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第二〇一海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和17年12月1日 |
装備機種 |
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艦戦 |
原隊・原駐在地 |
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木更津航空基地 |
所属(最終時) |
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南西方面艦隊 第二六航空戦隊 |
解隊 |
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終戦 |
解説 |
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703空(旧:千歳空)及び752空の戦闘機隊を主体として編成された航空隊であり、マーシャル諸島ルオット島で開隊した。飛行隊はウェーク島(2個分隊)、タロア島、ルオット島に分散配備されたが、空戦の機会は無く、殆ど上空哨戒と練成に当っていた。
1943年(昭和18年)2月、本土帰還の命令が発せられ、飛行機を現地に置いたまま本土帰還。木更津基地、そして松島基地へと移り再編制と練成に入る。
5月、北方方面の戦局により米軍のアッツ島進攻に応じる為に二四航戦が十二航艦編入が命ぜられ、6月3日に零戦12機を北千島・幌筵島に派遣する。だが間もなく復帰が命ぜられ、そして南東方面進出が命ぜられた。
機材を552空の艦爆と共に空母『雲鷹』に乗せ輸送(人員は特設巡洋艦『愛国丸』)。一部は陸攻に誘導されての太平洋縦断コースでの飛行進撃を果たした。
1943年(昭和18年)9月15日、にラバウルに進出した201空は翌日には一部をブインに派遣し受け入れ準備を進め、17日以降ブイン、ブカの両基地に飛行隊を進出させ、以後ブイン基地を中心とする邀撃戦を行った。
10月8日以降、ブインに進出し協同で防空に当っていた204空が後退すると二六航戦司令部もラバウルに後退。以後は201空のみで防空を担当する。だが戦力の消耗が激しく、10月末には201空もラバウルに後退。機材補充と再編制を行うが翌年1月にはサイパン島まで後退する。(飛行機はラバウルに残し、人員のみの後退)
この時期のラバウル航空戦における201空の戦果は敵機450機以上(日本側判断による)に上る。
サイパンに後退後、本土からの補充機を引き連れて8機がトラック島に進出するがトラック空襲により全滅。救援機20機を空襲翌日(2月18日)にトラック島に送るも会敵せず、逆にサイパン残留の4機がサイパン空襲により消失した。
201空は再びサイパンに後退。ラバウル放棄と航空隊の大規模再編制に伴い解隊された204空を吸収し、定数96機(3月4日付:戦闘305、戦闘306の2個飛行隊体制)の大規模航空隊に再編制される。グアム島経由でパラオ諸島ペリリュー島に移動し、一部をダバオ派遣隊として分派したが、3月30日の米機動部隊による空襲により奇襲され本隊(戦闘305)は壊滅状態(全機損失)となった。
一方、再編制により本土・木更津基地で編制途中であった戦闘306は練成後の4月中旬からフィリピンのセブ、ダバオ両基地にに進出し、残されていたダバオ派遣隊と合流する。
5月中旬には全戦力(32機)がセブ基地に集中して訓練に入るが、『あ号作戦』発動により一部がペリリュー経由でヤップ島に前進。他の一部はグアム島に進出する。
作戦後、グアム派遣隊は7月初旬にセブ基地にに帰還。7月10日付けの大規模再編制で解隊となった263空、343空の一部搭乗員で部隊を編成。菅野大尉の指揮下でヤップ島に進出させている。
他に戦闘311(153空から転入)や戦闘301(202空(7月10日付で解隊)より転入)が編入された。
これは今後フィリピンが主戦場なることを見越し、同地での航空戦を担当する1航艦の戦闘機戦力を集中配備させた大規模航空隊であった。
兵力は4個飛行隊(戦闘301、戦闘305、戦闘306、戦闘311)、定数192機であった。
8月、ダバオは米陸軍航空隊B-24の空襲に曝され、9月以降はP-38を含む戦爆連合により空襲が激化。飛行隊をダバオに常駐させることが出来なくなり、戦力温存と捷号作戦待機の為、セブ、レガスピー、ニコルスに分散させることとなる。この頃、米機動部隊に対する攻撃手段として跳飛爆撃を採用し、爆装零戦の準備を進めた。だがこれらの準備も9月9日のダバオ空襲と、それに続くダバオ事件に端を発した一連の誤報騒動によりセブ島に終結した飛行隊(約100機)が米艦上機群の波状攻撃を受け壊滅。9月12日、13日の2日で201空は深刻な打撃(ほぼ壊滅状態)となった。
この後戦闘301、戦闘311は本土での再建に着手し、残存戦力は米機動部隊との交戦。挺身隊を編制し機動部隊攻撃を行ない、消耗戦を繰り広げる。
10月19日、1航艦長官に大西中将が赴任。そして最初の特攻隊(神風特別攻撃隊)が編成された。翌20日、米軍のレイテ島上陸が開始。25日には指揮官関行男大尉以下5名による神風特攻隊「敷島隊」による特攻攻撃が行われ、米護衛空母「セントロー」撃沈、同「キトカンベイ」大破といった戦果を上げる。これが以後果てしなく続くこととなる最初の神風特攻隊の最初の攻撃であり、201空だけでも200名以上の特攻隊員が出撃していった。
