駆逐隊編成
(第一駆逐隊〜第十九駆逐隊)
太平洋戦争中の艦隊編成
(第二十駆逐隊 〜 第六一駆逐隊)
(艦別配備状況・略歴)


第一駆逐隊
解説
峯風級(3隻)+神風級(1隻)]の4隻で編制された駆逐隊
大湊所属の警備駆逐隊であり、本土周辺・北方方面の警備に従事するが、戦局の悪化に伴ない南方航路護衛任務に抽出された。
各艦は順次南方戦線に抽出されていく。まず司令駆逐艦であった『沼風』が南方に向かい失われ、つづいて『波風』が北千島で航行不能となった。最後の『野風』『神風』に南方進出が命ぜられたのは1945年(昭和20年)になってからである。1月10日、大湊を出港し、南方に向かう最後の船団の護衛に就く。2月11日、基隆を出港しシンガポールに向かうが途中『野風』が被雷し、残存は『神風』ただ1隻となった。(『波風』は修理が完了し、瀬戸内海西部に移動)
2月15日、『汐風』『朝顔』が第三十駆逐隊(この時点では名目のみの編制)から編入され、瀬戸内海に配備された。
『神風』は第五戦隊附属と成ったが、南方に残った残存艦艇(『羽黒』『足柄』)も失われ、終戦の時まで戦い続けられた艦艇は『神風』ただ1艦であった。
     
駆逐隊司令
香川清澄大佐(46期) 1941/10/10 1943/4/30
脇田喜一郎大佐(48期) 1943/5/1 1943/8/19
渡辺保正大佐(49期) 1943/8/20 1943/12/19
春日 均少佐(59期) 1943/12/20 1945/8/15 『神風』艦長(兼任)
所属駆逐艦

野風 1922/3/31 舞鶴工廠で竣工
開戦時 大湊要港部第一駆逐隊に所属
以後、本土周辺の船舶護衛
1945/2/20 『伊勢』『日向』を護衛してシンガポールに向け航行中に南シナ海(パラワン島沖)で米潜水艦『パーゴ』の雷撃を受け戦没

沼風 1922/7/24 舞鶴工廠で竣工
開戦時 大湊要港部第一駆逐隊に所属
1942/6 アリューシャン作戦にキスカ攻略部隊として参加
1943/12/18 沖縄近海で米潜水艦『グレイバック』の雷撃を受け戦没

波風 1922/11/11 舞鶴工廠で竣工
開戦時 大湊要港部第一駆逐隊に所属
以後、本土周辺の船舶護衛
1944/9/8 北千島への輸送船団護衛中に米潜水艦からの雷撃を受け損傷(船体後部切断)
その後舞鶴に回航され、『回天』搭載艦に改造される
1945/2 修理完了
連合艦隊附属となる
その後瀬戸内海西部で訓練に従事
終戦時 残存(呉)
特別輸送艦に改造され、復員輸送任務に従事
中国に賠償艦として譲渡(改名:駆逐艦『瀋陽(シェン・ヤン)』)

神風 1922/12/28 三菱長崎造船所で竣工
開戦時 大湊要港部第一駆逐隊に所属
以後、本土周辺の船舶護衛
終戦時 残存(シンガポール在泊)
特別輸送艦に改造され、復員輸送任務に従事
御前崎沖で座礁擱座し、船体放棄

以下追加配備・他隊から編入
汐風 1945/2/15 第一駆逐隊に編入
第三駆逐隊第四航空戦隊附属→第五艦隊附属→第一海上護衛隊第三十駆逐隊第一駆逐隊
終戦時 残存(呉在泊)
特別輸送艦に改造され、復員輸送任務に従事

朝顔 1945/2/15 第一駆逐隊に編入
第三二駆逐隊第一海上護衛隊第一駆逐隊
1945/7/28 瀬戸内海で米機動部隊の攻撃を受け損傷
終戦時 残存(呉在泊)
1945/8/22関門海峡で触雷、大破着底後放棄


第二駆逐隊
解説
白露級駆逐艦4隻で編制された駆逐隊(4代目駆逐隊:開戦時)
南方作戦、ミッドウェー作戦、ソロモン方面作戦と常に最前線に第四水雷戦隊の一隊として活躍。
第三次ソロモン海戦で『夕立』を失った後、『春雨』が大破、『村雨』が戦没した為、第二駆逐隊は解隊された。残された『五月雨』は『春雨』の修理を待って第二七駆逐隊に移籍した。



夕雲級駆逐艦3隻で編制された駆逐隊(5代目:1944年(昭和19年)8月15日編制)
再建された第二駆逐隊は新鋭の夕雲級で編制されたが、戦局は艦隊型駆逐艦を必要とせず、終止船団護衛任務や空母部隊護衛に従事した。
正式に開隊される前から『早霜』『秋霜』は第二駆逐隊としてあ号作戦に参加している。(正式には『清霜』の編入を待ってから開隊?)
だがその後の捷一号作戦、多号作戦、礼号作戦で当初の3隻を全て失い、第二駆逐隊は解隊された。
途中編入された『朝霜』は解隊後に第二一駆逐隊に移籍している。
    
駆逐隊司令
開戦時
橘 正雄大佐(45期) 1941/8/11 1943/7/1

1944年(昭和19年)8月
白石長義大佐(49期) 1944/8/15 1944/12/26
所属駆逐艦

村雨 1937/1/7 藤永田造船所で竣工
開戦時 第四水雷戦隊第二駆逐隊に所属
比島攻略戦に参加
1942/2/27 スラバヤ沖海戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/11/12 第三次ソロモン海戦に参加
1943/3/15 クラ湾で米駆逐艦と交戦
その後、米艦載機群の攻撃を受け戦没

