用語事典
[条約・法律・その他]
      
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海港虎列刺病伝染予防規則[1879年(明治12年)7月14日公布]
コレラ(虎列刺)病の伝染予防規則。
日本が欧米列強に対し開国したことにより発生した問題の一つが検疫である。
開国により問題が発生したのが国内で発生する様になった急性感染症の蔓延である。疾病が流入・拡散する事により国内は問題を抱えていくようになるのだが、その経路は港を始めとする物流であり、諸外国との貿易であった。
もちろん開国以前より同様の問題は発生しており、長崎の出島や唐人屋敷に出入りするオランダ人、中古愚人に対しては、長崎奉行所による健康診断行われていたが、検疫に関する大問題が発生したのがコレラの蔓延てあった。
明治政府は諸外国の検疫の実例等を調べ、海港虎列刺病伝染予防規則を定めて開港場に寄港する船舶に対し検診・停船措置等を開始するが、当時諸外国と結ばれていた不平等条約によって実効性が乏しく、有効な手段とはなりえなかった。
日本の法令が外国人に対し意味をなさなかった為である。日本側の検疫に対し従うか否かは外国人側の判断にゆだねられていた為である。
結果、海港虎列刺病伝染予防規則、後に改称し『検疫停船規則』に対して、ほとんどの国が拒否、そして強制入港する様になった。

7月14日は後に検疫記念日に制定される。
     
学制[1872年(明治5年)9月5日]
日本最初の近代的学校制度。明治5年太政官布告第214号
後に教育令(1879年(明治12年)公布)が布告され、廃止となる。
     
カサブランカ会談[1943年(昭和18年)1月14日]
米国大統領ルーズベルトと英国首相チャーチルが第2次世界大戦の終結条件を無条件降伏と定めた会談。
(以後詳細は後日記載予定)
   
火葬禁止令[1873年(明治6年)7月18日]
(太政官布告第253号)
神仏分離令に関連して布告するも、仏教徒及び衛生面からの反対により翌年廃止。
     
貨幣法[1897年(明治30年)10月1日]
金本位制を基本とした戦前の法律。
貨幣の製造・発行に関する事項を定め、これにより以前の新貨法・貨幣条例は廃止された。
以後、1988年(昭和63年)3月末まで続き、金本位制を継続することとなる。

元々日本では金銀複本位制であったこと、アジア圏では銀本位制であったこともあり、金本位制は名目だけであった。
だが世界的に銀の増産に伴う銀の価値下落もあり、各国が金本位制への移行していく中、事実上銀本位制であった日本の通貨(円)は下落傾向にあった。その為金本位制への移行が急がれたが、其の為には莫大な準備資金を必要とした。
だが日本にもその機会が訪れた。
日清戦争による勝利による軍費賠償金であり、また三国干渉による遼東半島還付報奨金・他の莫大な資金である。大蔵大臣 松方正義(当時)は賠償金の受け取りを金で行うべしと内閣に草案提出、これを受け金3800万ポンド(当時)の金を受け取ることが出来た。
これにより日本は金本位制へと貨幣改革を進めていくこととなる。
                    
教育令
 [第一次:1879年(明治12年)9月29日公布]
 [第二次:1880年(明治13年)12月28日公布]
 [第三次:1885年(明治18年)8月12日公布]
1872年(明治5年)に公布された学制に代わって制定された教育に関する太政官布告。

元々欧米の教育制度を模範にしたが、国内情勢や文化的違いから全国で統一して実施する事が困難であり、また地方自治体が学校経営の財政負担に喘いでいた為、学制の廃止を行い、新たに教育令を公布した。
これにより教育は地方自治に委ねられることになる。また従来の学区制を廃止し、町村を小学校の設置基準とした。
就学義務は最低16ヶ月としたが、緩和規定により学校に入学せずとも普通教育を受ける方法があれば就学とみなすことが出来た。
公立小学校は8年制(上限、最少は4年)とし、公立校に代わって私立校であっても良しとされた。

