用語事典 [事件・事変編] |
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海軍乙事件[1944/3/31] | |||||||||||||||||
連合艦隊司令長官 古賀峯一大将 他、連合艦隊司令部スタッフの乗る2式大艇が低気圧の為行方不明となる。1号機搭乗の古賀大将以下全員は死亡。2番機は福留参謀長他1名が不時着して一命を取りとめるも、現地ゲリラによって捕虜となる。その際に暗号書・作戦計画書が連合国軍に流出した。 この時大事な物を処分して自決していれば、その後の作戦に影響をおよぼさなかったのだが(実際には処分しようとしたのだが、失敗した。)、この事件によって中部太平洋方面作戦書(Z作戦計画)とその他の書類がゲリラ側の手に渡ってしまい、その後ゲリラを通じて米軍の手に渡ってしまったのである。 Z作戦計画には『あ号作戦』『捷号作戦』の計画が書かれていた。これにより米軍は日本海軍の作戦計画を知ることとなった。 その後、ゲリラらと交渉により福留中将は解放されたのであった。 福留中将この重大な責任を問われることなく、フィリピンの第二航空艦隊司令長官に昇進。福留中将は責任を問われなかった。理由はこの問題を海軍が隠蔽したかったのである。 |
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海軍甲事件[1943/4/18] | |||||||||||||||||
ガダルカナル島を含む南東方面の前線視察を行った連合艦隊司令長官山本五十六大将の搭乗した1式陸攻が、暗号情報が傍受・解読された結果米軍によって待ち伏せ攻撃を受け被弾撃墜された。 これにより山本大将は戦死。死後元帥となった。 |
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学徒出陣 | |||||||||||||||||
戦争の激化にともない、消耗する兵力補充の為の措置として、1943(昭和18)年12月、徴兵年齢(満20歳)に達した大学・高等専門学校の学生(但し理工科系・教員養成系は除く)を入営させた。 それ以前(1941年(昭和16年)10月以降)にも、大学・高専の在学年限短縮、繰上げ卒業、繰上げ入営などが実施されていたが、今回の徴兵は主として陸海軍航空部隊の下級指揮官の不足を補うためであり、また徴兵猶予に対する農村を中心とする『金持ち優遇』との批判を抑え、挙国一致体制の確立を目的とした。 1943年(昭和18年)9月に閣議決定、10月に在学徴集延期臨時特例を公布、文科系学生の徴兵猶予(在学中の者には満26歳になるまで徴兵を延期する措置)を停止したのである。 徴兵検査後、学生達は陸海軍に入隊、この結果日本中の文系大学から学生が居なくなるという事態となった。 『出陣学徒壮行会』(10月21日)が戦意高揚の為に行われ、明治神宮外苑の競技場には出陣学徒25,000人、見送る女学生他50,000人が集った。他にも同様の壮行会は全国各地で行われた。 |
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カチン惨殺事件 | |||||||||||||||||
1943年4月13日に独・ベルリン放送が発表した事件である。 『ドイツ陸軍当局は、数日前、現地住民の示唆により、殺害されたポーランド軍将校の集団墓地を発見した。現場は、スモレンスク市の西方二十キロ、スモレンスク−ビテブスク街道に沿ったカチン森の通称『山羊ガ丘』であり、『NKVD』(ソ連内務省秘密警察)休養所から約五百メートル離れた地点である・・・・・・』
1939年9月、ソ連軍がポーランドに侵攻した際に捉えた多数のポーランド軍将校・住民が多数惨殺された事件である。埋葬された遺体の数は推定で1万人以上であり、その多くが後ろ手に縛られて、後頭部より銃殺されていたという。 この惨殺は長く秘匿されていた為、ロンドンに設置された亡命ポーランド政府は行方不明となった人達の行方を探してソ連政府と交渉していたところに遺体となって発見されたのである。その為ポーランド市民及び欧米諸国に衝撃を与えた。 |
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乾岔子島(カンチャーズ島)事件[1937/6/19] | |||||||||||||||||