1945年(昭和20年)1月、1航艦のフィリピン脱出、台湾後退により201空も一部搭乗員が脱出を行う。残された地上員達は二六航戦の指揮下で地上戦の準備に入り、クラーク地区防衛隊として地上戦に投入された行った。一方脱出した搭乗員は台湾で再編制。一部の搭乗員が他の航空隊(205空・他)転入したが、残された搭乗員達は陸戦訓練に従事することとなった。
201空は書類上は終戦まで残されたが、沖縄戦以降は機材の無い名前だけの航空隊となっていた。 |
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第二〇二海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和17年11月1日 第三航空隊を改称 |
装備機種 |
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艦戦 艦攻 |
原隊・原駐在地 |
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所属(最終時) |
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第一航空艦隊 第二二航空戦隊 |
解隊 |
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昭和19年3月4日 |
解説 |
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3空から改称後、セレベス島ケンダリーで練成にあたる。部隊の一部がチモール島クーパンに分派された。クーパン分遣隊は昭和18年5月、オーストラリア北岸のダーウィンに進攻し迎撃に上がってきた英空軍のスピットファイアと空戦、圧勝したという。
その後ラバウル方面・トラック・ポナペ島などに分派されている。
昭和19年3月〜4月、激しくなる米陸軍のB24の夜間空襲に対し、指揮下の零戦隊(戦闘603・飛行隊長
新郷英城大尉)は夜間要撃戦を展開している。
昭和19年5月、主力部隊が西部ニューギニア・ソロンに進出。ビアク上陸作戦を続ける米軍に対して反撃をする。その後、6月の『あ号作戦』で米機動部隊と交戦。兵力を消耗しダバオに後退したところで解隊となった。 |
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第二〇三海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和19年2月20日 厚木海軍航空隊を改称 |
装備機種 |
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艦戦 |
原隊・原駐在地 |
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厚木航空基地 |
所属(最終時) |
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第五航空艦隊 第七二航空戦隊 |
解隊 |
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終戦 |
解説 |
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当初は北方、千島・アリューシャン方面の防空を担当していたが、後に関東方面に移動。
当初配備されていた飛行隊は特設飛行隊制度によって編成された戦闘303と戦闘304の2個飛行隊で、共に零戦装備隊であった。他に少数の『月光』を少数配備していた。ただこれは便宜上203空の指揮下に在り、運用上から見れば当時の上部組織であった第五一航空戦隊司令部付きであった。(第1月光隊・占守派遣隊) 5月6日付けで正式に第五一航空戦隊司令部直属に変更され、同じ占守島に派遣隊を出していた553空の指揮下に編入された。
昭和19年9月、一部がT部隊に編入され、10月台湾沖航空戦に参加した。
その後、本隊(戦闘303、戦闘304)はフィリピン・ルソン島のバンバンに進出、レイテ航空総攻撃やマニラ防空戦に参加しつつ神風特攻隊を編成した。
戦力を消耗した為、11月には笠之原に後退し戦力の回復をはかり、その後、戦闘308が221空より転入する。だが、12月末には再び221空に戻った。
第五一航空戦隊司令部直属として北方に残った『月光』隊は、553空の解隊に伴い、やはり美幌に展開していた第2月光隊と千歳で合流。両部隊を併せて戦闘812に改編され、再び203空の指揮下に編入された。ただし、戦闘812の203空編入は夜戦隊をフィリピンに送り込む形式的なものであった。本隊である戦闘303、戦闘304は既に本土に引き上げていたし、203空の指示を受けて作戦行動したわけではなかったのだから。
昭和20年3月21日、ロケット特攻機『桜花』による初出撃、第一次神雷特攻に零戦11機が護衛として参加した。(この作戦は攻撃隊の殆どが撃墜され、護衛の零戦も10機が撃墜され失敗に終わった。)その後、戦艦大和の沖縄海上特攻作戦にも護衛部隊として出撃した。
沖縄作戦(菊水作戦)終了後は築城に後退し、米軍の本土上陸作戦に備えたが、そのまま終戦を迎えた。 |
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第二〇四海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和17年11月1日 第六航空隊を改称 |
装備機種 |
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艦戦 |
