戦隊編成(2)
太平洋戦争中の戦隊編成





第十一戦隊  
解説
ミッドウェー海戦での敗戦後、第一航空艦隊を改編して第三艦隊を編成する際に、第三戦隊を二つに分けて『比叡』『霧島』の2艦で編成された機動部隊直衛用の高速戦艦部隊として新編成された部隊である。
空母部隊と共に行動し、ソロモン海を駆け巡り、南太平洋海戦に参加。そして運命の第三次ソロモン海戦へと繋がっていく。

1942年(昭和17年)7月14日、連合艦隊の再編に合せて新編。
同月18日に『比叡』が横須賀を出向し呉に回航、呉に在った『霧島』と合流して8月16日に柱島泊地を出港、ソロモン方面に出撃する。ガダルカナル島に侵攻してきた連合国軍を迎え撃つべく空母機動部隊たる第三艦隊のソロモン方面への出撃が決定した為であり、第十一戦隊もまた出撃することとなった。そしてこの2艦が日本本土に戻ることは無かった。

8月24日、第二次ソロモン海戦が勃発。
急速に戦力を整えつつあるガダルカナル島の米軍に対し、味方の増援を待たずに陸軍一木清直大佐率いる一木支隊は威力偵察と称して単独で米航空基地攻撃を開始(21日)、そして潰滅する。
ガダルカナル島攻略の航空支援を担当する第三艦隊では南雲中将が23日に『カ号』作戦・作戦要領を発令、一部部隊を分派する。第十一戦隊は空母部隊・本隊と行動を共にし、第七戦隊第十戦隊と共に前衛部隊を編成、敵攻撃機の吸引と空母部隊の間接護衛を任務として戦闘に突入する。だがこの海戦では米機動部隊から発艦した攻撃隊を分派した空母『龍驤』が吸引する形となり、本隊は攻撃を受けなかった。
28日、トラックに帰投。以後戦局を見つつ訓練に従事する。
9月10日、第二次ガダルカナル島攻撃を担当する陸軍川口支隊(12日総攻撃予定→延期、15日に攻撃)を支援すべく第三艦隊も進出する。ガダルカナル島攻撃の川口支隊を支援していた機動部隊はツラギ南東330海里の距離に米機動部隊攻撃を企図しつつも待機していたが、陸軍の総攻撃失敗により、次期作戦に備えるべくトラック島に帰投した。(23日トラック島帰投)

続く10月11日、再びトラック島を出撃する。13日に予定されている第三戦隊(『金剛』『榛名』・栗田部隊)によるガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃作戦を支援する為である。第三戦隊他、各隊によるガダルカナル島砲撃作戦に続き、22日に予定されていた第三次ガダルカナル島総攻撃を支援すべく待機していた第三艦隊ではあるが、再び陸軍部隊の総攻撃開始日が延期を続け、24日、25日へと引き伸ばされていく。
そんな中発生したのが南太平洋海戦であり、第十一戦隊は第一航空戦隊の空母『翔鶴』『瑞鶴』を支援・敵機吸引と、対潜哨戒を目指し前衛部隊として本隊の南方60〜80海里に位置した。この分散配備により少なくとも米空母から発艦した攻撃隊の内、『エンタープライズ』(?)を発艦した攻撃隊の1つから攻撃を受け、本隊の間接援護に成功した。

10月30日、南太平洋海戦から帰投しトラック島に戻った第十一戦隊は、11月4日に前進部隊に編入された。
これは10月13日に実施された戦艦によるガダルカナル島砲撃作戦を再び実施すべしとの命令に基づき、第三戦隊同様高速戦艦を2隻を擁する第十一戦隊が指名された為である。9日には挺身攻撃隊としてトラック島を出撃する。
当初、今回の作戦は第三戦隊によるガダルカナル島砲撃作戦に端を発している。ガダルカナル島の陸軍部隊を支援する為に行われた戦艦による陸上基地・飛行場に対する砲撃作戦は当時の軍事常識から考えても苦肉の策であった。結果は砲撃そのものは成功であったが、事前情報収集の不徹底さから戦略的な面では成功とは言いがたかった。
連合艦隊司令部はガダルカナル島の陸軍部隊支援の為、再び戦艦部隊によるガダルカナル島米飛行場砲撃作戦を計画。その2度目の任務に指名されたのが『比叡』『霧島』を擁する第十一戦隊であった。
本来機動部隊(第三艦隊)の直衛を主任務とする第十一戦隊ではあったが、この作戦を行うに辺り、一時的に第二艦隊の指揮下に編入され、ガダルカナル島砲撃作戦に就いたのである。
第十一戦隊のガダルカナル島突入は11月13日を予定された。