夕立 1937/1/7 佐世保工廠で竣工
開戦時 第四水雷戦隊第二駆逐隊に所属
比島攻略戦に参加
1942/2/27 スラバヤ沖海戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
ソロモン方面に進出し、輸送任務に従事
1942/11/12 第三次ソロモン海戦に参加
11/13戦没

春雨 1937/8/26 舞鶴工廠で竣工
開戦時 第四水雷戦隊第二駆逐隊に所属
比島攻略戦に参加
1942/2/27 スラバヤ沖海戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
ソロモン方面に進出し、輸送任務に従事
1942/11/12 第三次ソロモン海戦に参加
1943/1/24 ウエワクで米潜水艦『ワフー』の雷撃を受け損傷、艦首大破
1943/2 トラックで応急修理(〜5月)
1943/5 横須賀入港
1943/7/1 第二駆逐隊解隊 予備艦に編入
(その後)
1943/8 入渠修理及び対空兵装増備工事、開始
1943/11/30 修理完了
第二七駆逐隊に編入
第二駆逐隊第二七駆逐隊

五月雨 1937/1/29 浦賀船渠で竣工
開戦時 第四水雷戦隊第二駆逐隊に所属
比島攻略戦に参加
1942/2/27 スラバヤ沖海戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
ソロモン方面に進出し、輸送任務に従事
1942/11/12 第三次ソロモン海戦に参加
1943/7/1 第二駆逐隊解隊
(その後)
1943/7 第一水雷戦隊付としてキスカ撤収作戦(ケ号作戦)に参加
1943/11/30
※詳細不明
第二七駆逐隊に移籍
第二駆逐隊→(1水戦付・2水戦付)→第二七駆逐隊

以下第二駆逐隊再建時編制時
早霜 1944/2/20 舞鶴工廠で竣工
1944/5/20 機動部隊に編入(所属不明)
1944/6/19 マリアナ沖海戦に参加
1944/8/15 第二駆逐隊を編制(再編)
1944/10/25 捷一号作戦(シブヤン海海戦・サマール沖海戦)に参加、米艦隊と交戦、損傷
1944/10/27 ミンドロ島沖で空襲を受け戦没

秋霜 1944/3/11 藤永田造船所で竣工
1944/5/20 機動部隊に編入(所属不明)
1944/6/19 マリアナ沖海戦に参加
1944/8/15 第二駆逐隊を編制(再編)
1944/10/25 捷一号作戦(シブヤン海海戦・サマール沖海戦)に参加、米艦載機群の機銃掃射により損傷
1944/11/5 第一水雷戦隊に臨時編入
1944/11/8 第四次多号作戦に参加
1944/11/10 米軍機の攻撃により損傷(艦首切断)
マニラ帰投後に応急修理
1944/11/13 米艦載機群によるマニラ空襲の際に被弾
火薬庫誘爆により炎上、着底(放棄)

清霜 1944/5/15 浦賀船渠で竣工
1944/8/15 第二駆逐隊を編制(再編)
1944/10/25 捷一号作戦(シブヤン海海戦)に参加、『武蔵』を護衛し、退避中に米軍機の攻撃を受け大破
1944/12/26 ミンドロ島沖海戦(礼号作戦)に参加、米陸軍機の攻撃を受け戦没

以下追加配備・他隊から編入
朝霜 1944/11/15 第三一駆逐隊から編入
第三一駆逐隊第二駆逐隊
1945/2/10 第二一駆逐隊に編入
第三一駆逐隊第二駆逐隊第二一駆逐隊


第三駆逐隊
解説
峯風級2隻で編制された駆逐隊
編制当初は『夕風』も所属していたが、開戦直前に第三航空戦隊附属として転出され、2隻で空母『龍驤』の護衛(トンボ釣り)部隊を務めた。
だが開戦早々の1942年(昭和17年)1月10日に解隊。『汐風』『帆風』はそのまま第四航空戦隊附属となった。
  
駆逐隊司令
鳥居威美大佐(47期) 1941/8/11 1942/1/10
所属駆逐艦

汐風 1921/7/29 舞鶴工廠で竣工
開戦時 第四航空戦隊附属第三駆逐隊に所属
『龍驤』を護衛してダバオ爆撃、レガスピー攻略戦、ダバオ・ホロ攻略戦に参加
1942/1/10 第三駆逐隊解隊
第四航空戦隊附属となる。
(その後)
1942/4/10 第五艦隊附属に編入
1942/10/1 第一海上護衛隊に編入
1944/12/26 第三一戦隊第三十駆逐隊に編入
第三駆逐隊第四航空戦隊附属→第五艦隊附属→第一海上護衛隊第三十駆逐隊

帆風 1921/12/22 舞鶴工廠で竣工
開戦時 第四航空戦隊附属第三駆逐隊に所属
『龍驤』を護衛してダバオ爆撃、レガスピー攻略戦、ダバオ・ホロ攻略戦に参加
1942/1/10 第三駆逐隊解隊
第四航空戦隊附属となる。
(その後)
1942/4/10 第五艦隊附属に編入
1942/5 アリューシャン作戦、キスカ攻略作戦に参加
1942/10/1 第一海上護衛隊に編入
1943/7/1 マカッサル海峡で雷撃を受け中破
1943/8/3 スラバヤで修理
1943/10/18 原隊復帰
1943/11/28 浦賀船渠で修理再開
1944/3 原隊復帰
1944/4/5 第九艦隊附属に編入
1944/7/6 ミンダナオ島南方沖で米潜水艦『パドル』の雷撃を受け戦没