原隊・原駐在地 |
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所属(最終時) |
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第十一航空艦隊 第二六航空戦隊 |
解隊 |
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昭和19年3月4日 |
解説 |
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6空から改編後もブーゲンビル島ブインにあって、ソロモン航空戦に従事した。
昭和18年4月、『い号作戦』に参加。その後、4月18日に前線視察を行う山本五十六連合艦隊司令長官の護衛機として零戦6機が参加。しかし暗号電文解読による情報漏えいから米軍機に待ち伏せを受け、長官が乗座した一式陸攻は撃墜されてしまった。(護衛の零戦6機は全機帰還)
6月、ラッセル島(ガ島西方)侵攻作戦で爆装零戦を出撃させたが、被害甚大で作戦中止。その直後に米軍による中部ソロモン進攻作戦が本格化し、以後阻止迎撃戦に移っていく。
昭和19年1月、戦力を消耗しトラックに後退したが、部隊再建中にトラック大空襲を受け部隊は壊滅。直後に解隊となった。 |
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第二〇五海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和20年2月5日 |
装備機種 |
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艦戦 |
原隊・原駐在地 |
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藤枝航空基地(※書類上のみ) |
所属(最終時) |
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高雄警備府 第二九航空戦隊 |
解隊 |
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終戦 |
解説 |
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台中(大湾)で編成された部隊であり、昭和19年のフィリピン航空戦でフィリピンから台湾に脱出した第一航空艦隊の生存者で編成された。書類上の定数は144機であったが、実際に可動機数は昭和20年3月の時点で20機程度でしかなかった。
昭和20年4月、沖縄作戦が開始されると石垣島・宮古島に前進。特攻部隊「大義隊」と命名され、爆装零戦による特攻攻撃を行った。 |
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第二一〇海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和17年9月15日 |
装備機種 |
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艦戦 局戦 夜戦 陸偵 艦爆 艦攻 |
原隊・原駐在地 |
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明治航空基地 |
所属(最終時) |
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第三航空艦隊 第五三航空戦隊 |
解隊 |
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終戦 |
解説 |
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定数180機、保有機数各機合計159機、人員3,300名という大規模航空隊である。これは多機種の実用機搭乗員を一箇所に集め、効率的に養成することを目的として編成された練成教育任務兼実用航空隊であった為である。そのため、艦戦(甲戦)、局戦(乙戦)、夜戦(丙戦)、艦爆、艦攻、陸偵の6種の飛行隊を持ち、当時の小型実用機のほとんどの機種が配備された異色の大航空隊でもあった。
昭和20年、本土防空作戦のため、本隊は名古屋に在ったが、徳島や阪神地区にも一部を分派した。主任務が教育を終えた搭乗員に対する練成教育であったが、次第にB29迎撃作戦や米機動部隊艦載機に対する迎撃作戦にも参加するようになる。
4月からの沖縄作戦では南九州の各基地に進出したが、途中零式輸送機で移動中の司令(田中義雄大佐)が敵機に遭遇、機上負傷するというアクシデントに見舞われる。
その為、戦闘機隊(零戦隊・紫電隊)と彗星隊は最終的には第1国分基地に終結、601空(司令:杉山利一大佐)の指揮下に編入されて作戦に従事し、天山隊は串良基地に終結し131空(司令:濱田武夫大佐)の指揮下に編入された。
5月には戦闘機隊専門部隊に改編され、防空任務を担当しつつも本土決戦に備えて戦力温存作に移行。出撃を抑えたまま終戦を迎えた。 |
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第二二一海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和19年1月15日 |
装備機種 |
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艦戦 |