1937年(昭和12年)6月19日にソ満国境・黒龍江(アムール川)の下流にある乾岔子(カンチャーズ)島と金阿穆河(チンアムホウ)島で起きた国境紛争。 本来、両島は満州国の領土であったが、コレに対しソ連政府が軍を周囲に展開。日本人及び満州人の拉致に始まり、他に航空機の越境や砲艦の派遣、不法射撃等が行われ、国境紛争となっていた。 6月19日に不法侵入したソ連軍と国境警備の満州国軍監視隊との間で紛争が発生。これに日本政府がソ連政府に抗議を申し入れ、ソ連は軍を引き上げることに同意した。 だが現地ソ連軍は撤収することなく兵力の集中を図り、日本及び満州国軍に対しソ連砲艦3隻が発砲を開始する。これに応戦した日本軍側(歩兵第一連隊速射砲隊)が砲艦1隻撃沈(他に1隻撃破)することに成功した。 日本政府の更なる抗議によりソ連との折衝が続けられた。 最終的な交渉の結果、ソ連軍(歩兵・砲兵隊・艦艇)の撤収が行われ、7月2日からソ連軍の撤収が開始され、その完了をもって集結した。 |
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宮城事件[1945/8/14] | |||||||||||||||||
日本がポツダム宣言受諾を決定したため、その旨を国民に知らせるべく天皇陛下自ら肉声によって録音された所謂玉音放送の録音版を強奪しようとした事件。 玉音放送を製作した技師が宮中から退出したところを、陸軍の一部将校が近衛師団兵を指揮し、武力によって皇居を占拠した。 首謀者は陸軍省軍務局員畑中健二少佐、椎崎二郎中佐であった。 だが結局玉音盤は発見出来ず、叛乱部隊は放送会館を占拠する事で放送自体を不可能にさせようとした。 東部軍司令官 田中静壱大将が状況を察知し、8月15日未明に自ら部隊を説得、首謀者が自決して事件は終了した。 尚15日には別のグループ(憲兵)放送中止を狙って放送会館に突入したが、これも取り押さえられた。 |
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錦旗革命事件(きんきかくめいじけん)[1931/10] (別名:10月事件) | |||||||||||||||||
満州事件(1931年(昭和6年)9月18日〜)に対する政府の対応方針として、不拡大・局地解決の方針が決定したが、この決定に不服だった陸軍の中堅将校達がクーデターを計画した。 東京に於いて桜会のメンバー達が中心となり、クーデターを計画。この計画に北一輝や大川周明といった一派も呼応し、準備が進められた。桜会は既に満州に於いて事件不拡大の方針に反対し、命令を無視して兵力を集結させつつあった陸軍に呼応してクーデターによる支援を計画。これにより国内の抜本的な改革を行い、新しい日本を作ろうと考えた。 計画では若槻首相以下の政府高官や天皇の側近に対する暗殺を行い、その上で反徒が皇居前に集結して、天皇に対して謝罪を行い切腹して自害するというものであった。 さらに荒木貞夫中将を首相とした軍事政権の樹立を目指したものであった・・・のだが、実際には殆ど無計画に近い行き当たりばったりの計画であった。なにより首相に祭り上げられる予定だった荒木中将自身が計画には加わっていない。 この計画では多くの人たちがあまりにも食い違った意見をもって参加した為、内部分裂する。更に金銭上の問題が発生し、腹いせとばかりに軍上層部に内報する者が現れた。 結果、首謀者は1931年(昭和6年)10月17日に逮捕される。だが首謀者は重謹慎20日間、その補佐者は10日間の刑を受けた後、地方に左遷というものだけであり、大多数の将校達は譴責を受けただけであった。当然首謀者に対する極刑論も一部にはあったが、軍部に於ける桜会の影響と勢力は依然強大であった為、このような結果となった。だが、この後桜会は事実上の解体を余儀なくされる。 だが結果的にだが、その目的の一つであった満州での事件拡大は成功したといえた。 一方で、新たな問題が発生する。陸軍内部に於ける革新運動が2つのグループに分裂し、『統制派』と『皇道派』という2つのグループが誕生する切欠となった。 |
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私鉄疑獄[1929] | |||||||||||||||||
