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厚木海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和18年4月1日 |
装備機種 |
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艦戦 |
所在地 |
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神奈川県高座郡 |
所属(最終時) |
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第十二航空艦隊 第五一航空戦隊 |
解隊 |
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昭和19年2月20日
第二〇三海軍航空隊と改称 |
解説 |
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当初は第十一航空艦隊所属の艦戦搭乗員養成のための航空隊として開隊したが、後に第二〇三海軍航空隊と改称され、帝都・関東地方の防空戦闘機部隊として活動する。(後に北東方面→フィリピン→沖縄と戦場を移動。 帝都防空は302空に引き継がれた。)
夜戦の『月光』搭乗員を練成する部隊は木更津派遣隊として厚木とは別の木更津基地で練成し、203空に改編された後も木更津で練成に努める。その後大部分は302空夜戦隊(第二飛行隊)に編入され、残りは322空所属の戦闘804に編入される。また一部の搭乗員は203空に戻り、203空付き夜戦隊となった。 |
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大湊海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和8年11月1日 |
装備機種 |
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水偵 陸攻 艦戦 |
所在地 |
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青森県下北郡 |
所属(最終時) |
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大湊要港部 |
解隊 |
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昭和19年12月15日
第九〇三海軍航空隊に統合 |
解説 |
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鹿屋海軍航空隊(初代) |
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開隊 |
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昭和11年4月1日 |
装備機種 |
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陸攻 艦戦 |
所在地 |
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鹿児島県鹿屋市 |
所属(開隊時) |
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第十一航空艦隊 第二一航空戦隊 |
解隊 |
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昭和17年10月1日
第七五一海軍航空隊と改称 |
解説 |
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元山海軍航空隊(初代) |
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開隊 |
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昭和15年11月15日 (10月1日編成?) |
装備機種 |
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陸攻 艦戦 |
所在地 |
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朝鮮咸鏡南道 |
所属(開隊時) |
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第十一航空艦隊 第二二航空戦隊 |
解隊 |
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昭和17年9月20日
艦戦部隊が分離・独立し、第二五二海軍航空隊となる。
昭和17年11月1日
本隊(陸攻部隊)が第七五五海軍航空隊と改称 |
解説 |
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解隊した15空を基幹戦力として編成された航空隊。開隊後、南洋方面で訓練に従事。昭和16年4月末に上海経由で漢口に進出。重慶・成都爆撃作戦に参加する。
装備機は九六陸攻(定数:陸攻36機(予備12機)・艦戦36機(予備12機))
太平世戦争開戦後、マレー方面の航空戦に参加。
昭和17年2月、蘭印方面作戦に参加。
3月、ビルマ作戦参加の為サイゴンに進出。その後バンコクに。
4月20日、東南アジア方面からソロモン方面に転用され、陸攻隊の一部(先遣隊9機)ラバウルに到着。以後戦力の移動が行われ、ポートモレスビー攻撃作戦等に参加する。
6月、本土(三沢)に帰還。
7月、南東方面への航空戦力終結により、本土に残る(艦戦部隊としては)唯一の実戦部隊航空戦力となった為、艦戦隊が木更津に移動。陸攻隊は三沢に在って本土東方海域の哨戒任務に従事する。
9月、艦戦隊が252空に再編。
10月、木更津に移動。(陸攻隊)
11月、755空に改称。 |
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元山海軍航空隊(二代) (練習航空隊) |
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開隊 |
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昭和19年8月15日 |
装備機種 |
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艦戦 局戦 |
所在地 |
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所属(開隊時) |
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(不明) |
解隊 |
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解説 |
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大村空元山分遣隊が独立して開隊した艦戦実用機教程担当の練習航空隊。
零戦の他、『紫電』や『雷電』も配備していた。
昭和20年4月、沖縄航空戦に参加する為、『神風特別攻撃隊・七生隊』を結成する。
沖縄戦後は本土決戦の為に特攻訓練に従事し、そのまま終戦を迎えた。 |
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木更津海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和11年4月1日 |
装備機種 |
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陸攻 |
所在地 |
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千葉県木更津市 |
所属(最終時) |
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第十一航空艦隊 第二六航空戦隊 |
解隊 |
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昭和17年11月1日
第七〇七海軍航空隊と改称 |
解説 |
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千葉県木更津に開隊した陸攻部隊であり、日中戦争勃発直後に編成された第1連合航空隊に編入され、初の渡洋爆撃を強行した部隊である。
以後、南京飛行場爆撃をはじめ、南京・上海方面の作戦に参加。
その後、陸攻搭乗員養成部隊へとなったが、太平洋戦争開戦後の昭和17年4月、再び実戦部隊として第二六航空戦隊の指揮下でラバウル方面に進出。ソロモン方面での作戦に従事した。 |
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串本海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和17年12月1日 |
装備機種 |
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水偵 |
所在地 |
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和歌山県西牟婁郡 |
所属(最終時) |
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大阪警備府 |
解隊 |
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昭和19年12月15日
第九〇三海軍航空隊に統合 |
解説 |
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呉海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和6年6月1日 |
装備機種 |
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水偵 艦戦 艦爆 |
所在地 |
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広島県呉市 |
所属(最終時) |
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呉鎮守府 |
解隊 |
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昭和20年5月5日 |
解説 |
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1931年(昭和6年)に佐世保航空隊から分かれて水上機を担当する航空隊として開隊。
1941年(昭和16年)秋、戦闘機隊を山口県岩国基地に展開させ、呉戦闘機隊(岩国分遣隊)とする。これは零戦による空戦教育と佐世保鎮守府の防空を担当する準実施部隊であった。
