1942年(昭和17年)の海戦 |
バリクパパン海戦(通称)[1942/1/24](米国呼称:マカッサル海戦) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
バリクパパン[ボルネオ島]に上陸中の日本軍輸送船団を攻撃した米駆逐艦部隊との戦闘。 第59駆逐隊(指揮官:タルボット中佐)の4隻の駆逐艦が日本軍輸送船団に襲い掛かり4隻撃沈2隻損傷という戦果を上げた。 これに日本海軍も第1護衛隊[第四水雷戦隊(司令官:西村祥治少将(41期))]が反撃しようとしたが、状況を掴みきれず、敵艦隊を捕捉出来なかった。 この戦いはアメリカ海軍にとって蘭印戦唯一の勝利として大いに宣伝されたが、日本海軍では海戦としては公式記録に残っていない戦いである。 |
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エンドウ沖海戦(通称)[1942/1/27] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
揚陸作業中の日本船団に対して連合国軍駆逐艦(英駆逐艦『サネット』、豪駆逐艦『ヴァンパイア』が攻撃を掛けたのに対し、日本側護衛部隊(第三水雷戦隊基幹)が迎撃を行ったことによって発生した海戦。 結果は日本軍損害ゼロに対し、英駆逐艦『サネット』を撃沈した。
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ジャワ沖海戦[1942/2/4] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本軍最大の開戦理由であった南方資源地帯獲得のためジャワ島攻略を目指した日本軍。 作戦は海軍航空隊による航空撃滅戦によって開始された。 2月3日、日本海軍基地航空部隊・第11航空艦隊(司令長官:塚原二四三中将)はバリクパパン(戦闘機隊)・ケンダリ−(陸攻隊)から航空部隊を発進させ作戦を開始、飛行場及び港湾施設を爆撃しスラバヤ方面一帯の連合国軍航空戦力を撃滅することによって制空権を確保した。 2月4日、前日の航空攻撃の際にマヅラ島に発見した連合国軍艦隊(ABDA艦隊)を撃滅すべく索敵攻撃隊を発進させた。 ABDA艦隊司令長官ドールマン少将(オランダ)はマカッサル海峡を航行中の日本艦隊(上陸部隊)を攻撃すべく艦隊を出撃させたが、この情報は誤りであり、当該海面に日本艦隊はいなかった。 航行中のABDA艦隊を発見した航空部隊は攻撃を開始する。最初3回までの攻撃は全て回避されたが、4度目の攻撃で命中弾が出た。 一連の戦闘で重巡1・軽巡2に損害をあたえ、結果ドールマン少将は引き上げることとなった。 これにより日本はスンダ海方面の制海権も手に入れ、マカッサル・バンジェルマシンと攻略を進めることができた。 |
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ポートダーウィン空襲作戦[1942/2/19] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
空母部隊(第1航空艦隊・司令長官:南雲忠一中将)によるオーストラリア攻撃作戦。 ボルネオ方面における連合国側最大の拠点として重視していたポートダーウィンを攻撃すべく作戦を行った。南雲中将は指揮下4空母から攻撃隊を発進させたが湾内に敵艦船は不在であった。このため港湾施設を攻撃したが大した損害をあたえることは出来なかった。 帰艦中の攻撃隊が途中特設巡洋艦1隻を発見、帰艦した飛行隊から再編成した攻撃隊が出撃しこれを撃沈した。 結果からすると機動部隊を使うほどの戦果は上げられなかった。 後日再び機動部隊による機動戦を展開したが、これも戦果を上げるには至らなかった。 |
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ニューギニア沖海戦[1942/2/20] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
真珠湾奇襲後、米海軍は生き残った空母部隊によるゲリラ戦を展開した。 投入された部隊は以下の如し 第11任務部隊(指揮官:ブラウン中将・空母レキシントン中心の空母任務部隊) 第16任務部隊(指揮官:ハルゼー中将・空母エンタープライズ中心の空母任務部隊) 第17任務部隊(指揮官:フレッチャー少将・空母ヨークタウン中心の空母任務部隊) これらの部隊は2月1日のマーシャル・ギルバート両諸島への空襲をはじめとしてゲリラ戦を展開した。 日本海軍はこれに対抗し南雲機動部隊を出撃させたが捕捉出来なかった。 米軍は日本軍によるラバウル攻略を重視し、これを攻撃すべくブラウン中将の第11任務部隊がラバウル目指して進撃していたが、この部隊を飛行艇による哨戒線で捕捉した日本海軍第24航空戦隊(司令官:後藤英次中将)が攻撃を開始した。 