原隊・原駐在地 |
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所属(最終時) |
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第一航空艦隊(飛行機隊)
南西方面艦隊 第二六航空戦隊(フィリピン残留隊) |
解隊 |
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終戦 |
解説 |
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1944年(昭和19年)1月、笠之原基地にて開隊。
2月の東号作戦発令により一部(8機)が霞ヶ浦に進出。6月の『あ号作戦』の際にも一部(16機)が木更津に派遣された。いずれの場合も短期間の派遣であり、米機動部隊の来襲に備えていたが、交戦の機会はなかった。
7月10日の大改編により大航空隊編制にすることが決定。指揮下の飛行隊は従来の部隊を再編した戦闘308、戦闘312、戦闘313と追加編入された戦闘407の4個飛行隊(定数:192機)となった。
8月、戦闘312は3回に渡って台湾・新竹基地に進出し、防空及び船舶護衛任務に従事する。
10月12日、米機動部隊による台湾空襲の折り、戦闘312は邀撃戦を展開。43機で出撃し23機(内、不確実7機)と引き換えに15機が失われた。15日、16日には米機動部隊攻撃に向かった攻撃機隊を護衛し出撃しているが、いずれも大部分は途中で引き返している。
一方、九州に残されている他の飛行隊は14日に台湾に進出した。
10月23日、221空4個飛行隊の残存可動機合計60機がフィリピン・ルソン島のアンヘレス基地に進出。進出戦力は戦闘407、戦闘313、戦闘308。(戦闘308は11月26〜12月21日の一時期、203空に所属)
翌日よりルソン東方海域を行動する米機動部隊に対する攻撃に参加。フィリピン航空総攻撃に参加し、米機動部隊やレイテ湾の米艦隊を攻撃し、一部はホロ島に前進し、モロタイ島攻撃に参加した。
その後221空からも特攻隊が抽出され、消耗も激しかった。
11月、部隊改編が行われ、戦闘308、戦闘312は残留したが戦闘313、戦闘407は203空に転出し、代わりに戦闘303、戦闘304、戦闘315、(戦闘317
?)が編入され、201空に代わってフィリピン防空戦の主力となって奮戦する。但し、編入された全ての飛行隊が221空の指揮を受けたわけではなく、戦闘303、戦闘304は203空として行動しており、資料によっては戦闘303はこの再編制で201空編入ともされている。実際の所各飛行隊は独立して行動しており便宜的なものに過ぎなかったようだ。
次第に戦力を消耗し、1945年(昭和20年)1月、フィリピンより後退。飛行機隊は台湾に脱出し、第一航空艦隊の指揮下に編入されるが、地上員は残留部隊として抵抗戦に参加することとなった。
後退した戦闘308は館山基地にて252空に編入され、戦闘303、戦闘304、戦闘312は203空に編入(帰隊)
(戦闘313は? 20年6月は722空に配備)
ちなみに、221空は1の位が奇数の航空隊ではあるが、特設航空隊である。(所属は呉管区) |
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第二五一海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和17年11月1日 台南航空隊を改称 |
装備機種 |
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艦戦 陸偵 夜戦 |
原隊・原駐在地 |
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台南航空基地 |
所属(最終時) |
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第一航空艦隊 第二二航空戦隊 |
解隊 |
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昭和19年7月10日 |
解説 |
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台南空から改称後、消耗した戦力を回復させる為に内地に戻り豊橋で再建に掛かる。生還者は10名余りであった。
昭和18年5月、米軍が本格的に中部ソロモン反攻作戦を開始する直前にラバウルに再進出。反撃に移り、再び戦力を消耗していった。
一方、司令の小園安名中佐(当時)はたびたびラバウルに襲来する米陸軍のB−17に対抗する為に斜め銃を装備した夜間戦闘機『月光』を考案、配備に漕ぎ着けた。『月光』はそれなりの戦果を上げ、9月からは『月光』装備(定数24機)の夜戦専門航空隊となった。だが米軍の攻撃が夜間爆撃から昼間爆撃に重点を移した為空振りに終わる。
昼戦隊搭乗員は201空や253空に転属となった。この中には鴛淵中尉、林中尉、西沢飛曹長らが居た。
昭和19年2月、ラバウルを放棄してトラックに後退したが、トラック大空襲により部隊は壊滅した。その後フィリピンに後退し、7月に解隊となった。解隊後、所属の夜戦飛行隊(戦闘901)はダバオに展開していた153空に編入され、一部の搭乗員は内地に帰還(戦闘851や302空に転勤)。約半数のにあたる現地残留搭乗員は251空解隊と同時に展開した乙航空隊の東カロリン航空隊に編入された。 |