11月12日夜、ガダルカナル島に接近した第十一戦隊だったが、スコールに遭遇し、砲撃における変針目標であるサボ島を発見出来ずにいた。司令官阿部弘毅中将(11月1日付、中将に昇進)はこの状況下では砲撃は不可能と判断、22:05に挺身砲撃隊に転進を命じる。だが直後の22:13に天候が回復しサボ島を確認出来た為、砲撃を決意、22:38に砲撃発動を下令する。

23:24 米軽巡洋艦『ヘレナ』がレーダーでサボ島南岸水道から接近する日本艦隊を捕捉、ガダルカナル島に輸送船団を護衛して入泊していたダニエル・キャラガン少将の巡洋艦部隊(キャラガン少将の部隊と、ノーマン・スコット少将の巡洋艦部隊の合同部隊)が迎撃に向かう。
23:30 挺身隊(第十一戦隊)、サボ島南岸を通過。
阿部中将が飛行場砲撃を発令。
23:37 キャラガン少将の部隊が日本艦隊の針路を押さえるべく北上を開始。

キャラガン部隊の先頭と挺身隊前衛の駆逐艦同士が接触、これにより隊列の乱れたキャラガン部隊であったが、射撃命令発令により単縦陣で日本艦隊中央部に突入する形となった。
一方、前方9,000mに敵艦4隻を視認した阿部中将は目標を変更し、左に変針しつつ砲撃戦を開始する。

23:48 『比叡』の探照灯が照射するのと同時に主砲を発射。飛行場砲撃用の三式弾ではあったが、これが米軽巡洋艦『アトランタ』に直撃、座乗していたノーマン少将が戦死。同艦は上部構造物が大火災を発生した上、魚雷2発が被雷し戦闘不能となる。(後に自沈処分)

キャラガン部隊各艦も同時に砲撃を開始し、探照灯を灯した『比叡』に砲撃が集中した。
至近距離からの砲撃により上部構造物の大半が破壊され、操艦・射撃指揮が行えなくなる。さらに操舵機械室に命中弾を受け浸水、操舵不可能となった。これが『比叡』の致命傷となる。
同様に混戦状態の中、『霧島』も砲撃戦を続行。キャラガン部隊旗艦、重巡洋艦『サンフランシスコ』の艦橋に命中した『霧島』の主砲弾は指揮官キャラガン少将を戦死させた。

00:26 米艦隊が戦場を離脱する。
戦場突入時に重巡洋艦×2隻、軽巡洋艦×3隻、駆逐艦×8隻であった米艦隊だが、離脱出来たのは重巡洋艦×1隻、軽巡洋艦×2隻、駆逐艦×3隻だけであった。
00:30 『霧島』が飛行場砲撃中止を報告し、サボ島沖から離脱を開始する。

明けて13日、『比叡』は操舵不能のまま左に転舵し続け、サボ島沖にあった。
朝からの航空攻撃により爆弾×3発、魚雷×1発を受けいたが、機関部は以前健在のままであった。
阿部中将は『比叡』の命運尽きたとし、ガダルカナル島に座礁させ陸軍に砲撃協力させようとしたが、艦長の西田正雄大佐は全力で『比叡』を救出しようとした。『比叡』は太平洋戦争に参加した戦艦の中でも艦齢20年を越す老朽艦なれど、30ノット以上の高速を発揮する有用な戦力であった。
なにより見かけほど艦内は酷くなく、乗組員の士気も高かったのである。阿部中将の再三の自沈(座礁)命令にも決心が付かず、復旧作業に当たっていた。
だが『主機械室使用不能』の報告によりついに自沈を決意する。尚、この『主機械室使用不能』は後に誤報であったと判明したが、判明したときには既に自沈処置は終えており、既に手遅れであった。

この海戦を『第三次ソロモン海戦(12日夜戦)』といい、同海戦の第一ラウンドであった。そして第二ラウンドが14日に開始され、その海戦に残された『霧島』が突入していくこととなる。

12日の挺身部隊(第十一戦隊)によるガダルカナル島突入に失敗した連合艦隊では輸送船団のガダルカナル島突入を14日に延期し、第二艦隊(近藤部隊)に再度のガダルカナル島砲撃を命じる。
13日夜、第七戦隊(西村祥治少将)・他の南洋部隊支援隊がガダルカナル島ルンガ泊地に突入し、砲撃に成功するが、決定打には程遠く、敵飛行場は依然活動中であった。
近藤中将は再度ガダルカナル島砲撃を試み、第十一戦隊の『霧島』も再び砲撃任務に参加することとなった。
14日夜にガダルカナル島突入を目指した攻撃隊は14日14:00頃、哨戒中の米潜水艦『トラウト』に捕捉される。米海軍はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場の死守命令を受け、戦艦『サウスダコタ』『ワシントン』の2隻を中心とする第64任務部隊(指揮官:ウイリス・リー少将)が、待機中のガダルカナル南方海域から急遽現場に急行する。

