攻略作戦終了後3ヶ月で罷免・予備役編入となった。 終戦後、戦犯調査で「バターン死の行進」の責任をとらされ銃殺刑に処されている。 |
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松井石根 | ||||||||||||||
陸士9期、陸大18期(首席) 陸大在学中に日露戦争に参加。 日中戦争勃発時には予備役であったが、第二次上海事変の際に上海派遣軍司令官に就任し、上海に派遣された。そして参謀本部の戦果不拡大方針を押し切り南京攻略戦を行っている。 太平洋戦争時には『大亜細亜協会』会頭、『思想国防協会』会長としてアジア主義運動の為に全国で講演会等を開き活動。また国外視察を行い同盟国との大東亜共栄圏の重要性を説いて回った。 戦後、松井は極東軍事裁判にて逮捕、起訴されている。罪状は中支那方面軍司令官当時の不法行為(の防止及び阻止や関係者への処罰が不十分であったというもの)であったという。判決は絞首刑であった。 |
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松井太久郎 | ||||||||||||||
陸士22期、陸大29期 開戦時の第五師団師団長であり、マレー作戦、シンガポール攻略作戦に参加する。 その後支那派遣軍総司令部付汪政府最高軍事顧問を経て、1943年(昭和18年)3月から支那派遣軍総参謀長となる。 1945年(昭和20年)2月、第十三軍司令官に就任。上海方面の防衛を担当し、そのまま終戦を迎えた。 |
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町尻量基 | ||||||||||||||
陸士21期、陸大29期 子爵 1942年(昭和17年)11月、印度支那駐屯軍司令官に就任。 1944年(昭和19年)11月、参謀本部付 1945年(昭和20年)5月予備役編入。 |
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水上源蔵 | ||||||||||||||
陸士23期 開戦時の留守第五四師団兵務部長、1943年(昭和18年)6月から第五六歩兵団長に補任。 1944年(昭和19年)5月、北ビルマの要衝ミイトキーナ防衛のために、第三三軍から援軍として派遣され、同地守備隊として防衛戦を開始する。その際、第三三軍作戦参謀辻大佐は水上に死守命令を下した。水上は以後2ヶ月以上に及ぶ防衛戦を繰り広げるが8月3日にミイトキーナは陥落した。水上は死守命令を伏せたまま部下に脱出を命じ、その為この責任をとり自決した。 |
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宮崎繁三郎 | ||||||||||||||
陸士26期、陸大36期 インパール作戦において第三一師団歩兵団長として要衝コヒマ占領に活躍し、その後の撤退戦において殿を務め軍人としての才能と名声を得た。 その後第五四師団師団長に親補され、イラワジ河下流付近での防衛戦を展開する。ビルマ方面軍司令部が後退(逃亡)した後も防衛戦を続け、補給途絶にあっても山中で応戦を続けた。その後敵中突破を図り、半数以下ではあったがシッタン河までたどり着く。その後も防衛戦を展開して、同地にて終戦を迎えた。 |
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麦倉俊三郎 | ||||||||||||||
陸士24期、陸大32期 開戦時の第五二師団師団長。元々留守第九師団を基幹とした師団であるため、長く本土(金沢)に在ったが、1944年(昭和19年)1月より第三一軍の指揮下に編入されトラック島へ派遣された。 米軍の侵攻に備えていたが、飛び石作戦でトラック島は遊兵と化し、以後戦線の後方に取り残される形となる。 同年6月、米軍のマリアナ諸島侵攻により防衛にあたった第三一軍は司令部が玉砕した為、麦倉が軍司令官代理を兼任。その後正式に司令官に就任するが戦闘することなく、トラック島で終戦を迎えた。 |
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牟田口廉也 | ||||||||||||||
日中戦争の端緒を作り出し、シンガポール攻略戦で名を馳せ、そしてインパールでその名を決定的なものとした・・・ | ||||||||||||||
無 能 | ||||||||||||||
戦後、戦犯として逮捕されたが、日本軍の被害を甚大なものとし、むしろ英軍を助けたとして不起訴・釈放となった、ある意味真の戦犯であろう。 陸士22期 陸大29期 1937年(昭和12年)盧溝橋事件の際、独断で中国側への攻撃を許可し、日中戦争の端緒を作り出した人物。 1943年(昭和18年)3月より第十五軍司令官となりインパール作戦を指揮する。その補給を軽視した作戦で上層部が反対したにも拘らず大本営・南方軍を説得し作戦を強行した。当然作戦は危惧通り頓挫したが、それでも強行・継続する。反対する前線の師団長を途中で次々に更迭し(第十五師団:山内中将 第三一師団:佐藤中将 第三三師団:柳田中将)、前代未聞の事態を引き起こしてもいる。また作戦自体失敗となったときには部隊の撤退を指揮することなく北方撤退路の視察という名目で敵前逃亡を行った。 戦後インパール作戦失敗に関しては『あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した』と責任を放棄する自己弁護に終始した。 |