しかし、このとき第24航空戦隊で使用可能な兵力は新編成されたばかりの第4航空隊(昭和17年2月10日開隊)しかなく、その上対艦攻撃兵装の魚雷もなく、戦闘機隊もまだラバウルに到着していなかった。 そのため出撃した機体は2個中隊15機の陸攻だけであり、最初に攻撃した第2中隊9機は全滅。第1中隊8機も6機(内不時着2機)を失った。対して米軍は戦闘機2機を失ったとのことだが、艦に被害は無く、戦闘としては明らかに日本軍の敗北であった。 しかし自らの位置が暴露された第11任務部隊はラバウル攻撃を断念し引き上げている。 日本軍は大被害を受けつつもラバウルを守った形となった。 その後も米空母任務群によるゲリラ戦は展開された。しかし捕捉が困難であったため、日本軍は第5航空戦隊を分派したに留め、南雲機動部隊をジャワ方面の機動戦やインド洋作戦に投入してしまった。 そしてこの米空母任務群の活動の先に東京初空襲があった・・・ |
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バリ島沖海戦[1942/2/20](米国呼称:バドゥン海峡海戦) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャワ島西方に位置するバリ島。日本軍はジャワ島攻略の足がかりとするためにバリ島に上陸した これを察知したABDA艦隊司令長官カレル・ドールマン少将は、日本軍上陸船団を攻撃するためにジャワ島のチラチャップ湾を出港した。 数次にわたる交戦が行われたが、日本水雷戦隊は劣勢ながらもよく戦い連合軍艦隊を撃退することに成功した。 (詳細はこちら) |
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スラバヤ沖海戦[1942/2/27〜3/1](米国呼称:ジャワ海海戦) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャワ島上陸船団接近を知ったABDA艦隊が索敵・迎撃のために出撃、これと護衛の第5戦隊以下の艦隊との間で発生した海戦。 この海戦は双方の水上艦艇多数が参加した初の大規模水上海戦であり、この海戦を持って蘭印方面の連合軍艦隊は壊滅したのである。 だが結果的には日本軍の圧勝とも言うべき戦いであったが、いくつかの問題点も表面化した海戦であった。 (詳細はこちら) |
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バタビヤ沖海戦[1942/3/1](米国呼称:スンダ海峡海戦) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スラバヤ海戦後にスラバヤに帰投したABDA艦隊の内、英国部隊はセイロン島に向かうように指示された。一方、米・豪海軍艦隊はジャワ防衛司令部の命令によりジャワ南岸のチラチャップへ向かうように指示された。同艦隊はバタビヤを出港、西方に進行中に日本軍輸送船団を発見する。 この船団はジャワ西方攻略部隊を揚陸中であり、その数56隻。直ちに船団への突撃を開始したのである。 (詳細はこちら) |
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クリスマス島沖海戦[1942/3/1] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スターリング湾を出撃した南雲機動部隊による第2次機動作戦において発生した遭遇戦。 というよりかは艦隊後方わずか30kmのとろこに発見した1隻の米駆逐艦『エドソール』を攻撃した海戦である。 当初機動部隊支援隊の艦艇(戦艦『金剛』『榛名』重巡『利根』『筑摩』)に砲撃をさせたが、巧妙に回避され撃沈できなかった。 ついには空母から艦爆17機が出撃、これを航行不能にさせ、その後艦艇は主砲のみならず、副砲・広角砲まで用いて撃沈したのだが・・・実に無駄弾を多く消費した戦いであった。 |
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チラチャップ沖海戦[1942/3/2] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジャワ南方海域で行われた掃討戦。 航空部隊が発見した米艦隊(軽巡1 駆逐艦1)を付近で掃討作戦中であった南方部隊本隊(司令長官:近藤信竹中将)は部隊を二つに分けて追撃戦を開始した。 重巡『愛宕』『高雄』は米軽巡『マーブルヘッド』を追撃、砲撃開始からわずか7分で撃沈する。 一方重巡『摩耶』 駆逐艦『野分』『嵐』からなる部隊は英駆逐艦『ストロングホールド』を追撃、撃沈した。 |