1929年(昭和4年)、田中義一内閣が倒れるとき、小川鉄道大臣の裁定で認可された私鉄22線と、同14線買収にからまる汚職事件。小川鉄道大臣は、このため収賄で懲役2年に処せられた。 松島遊郭事件、朝鮮疑獄といった一連の疑獄事件の一つであり、当時の政界における利権争いと、汚職や政治の腐敗が表面化し始めた事件でもある。 |
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上海事変 | |||||||||||||||||
1932年(昭和7年)1月28日より行われた、上海国際共同租界周辺での日中両軍による戦闘。 |
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第二次上海事変 | |||||||||||||||||
1937年(昭和12)8月13日から始まった、国民党軍の上海攻撃と、上海を防衛して日本軍との戦闘。 |
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辛亥革命(しんがいかくめい) | |||||||||||||||||
1911年(明治44年)に中国大陸でおこった革命。当時の清朝をたおし中華民国を建国した。 四川省でおこった中国民間資本鉄道国有化反対運動に乗ずる形で孫文の中国革命同盟会が湖北省武昌で反乱起こす。これに各省が乗る形で清朝からの独立を宣言した。各省代表が南京に集まり、1912年(明治45年)1月には、孫文が臨時大総統就任し中華民国臨時政府が成立した。同年2月には宣統帝を退位させている。 以後清朝が送り出した袁世凱との問題や内政問題により政府内部は混乱を極める。当初アジア発の共和国としてスタートした中華民国は結局反民主的・専制的な政治をしたため革命の理想はやぶれた。 以後中国全土が軍閥によって群雄割拠される時代となっていった。 |
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壬午事変(じんごじへん)[1882年(明治15年)7月23日〜] | |||||||||||||||||
朝鮮・漢城で起こった兵士による暴動(反乱)事件。 興宣大院君(李子朝鮮末期の王族)派の煽動により起こった大規模な反乱であり、閔妃を始めとする当時の政府高官、日本公使館員、日本軍軍事顧問らが多数殺傷される。 当時、李子朝鮮の政府内部は『守旧派(事大党・清の属国)』と『開化派(独立党)』に分かれていた。また朝鮮王・高宗の実父である興宣大院君と高宗の妃である閔妃が激しく対立していた。 事変の前年には閔妃の一族が実権を握り、開化派を率いて軍政改革に乗り出していた。これには日本の協力が必要であり、軍事顧問団の受け入れや、留学といった改革を進めていた。 だが軍改革に『開化派』と『守旧派』に待遇の違いが出たこと、また財政難からくる軍への俸給の遅れなどを理由に『守旧派』の筆頭である興宣大院君らの一派が、兵士の不満・暴動を利用し、これに乗じて閔妃一族を一掃し、政権奪取へと動こうとしたのである。 こうして発生した事変により閔妃一族は多数が惨殺されたが、閔妃は漢城から脱出に成功する。漢城脱出に成功した閔妃は清国の袁世凱に協力を求めた。 また暴動の矛先が日本軍にも向いた結果、当時漢城に在住していた日本人らにも危害が加えられた。 一般人保護に乗り出した日本公使館は李子朝鮮政府に護衛を依頼するも、政府に対応能力は無く、日本公使館自ら応戦する。だが暴徒の数が増えるにつれ応戦が難しくなった為、日本公使館放棄を決定し、脱出を開始する。 漢城内の避難先はいずれも暴徒により襲撃・占領されており、一行は漢城脱出を決意、仁川府、そして海上へと脱出し、長崎に避難する事に成功した。 この事変(暴動)により興宣大院君は高宗より政権を譲り受けることに成功する。 だが袁世凱率いる清軍の介入により事態は急変した。反乱鎮圧に乗り出した清軍は漢城を鎮圧、興宣大院君を捕縛し、軟禁する事に成功した。事変は終息し、清軍はそのまま漢城に駐留することとなる。 これにより李子朝鮮の内政・外交は袁世凱によって掌握され、ますます清国の属国へと進んでいくこととなる。 一方、日本側は花房公使を全権委員とした陸海軍からなる部隊を朝鮮半島に派遣する。多数の日本人が殺害された為、強硬に出た形である。軍艦と歩兵部隊は、半島進出後、そのまま日本公使館の警備の為、駐留する事が決定した。(済物浦条約) 同時に日朝修好条規(追加事項)が結ばれ居留地の拡大、市場の追加等を認めさせた。 尚、軍隊の駐留権は日本公使館の警備よりも、李子朝鮮に対し宗主国としての権利を主張する清国に対する牽制の意味合いの方が強かった。 事変後、清国によって捕えられた興宣大院君は清国に連行される。清て査問会に掛けられたのち幽閉、その期間は3年に及んだ。その間、李子朝鮮(高宗)からは興宣大院君の赦免を陳情したが、受け入れられなかった。 この事変の後、朝鮮半島を廻り、日本軍と清軍が直接対立するすることは無かったが、李子朝鮮に対する影響力を求めた両国政府による対立が高まっていくこととなる。そしてそれが日清戦争へと続くこととなった。 |