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第二五二海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和17年9月20日 元山航空隊戦闘機隊が改称 |
装備機種 |
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艦戦 |
原隊・原駐在地 |
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鹿児島航空基地 |
所属(最終時) |
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第三航空艦隊 第七一航空戦隊 |
解隊 |
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終戦 |
解説 |
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元山空から戦闘機隊が分離されて編成され、館山基地で開隊された。
編成後、激戦となったソロモン方面の作戦に参加する為、ラバウルに進出。ガダルカナル島を巡る一連の作戦に参加、陸軍第三八師団主力を輸送するガ島輸送の上空援護と迎撃戦に参加したが輸送は失敗に終わった。その後もガ島周辺や、東部ニューギニアの航空戦に参加し、昭和18年2月、マーシャル諸島ルオット島に後退した。
10月のウェーク島空襲や、11月のギルバート諸島マキン・タラワ両島への米軍進攻に対して迎撃部隊として参加したが、いずれの場合も大損害を蒙った。12月にはルオット島も空襲を受けるようになり、戦力を消耗していく。そして米軍のルオット上陸に備えて陸戦準備をしているときに館山への後退命令が出た為、1944年(昭和19年)2月5日夜、来航した8機の飛行艇・陸攻によりウォッゼ、タロア、ブラウン各島に孤立していた他隊(755空)搭乗員らと共に収容しトラックに帰還。その後本土に帰還し再建を開始する。
マーシャル航空戦で壊滅した航空隊は直ちに再建を開始。館山基地で練成を開始し、同時に十二航艦二七航戦に編入される。3月より訓練基地を三沢に移し、4月1日より空地分離が適用され飛行隊は戦闘315、戦闘317となり、また戦闘302が編入された。
6月、『あ号作戦』に対応して横須賀航空隊を基幹とした八幡部隊に編入され硫黄島に進出したが、米機動部隊艦載機群と空戦。13機撃墜を記録するも14機を失った。この硫黄島航空戦は完敗であった。
再び茂原・館山で再建するが、一部(戦闘317)は11月まで硫黄島に交代で残留し同島防衛任務に就く。さらに硫黄島で壊滅した戦闘316が301空解隊に共にな252空に編入される。
10月、一部戦闘317所属機を除く飛行隊がフィリピンに進出。レイテ航空総攻撃に参加し、戦力の半数近くを失った。(10月24日の航空総攻撃には252空からは艦戦26機が参加、指揮官機以下11機を失った)
その後もレイテ作戦に参加しつづけるが、戦力の消耗が激しく、また1航艦の主力201空の戦力消耗が激しい為、比較的数の揃っていた252空から戦闘302、戦闘315、戦闘316といった在フィリピン派遣戦力の殆どが201空に編入。代わりに本土で再編されていた201空所属の戦闘301、戦闘311の両飛行隊(共に新設部隊として本土で再建中)が252空に編入された。このため、書類上は252空の戦力は全て本土にあるものとされ、司令部と一部搭乗員が本土に帰還した。
一方、本土に残留していた戦闘317(の一部)も11月27日に第一次御楯特別攻撃隊として爆装零戦11機がサイパン島への片道攻撃に参加し、全機未帰還となった。
その後も出撃を続け昭和20年2月には再び館山に後退して勢力再建を目指す。同じくフィリピンで戦闘を行った221空の戦闘308が編入され、戦力再建を行う。また硫黄島に進出し壊滅に瀕していた戦闘317は残存搭乗員が戦闘308への編入となり、戦闘308硫黄島派遣隊と位置づけられた。(戦闘317は205空で再建)
戦闘301は再建途中に343空に転出し、紫電改装備の飛行隊として四国、九州方面に展開することとなる。
2月の時点に於ける戦力は戦闘304(252空で再編制)、戦闘308(203空より編入)、戦闘311、戦闘313(203空より編入)戦闘316の5個飛行隊編制となる。
その後再建中にも一部は本土防空戦に参加。米機動部隊艦載機群と交戦する。
3月、また部隊の一部が移動し、戦闘308は601空に転出し、戦闘311は203空に編入された。代わりに攻撃3が編入され、沖縄航空戦に協力する為九州に派遣され601空の指揮下で編入。特攻隊を編制した。
沖縄戦終結後、関東に引き上げた各飛行隊は郡山(戦闘304)と茂原(戦闘316)に部隊を配置し、関東地区防空戦に出撃しているが、末期には戦力温存策のため出撃もままならず、そのまま終戦を迎えた。
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第二五三海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和17年11月1日 |
装備機種 |
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艦戦 陸偵 |
原隊・原駐在地 |
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築城航空基地 |
所属(最終時) |
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第一航空艦隊 第二二航空戦隊 |