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セイロン島空襲作戦[1942/4/5〜9](米国呼称:トリンコマリー沖海戦) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陸軍のビルマ攻略作戦に対する支援作戦の一環として行われた空母機動部隊によるインド洋機動作戦である。海軍は南雲中将率いる空母機動部隊による英東洋艦隊撃滅とその根拠地であるセイロン島を空襲して無力化しようとしたのである。 (詳細はこちら) |
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ベンガル湾機動作戦[1942/4/1〜11] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第一航空艦隊(南雲機動部隊)によるインド洋作戦(セイロン島空襲作戦)が行われているときに同時に開始された第一南遣艦隊(馬来部隊)によるインド洋〜ベンガル湾で行われた水上艦艇による通商破壊作戦である。 インド洋・ベンガル湾を経てカルカッタに到る通商路を破壊してビルマ方面と援蒋ルート遮断を目的とした作戦である。 昭和17年4月1日、マレー半島を出撃し、ベンガル湾方面で商船を撃沈した。日本海軍が同方面で行った積極的攻勢作戦として英艦隊に与えた影響は大きかった。 (詳細はこちら) |
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東京初空襲[1942/4/18] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
真珠湾奇襲以後、日本軍に攻められっぱなしの米軍が唯一反攻作戦に用いる事が出来たのが空母任務群による中部太平洋での機動作戦であった。 マーシャル・ギルバート諸島をはじめ、いくつもの拠点に対し接近・攻撃・退避を繰り返してた米空母群であったが、この機動作戦の行き着くところが日本本土空襲、つまり東京空襲であった。 真珠湾を攻撃されて以来、これに見合う攻撃目標を攻撃することによって軍内部、そして国内の厭戦気分を吹き飛ばそうとしたのである。 (詳細はこちら) |
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珊瑚海海戦[1942/5/8〜9](米国呼称:珊瑚海海戦) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
海戦史上初の空母vs空母の戦い。 日本軍は米国と豪州の海上連絡線を遮断すべく行動を開始する。 当初は豪州占領を計画した日本軍であったが、流石に豪州まで兵力を展開出来るわけも無く、ニューギニア南岸の要衝、ポートモレスビー攻略を目指した。これは豪州を連合軍の反撃拠点にさせない為には必要な作戦と判断された。 陸軍による陸路からポートモレスビーを攻略するにはニューギニア中央に位置するオーウェンスタンレー山脈を縦走する必要がある為、海路による攻略となった。 『MO作戦』と名づけられた本作戦では、連合艦隊は待ち受けるであろう米艦隊に警戒しつつ珊瑚海を進撃必要がある。それ故、作戦の前段階としてソロモン諸島方面を空から警戒する為にソロモン諸島東端に位置するツラギ島を占拠し、水上機・飛行艇部隊を展開させ、同海域の哨戒任務を計画した。 MO攻略部隊[指揮官:後藤存知少将(38期)]はトラック島及びラバウルを出撃し、5月3日にツラギ島に攻略部隊を無血上陸させ占拠に成功する。 またMO攻略部隊を支援するMO機動部隊[指揮官:高木武雄中将(39期)](空母『翔鶴』『瑞鶴』の2隻で編成される第五航空戦隊)もトラック島を出撃し、ソロモン諸島北方を東進するが、ツラギ島上陸後の5月4日にツラギが米艦載機によって空襲を受けた。急ぎツラギ支援に向かうべくMO機動部隊はソロモン諸島東端を回り込んで珊瑚海に急進する。 一方、ツラギ上陸後に一時後退したMO攻略部隊は引き続きポートモレスビー攻略部隊を乗せた船団を護衛すべく再出撃する。だがこの艦隊は地上基地を出撃したB-17に捕捉され、艦隊は退避の為、一時後退する。 日米はお互いに敵艦隊を捕捉すべく行動・索敵を行うが、発見する事は出来なかった。 5月7日、ついにMO機動部隊の索敵機が米空母発見の報を入れる。即座に出撃した艦載機部隊ではあったが、空母発見は誤報であり、油槽船、駆逐艦各1隻撃沈に留まった。 次に発見したのは米艦隊であり、空母2隻を含む艦隊を発見の報を入れる。直ちに出撃したが、これはMO機動部隊(空母部隊)ではなく、MO攻略部隊であった。だが直接支援に就いていた小型空母『祥鳳』が米空母艦載機の攻撃により戦没する。 その後米空母部隊を発見した陸上攻撃機部隊が攻撃を行うも戦果無く、この発見した米空母を攻撃すべくMO機動部隊からも攻撃隊を発艦させたが、薄暮攻撃と戦果は挙げられなかった。 