第四駆逐隊
解説
陽炎級4隻で編制された駆逐隊。
開戦当初第四水雷戦隊の一隊として南方部隊本隊に所属し、マレー半島上陸作戦・フィリピン攻略作戦の全般支援としてカムラン湾方面に出撃した。

1942年(昭和17年)2月、ジャワ南方機動作戦に参加。その後、第一小隊(『野分』『嵐』)は第四戦隊と共にジャワ沖方面で掃討作戦にあたり、英駆逐艦『ストロングホールド』、米砲艦『アシュビル』、その他掃海艇やタンカーを撃沈する。
4月にスターリング湾に集結した後、第二小隊『萩風』『舞風』)の2隻は南方機動部隊に参加し、インド洋作戦に参加したが、第一小隊は『愛宕』を護衛して本土(横須賀)に回航された。これにより第一小隊は4月18日のドゥーリットル空襲の際に米機動部隊捕捉撃滅命令を受け出撃している(会敵出来ず)

6月、ミッドウェー作戦に参加。だがこの海戦で日本は主力空母4隻を失い、また第四駆逐隊は第一航空戦隊の生存者救助任務に従事した後、『赤城』処分の為に雷撃を行うこととなった。
その後北方部隊、第二機動部隊によるアリューシャン作戦(アッツ島攻略)支援の為、救助した者を他艦に移乗させた後北上。大湊経由でアリューシャン方面に進出することとなる。

8月、米軍のガダルカナル島上陸に伴ない急遽南東方面への進出が決定する。
ガダルカナル島輸送作戦に従事するが、8月19日の一木支隊輸送作戦(『萩風』『嵐』が参加)中、ツラギでB-17の爆撃を受け『萩風』が被弾。『嵐』が護衛しつつトラックまで回航した後、本土(横須賀)に回航され入渠修理となる。
その後発生した24日の第二次ソロモン海戦には『野分』『舞風』が参加した。
10月26日、南太平洋海戦が発生。『嵐』『舞風』の2隻は第十戦隊の指揮下、機動部隊本隊と行動を共にし、補給部隊の護衛として『野分』が参加した。
12月7日、ブカ輸送任務中の『野分』が空襲により被弾、トラックへ回航(その後本土回航)され、ガダルカナル島へのドラム缶輸送に当たっていた『嵐』がショートランド沖で空襲により損傷する。

1943年(昭和18年)1月、ラエ輸送任務に参加、2月ガダルカナル島撤収作戦に『舞風』『嵐』が参加する。『舞風』が4日の第二次撤収作戦中に空襲により被弾、損傷した。その後『嵐』も含めて本土に回航、入渠修理となる。『嵐』は本土で修理整備、第一航空戦隊の警戒艦として訓練に従事し、修理が完了した『萩風』も内南洋輸送任務と、4月にコロンバンガラ島輸送作戦に従事した。

7月、第四駆逐隊は再び陸軍部隊を輸送して南東方面に進出。
8月6日、コロンバンガラ島輸送任務に参加した『嵐』『萩風』(第四駆逐隊司令の指揮。他に『川内』『江風』『時雨』が参加)がベラ湾で米艦隊と交戦。米駆逐艦の雷撃を受け、『嵐』『萩風』『江風』が戦没した。
9月15日、『山雲』が編入される。

1944年(昭和19年)2月17日、トラック〜横須賀輸送任務中の『舞風』が米機動部隊によるトラック大空襲に遭遇し損傷。その後米戦艦『ニュージャージー』『アイオワ』を含む艦隊に捕捉攻撃され『舞風』は戦没した。脱出に成功した『野分』『山雲』は残った輸送船『浅香丸』を護衛して本土に帰還した。
3月、東松二号船団を護衛。(途中第十一水雷戦隊旗艦『龍田』戦没により『野分』が旗艦を継承)
また失われた『舞風』の補充として『満潮』が編入された。
6月、あ号作戦に参加する為にタウイタウイ泊地に集結。『野分』『山雲』『満潮』は機動部隊本隊・乙部隊(第二航空戦隊基幹)の護衛部隊としてマリアナ沖海戦を戦った。
7月、マリアナ沖海戦後に本土に戻った第四駆逐隊は新たに『朝雲』を編入した。(但し、直に第十一水雷戦隊に派遣され沖縄輸送に参加。)
10月、捷一号作戦発動に伴ない、リンガ泊地に集結する。第四駆逐隊『山雲』『満潮』『朝雲』の3隻は西村部隊(第二戦隊基幹)に加わってレイテを目指し、『野分』は単艦で第十戦隊附属として分派され栗田部隊・第二部隊(鈴木中将・第三戦隊基幹)に加わった。
西村に加わった第四駆逐隊本隊3隻はスリガオ海峡に突入したしたところで米第7艦隊と交戦状態に突入し全艦が戦没した。
一方『野分』はシブヤン海海戦を生き残り、サマール沖海戦に突入。米軍機の攻撃を受け行動不能となった『筑摩』の生存者救助に当たった後、同艦を雷撃処分した。26日未明、サン・ベルナルジノ海峡で戦艦を含む米艦隊と交戦状態となり大破漂流状態となる。その後米駆逐艦の雷撃を受け戦没。『筑摩』乗組員ともに沈没した。