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武藤 章 | ||||||||||||||
陸士25期 陸大32期 開戦時の陸軍省軍務局長。1942年(昭和17年)4月、近衛師団師団長としてスマトラ攻略作戦に参加するが、これは東條英機によって行われた左遷人事と言われている。 1944年(昭和19年)10月、東條英機の失脚後に第十四方面軍参謀長に任命されフィリピン戦を戦うこととなり、そのまま終戦を迎えた。 戦後極東軍事裁判(東京裁判)においてA級戦犯として死刑判決を受けている。 (判決理由が捕虜虐待によるもか、対米開戦の責任によるものかははっきりしていない。) |
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村上啓作 | ||||||||||||||
陸士22期 陸大28期(恩賜組み) 開戦時直前まで第三九師団師団長として宜昌作戦に従事。開戦時には陸軍科学学校長であった。その後参謀本部付、総力戦研究所長、陸軍公主嶺学校長、関東軍司令部付などを歴任する。 1944年(昭和19年)11月、第三軍司令官に就任。満州東部国境防衛の任務に従事する。 終戦後はシベリア抑留となり、1948年(昭和23年)9月、ハバロフスクの収容所で病死。 |
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安田武雄 | ||||||||||||||
陸士21期 工兵(気球隊)・砲兵・通信関係出身。1940年(昭和15年)航空技術研究所長当時に仁科芳雄博士から『ウラン爆弾』の研究を進言され、翌年陸軍が理化学研究所に原子爆弾の開発を委託する切欠となった。 第一航空軍司令官、航空総監、航空本部長、多摩技術研究所長などを歴任(一部兼任)する。終戦時には第一航空軍司令官として首都防衛を担当。 |
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柳田元三 | ||||||||||||||
陸士26期 陸大34期(恩賜組み) 開戦時は関東軍情報部長(少将) 1943年(昭和18年)3月、第三三師団師団長に親補され、インパール作戦に参加した。 同作戦中、補給を軽視した無謀な作戦に反対し、補給途絶の状態ゆえに独断で撤退を開始した第三一師団師団長佐藤中将が第十五軍司令官牟田口中将によって師団長解任という異常事態になると、柳田中将も同様に補給と撤退に関して進言するが、第十五師団師団長山内中将と共に更迭されるという事態となった。 1944年(昭和19年)6月、予備役に編入されるが即再召集され旅順要塞司令官となり、終戦前に関東州防衛司令官に任命される。 終戦時、ソ連に抑留され、そのままモスクワにて死去。 |
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八原博通 | ||||||||||||||
陸士35期(恩賜組み) 陸大41期(恩賜組み) 開戦時は第十五軍参謀(中佐) 陸軍切っての秀才であり、陸大入校は当時最年少であった。陸士同期の中では常にトップグループに属して昇進を重ねたが、大佐への昇進の時に一旦昇進を見送られている。(八原は一般中学からの陸士入学組みであり、陸士エリートコースであった幼年学校出身組みとは違い、出世の本流からは外れていた為だと思われる。) 陸大卒業後、米国留学をしており、陸軍の中でも数少ない米国の実情に触れた士官であったが、その経験等を陸軍では重視していなかった。 長く人事局に勤め、後に陸大教官となる。 対米開戦前にタイ・マレー方面潜入任務に就き、その後大本営参謀を経てタイ駐在武官補佐官となる。対米開戦の直前にビルマ方面を担当する第十五軍参謀となるが、当時タイに在留していた為、そのままタイ駐在武官補佐官と偽ってタイ進駐を手引きし、平和進駐に大きく寄与した。(開戦直前にタイとの外交問題が発生し、武力進駐の可能性すらあった。) 開戦後はアメーバ赤痢を患い、1942年(昭和17年)3月に本土に帰国。再び陸大教官となった。このとき、陸大教育は依然として対ソ連戦略・戦術が主であったが、当時聞こえてくる対米戦の戦局を鑑み、独自に対米戦を考慮した戦術教育を実施している。(実際に陸大が対米戦教育に切換えたのは1943年(昭和18年)末のことであった。) 八原が再び前線に戻るのは1944年(昭和19年)3月のことである。南西諸島防衛を担当する第三二軍高級参謀(大佐)であり、後の沖縄防衛戦を戦い抜くこととなる。 だが戦略構想・戦術構想の違いから度々同軍参謀長であった長勇少将と対立し、戦略持久をもって米軍に失血を強いて本土決戦の為の時間を稼ぐという八原の構想は陸軍全体から見ても消極的と見られた。度重なる作戦変更(攻勢作戦)や、実情を無視した上級司令部からの攻撃命令や作戦変更などの横槍が入れられる。その全てに反対し持久戦を進言し続けた八原は不等に低い評価を与えられ続けることとなる。だが敵対する米軍にとって戦時中もっとも苦戦を強いられ、高い評価を与えたのは八原の採った戦略持久戦術であったのは皮肉でしかなかった。 沖縄の地上戦終結後、軍司令官牛島大将、参謀長長中将の自決を見届けた後、軍命により沖縄を脱出するよう指示されたが、民間人に紛れての脱出行の最中に捕虜となり(この件もまた八原の評価を下げる一因となっている。)、終戦を迎えた。 |
