特攻を拒否した海軍独立航空集団 芙蓉部隊 |
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(以下は以前某所に書いた文を転載。あとで書き直します) |
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芙蓉部隊は本当に実在した部隊であり、本来の上部組織・第一三一航空隊からは独立した存在として3個夜間飛行隊をもって編成されています。 第901飛行隊 第804飛行隊 第812飛行隊 装備機は『零戦』と、欠陥機とさえ呼ばれた液冷式の『彗星』艦上爆撃機を主体としており、前線基地として九州の鹿屋(後半は岩川)、後方基地として静岡の藤枝(現静浜基地)に展開していました。 他にも同様の部隊は存在しますが、艦隊司令部に真っ向から特攻反対をした部隊はココだけです。そして特攻に代わりうる代案として生み出されたのが夜襲戦法でした。 本来、日本の夜間戦闘機隊とは敵爆撃機に対する迎撃部隊として配備されているのですが、外地(フィリピン)を戦った上記3個飛行隊はいずれも爆撃や魚雷艇攻撃といった本来攻撃飛行隊の任務であった作戦を行っており、フィリピン脱出後、静岡県藤枝にて集結、統合が行われここに半独立集団・芙蓉部隊が結成されたのです。 任務は引き続き敵空母が攻撃隊発進前に甲板上の敵航空機を銃爆撃で制圧しようという美濃部少佐のソロモン以来の作戦方針をもって編成・訓練された。 使用機もフィリピンで使用した夜間戦闘機『月光』が整理機種になり生産中止。 2代目夜間戦闘機として配備され始めた『彗星夜戦』『銀河夜戦』の内、『彗星夜戦』を主軸にすることになった。 しかしこの機種は前線ではエンジン系統のトラブル続出で、欠陥機とまで言われている機種であった。 今までに無い水冷式エンジンを前線の整備兵が扱いきれなかったのである。 後半は扱いなれた空冷式改修されるのだが、現に配備された水冷式はそのまま放置されていた為、これらを集めて数を揃えていく事となる。 任務上、敵爆撃機の迎撃任務は行わない方針であった為、日本夜間戦闘機の必須装備・斜め銃は装備せず、爆撃機タイプ・偵察機タイプのまま部隊配備されていた。 この為『本来爆撃機迎撃を任務とする筈の夜間戦闘機部隊に艦上爆撃機が配備され、その任務は襲撃部隊と同様の銃爆撃任務』という変則さが起こった。 所属する最高上部司令部・第3航空艦隊の司令部で行われた作戦会議の際に一番下の指揮官として会議に出席した美濃部少佐はここで重要な局面を迎える。 3航艦の作戦方針は全軍特攻でいくという。各機に割り当てられる燃料が乏しいというのが理由であった。 そして特攻に反対する人は唯の一人もいなかった。全員が既に特攻を既成事実として・・・諦めていたようだ。 しかしここで諦めてはと思った美濃部少佐は居並ぶ高官連中に発言を行う。 つまり・・・ 「特攻の掛け声ばかり大きくてもどうしようもない。ここにいる人は司令官・参謀ばかりで実際に特攻する分けては無い。練習機まで投入したところで戦果を期待できるはずがない。失礼ながら私はココにいる誰よりも多く突入してきました。もし練習機まで投入しても戦果が上がるというならあなた方が突入したらいい。私が零戦一機で全機撃墜して見せます。」 といったような事を発言した。(多少違うけど勘弁。憶えてない(T▽T)) その後部隊の訓練状況を見せるなどの努力をし、芙蓉部隊は特攻編成から外されることとなった。 ちなみに海軍において特攻を公の場で批判したものはたったの二人だけである。 美濃部少佐とフィリピン戦当時の第二航空艦隊司令長官・福留中将だけである。 ただし、中将は神風特攻隊が編成された時のことであり、その後通常攻撃を行った2航艦が戦果が上がらないのに対し、少数機だった1航艦の神風攻撃隊は一応の戦果を上げることが出来た。 その為、フィリピン戦後半は2航艦も特攻を取り入れている。 戦後、特攻には反対であったという司令官が多くおり、多くの著書で発表しても実際に特攻した者達にとっては、その時に『特攻には反対』と言ってくれる指揮官の方がどんなに嬉しかっただろうと思う。 米軍の沖縄上陸がほぼ確実視された頃、関東地方配備であった芙蓉部隊は前線基地・九州の鹿屋基地に一部部隊を移動を開始した。。 