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綏遠事件[1936年(昭和11年)11月〜] | |||||||||||||||||
内蒙軍(指揮官:徳王)が華北方面の綏遠省に進出した事件。内蒙軍とは言え、裏では関東軍が指導・後援していた部隊であり、日本軍10数名が戦闘顧問として同行していた。 11月9日、綏遠省に進出した内蒙軍ではあったが、19日ごろには百霊廟まで進出する。だが23日夜に中国・綏遠軍による逆襲により敗退、百霊廟を占領された。 内蒙軍は12月3日から百霊廟南方で反撃に出るも失敗、敗退を続ける。その後軍事顧問を射殺して綏遠軍に投降したため、内蒙軍は壊滅的打撃をうけることとなった。 尚、本事件に関しては11月21日に日本国外務省より中国内政問題であり、日本は関知していないとの非公式宣言がなされている。 |
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世界恐慌 | |||||||||||||||||
(後日記載予定) |
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西安事件[1936年(昭和11年)12月12日] | |||||||||||||||||
大陸に於ける、共産党と国民党軍の抗日共同戦線を目指した国共合作の動きの中で発生した蒋介石誘拐事件。 ソ連共産党が目指した中国における国共合作は当初計画倒れとなった。元々、中国の共産化を恐れた蒋介石が1927年(昭和2年)に共産主義を非合法化したほどである。しかし張学良は比較的柔軟な考えを持っていた上、蒋介石の政策に批判的であった為、周恩来によって説得された。 話し合いの結果、蒋介石をトップとした上で、国民政府軍、共産党軍、共に抗日戦線を戦い抜く方針が決定した。が、その代償として投獄されている共産党員の釈放と、共産党軍を国民政府軍と対等に扱うことを認めさせた。 問題は張学良と周恩来が同意した国共合作を蒋介石に認めさせることであった。この時点での張学良は蒋介石の部下であり、(共産党討伐作戦の)野戦指揮官に過ぎずなかった。 いざ、蒋介石を説得する段階において、かつて匪賊の頭目であった楊虎城将軍から蒋介石を説得して共産党軍との協力を承諾(合作)させるには、蒋介石を誘拐するしかないと信じ込まされていた。 一方で蒋介石は張学良が既に共産党によって操られていると確信していた。その為、張学良に直接会って、適切な措置を取らないと反乱が起こる可能性があると説得しようとしていた。 張学良は西安で蒋介石に直接対峙した際に、監禁することには同意していたものの、いざ事を起こす段階で躊躇し、実行に移せないでいた。これに痺れを切らした楊虎城が自ら誘拐監禁を実行(12月12日朝)してしまった。 捕らわれた蒋介石ではあったが、その上で張学良と対面し、なおも説得しようとした。先に周恩来と決定してい事項を蒋介石に認めさせるのに2日を要した。蒋介石は捕らわれている以上、議論は出来ないと合意に応じなかったのである。 最終的には周恩来が西安に来て蒋介石と話し合い、『もし蒋介石が国共合作に同意するならば、共産党がその状態を悪用することは無い。共産党が望んでいるのは内戦の終結であり、抗日戦線の協力である』と宣言したのである。 この後、国共合作への話は進み、1937年(昭和12年)7月7日に国共合作は成立した。 |
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第四艦隊事件[1935/9/26] | |||||||||||||||||
1935年(昭和10年)9月26日、岩手県東方沖で演習中の臨時編制艦隊、第四艦隊(司令長官:松下