11月14日
19:30 ソロモン方面水上機部隊であるR部隊の哨戒機が『巡洋艦2隻、駆逐艦4隻』発見を報じる。
19:33 米艦隊に捕捉されたと判断した近藤中将は艦隊に対し戦闘を下令。
20:00 別働の掃討隊に所属する駆逐艦『綾波』が敵らしき艦影を発見。
以後、各艦から敵発見の報が相次ぐ。
20:31 旗艦『愛宕』も敵影発見を報じ、指揮下の掃討隊(橋本信太郎少将指揮下の第三水雷戦隊基幹)に米艦隊の対応を命じる。
直卒する射撃隊(『霧島』を含む)はサボ島南岸を通って飛行場砲撃を目指した。
20:52 米戦艦『ワシントン』のレーダーが接近する日本艦隊を捕捉する。

21:07、掃討隊の軽巡洋艦『川内』からの通報により米艦隊の針路が西進し、射撃隊と交差する針路だと判断した近藤中将は、『霧島』他の射撃隊に対しサボ島北岸を通過する針路に変更を命令する。一方護衛任務の直衛隊(木村進少将指揮下の第十戦隊基幹)の部隊を分派し、敵艦隊の頭を抑へ、掃討隊と共に挟撃するように指示する。

21:17、米戦艦からの砲撃により日米の艦隊は交戦を開始する。一方、『霧島』以下の射撃隊はサボ島西方にあって、戦闘が終了するまで待機していた。途中、自軍のの輸送船団を発見し、これを護衛するが、その間に『愛宕』『高雄』が敵戦艦らしきものを発見した。この時点でも近藤中将は敵戦艦を巡洋艦と誤認していた。
『綾波』からの報告により海戦は自軍の有利な展開になっていると判断した近藤中将は射撃隊にガダルカナル島砲撃を命じ、艦隊の針路を南東に向ける。
途中『長良』が『米戦艦2隻』の存在を報じてきたが、近藤中将はこれを信じなかった。(本海域(水道)は狭隘で戦艦が行動するにはまったく適した海域とは言えず、本来連合艦隊が金剛級戦艦を投入したことさえ無謀といえる作戦であった。)

22:00、射撃隊ではようやく敵艦隊が戦艦を含む艦隊であると気付き、攻撃目標を敵艦隊に変更する。
双方6,000mの至近距離での砲撃戦となり、『愛宕』からの探照灯を受けた『サウスダコタ』は集中砲撃を受け、上部構造物が大破炎上し戦線を離脱していく。
一方、単艦で残された『ワシントン』はレーダーで大型艦を捕らえるも、前方の『サウスダコタ』と判別が出来ず、攻撃出来ずにいた。そこに探照灯の照射を受けたことにより『サウスダコタ』の位置が確定した結果、『ワシントン』では日本艦隊の大型艦に対しレーダー射撃を開始した。この大型艦こそが『霧島』であった。
8,000mの距離から射撃を開始した『ワシントン』によって、攻撃開始から僅か7分間で『霧島』は戦闘不能に追い込まれた。航行不能・操舵不能に追い込まれた『霧島』は乗組員の必死の消火活動にも状況は好転せず、総員退去の後、15日01:25に沈没した。

第三次ソロモン海戦の2度に渡る海戦により第十一戦隊は保有する2隻の戦艦を失った。それは日本海軍最初の戦艦喪失であった。
司令官、阿部弘毅中将は戦艦2隻喪失の責任を問われる形で予備役に編入され、戦隊は1942年(昭和17年)12月20日に解隊となった。

 
所属艦艇
1942年(昭和17年)7月14日 新編(司令官:阿部弘毅少将(39期))※1942年11月1日付け、中将に昇進
比叡(旗艦) 霧島                                          

1942年(昭和17年)12月20日 解隊



第十二戦隊            
解説
太平洋戦争開戦前の1941年(昭和16年)11月20日に解隊。
解隊時の編制は海防艦(旧『出雲』級装甲巡洋艦)『磐手』と第十一水雷隊(所属艦は鴻級水雷艇『雁』『鷺』『鳩』の3艦)であり、第三遣支艦隊司令長官直卒戦隊であった。


太平洋戦争中は欠番





第十四戦隊
解説
初代
第十四戦隊は日華事変当時、一時的に編制された戦隊であり、元々は大陸駐留艦隊である第三艦隊司令部として編成された第十戦隊(初代)である。艦隊旗艦『出雲』が単艦で艦隊旗艦を努める様になると余剰戦力となった天龍級軽巡洋艦2隻で第十四戦隊を編制し、第四艦隊の指揮下に移動した。
その後、再び第三艦隊の指揮下に戻った際に第十戦隊と改称した。(同戦隊はその後第五艦隊に移籍し、解隊となっている。)
  