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山下奉文 | ||||||||||||||
マレー進攻作戦の殊勲者。第二五軍司令官『マレー作戦司令官』として作戦を指揮する。 この作戦は戦史上にのこる大作戦であり、見事勝利した。 山下はこの作戦の成功をもって『マレー(馬来)の虎』の異名を取ることとなった。 レイテ作戦の時は第十四方面軍司令官として防衛戦を指揮、終戦までルソン島で指揮を取っていた。 |
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山田乙三 | ||||||||||||||
陸士14期 陸大24期 開戦時の防衛総司令官として本土・台湾・朝鮮半島の防空担当総司令官。 1944年(昭和19年)7月、東條大将が参謀本部総長から離れ、梅津大将が参謀総長に就任したことによって関東軍総司令官へと就任した。 その後満州防衛を担当し、終戦を迎える。戦後シベリアに抑留。 |
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山内正文 | ||||||||||||||
陸士25期 陸大36期 インパール作戦時に第十五師団師団長として参加した。作戦中にマラリヤに罹患し、また上官に当たる第十五軍司令官牟田口中将を批判した為、牟田口中将によって親補職である師団長にも関わらず解任されてしまった。 その後収容された兵站病院にて病死。 |
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山本健児 | ||||||||||||||
陸士28期 陸大35期 開戦時の第七飛行団長として南方作戦に参加。 1942年(昭和17年)12月より浜松陸軍飛行学校幹事(後に同校校長) 1944年(昭和19年)6月、第八飛行師団長心得。10月に中将昇進後、第八飛行師団長に親補。 第八飛行師団は台湾防衛に就いたが、米軍の飛び石戦法により後方に置き去りにされた為、沖縄航空戦では台湾方面より特攻攻撃を行い、そのまま終戦を迎えた。 |
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山脇正隆 | ||||||||||||||
陸士18期 陸大26期(首席) 1938年(昭和13年)に陸軍次官、1940年(昭和15年)には駐蒙軍司令官を務めたが、1941年(昭和16年)には参謀本部付きを経て12月に予備役となった。 1942年(昭和17年)9月より臨時召集によりボルネオ守備軍司令官として復帰。その後第三七軍に改編された後も同軍司令官としてボルネオ防衛の任務に就いていた。 その後1944年(昭和19年)12月に参謀本部付きとして本土に帰還。翌1945年(昭和20年)5月に召集解除となり、そのまま終戦を迎えた。 戦後、戦犯容疑にて拘束されるも無罪となった。 |
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横山 勇 | ||||||||||||||
陸士21期 陸大27期 開戦時の第四軍司令官。その後第十一軍司令官となり、桂林作戦に参加する。 1944年(昭和19年)11月、西部軍司令官となり、後に第十六方面軍司令官を兼任。西部軍管区司令官として終戦を迎えた。 |
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吉本貞一 | ||||||||||||||
陸士20期 陸大28期 開戦時の関東軍参謀長。1942年(昭和17年)8月より第一軍司令官となる。 1945年(昭和20年)2月、新編された第十一方面軍司令官となり、4月には第一総軍の指揮下に編入され、6月に第一総軍司令部付きとなった。 そのまま終戦を迎え、9月市ヶ谷台にて自決。 |
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若松只一 | ||||||||||||||
陸士26期 陸大38期 開戦時の参謀本部総務部長。 1942年(昭和17年)12月、参謀本部第三部長に就任。 1943年(昭和18年)10月、第四六師団師団長としてマレー方面に進出。 (余談だが、このとき進出せず本土に残された隷下の歩兵第一四五連隊は硫黄島に派遣され玉砕した。) 1944年(昭和19年)11月、南方軍総参謀副長に就任したが、本土決戦を目前にした翌1945年(昭和20年)4月に第二総軍参謀長となる。同年7月、事実上最後の陸軍次官となり終戦を迎えた。 |
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渡辺正夫 | ||||||||||||||
陸士21期 陸大31期 開戦時の第五六師団としてビルマ侵攻作戦と、援蒋ルート遮断を行った。 1942年(昭和17年)12月より陸軍科学学校校長に就任。 その後1944年(昭和19年)3月より第三二軍司令官に就任し、沖縄防衛陣地構築にあたる。だがこの際に沖縄県民の不安を煽ったとされ、8月に後任の牛島中将に職務を譲り参謀本部付きとなる。(10月に予備役編入) 1945年(昭和20年)4月に召集、大阪師管区司令官となり、そのまま終戦を迎えた。 |
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