1944年(昭和19年)8月1日、従来呉鎮守府管轄区域の防空を担当していた呉空戦闘機隊(岩国分遣隊)は7月21日付けで作戦時に限り防衛総司令官の指揮下に編入されることが決定し、純然たる作戦部隊に決まった為、第三三二航空隊へと改編された。(開隊は8月1日) |
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佐伯海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和9年2月15日 |
装備機種 |
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艦上機(?) 水偵 飛行艇 |
所在地 |
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大分県佐伯市 |
所属(最終時) |
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第八特攻戦隊 |
解隊 |
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終戦 |
解説 |
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佐世保海軍航空隊 |
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開隊 |
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大正9年12月1日 |
装備機種 |
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水偵 飛行艇 |
所在地 |
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長崎県佐世保市 |
所属(最終時) |
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佐世保鎮守府 |
解隊 |
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昭和19年12月15日
第九五一海軍航空隊に統合 |
解説 |
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大正9年に開隊した古い航空隊であり、水上機を担当する航空隊。だが佐世保鎮守府の防空も担当する為、少数の陸上機を付近に併設した小規模飛行場を配置していた。
1941年(昭和16年)秋、戦闘機隊を長崎県大村基地に展開させ、佐世保戦闘機隊(大村分遣隊)とする。これは零戦による空戦教育と佐世保鎮守府の防空を担当する準実施部隊であった。
1944年(昭和19年)8月1日、従来佐世保鎮守府管轄区域の防空を担当していた佐世保空戦闘機隊(大分分遣隊)は7月21日付けで作戦時に限り防衛総司令官の指揮下に編入されることが決定し、純然たる作戦部隊に決まった為、第三五二航空隊へと改編された。(開隊は8月1日) |
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宿毛海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和18年4月1日 |
装備機種 |
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水偵 |
所在地 |
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高知県幡多郡 |
所属(最終時) |
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第3艦隊 第50航空戦隊 |
解隊 |
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昭和19年1月1日
第四五三海軍航空隊と改称 |
解説 |
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水偵搭乗員練成部隊として活動 |
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台南海軍航空隊(初代) |
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開隊 |
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昭和16年10月1日 |
装備機種 |
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艦戦 |
所在地 |
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台湾台南州 |
所属(最終時) |
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第十一航空艦隊 第二五航空戦隊 |
解隊 |
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昭和17年11月1日
第二五一海軍航空隊と改称 |
解説 |
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開戦直前に艦戦部隊として編成され、台湾から出撃しフィリピン航空撃滅戦に従事した部隊である。
以後ボルネオ・ジャワ・ラバウル・東部ニューギニアと転戦し、第1段階作戦の基地航空部隊の中心として活躍した部隊である。坂井三郎一飛曹(当時)をはじめ、多くのエースパイロットを輩出した。
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高雄海軍航空隊(初代) |
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開隊 |
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昭和13年4月1日 |
装備機種 |
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陸攻 |
所在地 |
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台湾高雄州 |
所属(最終時) |
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第十一航空艦隊 第二三航空戦隊 |
解隊 |
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昭和17年10月1日
第七五三海軍航空隊と改称 |
解説 |
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日中戦争当時、昭和15年1月に連合艦隊・第一連合航空隊に編入、中国奥地での爆撃任務に従事した。 |
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太平洋戦争では南西方面での作戦に従事し、のちラバウルに進出、南東方面作戦に従事した。 |
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館山海軍航空隊(初代) |
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開隊 |
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昭和5年6月1日 |
装備機種 |
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艦戦 艦爆 艦攻 中攻 水偵 飛行艇 |
所在地 |
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千葉県館山市 |
所属(最終時) |
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横須賀防備戦隊 |
解隊 |
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昭和19年12月15日
第九〇三海軍航空隊に統合 |
解説 |
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館山海軍航空隊(二代) |
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開隊 |
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昭和20年5月15日 |
装備機種 |
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艦攻 水偵 |
所在地 |
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千葉県館山市 |
所属(最終時) |
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横須賀鎮守府 |
解隊 |
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終戦 |
解説 |
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父島海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和14年4月1日 |
装備機種 |
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水偵 |
所在地 |
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小笠原群島父島 |
所属(最終時) |
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横須賀鎮守府父島根拠地隊 |
解隊 |
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昭和19年12月15日
第九〇三海軍航空隊に統合 |
解説 |
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千歳海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和14年10月1日 |
装備機種 |
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艦戦 陸攻 |
所在地 |
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北海道千歳郡 |
所属(最終時) |
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第四艦隊第 二三航空戦隊 |
解隊 |