全艦を一挙に失った第四駆逐隊は解隊が決定。1945年(昭和20年)1月10日付けで解隊となった。
   
駆逐隊司令
有賀幸作大佐(45期) 1941/9/18 1943/1/17
杉浦嘉十大佐(46期) 1943/1/18 1943/11/16
磯久研磨大佐(48期) 1943/11/17 1944/2/17 戦没
高橋亀四郎大佐(49期) 1944/3/25 1944/10/25 戦没
所属駆逐艦(開戦時)

野分 1941/4/28 舞鶴工廠で竣工
開戦時 第四水雷戦隊第四駆逐隊に所属。
南方部隊本隊の護衛としてマレー半島上陸作戦・フィリピン上陸作戦の全般支援に従事
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
1942/12/7 ブカ輸送作戦中に空襲により被弾、損傷
その後トラックに曳航回航され。春島の浮船渠にて応急修理
1943/2 出渠後、『白露(損傷)』を護衛しつつ本土(横須賀)に回航して入渠修理
1943/7/25 修理完了
1944/2/17 米機動部隊によるトラック大空襲に遭遇、脱出に成功
1944/6/19 マリアナ沖海戦に参加
1944/10/25 捷一号作戦(シブヤン海海戦・サマール沖海戦)に参加、米艦隊と交戦し、砲撃を受けて戦没

1941/1/27 舞鶴工廠で竣工
開戦時 第四水雷戦隊第四駆逐隊に所属。
南方部隊本隊の護衛としてマレー半島上陸作戦・フィリピン上陸作戦の全般支援に従事
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1943/8/6 ベラ湾夜戦に参加
米艦隊と交戦、雷撃を受け航行不能となった後、砲撃を受けて戦没

萩風 1941/3/31 浦賀船渠で竣工
開戦時 第四水雷戦隊第四駆逐隊に所属。
南方部隊本隊の護衛としてマレー半島上陸作戦・フィリピン上陸作戦の全般支援に従事
1942/4 インド洋作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8/19 ガダルカナル島輸送作戦中に被弾、損傷
トラック回航後、応急修理 その後本土に回航され入渠修理
1943/1 修理完了
1943/4〜 コロンバンガラ島輸送に従事
1943/7〜 トラック輸送、レカタ輸送作戦に従事
1943/8/6 ベラ湾夜戦に参加
米艦隊と交戦、雷撃を受け航行不能となった後、砲撃を受けて戦没

舞風 1941/7/15 藤永田造船所で竣工
開戦時 第四水雷戦隊第四駆逐隊に所属。
南方部隊本隊の護衛としてマレー半島上陸作戦・フィリピン上陸作戦の全般支援に従事
1942/4 インド洋作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1943/2/1・4 イサベル島沖海戦(ケ号作戦)に参加
1944/2/17 米機動部隊によるトラック大空襲により戦没

以下追加配備・他隊から編入
山雲 1943/9/15 横須賀鎮守府海面防備隊から編入
第九駆逐隊→修理→横須賀鎮守府第四駆逐隊
1944/6/19 マリアナ沖海戦に参加
1944/10/25 捷一号作戦(スリガオ海峡海戦)に参加、米駆逐艦の雷撃を受けて戦没

満潮 1944/3/31 第二四駆逐隊から編入
第八駆逐隊→修理→第二四駆逐隊第四駆逐隊
1944/6/19 マリアナ沖海戦に参加
1944/10/25 捷一号作戦(スリガオ海峡海戦)に参加、米駆逐艦の雷撃を受けて戦没

朝雲 1944/7/10 第十駆逐隊から編入
第九駆逐隊第十駆逐隊第四駆逐隊
1944/10/25 捷一号作戦(スリガオ海峡海戦)に参加、米駆逐艦の雷撃を受けて戦没


第五駆逐隊
解説
神風級4隻で編制された駆逐隊。
開戦時には第五水雷戦隊に所属し、フィリピン攻略作戦、マレー半島攻略作戦に参加した。
その後蘭印方面攻略戦に参加し、バタビア沖海戦に参加。
5月に『旗風』が隊を離れ、3隻体制になる。『春風』も船団護衛任務に従事し、実質『朝風』『松風』の2隻態勢となった。
ニコバル攻略戦、ティモール攻略戦に従事し、南西方面の警戒と輸送任務に従事する。

1943年(昭和18年)2月25日、第五駆逐隊は解隊となり、第一海上護衛隊に編入された。
   
駆逐隊司令
野間口兼知中佐(48期) 1941/10/16 1943/2/25
所属駆逐艦

朝風 1923/6/16 三菱長崎造船所で竣工
開戦時 第五水雷戦隊第五駆逐隊に所属
フィリピン攻略作戦に参加し、リンガエン湾上陸作戦に参加。その後マレー半島シンゴラ上陸作戦に参加。
1942/2/18 バンタム湾上陸作戦支援に参加
1942/3/1 バタビア沖海戦に参加
1942/3/10 第五水雷戦隊解隊、第一南遣艦隊の指揮下に編入
ビルマ攻略作戦に参加
1942/6 ニコバル諸島攻略作戦に参加
1942/7 タンニバル諸島方面攻略作戦部隊に編入
1942/8 ティモール諸島攻略作戦に参加
1943/2/25 第五駆逐隊解隊、第一海上護衛隊に編入
(その後)
1944/8/21 タマ24A船団を護衛中、リンガエン湾西方沖で米潜水艦『ハッド』の雷撃を受け大破
航行不能となり、曳航中に擱座、沈没