元中将)は演習海域に向かう途中で台風に遭遇した。 演習中止も考えられる中、台風に接近した場合の対処もまた訓練足りえるとして予定通りに航行、台風の中心にはいった。 台風は最低気圧960mbar、最大風速34.5m/sを観測。(水雷戦隊側では最大風速36m/sを記録) 結果、前年に起きた友鶴事件での改修が終わっていた事もあり、参加艦艇41隻中、損傷19隻という被害を出しながらも転覆・沈没艦はなかった。 だが最大の問題となったのが最新鋭の特型駆逐艦『吹雪』級2隻(『初雪』『夕霧』)が艦橋より前、艦首を波浪により切断されるという損傷を受けていた。 原因は複数考えられたが、特に艦体強度の不足と考えられ、また新鋭艦ほど被害が大きかった。その為前年に発生した友鶴事件と合わせて海軍の保有す全艦艇に対してチェックと対策が講じられることとなった。 |
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張鼓峰事件[1938/7〜](ソ連側呼称:ハサン湖事件 もしくはハーサン湖事件) | |||||||||||||||||
(詳細は後日記載) |
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朝鮮疑獄[1929](別名:朝鮮総督府疑獄) | |||||||||||||||||
田中義一内閣(第26代内閣・1927年(昭和2年)4月20日〜1929年(昭和4年)7月2日)において、朝鮮総督に任命された山梨造大将の私設秘書、肥田理吉が売春・水利権・釜山取引所設置などで暗躍した事件。米穀商、川崎徳之助から16万円を提供させ、そのうち5万円が山梨大将に渡った疑いで、山梨大将が罪に問われた。この事件は朝鮮総督史における一大汚職事件である。 後に山梨大将は無罪となったが、社会的には葬り去られた。 松島遊郭事件、私鉄疑獄といった一連の疑獄事件の一つであり、当時の政界における利権争いと、汚職や政治の腐敗が表面化し始めた事件でもある。 |
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通州事件[1937/7/29] | |||||||||||||||||
1937年(昭和12年)7月29日 冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊 約3000名)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)に対する虐殺事件。 華北の日本軍部隊(約110名)と日本人居留民約420名を襲撃し、約230余名が虐殺された。 これにより通州特務機関は全滅した。事件の原因は、諸説あり、日本軍機による通州保安隊兵舎誤爆に対する報復とするのが一般的だが、近年は反乱首謀者である張慶餘の回想記により、中国側第二十九軍との間に事前密約があったとの説も有力になっている。 第二の尼港事件とも言われ、この事件により日本の対中感情は大きく悪化した。 1937年12月24日、冀東政府と日本側との間で交渉が成立、冀東政府は日本側に正式陳謝の上、120万円の賠償金を支払い、事件は解決した。 |
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友鶴事件[1934/3/12] | |||||||||||||||||
水雷戦隊の演習中に発生した海難事件。 水雷艇『友鶴』(千鳥型水雷艇)が佐世保港外での演習中に転覆を起こした。死者・行方不明者合わせて100名、生存者13名であった。 設計上、転覆はしない筈の傾斜角40度程度で転覆を起こしてしまった。当時の気象状況が荒天で、波浪も高かったが、この転覆事件は艦船設計の構造上の問題を引き起こし、これ移行の艦船設計に教訓として復元性能の再検討が加えられた。 また本水雷艇を設計した藤本喜久雄少将(当時)は責任をとって謹慎処分となった。 この事件の後、原因がトップヘビー状態であるとされた為、小型・強武装艦であった駆逐艦『吹雪』級(特型)、『初春』級は武装を削減し、上部構造物を変更・撤去して重心を低下させる工事を行っている。 (また一方ではこの事件の原因を『友鶴』艇長の操舵ミスであったとする指摘もある。) だが、この事件の対応も終わらないうちに次の海難事件が発生した。 第四艦隊事件である。 |
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長崎事件[1886年(明治19年)8月1日] | |||||||||||||||||