2代(太平洋戦争時)
寄せ集め戦隊というのが実情である。軽巡洋艦『五十鈴』『那珂』共に損傷した艦を集めて編制した戦隊であり、輸送任務に従事した。
その後『那珂』が1944年(昭和19年)2月のトラック空襲の際に沈没し、残った『五十鈴』の改装が決定した為に解隊となった。
1943年(昭和18年)4月1日(新設) 〜 1944年(昭和19年)3月4日(解隊)
 
所属艦艇
1943年(昭和18年)4月1日(司令官:伊藤賢三少将(41期))
那珂(旗艦) 五十鈴


1944年(昭和19年)1月(司令官:清田孝彦少将(42期))
那珂(旗艦) 五十鈴


第十五戦隊
解説
第二遣支艦隊司令部戦隊として1939年(昭和14年)11月に編制された戦隊。(戦隊司令官は無く、第二遣支艦隊司令長官直卒戦隊)
その為重巡洋艦『鳥海』と砲艦・水雷艇で構成されていたが、太平洋戦争開戦に伴ない『鳥海』が南遣艦隊に移籍。代わりに軽巡洋艦『五十鈴』を旗艦として編成されていた。

開戦前には中国沿岸封鎖に従事し、開戦時には香港攻略作戦支援に参加。その後同方面の警戒任務に従事。『五十鈴』は翌年月末〜2月には馬公〜シンゴラ間の陸軍輸送船団の護衛に従事するが、その後は各艦整備に入る。
開戦後まもなく第二遣支艦隊は水上艦艇の殆どを連合艦隊に移し、香港を拠点とした根拠地隊を中心とした部隊に再編されたため、司令部戦隊である第十五戦隊は1942年(昭和17年)4月20日、解隊された。

所属艦艇
1941年(昭和16年)12月 開戦時(第二遣支艦隊司令長官直卒)
五十鈴(旗艦) 橋立 嵯峨 第二掃海隊


第十六戦隊
解説
開戦時には第三艦隊司令部直卒戦隊としてフィリピン攻略作戦支援に従事し、12月19のリンガエン上陸作戦支援にも参加する。
1942年(昭和17年)1月5日、『球磨』が第三南遣艦隊に編入され、戦隊を離れる。
『足柄』『長良』は蘭印侵攻作戦支援に参加するが、1月25日に『長良』が駆逐艦『初春』と触衝し、小破となる。その為、ダバオに入港し、応急修理を行う。
その後『長良』はマカッサル攻略戦、バリ島攻略戦に参加。『足柄』はジャワ攻略戦、スラバヤ沖海戦に参加する。
3月10日、第三艦隊が第二南遣艦隊に改編。併せて『足柄』が戦隊を離れて艦隊旗艦になる。(元々第三艦隊旗艦) その為、『名取』『鬼怒』がそれぞれ第十六戦隊に編入された。その後クリスマス島攻略作戦支援に参加。『鬼怒』はニューギニア各地の攻略掃討作戦に従事する。
4月1日、被雷し航行不能となった『那珂』を曳航する為に『名取』が曳航し、バンタム湾に回航する。
4月10日、『長良』が新設された第十戦隊の旗艦となる為に戦隊を離れる。代わりに解隊されることとなった第十五戦隊から『五十鈴』が編入されることとなった。
5月20日、『足柄』が4月10日に南西方面艦隊旗艦となった為、第十六戦隊は再び第二南遣艦隊司令部戦隊となり、『名取』が同艦隊旗艦となった。


所属艦艇
1941年(昭和16年)12月 開戦時
足柄(艦隊旗艦) 長良 球磨
1942年(昭和17年)4月10日
名取(旗艦) 鬼怒 五十鈴


第十七戦隊
解説
所属艦艇
1941年(昭和16年)12月 開戦時


第十八戦隊
解説
所属艦艇
1941年(昭和16年)12月 開戦時


第十九戦隊
解説
所属艦艇
1941年(昭和16年)12月 開戦時


第二一戦隊
解説
所属艦艇

第二二戦隊
解説
所属艦艇


第二四戦隊
解説
所属艦艇


第三一戦隊
解説
所属艦艇

第五一戦隊
解説
所属艦艇


第一〇二戦隊
解説
1944年(昭和19年)11月15日に編制された船団護衛専門部隊。
従来『臨時護衛船団司令部』という司令部のみの組織だったものを、護衛総隊の主張により実現した専属部隊である。


『海上護衛戦』P314
司令官:渋谷紫郎少将
所属艦艇


第一〇三戦隊
解説
第二二戦隊(司令官:久宗米次郎少将(41期))
所属艦艇


第一〇四戦隊
解説
所属艦艇


第一〇五戦隊
解説
所属艦艇