春風 1923/5/31 舞鶴工作部で竣工
開戦時 第五水雷戦隊第五駆逐隊に所属
フィリピン攻略作戦に参加し、リンガエン湾上陸作戦に参加。その後マレー半島シンゴラ上陸作戦に参加。
1942/3/1 バタビア沖海戦に参加
1942/11/16 スラバヤ入港時に触雷、損傷
前部切断によりスラバヤで修理
1943/2/25 第五駆逐隊解隊、第一海上護衛隊に編入
(その後)
1943/5/2 修理完了
その後船団護衛任務に従事
1944/11/4 ルソン島沖で米潜水艦『セイルフィッシュ』の雷撃を受け大破、艦尾切断
終戦時 佐世保で大破状態で残存
戦後、京都府竹野港防波堤に船体を流用された。

松風 1924/4/5 舞鶴工作部で竣工
開戦時 第五水雷戦隊第五駆逐隊に所属
フィリピン攻略作戦に参加し、リンガエン湾上陸作戦に参加。その後マレー半島シンゴラ上陸作戦に参加。
1942/7 タンニバル諸島方面攻略作戦部隊に編入
1943/2/25 第五駆逐隊解隊、第一海上護衛隊に編入
(その後)
1944/6/6 父島近海で米潜水艦『ソードフィッシュ』の雷撃を受け戦没

旗風 1924/8/30 舞鶴工作部で竣工
開戦時 第五水雷戦隊第五駆逐隊に所属
フィリピン攻略作戦に参加し、リンガエン湾上陸作戦に参加。その後マレー半島シンゴラ上陸作戦に参加。
1942/3/1 バタビア沖海戦に参加
1942/5/5 横須賀警戒隊に編入
第五駆逐隊→横須賀警戒隊)
(その後)
1944/12/26 第三十駆逐隊に編入
第五駆逐隊→横須賀警戒隊→第三十駆逐隊


第六駆逐隊
解説
特型駆逐艦V型である『暁』『響』『雷』『電』の4隻で編制された駆逐隊。
開戦時は『暁』『響』は南方部隊本隊に所属し、『雷』『電』は香港攻略部隊に参加する。

1942年(昭和17年)1月20日、ダバオ沖で輸送船『仙台丸』と『電』が衝突する事故が発生する。この為『電』は翌21日に工作艦『明石』に横付けして応急修理を行い、29日には馬公に回航することとなった。2月17日まで入渠修理が行われ、その後高雄に回航されるがその後発生した『スラバヤ海戦』に参加する。(その後本土(呉)回航。更に横須賀に回航され修理)
2月27日から発生した『スラバヤ沖海戦』では『雷』も主隊(別働隊)附属として参加し、最初の海戦が行われた後、スンダ海峡突破を図ろうとした英巡洋艦『エクゼター』以下の艦隊に対し攻撃を行っている。
4月、各艦は本土(横須賀)に回航され入渠修理・整備を行う。『暁』『響』『雷』は4月中に修理完了し、出港したが、『電』は先の衝突事故の影響により4月末からの入渠修理となった為、戦列に復帰したのは5月22日になってからであった。
5月20日、第六駆逐隊は北方部隊に編入。アリューシャン作戦に参加することとなる。
6月12日、キスカ島攻略作戦に従事していた『暁』『響』がB-24 5機の爆撃を受け、『響』の右舷艦首部に被弾した。(命中弾×1、至近弾×3) 艦首を被弾した『響』は『暁』によって艦尾からの曳航を受けキスカ泊地まで辿り着く。その後『暁』の護衛を受けながら大湊まで後進航行を行って退却した。
大湊での浮船渠による応急修理が行われた後、横須賀に回航され入渠修理が行われた『響』であったが、再び戦列に復帰するの11月になってからであった。
7月、ミッドウェー作戦敗退の影響により連合艦隊全体が改編を迎え、北方方面に回されていた第七駆逐隊が再び南方方面に転用されることとなると、その穴を埋めるように開戦前からの修理が完了した『薄雲』が7月30日付けで第六駆逐隊に編入された。ただし、これは仮編入であった。
8月、南方・ソロモンの戦いが始まると第六駆逐隊も南方方面に転用が決定。この決定の直前に『薄雲』は隊を離れ、今度は第二一駆逐隊に転出されていった。(これも仮編入であり、実際には北方部隊所属であった。)

10月14日、前日から続いている戦艦によるガダルカナル島砲撃作戦の支援の下、駆逐艦に揚陸輸送部隊が出撃。軽巡洋艦『川内』『由良』の指揮下、『暁』『雷』の2艦が『白雪』『朝雲』と共に陸兵1129名と砲・弾薬・食料をエスペランス岬に揚陸した。
25日、『暁』『雷』は『白露(第二七駆逐隊)』と共にルンガ泊地に進出。揚陸作業中の米大型曳船『セミノール』と舟艇を砲撃して撃沈。さらに掃海駆逐艦『ゼーン』を大破させることに成功した。
11月13日夜半、第三次ソロモン海戦の第一回戦となった13日夜戦において、米艦隊と交戦状態となる。『暁』『雷』『電』は揃って戦艦『比叡』の右舷側に位置して護衛にあたり、米巡洋艦隊と砲撃戦に入いる。この海戦により『暁』は米艦隊の猛攻を受け被弾。横倒しとなって戦没した。『暁』座乗の隊司令山田大佐以下艦長も戦死し、乗組員の大半が戦死。海上を漂流していた約20名ほどの生存者は後に米軍によって救助されている。
『雷』も被弾したが機関部は被害を免れた為、全力航行は可能であった。その後『比叡』救難に向かい、17日にトラック島に帰投している。このときの損傷は砲塔部・給弾薬室・機銃台等、上甲板から上に被害が集中し、戦闘力は喪失していた。その為後に横須賀に回航された。
残された『電』は第一回戦の後、再び『霧島』を中心に編成された艦隊で行われたガダルカナル島砲撃作戦にも参加。14日夜の第二回戦でも米艦隊と交戦した。
戦闘終了後、18日にトラック島に戻った『電』は再びラバウルに向けて出港。その後ブナ輸送作戦に従事することとなる。
12月2日、『電』は『磯波』(第十九駆逐隊)と共に行ったブナ地区バザプア輸送に於いて米軍の空襲を受け、至近弾により損傷。
12月22日、『響』は空母『大鷹』を護衛してトラックから横須賀に帰港。翌年1月末まで修理と機銃増備工事を行う。