だが、上記の方法では教育の後退が起こり、児童の就学率は減少した。また経費削減の為、廃校になる学校も現れ、翌1880年(明治13年)に第二次教育令が公布される。
この改正により教育令は地方から国家に権限が戻り、国家の統制と政府による干渉が始まった。
従来の学校に加え、農学校・商業学校・職工学校が追加され、師範学校(教員養成学校)の設置義務も明確にされた。教育行政には文部卿の認可が規定された。また府知事・県令の権限も強化された。
就業義務は小学校3年間が明確に規定され、修業年限を3年〜8年に定められた。
※小学校8年=初等科3年+中等科3年+高等科2年の計8年
※中学校=小学校中等科卒業が入学資格。初等中学科2年+高等中学科2年の計4年

1885年( 明治18年)、再び教育令が改正される。
地方の経済的不況により就学率が低下し、さらに国庫補助金の廃止によって深刻な打撃を受けた為、地方の教育費削減を図ることを目的に改正が実施された。
これにより地方の実情に合わせた簡易教育が実施されるようになった。
              
金属類回収令[1941年(昭和16年)8月30日公布 同年9月1日施行 1943年(昭和18年)8月13日全部改正
戦局の悪化と、物資の不足により金属資源を国内外から回収し、特に武器生産にまわした法律であり、国家総動員法に基づき実施された。
以前より鉄鋼の配給規則が制定されていたが、それだけでは不足する金属資源を賄えず、不要不急の金属類、マンホール・柵、火鉢に至るまで官公庁等により回収されていたのだが、これは任意によるものであったため法律的な強制はなかった。
それを法的に強制しようとしたのが金属類回収令である。この法の施行により家庭からも不要な金属類が根こそぎ回収されることになった。
さらに1942年(昭和17年)からは各県ごとに資源特別回収実施要綱を定めて大々的な回収を実施する。これにより神社・寺院・教会からも金属の回収が実施されるようになった。
          
芸娼妓解放令[1872年(明治5年)11月2日]
人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件(明治5年10月2日太政官布告第295号)
通称:芸娼妓解放令 又は遊女解放令

マリア・ルス号事件に絡んだ人権問題の解消の為に出された法律。これにより年季奉公人の遊女たちが開放されることとなったが、売春そのものが禁止にはなっていない。
また、本人の自由意思による私娼なり遊女なりに戻ることは禁止されておらず、事態はあまり変わらなかったともいう。
ただ貧困による娘の身売りは防がれたとするが、その代わりに工場への奉公が進められるようになり、これが女性の工場制手工業への基盤形成に取り入れられた。
         



    
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新貨条例[1871年(明治4年6月27日制定 1875年(明治8年)6月25日公布 1897年(明治30年)10月1日廃止]
近代日本最初の貨幣法。
貨幣単位として『円・銭・厘』を正式採用した。
1875年6月25日、貨幣条例として改めて公布。
1897年10月1日、貨幣法の公布により廃止。
       
船舶改善助成施設
所謂『スクラップ・アンド・ビルト』である。
昭和初期、日本の船舶事情は欧米に比べ老朽化した旧式船舶が多く、早急な近代化が必要な時期であった。
また当時は第一次世界大戦後の不況もあり新造船の数も少なく、さらに中国大陸で発生した散発的な紛争や満州問題も有った時期である。その為1932年(昭和7年)より政府による助成金制度が開始された。(第一次〜第五次船舶改善助成施設)
老朽船の解体費と新造船に対し補助金を出すこととなった為。各船舶会社は新規建造を始めたが、この制度には政府による条件があり、助成施設を受けた船舶は戦時には軍に優先的に徴用されるという暗黙の了解があり、これにより建造された船舶の多くが日中戦争で軍に徴用されることとなった。
    
サンフランシスコ講和条約[1951年(昭和26年)9月8日]
第二次世界大戦以来の戦争状態を終結させるためにサンフランシスコで調印された日本と連合諸国との講和条約(『日本国との平和条約』)である。
この講和条約により正式に第二次世界大戦は終結した。