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昭和17年11月1日
第七〇三海軍航空隊と改称 |
解説 |
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解隊した13空搭乗員を基幹要員として編成された航空隊であり、陸攻と艦戦の混合部隊である。
開戦時にはウェーク島攻略作戦に参加。占領後はウェーク島に進出する。
昭和17年1月4日、ラバウルを空襲。占領後はラバウルに残留する。(ラバウル分遣隊)
2月10日、高雄空陸攻隊19機と千歳空陸攻8機・艦戦18機で4空を編制し、トラック島へ移動。(後702空に改称。)その後ラバウル分遣隊を帰還させ、航空隊としてラバウル進出を決定するが、2月24日米機動部隊によるウェーク空襲により同方面の哨戒任務に従事。(ラバウル派遣は4空に任務交代となった。)
10月、ラバウル進出。
11月、703空に改称。 |
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鎮海海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和11根か10月1日 |
装備機種 |
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水偵 |
所在地 |
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朝鮮慶尚南道 |
所属(最終時) |
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鎮海要港部 |
解隊 |
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昭和19年12月15日
第九五一海軍航空隊に統合 |
解説 |
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築城海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和17年10月1日 |
装備機種 |
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艦戦 艦爆 艦攻 |
所在地 |
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福岡県築上郡 |
所属(最終時) |
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第十二航空艦隊 第五一航空戦隊 |
解隊 |
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昭和19年2月20日
第五五三海軍航空隊と改称 |
解説 |
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東港海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和15年11月15日 |
装備機種 |
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大艇 |
所在地 |
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台湾高雄州 |
所属(最終時) |
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第十一航空艦隊 第二一航空戦隊 |
解隊 |
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昭和17年11月1日
第八五一海軍航空隊と改称 |
解説 |
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豊橋海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和18年4月1日 |
装備機種 |
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陸攻 |
所在地 |
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愛知県豊橋市 |
所属(最終時) |
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第十二航空艦隊 第五一航空戦隊 |
解隊 |
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昭和19年2月20日
第七〇一海軍航空隊と改称 |
解説 |
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第十一航空艦隊直轄の陸攻練習航空隊として追加編制された航空隊。
当初は錬成任務に従事していたが、錬成完了後は実戦部隊として戦闘に参加することとなる。 |
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舞鶴海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和10年10月1日 |
装備機種 |
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水偵 |
所在地 |
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京都府与謝郡 |
所属(最終時) |
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舞鶴要港部 |
解隊 |
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昭和19年12月15日
第九五一海軍航空隊に統合 |
解説 |
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三沢海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和17年2月10日 |
装備機種 |
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陸攻 |
所在地 |
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青森県上北郡 |
所属(最終時) |
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第十一航空艦隊 第二六航空戦隊 |
解隊 |
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昭和17年11月1日
第七〇五海軍航空隊と改称 |
解説 |
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美幌海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和15年10月1日 |
装備機種 |
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陸攻 |
所在地 |
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北海道網走郡 |
所属(最終時) |
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第十一航空艦隊 第二二航空戦隊 |
解隊 |
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昭和17年11月1日
第七〇一海軍航空隊と改称 |
解説 |
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解隊した15空陸攻隊の陸攻搭乗員の半数を基幹要員として新設された航空隊。 |
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横浜海軍航空隊 |
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開隊 |
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昭和11年10月1日 |
装備機種 |
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大艇 |
所在地 |
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神奈川県横浜市 |
所属(最終時) |
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第十一航空艦隊 第二五航空戦隊 |
解隊 |
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昭和17年11月1日
第八〇一海軍航空隊と改称 |
解説 |
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横須賀海軍航空隊 |
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開隊 |
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大正5年4月1日 |
装備機種 |
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各種 |
所在地 |
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神奈川県横須賀市 |
所属(最終時) |
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横須賀鎮守府 |
解隊 |
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終戦 |
解説 |
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海軍航空隊としてもっとも古い部隊であり、さまざまな機種の実験・操縦学生の教育・戦技開発を行ってきた。
また昭和7年頃から特殊飛行技術の研究・発表も行っており、所謂『源田サーカス』と呼ばれるアクロバット飛行を行って国民にアピール等を行ってきた。
練習部隊であり、実験航空隊でもあった横須賀航空隊ではあったが、戦争の推移により昭和19年の『あ号作戦』からは実戦部隊としても配備につくようになる。第二七航空戦隊の一部として八幡部隊と呼ばれる部隊を編成。昭和19年6月に硫黄島に進出した。ただし同部隊はマリアナ諸島に進攻してきた米機動部隊との交戦により3度の迎撃戦を展開して全機失われた。
以後本土防空戦や、九州に進出して特攻攻撃援護や防空戦に従事した。 |
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