1943年(昭和18年)1月4日、『電』は重巡『鈴谷』を護衛してラバウルから横須賀に回航。そのまま横須賀に入港して修理を行う。
先に修理の為に横須賀で入渠していた『雷』は1月末まで修理と試験を行っており、修理完了後は北方部隊に編入された。
2月3日、『雷』は重巡『那智』を護衛して横須賀を出港し、大湊に向かう。続けて2月5日、修理の完了した『電』も軽巡洋艦『多摩』を護衛して横須賀を出港、大湊に向かった。一方で修理完了した『響』は『潮』(第七駆逐隊)と共に空母『大鷹』『雲鷹』を護衛し、トラックに向けて2月1日に横須賀を出港している。
北方部隊・第一水雷戦隊所属となった『雷』『電』は3月27日に発生したアッツ島沖海戦に参加するが、『雷』は所属する第五艦隊が消極的な戦闘に終止した結果、遠距離からの砲雷撃戦を行っただけであり、戦果はなかった。一方『電』は輸送船護衛の為戦場を離れ、戦闘には参加しなかった。
この海戦により燃料を消費した第五艦隊各艦は幌筵に帰投するが、折からの低気圧により『雷』が『若葉』と触衝し、『雷』の艦首楼甲板先端部が損傷した。一旦大湊に帰投した『雷』は応急処置を施した後、横須賀に回航され、修理に入った。遅れて『電』も横須賀に入港し、整備にを実施する。
この事故の直後の4月1日付けで第六駆逐隊は新編成の第十一水雷戦隊に編入されている。そして15日以降、内南洋部隊所属に変更された為、修理が・整備の完了した『雷』『電』は5月1日よりトラック方面(通称:トラック航路)に出動することとなるが、その行動はバラバラであり、最後まで同一行動をとることは無かった。
一方『響』は他艦と行動を共にせず、南方方面で改装空母護衛任務に従事していたが、第十一水雷戦隊編入後は内地に帰還後、瀬戸内海で兵学校の教務艦として、また航空隊の標的艦としての任務に従事する。
だが5月12日の米軍によるアッツ島上陸の報に接し、北方部隊への増援が決定。『雷』『電』とは逆に北方へ出撃し、その後のキスカ撤退作戦に参加することとなった。尚、この作戦の直前に『響』には電探(逆探)の装備と、大発搭載装置の工事が実施されている。
(余談:『響』はキスカ撤収作戦への参加の際に、偽装工事として煙突を3本に見せかける為の偽装煙突をつけたとされている。)
キスカ撤収作戦後、『響』は再び第十一水雷戦隊所属として瀬戸内海での訓練任務に従事する。
9月16日、横須賀での入渠修理(魚雷事故による損傷)が完了した『響』はT二号輸送部隊として関東軍輸送のため上海に向け出港。以後第二海上護衛隊として、11月からは内南洋部隊として輸送船団の護衛に従事し、南方各地を転々とすることとなる。このためか、12月21日付けで連合艦隊付属となる。

1944年(昭和19年)1月20日、『雷』はそれまでの内南洋部隊海上護衛任務についていたが、連合艦隊付属へと変更になる。(任務上は変更無く、第六駆逐隊を連合艦隊が必要に応じて利用できるようにしただけである。)
4月13日、『雷』が船団護衛中に米潜の雷撃を受け、対潜掃討中に消息不明となる。米軍資料によると米潜『ハーダー』の雷撃を受け戦没。
5月1日、第六駆逐隊は機動部隊に編入。
5月14日、あ号作戦の為の燃料輸送船団『ヒ六一船団』を護衛していた『電』『響』は、米潜『ボーンフィッシュ』の雷撃を受け、『電』が戦没した。これにより第六駆逐隊の残存艦は『響』1隻となった為、6月25日付けで解隊となった。
   
駆逐隊司令
成田茂一大佐(43期) 1940/11/1 1942/4/5
山田勇助大佐(48期) 1942/4/6 1942/11/13 戦没
高橋亀四郎大佐(49期) 1942/12/28 1944/2/14
戸村 清大佐(49期) 1944/2/15 1944/6/25
所属駆逐艦

1932年11月30日 佐世保工廠で竣工
開戦時 第六駆逐隊に所属 比島攻略部隊、ジャワ攻略部隊の各隊を支援
1942年2月28日 バタビア沖海戦に参加
1942年6月 アリューシャン作戦に参加
1942年10月25日 ルンガ沖海戦に参加
1942年11月12日 第三次ソロモン海戦に参加 米艦隊と交戦、被弾沈没