翌8日、日米共に敵空母部隊を発見。お互いに攻撃隊を発艦させる。 米空母を発艦した艦載機群はMO機動部隊に襲い掛かるが、『瑞鶴』はスコールの中に退避する事が出来、結果的に『翔鶴』に攻撃が集中する形となった。『翔鶴』は合計3発の爆弾を受け中破、艦載機の発着艦が不可能となった。 一方米空母は『レキシントン』が爆弾×2発、魚雷×2発を受け航行不能となり、総員退艦後に味方駆逐艦により自沈処分された。『ヨークタウン』は爆弾を×1発受けたが直ぐに消火に成功する。だが戦闘に耐えられる艦載機が少なく、また爆弾・魚雷が底を着いた為、戦場を離脱した。 海戦の結果としては日本側が小型空母×1隻戦没、正規空母×1隻中破。 米側が正規空母×1隻戦没、×1隻小破であった。 戦果だけを比較すれば日本側優勢により勝利と言える。だが・・・・・・・・・ 日本はこの海戦後、損傷した空母の修理と、艦載機部隊の補充という問題により本土に帰還させた。その為次の大作戦に貴重な正規空母2隻が作戦不参加という事態になった。 なによりもこの海戦が発生した元々の作戦、ポートモレスビー攻略作戦が中止となった。これでは海戦で勝利を得ようとも、戦略目標を達成出来なかった為、日本の作戦失敗と言えるだろう。 一方、米軍はこの作戦で生き残った空母『ヨークタウン』が僅かな日数で応急修理され、次の海戦に参加してきた。そして『ヨークタウン』の活躍が日本にとっては・・・・・・ この海戦によって引き起こされた数々の問題は、次の海戦でも再現されることとなる。 (詳細は後日記載予定) |
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ミッドウェー海戦[1942/6/5〜7](米国呼称:ミッドウェー海戦) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(詳細は後日記載予定) |
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ダッチハーバー攻撃[1942/6/4〜8] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ミッドウェイ(MI)作戦の支作戦、撹乱作戦の一環として行われたのが本作戦・アリューシャン(AL)作戦である。 本作戦の目的は上記のものが主だが、他に北方からの米長距離爆撃機による日本本土空襲阻止、米機動部隊の北方海域進出、米ソ連絡線の遮断の為のアッツ島・キスカ島攻略、北方警戒線の前進などが上げられた。 ダッチハーバー空襲作戦はミッドウェー作戦の前哨戦として米軍基地のあるダッチハーバーとアダック島を空襲し、敵の目を北方に向けさせようというものであった。だが本作戦(AL作戦)は、同時に実施された主作戦(MI作戦)同様、米国の暗号解読によりほぼ全てが敵によって知られていた。 北方作戦を担当する第五艦隊と、第四航空戦隊・空母『龍驤』『隼鷹』の2隻を中核とする第二機動部隊(角田部隊)が北限の荒海と濃霧の中、アリューシャン列島ダッチハーバー目指し進撃する。 そして…零戦神話崩壊の序曲となった。 (詳細はこちら) |
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第1次ソロモン海戦[1942/8/9](米国呼称:サボ島(沖)海戦) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第2次ソロモン海戦[1942/8/24](米国呼称:東部ソロモン海戦) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
サボ島沖海戦[1942/10/11](米国呼称:エスペランス岬海戦) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ガダルカナル島砲撃作戦[1942/10/13] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南太平洋海戦[1942/10/26](米国呼称:サンタ・クルーズ(諸島)海戦) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(詳細はこちら) |
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第3次ソロモン海戦[1942/11/12〜14](米国呼称:ガダルカナル海戦) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルンガ沖夜戦[1942/11/30](米国呼称:タサファロング沖海戦) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||