ただしまだ訓練の済んでいない者は後方基地である藤枝に残った。そして適宜後方から交代要員が派遣され、前線で疲れた隊員を後方に送り返すという当時の日本ではまずありえないシステムである。 (当時は戦死するまで戻れないとさえ言われていた。) 天一号作戦・菊水攻撃発動、沖縄戦の開始である。 芙蓉部隊は攻撃目標を本来の米空母から沖縄の飛行場に変えての出撃である。 制空権なき戦場において沖縄を攻撃するのは非常に困難であり、敵戦闘機の少ない夜間に単独、または集団で銃爆撃を行い米軍に対し一矢報いようとしたのだ。 そこでベテランパイロットの少なくなった大戦後半、比較的開戦以来のベテランが多く残っている水上偵察機出身者(彼等の多くは任務上夜間飛行を可能とする腕の持ち主であった為)を部隊の基幹とし、若手の第13期予備学生出身者とでコンビを組ませて沖縄の空に出撃したのです。 当初、菊水作戦は最初の段階で全軍特攻攻撃で敵を壊滅させ、あとは追撃戦・掃討戦を行う予定というむしのいい事を考えていた。 しかし実際はずるずると菊水1号作戦から10号作戦まで行われることとなる。 特攻で戦力が枯渇していくなか、常に戦力を維持しつづけ、作戦ごとに自隊なりの作戦方針をもって攻撃を続行していたっのが芙蓉部隊であった。 全ての機会を訓練に振り向け、夜間攻撃訓練につぎ込んできた芙蓉部隊が注目を浴び始めたのである。 事実、4号作戦辺りからは芙蓉部隊が攻撃の主力となっていく。 九州からの航空作戦を指揮する海軍の第5航空艦隊司令部でさえ、芙蓉部隊という名称で作戦指示を出している。 これが何を意味するのか・・・通常部隊内で付けられた部隊名は私的なものであり、公的には使われることはない。有名な松山の紫電改を装備した343空・剣部隊でさえ、343空宛てで命令が指示されている。 しかし芙蓉部隊は最初こそ『関東空』(注)という部隊名であったが、4号作戦の頃から『三航艦・芙蓉部隊』の名前で指示が出されるようになった。 沖縄戦が終わりかけた頃、次は九州の防衛ということで各隊は戦力温存の為、出撃を制限するようになる。(本来の上部組織である131空の指示さえ受けずに独立していた為、臨時で乙航空隊[航空部隊を持たない基地管理部隊]の関東空の指揮下にあった。しかし部隊は芙蓉部隊指揮官・美濃部少佐の下、独自の行動をとっている。) その上沖縄からの敵爆撃を避ける為、各隊は南九州から北九州に基地を移動を開始する。 しかし芙蓉部隊は航続距離の都合から北九州に後退すると沖縄攻撃が出来なくなるとし、岩川に留まりつづけた。 他隊が基地に攻撃を受けた際に機材を喪失していくなか、秘密基地ともいうべき岩川基地はただの一度も攻撃を受けなかったという。偽装を凝らし、敵どころか味方でさえ分からないという程で、夜間ある一定方向以外からでは基地の場所も確定出来なかったという。 芙蓉部隊は唯の一機も特攻機を出すことなく、(出撃した際に戦死し、特攻として認定されたケースはある。)終戦まで戦いつづけた。 7月にはいっていよいよ米軍の九州上陸か?と思われたとき、美濃部少佐は最後の攻撃を決意したという。指揮官を先頭にした24機からなる芙蓉部隊最初で最後の特攻攻撃であった。指揮官が戦死したら後は勘弁して欲しいとのことであった。残った隊員たちはそれぞれ血路を開いて生き延びるべしと指示された。 他隊が司令以下幕僚陣が生き残り特攻に送り出していったのとは明らかに違った特攻の決意であったという。 結果は九州上陸前に広島・長崎の原爆投下とポツダム宣言受諾による日本敗戦であった為、特攻攻撃が行われることはなかった。 指揮官・美濃部正少佐のもと、半独立集団として沖縄戦を戦い、敗戦まで戦い続けた芙蓉部隊の戦いはこれで終わる。 当時、若干29歳で部隊を指揮し、軍内部に流れていた特攻攻撃に反対を続けた少佐。 特攻そのものを拒否はしないが、その前にやれる事全部やろうとしたゆえの戦いであった。 少しでも興味がある方はぜひ本を読んでほしいと思います。 <参考資料> 彗星夜戦隊(図書出版) 彗星夜襲隊(朝日ソノラマ) 私は22歳以降、かわらずに尊敬すべき人物No.1は美濃部少佐です。 |
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