1933年3月31日 舞鶴工廠で竣工
開戦時 第六駆逐隊に所属 比島攻略部隊、ジャワ攻略部隊の各隊を支援
1942年2月28日 バタビア沖海戦に参加
1942年6月 アリューシャン作戦に参加 キスカ島で被弾中破
大戦中 以後、船団護衛任務に従事
1943年12月21日 連合艦隊付属となる。
1944年6月 マリアナ沖海戦に参加
1944年6月25日 第六駆逐隊解隊
1944年9月6日 高雄近海で被雷損傷
1945年1月26日 第七駆逐隊に編入
第六駆逐隊→連合艦隊附属→第七駆逐隊
1945年3月29日 周防灘で触雷損傷
終戦時 残存 戦後復員輸送に従事
1947年7月 賠償艦とソ連に引渡

1932年8月15日 浦賀船渠で竣工
開戦時 第六駆逐隊に所属 比島攻略部隊、ジャワ攻略部隊の各隊を支援
1942年3月1日 スラバヤ沖海戦に参加
1942年6月 アリューシャン作戦に参加
1942年11月12日 第三次ソロモン海戦に参加
1944年4月14日 メレヨン島近海で米潜ハーダーの雷撃を受け沈没

1932年11月15日 藤永田造船所で竣工
開戦時 第六駆逐隊に所属 比島攻略部隊、ジャワ攻略部隊の各隊を支援
1942年3月1日 スラバヤ沖海戦に参加
1942年6月 アリューシャン作戦に参加
1942年11月12日 第三次ソロモン海戦に参加
1944年5月14日 セレベス海で米潜ボーンフィッシュの雷撃を受け沈没


第七駆逐隊
解説
特型駆逐艦(特U型)『朧』『曙』『漣』『潮』の4隻で編制された駆逐隊であり、第一航空艦隊に所属している。
だが、特型駆逐艦で編制される第七駆逐隊はハワイ作戦には直接参加せず、支援任務が割り当てられていた。これは主に所属艦の性能(主に航続距離)の問題故にである。
同部隊は2隊に分かれて開戦を迎えた。『潮』『漣』の2艦はミッドウェー破壊隊として行動し、開戦当日の12月8日夜にミッドウェー島を砲撃した。これはハワイ攻撃に向かった南雲機動部隊(第一航空艦隊)の帰還時の支援を行う為に一時的に同島の機能を封じる為である。
『朧』はグアム攻略作戦に参加している。 ( 詳細は後日 )
そして、もう1隻の『曙』は開戦直前に標的曳航中に曳索を推進器に巻き込むという事故を起こし呉に入渠している。その為、開戦時の作戦には不参加であった。但し開戦当日には修理も完了し、以後は柱島の主力艦隊(第一艦隊)の直衛に参加し、父島方面に出撃している。

ミッドウェー破壊隊は作戦終了後に本土に帰還。年末には佐伯湾を経由して呉に戻ったが、その後の敵潜掃討命令を受けて土佐湾沖での哨戒任務に従事している。

1942年(昭和17年)1月11日、第二七駆逐隊と共に第二航空戦隊を護衛してパラオ経由で南方に進出し、アンボン攻略作戦に従事する。
2月27日、『スラバヤ沖海戦』に参加。『漣』『潮』の2艦は臨時で第二水雷戦隊の指揮下に入って第十六駆逐隊の隊列に続いて海戦に参加したが、『漣』が艦橋に被弾し、3月末に本土に戻った際に浦賀で入渠修理することとなる。
一方『曙』は第六駆逐隊の『雷』と共に主隊附属として海戦に参加した。
3月1日、スラバヤ西方のクラガン泊地に入港した輸送船団を護衛していた『漣』『潮』は3日に浮上航行中米潜『パーチ』を発見。『潮』の砲撃によりこれを撃沈した。
3月末、横須賀に回航された各艦は入渠して修理・整備を実施する。
4月、修理を完了した各艦は横須賀に集結する。そして10日付けで新編の第十戦隊に編入され、空母直衛部隊となった。また『朧』だけは第五航空戦隊付として第七駆逐隊を離れていたが、同日に横須賀鎮守府付として第七駆逐隊から所属が変わっている。
4月18日、ドゥーリトル空襲。同日早朝『犬吠崎東方700海里の海域に米空母3隻よりなる米機動部隊発見』の報が入るが、第七駆逐隊は当初の予定であった空母『祥鳳』を護衛して横須賀を出港。東京湾で艦載機を収容して一度横須賀に戻った。当日は横須賀在泊の各艦船が本州東方海域を捜索するために出港し、第七駆逐隊も例外ではなかった。
『曙』『潮』の2艦は23日に横須賀に帰投。そのまま第五戦隊の『妙高』『羽黒』を護衛してトラック島に向けて出港。『漣』も24日に横須賀に帰投後、直ぐに空母『祥鳳』を護衛してトラック島に向かった。これは共に『ポートモレスビー攻略作戦』への参加の為である。
5月、MO作戦の一環として発生した『珊瑚海海戦』に参加。『曙』『潮』は第五航空戦隊の『翔鶴』『瑞鶴』を、『漣』は空母『祥鳳』を護衛して海戦に参加した。
海戦の後、戦没した『祥鳳』の乗組員を救助した『漣』は一足先に横須賀に入港。その後補給を行ってから大湊に向けて出港する。一方『曙』『潮』は『翔鶴』『瑞鶴』を護衛して呉に入港。その後横須賀に回航されたが『漣』を追って大湊に向かうことになる。これはアリューシャン作戦への参加のためであった。
6月、第六駆逐隊と共に大湊を出港し、アリューシャン作戦に参加する。第二機動部隊の一隊として参加したが、その後本土に戻り、7月10日付けで再び連合艦隊附属として南方作戦への参加が決定する。
以後、同隊は主に小型空母(『大鷹』『雲鷹』『冲鷹』)などを護衛しつつ横須賀〜トラック島間の輸送任務に従事することとなる。
9月21日、『漣』がショートランドに入港し、燃料補給を受ける際に海底のサンゴ礁と接触、推進器を損傷した。このため、内地(横須賀)への帰還が決定する。この修理が完了するのは10月24日のことであり、それまで第七駆逐隊は『曙』『潮』の2艦のみとなった。また時折ガダルカナル島への輸送任務にも従事することとなる。
推進器の損傷した『漣』は『時津風』(第十六駆逐隊所属)と共に空母『大鷹』を護衛しつつ横須賀に向う。このとき『大鷹』』9月28日に被雷損傷した状態であり、ひどく遅れがちな状態で航行を続ける。途中目的地が横須賀から呉に変更された為、『漣』は途中で分離し、単艦で横須賀に向った。