日中戦争への最初の一歩とも言うべき事件。 清帝国所属の北洋艦隊が突如長崎に来襲し、水平が集団で暴動を起こした事件であり、侵略事件と呼ばれた。 8月1日、旅順を根拠地とする北洋艦隊の新鋭戦艦『定遠』『鎮遠』、巡洋艦『済遠』『威遠』の4隻が突如長崎に来航。事前に日本政府に通達は無く、目的は修理の為と証した。 当時の清は大国であり、日本は弱小国と舐められた結果である。 13日、清国の水兵が無許可で長崎に上陸を開始する。その数500名以上。長崎市内は突如水兵により強奪を含む暴動に見舞われた。 長崎からの急報により巡査が出動したが、逆に反撃にあい、その後巡査の一隊が駆けつけて抜刀し市街戦に突入する。双方80名以上の死傷者を出す事件となった。 この事件が日本人に与えた衝撃は大きく、大陸に対する敵愾心が燃え上がる結果となった。 尚、この事件の背景には当時問題となっていた朝鮮半島における日本・清国間の紛争があった。 この事件を契機に日本の防衛思想に大陸を国防の第一線とする考えが生まれたといわれている。 |
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南京事件[1927/3/24] | |||||||||||||||||
蒋介石率いる国民革命軍による南京占領した際に発生した日本を含む外国領事館及び居留民に対する襲撃事件。軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行った。 この事件に対し、邦人保護のため米英の艦艇が急行し、艦砲射撃を行い陸戦隊を投入。日本も事件が発生翌日には陸戦隊を派遣した。 この事件は、以後の対中政策を大きく変える契機となったが、中国共産勢力の策謀だとも言われている。 この南京事件は10年後に発生した南京事件(南京大虐殺)とはまったくの別物であり、区別しておく必要がある。 |
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南京大虐殺[1937/12/13〜] | |||||||||||||||||
1937年(昭和12年)12月9日から始まった南京攻略戦。その南京が陥落した12月13日以後6週間にわたって行われたとする南京での市民・捕虜・投降兵に対する惨殺事件。その実数は最大で30万人以上と言われ、今尚問題の残る事件となっており、論争を巻き起こしている。 但し、上げられている人数が市民・捕虜に対するものか便衣兵(ゲリラ兵)に対するものなのか、また当時南京に居た市民の総数が20万人程度にも関わらず30万人を惨殺したのか、疑問の残るところである。 当サイトではこの事件に関しては基本的に説明しないものとするが・・・管理人としては惨殺はあったとは思うが、言われているような人数でも、計画的なものでもないと思う。事故と便衣兵に対するものが殆どだと思う。 |
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尼港事件[1920/3〜5] | |||||||||||||||||
シベリア・ニコライエフスク港(尼港)にて起こった惨殺事件。 1920年(大正9年)3月、シベリア出兵中の日本軍守備隊と一般市民がロシアのトリャピーチン率いる露中共産党過激派(パルチザン)によって襲われ惨殺された事件である。 パルチザンに対して一旦降伏した後、日本側が再度攻撃したが敗北した。生き残った日本人は軍人・民間人を問わず捕虜とされた。 同年5月、日本軍がニコライエフスクへ援軍を派遣すると、パルチザンは捕虜及び日本人以外の市民多数を殺害し、町を焼き払って逃亡した。 パルチザンの責任者は露政府により死刑になったが、 この事件により犠牲者は約700名に上り、その半数は民間人であった。 国内世論は憤激し、日本軍のシベリア出兵がを延長されたのはこの事件によるものであったされる。 |
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ノモンハン事件[1939年(昭和14年)5月11日] | |||||||||||||||||
1939年(昭和14年)5月11日、ノモンハン付近の国境線にて発生した戦闘である。 日本と満州国はハルハ河と主張していたが、ソ連と蒙古はノモンハンとみなしていたため、しばしばこぜりあいがあった。 蒙古軍と日本軍の衝突のあと、日満ソ蒙は兵力増強をつづけ、六月から九月にかけて二次にわたり戦闘が行なわれたが、日本軍は完膚なきまでに叩きのめされた。 (詳細は後日) |