解隊 |
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昭和19年7月10日 |
解説 |
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鹿屋航空隊戦闘機隊を基幹戦力としてニューアイルランド島カビエンで開隊した。
ソロモン航空戦に参加し、戦力を消耗した昭和18年5月、サイパンに後退した。米軍による中部ソロモン進攻作戦が本格化する直前のことである。
9月には再びラバウルに進出、翌年2月まで迎撃作戦に従事した。この時期非常に多くの迎撃戦果を報告しているが、殆どが誤認によるものであったといわれている。実際の戦果は1割程度であったといわれるが、この時期の戦果報告は他の部隊も似たようなものであった。
昭和19年2月、トラック大空襲後にトラックに後退したが、その後の空襲に対する迎撃戦で戦力の殆どを失った。6月、残存戦力がグァム島に後退したところ着陸直前に米機動部隊の空襲を受け、全機壊滅となった。 |
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第二五四海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和18年10月1日 |
装備機種 |
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艦戦 局戦 艦攻 |
原隊・原駐在地 |
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大村航空基地 |
所属(最終時) |
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海南警備府(海南島) |
解隊 |
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昭和20年1月1日 第九〇一海軍航空隊に統合 |
解説 |
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開隊当初、南シナ海の海上護衛、香港、海南島核基地の防空を担当していた。
昭和19年10月末、零戦隊(9機)でマニラ近郊のマルコットに進出、フィリピン防衛航空戦に参加した。
11月中旬には戦力を消耗して海南島に後退、翌年元旦には解隊して901空に統合された。 |
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第二五六海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和19年2月1日 |
装備機種 |
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艦戦 局戦 艦攻 水偵 |
原隊・原駐在地 |
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大村航空基地 |
所属(最終時) |
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支那方面艦隊 |
解隊 |
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昭和19年12月15日 第九五一海軍航空隊に統合 |
解説 |
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開隊当初は上海防空を担当しつつ、若年搭乗員の練成にあたる。
特設飛行隊制度は導入されず最小限の定数24機で編制され、少数の艦攻隊と水偵隊を有する異色の戦闘機航空隊である。
また中国奥地から九州を狙うB29の進路に近い為、直接上海が空襲されることを警戒したこと、また九州への往復途上での迎撃を狙って乙戦『雷電』の配備も行われた。
昭和19年10月、台湾沖航空戦が開始。256空は254空と共に台中防空にあたる為、零戦10〜11機が台湾に移動。その後零戦隊のフィリピン進出が決定する。
10月末、零戦6機が254空に編入されルソン島に進出。レイテ航空戦に参加した。(12月には部隊は壊滅)
一方、上海に残留した戦闘機隊は防空戦闘に従事しつつ終戦を迎えた。 |
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第二六一海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和18年6月1日 |
装備機種 |
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艦戦 |
原隊・原駐在地 |
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鹿児島航空基地 |
所属(最終時) |
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第一航空艦隊 第六一航空戦隊 |
解隊 |
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昭和19年7月10日 |
解説 |
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新編された第一航空艦隊(基地機動航空部隊)所属、『虎』部隊として昭和19年2月に連合艦隊に編入されサイパン島に進出した。