【詳細はこちら】
    
集会条例[1880年(明治13年) 4月5日公布 1882年(明治15年)改正]
明治13年4月5日太政官布告第12号。
集会・結社の自由を規制した法律であり、自由民権運動を圧迫した法律。後に改正され、更に規制強化が行われた。
この条例により民衆を集めて政治に関する講談や議論を行うことは3日前までに所轄警察署に届け出て、許可を得る必要が有り、会場も屋内限定であった。
警察に監視され、公安上問題ありとすれば解散を命ぜられることもあった。
また集会への参加にも制限が有り、陸海軍軍人、教員・生徒、警察官は集会への参加を認められなかった。

政党の結党が進められると集会も盛んになり、それに合わせて政府による取締りは強化され、条例も改正された。
この条例に伴う政府の規制は苛烈であり、自由党は解散に追い込まれた。

1890年(明治23年)、集会及政社法の公布により集会条例は消滅し、規則(集会の制限等)は引き継がれた。
      
食糧管理法[1942年(昭和17年)2月21日制定]
食糧管理法施行令[1942年(昭和17年)7月1日実施]
食糧の生産・流通・消費にわたって政府が介入して管理し、食糧の需給と価格の安定を目的とした法律であり、特に戦時下での国内外での米の流通確保が目的である。
この法律は太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に始まった法律だが、戦後の不景気を乗り越えるためにも必要とされた。
1950年代には食糧不足は一段落したものの、法律そのものは1995年(平成7年)に廃止されるまで続き、その後は『主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律(食糧法)』に引き継がれた。

政府による食糧流通に関する法律は1921年(大正10年)の『米穀法』が始まりであり、その後1933年(昭和8年)の『米穀統制法』に発展する。この法律により米穀の最高価格・最低価格が公定され、また輸出入制限が常時実施されるようになった。
その後1936年(昭和11年)の『米穀自治管理法』、1939年(昭和14年)の『米穀配給統制法』を経て、『食糧管理法』が制定される。これにより米穀の流通から販売までが全て政府により統制されることとなった。
        
戦時災害保護法[1942年(昭和17年)2月24日公布]
同法は軍人とその他一般国民を区別することなく、すべての戦時災害において家族や遺族を援護するというものである。
第一次世界大戦以後は国家一丸となり戦争に邁進する総力戦の様相となっているため、既に戦場と銃後むという区別があいまいに…いや、区別が無くなっていた。その為国内全てが戦場となる可能性がある為、兵士達が前線で全力を尽くせるように、銃後に残される者たちにも保護を与えるという目的で制定された。
また全ての国民に対し国内が戦場になった場合、全国民が戦いに命を掛けることを強要する為、その救済措置として規定されている。

同法は戦後、GHQの命令によって1946年(昭和21年)9月に廃止となった。だがその後は1952年(昭和27年)に制定された『戦傷病者戦没者遺族等援護法』がこれに代わって補償を開始する。同法の対象は『軍人軍属及びその遺族』に対するものであった。
      
船舶保護法[1941年(昭和16年)3月17日 (改正1942年(昭和17年)2月)]
従来船舶保護に関する立法化が遅れていた日本ではあったが、国際情勢の緊迫化によって法整備の必要性が増してきた。その為1940年(昭和15年)10月頃から海軍が中心になって法整備が進められた。
窓口になったのは海軍省兵備局第三課であり、逓信省、陸軍、司法各省との折衝を重ねて1941年(昭和16年)3月17日に制定された。
当初海軍は運行統制と護衛とを不可分のものとする必要を認め、本法によって船舶運行の統制も出来るように規格したが、民間側からの反対によって海軍の指示等を最小限度にとどめることを要望し、結果『航路の指示』『編隊航行に必要な最小限度の物件の備え付け』程度のことをなしうるにととまった。
   
