第三〇二海軍航空隊 誕生秘話(笑)
 

元々首都防空戦闘用の航空隊編成は当時さほど熱心に勧められた訳ではなかった。首都近郊には横須賀航空隊が存在し、厚木航空隊やその他航空隊も存在していた。なにより当時は空母機動部隊も健在であり、トラック諸島に空襲を受ける前の為、ドーリットル空襲の件があったとはいえ、本来本土防空は陸軍の管轄であり、それほど必要性と急務を感じてはいなかった。

しかし、昭和19年3月の段階での開隊となったのはいろいろと複雑な事情が絡んだ為であった。元々横須賀航空隊の要撃戦力自体は少ないものであったし、他の航空隊は横須賀鎮守府直属の部隊ではなく、いずれ北方に進出する予定の航空隊と練成のための航空隊が殆どであった。その為、横須賀鎮守府と軍港・施設を守るには専属の防空航空隊を新設するのが手っ取り早かったのである。

そこに小園安名中佐の存在があった。斜め銃万能論を持ち出し、航空本部入りを希望していたにも拘らず、これを果たせなかった小園中佐の為に適当なポストを用意する為にだった可能性が高い。
つまり海軍全体への影響が少なく、中央から動静を監視しやすいポスト。
実戦参加する可能性が少ない部隊。
そんな理由から関東地区にあって、固定された配置で、しかも司令職である。こうして302空の新設が早められたのだ。

『海軍の戦闘機全てに斜め銃を付けろと』と言わせないために。

とりあえず司令職を与えておけば、中佐の旺盛な行動力を封じ込めておけると判断したのであろう。
もっとも、この結果はよい結果と、悪い結果の両方を海軍に与えたのだが。
良い方は、本土防空戦における302空の活躍であり、悪い結果は終戦時の徹底抗戦『厚木基地の反乱事件』であった。