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パネー号事件[1937/12/12] | |||||||||||||||||
揚子江上流約40キロを航行中のアメリカ砲艦「パネー号」その他3隻を海軍航空隊が爆撃銃撃して撃沈。 (詳細は後日) |
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ビハール号事件[1944/3] | |||||||||||||||||
1944年(昭和19年)3月、第十六戦隊の指揮下に臨時編入された重巡『利根(艦長:黛大佐)』がインド洋で英商船ビハール号を撃沈した際に得た捕虜80名中65名を後に虐殺したというもの。 何故このような状況になったかは不明。命令の出所が不明で、独断によるものかも不明) 同方面の上級司令部である南西方面艦隊司令長官高須四郎大将は病没しており、第十六戦隊司令官 左近充中将(事件当時は少将)がスケープゴートにされたらしい。 但し、捕虜が惨殺されたとされる時期には既に『利根』は第十六戦隊の指揮下から離れていた。 |
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松島遊郭事件[1926] | |||||||||||||||||
1926年(大正15年)、大阪の松島遊郭を移転することによって地価の値上がりを策した土地会社が政友会幹事長岩崎勲、憲政会総務箕浦勝人らに運動を頼んだ。 これにより衆議院で問題化し、岩崎・箕浦両名は起訴されたが、この際に若槻礼次郎首相も訊問された。 私鉄疑獄、朝鮮疑獄といった一連の疑獄事件の一つであり、当時の政界における利権争いと、汚職や政治の腐敗が表面化し始めた事件でもある。 |
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マリア・ルス号事件[1872年(明治5年)7月] | |||||||||||||||||
日本初の国際裁判事件。 同船が清国の奴隷運搬船と判断し、英国公使から日本政府に清国人救助要請があり、法的手続きを行った事件。 |
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満州事変[1931/9/18] | |||||||||||||||||
(詳細は後日記載予定) | |||||||||||||||||
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柳条湖事件[1931/9/18] | |||||||||||||||||
満洲事変の発端となった謀略事件である。 一般的に『柳条溝事件』と称されるが、これは当時伝えられた誤った地名であり、実際の地名は『柳条湖』である。 |
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蘆溝橋事件[1937/7/7] | |||||||||||||||||
北京西南方向にある蘆溝橋で起きた日本軍への発砲事件。 この事件をきっかけに、日本軍と中国・国民党政府は戦争状態に突入した。(日中戦争) (詳細は後日記載予定) |
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O〜Z |
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数字 |
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二・二六事件[1936/2/26] | |||||||||||||||||
近衛師団に所属する青年将校によって計画されたクーデター事件。 (以後詳細は後日記載予定) |
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十月事件[1931/10] (別名:錦旗革命事件) | |||||||||||||||||
錦旗革命事件を参照 |
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