3月30日、米機動部隊によるパラオ空襲に呼応して出撃したが会敵せず、ペリリュー島に着陸した。翌日、同島が米機動部隊による空襲を受け、保有機数のうち、28機が撃墜または地上大破となって失われた。その後搭乗員はサイパン島に戻って部隊再建を行ったが、4月にはメレヨン島攻撃で、B24に対する体当たり攻撃を敢行。さらには5月、ビアク島奪還の為に戦力を派遣したが、全機(12機)が失われた。
6月、この状況下で迎えた『あ号作戦』では数機が果敢に攻撃を繰り返したが、戦果には程遠く、結果なすすべなく壊滅。作戦後、解隊となった。 |
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第二六三海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和18年10月1日 |
装備機種 |
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艦戦 |
原隊・原駐在地 |
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元山航空基地 |
所属(最終時) |
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第一航空艦隊 第六一航空戦隊 |
解隊 |
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昭和19年7月10日 |
解説 |
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新編された第一航空艦隊(基地機動航空部隊)所属、『豹』部隊として昭和19年2月に連合艦隊に編入されテニアン島に進出したが、先発した18機は進出直後に米機動部隊の空襲に遭遇し、全滅した。
3月末、グァム島経由パラオ諸島ペリリュー島に進出した25機も到着翌日に空襲され殆ど壊滅した。
戦うことなく全滅していく航空隊は同隊だけではなく、この時期マリアナ諸島に進出した第一航空艦隊(司令長官:角田覚治大将)指揮下の各部隊が同様の被害を受けている。これには海軍乙事件による上級司令部の指揮系統の混乱の影響も絡んでいる。
同部隊は多大なる損害を受けながらも、残留部隊がグァムを拠点に数機の残存零戦を駆って米機動部隊に肉薄攻撃を反復したが、『あ号作戦』決戦当日にはほとんど全滅していた。 |
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第二六五海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和18年11月18日 |
装備機種 |
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艦戦 |
原隊・原駐在地 |
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鹿児島航空基地 |
所属(最終時) |
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第一航空艦隊 第六一航空戦隊 |
解隊 |
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昭和19年7月10日 |
解説 |
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新編された第一航空艦隊(基地機動航空部隊)所属、『雷』部隊(または『狼』?)として昭和19年4月〜5月サイパン島に進出したが、米軍のビアク島上陸作戦に呼応し、奪還する為に戦力の大部分がペリリュー島に移動した。
同部隊がペリリュー島に移動している間に米機動部隊によるサイパン空襲が開始され、残留部隊は全滅した。ペリリュー島に在った本隊も米機動部隊に攻撃を加えたというが、6月19日の『あ号作戦』決戦当日の出撃状況も詳細は不明である。 |
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第二八一海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和18年3月1日 |
装備機種 |
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艦戦 |
原隊・原駐在地 |
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舞鶴航空基地 |
所属(最終時) |
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第十二航空艦隊 第二七航空戦隊 |
解隊 |
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昭和19年2月6日 玉砕
昭和19年2月20日 解隊 |
解説 |
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当初、千島列島幌延に進出、アッツ島攻防戦支援に従事した。
昭和18年11月末〜12月にルオット島に進出(252空との交代)したが、その直後に米機動部隊の空襲により戦力を消耗した。その後の波状空襲により航空機は全機喪失した。
昭和19年2月の米軍上陸には陸戦隊として抵抗したが、6日までには玉砕したと推定される。 |
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