主要人物事典

日本国内の軍人以外の人物に関する資料です。
政治家・技術者といった方々を纏めました。



      
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北一輝
木戸幸一
元老 木戸孝允の孫にあたる。
元老 西園寺公望近衛文麿などの信望を得て、1940年(昭和15年)6月より内大臣となり、昭和天皇の第一の側近であった。木戸は自分の立場を天皇への助言者と位置づけ、その上で日本を取り巻く状況を鏡のように映し出して天皇に見せるのが責務と考えていた。
終戦工作の時期には実際に動くことの出来ない天皇の手足となって要人らと会見を重ね、戦局の収拾に動いた。当時バラバラであった終戦工作を行おうとして者達の触媒となったのが木戸であった。
戦後、木戸は戦犯容疑者(A級戦犯)として逮捕される。天皇の側近であり、全てを知っている人間としていずれは逮捕されるであろうことを予期していた木戸であったが、天皇の身代わりになれるのだから実に光栄だとも思っていた。
極刑を覚悟していたが、判決は終身禁固刑であり、昭和30年に仮釈放された。

昭和史上もっとも貴重な資料ともいえる『木戸幸一日記』を世に残した。これは昭和5年から昭和20年までの記録であり、いかに昭和天皇時局の動きに敏感で国際的な視野にたって適格な判断をされていたかが分かる資料である。これにより天皇が決して好戦的な考えの持ち主でなかったかが明確に記してあり、天皇が戦犯として裁かれることも、また木戸自身も極刑にされることはなかった。
       
来栖三郎
東京高商(現:一橋大学)卒業後外務省に入省。駐ベルギー大使、ドイツ大使を歴任した。そてドイツ大使時代に三国同盟を締結・調印した。このことが来栖の将来に大きなハンディとなって背負うこととなった。
太平洋戦争開戦間近な昭和16年11月、外務大臣東郷茂徳から突然の呼び出しを受ける。特使として米国に行き、行き詰った日米交渉の妥協案を模索してほしいとのことだった。しかも交渉の為の時間は1ヶ月、その上米国までの移動日数を考えれば僅か2週間しかないという過酷なものであった。
来栖は野村吉三郎駐米大使を補佐しつつルーズベルト大統領やハル国務長官と会見を重ねた。
だが来栖が三国同盟に調印した人物であるということを米国側では快く思わなかった。その為、交渉では常に三国同盟がネックになったのである。そして交渉は平行線のまま悪化し、独断で判断した妥協案も却下され、ついにハル・ノートが手渡された。これにより日米交渉は閉ざされたのてある。
太平洋戦争が開戦となり、来栖は6ヶ月抑留生活を送った後失意のまま日本に帰国した。
     
近衛文麿
1937年(昭和12年)第34代内閣総理大臣に就任。
1940年(昭和15年)第37代内閣総理大臣に就任。
1941年(昭和16年)第38代内閣総理大臣に就任。





    
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西園寺公望
(後日記載予定)
   
迫水久常
岡田啓介の娘婿
二・二六事件の際、襲撃された岡田首相の秘書官であり、首相官邸裏門前の秘書官官舎にて銃声を聞き首相官邸に向かった。そこで目にしたものは首相を襲撃した兵士達であった。せめて遺体に合掌をと首相の寝室に向かったところ、殺害されていたのは岡田の義弟(妹の夫)である松尾傳蔵大佐であった。その後官邸内の女中や警護の陸軍曹長他数名と協力し、襲撃を免れた岡田首相を無事脱出させることに成功した。

昭和20年8月の終戦を目前に控えた時、鈴木貫太郎首相の秘書官長であった。終戦の詔勅作成に奔走し、天皇のお言葉を録音した所謂『玉音盤』をめぐって近衛第一師団が起した玉音盤事件(宮城事件)の際に首相官邸で官邸職員に対し冷静な対応を指示した。
鈴木首相は前夜私邸に引き返しており、事件の際には不在であった。

迫水は首相官邸で行われた2回の襲撃事件に直接現場いて采配を振るうという稀有な体験をした人物であった。
    
重光 葵
東條(改造)内閣小磯内閣、そして終戦直後に成立した東久邇宮内閣で外務大臣を務め、日本の戦争末期から終戦始末までを引き受けた人物である。
ポツダム宣言受諾における東京湾上の米戦艦『ミズーリ』での降伏文書調印式には日本側主席全権大使として参加、署名した。
極東国際軍事裁判ではA級戦犯として指名され、禁固7年の判決を下された。
   



      
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土井武夫
川崎飛行機の第一設計課長として陸軍戦闘機『三式戦闘機・飛燕』を設計。
戦後、国産初の旅客機YS−11の設計に携わっている
    



    
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中島知久平
海軍機関学校を卒業、後に横須賀海軍工廠の飛行機工場長を務めたのち大尉で退官している。飛行機の未来を信じ、自ら飛行機研究所を創設。これがのちの中島飛行機である。
戦時中は軍用機業界で大発展し、敗戦直前には一時国営企業に転換された。
さらに政界にも進出、昭和5年より衆議院に当選し総裁代行委員にも就任、他に近衛内閣で内閣参議・翼賛会顧問、戦時中は翼政会・日政会各顧問、敗戦後には極一部の機関とはいえ軍需相を、その後商工相に就任した。
    



    
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平沼騏一郎
1939年(昭和14年)第35代内閣総理大臣に就任。
岡山県出身。帝大卒業後事、東京控訴院部長を経て検事・司法次官・検事総長・大審院長と転じたのち第2次山本内閣にて法相に就任する。その後枢密院議長から第1次近衛内閣のあとをついで内閣を組閣する。
首相就任中に『日独伊3国同盟締結』『ノモンハン事件』『独ソ不可侵条約』が締結されるなどしたのち総辞職した。
総辞職する際の迷言(?)が『複雑怪奇』
戦時中は東條内閣倒閣・終戦工作を推進。
戦後A級戦犯として『終身禁固』の判決を下されるが、服役中に病死した。
廣田弘穀
1936年(昭和11年)第32代内閣総理大臣に就任
北一輝
本名は北輝次(のちに輝次郎)であるが、中国の革命運動に参加し中国人革命家との交わりを深めるなかで、いつしか中国風の名前「北一輝」を名乗るようになったという。尚、彼の名前は、普通「きたいっき」と読まれているが、正しくは「ほくいっき」と読む。右目は義眼。このことから「片目の魔王」の異名をとる。

(Wikipediaより無断引用・後で書き直し予定)



    
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松岡洋右
第二次近衛内閣の外相であり、国際連盟脱退、日独伊三国同盟締結・日ソ中立条約と日本の針路に大きな影響を残した。
こうした業績を国民は英雄として歓喜を上げて迎えたが、やがて立場が暗転し、外交の失敗を責められ、敗戦と同時に戦争責任を問われるようになった。(A級戦犯に指定
多くの謎と期待の毀誉褒貶を体現した外交官であった。
   



     
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