船舶保護法
     
地租改正法[1873年(明治6年)7月28日]
租税制度改革
日本初の土地の私的所有権確立であり、土地制度改革の面が強い。
     



      
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地方新三法[1878年(明治11年)7月22日公布]
明治政府が制定した地方制度関連法。
    群区町村編制法(明治11年太政官布告第17号)
    府県会規則(明治11年太政官布告第18号)
    地方税規則(明治11年太政官布告第19号)
上記三法(三新法)と、関連法をさす。
西南戦争後も農民一揆が多発し、また自由民権運動が拡大したこともあり、政局を安定させるために地方改革が必要不可欠と判断し、内務卿 大久保利通によって発案された。
元々地方を中央政府の延長として指導していく予定だったが、実際にはこれに失敗。その反省から一定の地方自治を認め、それを法定したものである。ただし、当時の地方自治はそれほど権力が有るわけではなく、集権的地方制度であった。だが地方自治体に議会制の前身となる府県会設置など、確実な前進となった。
これにより地方自治が始まったといえる。
      
度量衡取り締条例[1875年(明治8年)8月5日公布]
1875年(明治8年)8月5日、公布(明治8年8月5日太政官第135号)
近代日本初の度量衡法規である。これにより尺貫法を統一を実施。
1尺=30.304cm
1891年(明治24年)、度量衡法制定によって廃止された。
    



    
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日韓条約
朝鮮併合のために結んだ条約の一つ。
そして結ばなけりゃ良かった条約の一つ。
教育を行き渡らせ、インフラ整備し、外敵から防御したにもかかわらず、悪く言われ、膨大な国費を使い、無駄だったとしか思えない条約の一つ。
     
日ソ中立条約
外相松岡洋右がスターリンと酒飲んで肩組んで、『我々は同じアジア人だ』などと煽てられて結んだ条約。挙句終戦間際には一方的(?)に破棄されて背後を付かれ、敵となっていろいろと奪い去っていった。
結ぶんじゃなかった条約の一つ。まぁそうとは言い切れないかも知れないけど・・・
    
日独伊三国同盟



日独防共協定



日米通商航海条約
1858年7月29日(安政05年06月19日)に結ばれた『日米修好通商条約』は日本が外国と結んだ最初の条約である。
神奈川・長崎・函館・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市などが決められ、輸入関税率の協定制度・領事裁判権・一方的で無条件の最恵国待遇など、不平等な条項が盛り込まれた条約であった。
この条約は、1899年7月に日米通商航海条約が発効するまで存続した(日米通商航海条約の調印は1894年)。
この条約によって、日本はやっと米国の治外法権を撤廃・関税自主権を回復することとなる。だが1939年(昭和14年)7月26日、米国は条約破棄を通告、翌1940年1月26日に条約は失効した。
   



    
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兵役法改正[1943/11/1]
兵役を45歳まで延長とする法改正。
これは1927年(昭和2年)に制定された兵役法により満20歳の全員(男子のみ)の検査に加えて召集による兵役がある。そして1943年の改正で上限年齢を満45歳(従来は満40歳)と改正した。45歳になるまで、何度でも召集が可能となる為、人によっては2度も3度も軍に召集されることとなる。
  
平民苗字許可令[1870/10/13]
大蔵省主導による苗字政策の転換。
幕府により認められていた平民の苗字を禁止していたが、これにより認められるようになる。
後に義務化される。(1875年 平民苗字必称義務令
      
平民苗字必称義務令[1875/2/13]
明治8年太政官布告第22号
平民苗字許可司令(1870/10/13)で全ての国民に苗字(姓)を名乗ることを許可したのだが、当時の国民にはあえて苗字を使用しないものが多数いた。その為、改めて国民に対し苗字(姓)の使用を義務付ける様に布告された。
      
ポツダム会談[1945/7/17〜8/2]
ポツダム宣言
(後日記載)
  



    
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ヤルタ会談[1945/2/4〜2/11]
(後日記載予定)



     
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