<余談>10月17日、第五艦隊付属としてキスカ島への輸送作戦中の『朧』が米軍機の爆撃を受け戦没している。

11月1日、修理を完了した『漣』は再び『大鷹』を護衛しトラック島に向けて航行を開始。以後年内に『大鷹』を護衛して横須賀〜トラック島間を4往復することとなる。
12月31日、『漣』は『響』(第六駆逐隊)と共に空母『大鷹』を護衛して横須賀に入港。その後横須賀で修理を行っている。

1943年(昭和18年)1月5日、空母『雲鷹』を護衛してトラックから横須賀に向かった『潮』『曙』は10日に横須賀に入港すると、そのまま交代で修理・入渠を行っている。
2月1日、修理の完了した第七駆逐隊の各艦は再び『響』(第六駆逐隊)と共に空母『大鷹』『雲鷹』を護衛してトラックに向かう。
4月11日、『漣』がトラック諸島にて触礁。工作艦『明石』にて応急修理する、推進軸が曲がっている為、修理の為横須賀に回航される。だが修理は呉で行うとして再回航される。数度の入渠修理により工事完了は6月中頃であった。
工事完了した『漣』は戦艦『金剛』『榛名』、空母『瑞鳳』を護衛し横須賀からトラックに向かうが、途中分離してサイパンに向かう。その後損傷した『秋月』を曳航して長崎に送り、佐世保に入港する。
8月17日、第一次ベラ・ラベラ沖海戦。『漣』をを旗艦とする駆逐艦4隻はベラ・ラベラ島に上陸した米軍に対し逆上陸をかけるべく出撃した舟艇部隊を護衛して進撃したが、米駆逐艦と交戦した。この海戦は共に大きな損害もなく、輸送作戦は終了した。
9月26日、イサベル島レカタからの撤収作戦に『漣』が参加。(三水戦『川内』他駆逐艦5隻が参加)

1944年(昭和19年)1月1日、第七駆逐隊は北方部隊の第一水雷戦隊所属となる。だがこの時点でも各艦は南方方面での輸送船団護衛任務に従事していた。
1月14日、ラバウルを12日に出港した『国洋丸』船団を護衛すべく、会合地点に向かっていた『漣』『曙』であったが、船団を捜索中に米潜『アルバコア』の雷撃を受け『漣』が戦没。
1月末、被雷損傷した空母『雲鷹』を護衛して『潮』『曙』が横須賀に帰投。そのまま次の作戦行動に備え修理・整備を行う。
8月1日、第七駆逐隊の所属する第五艦隊は北東方面部隊より除かれて、機動部隊・第二遊撃部隊に編入される。これにより大湊から呉に戻った第七駆逐隊『曙』『潮』の残存2艦は、8月12日より電探の装備を含む緊急整備工事を実施する。
9月になると、来るべき捷号作戦に備えて第一水雷戦隊のもと第十八駆逐隊とともに瀬戸内海西部での訓練に従事する。
10月15日、台湾沖航空戦の大戦果(誤報)に基づく米機動部隊追撃のために第二遊撃部隊に出動がかがり、第一水雷戦隊、第二一戦隊と共に呉を出撃するが、進撃途中の18日には第二遊撃部隊は南西方面艦隊に編入され、レイテに向かって出撃する。
10月25日、レイテ作戦に基づき、スリガオ海峡突破を図るが、被弾損傷した『最上』に『曙』が分派さり、また被雷した『阿武隈』には『潮』が分派された。その後米軍機の攻撃を受け、『最上』が航行不能となった為、『曙』が雷撃処分を実施している。『阿武隈』は戦没し、その乗員の救助してマニラに帰投した。
その後レイテ輸送作戦(多号作戦)に参加した第七駆逐隊は第二次多号作戦に参加。
11月5日、マニラ湾で空襲を受け戦没した『那智』の救援に出動した『曙』も米軍機の攻撃を受け、航行不能の損傷を受ける。このため、以後の多号作戦に参加できず、キャビテで工作部岸壁に横付けして修理となった。だが11月14日に米軍機の空襲を受け被弾。総員退艦となり、沈没・着底となった。このとき無事だった『曙』乗組員150名はクラーク地区防衛隊に編入され、地上戦を戦うこととなる。
マニラ空襲で損傷しながらも生き残った『潮』は15日に残存艦艇と共にマニラを脱出。だが損傷が激しくただ1隻落伍しつつも新南群島に辿り着いた。
11月20日、第二水雷戦隊に編入。リンガ経由でシンガポールに入港した『潮』は修理を行うが、損傷した右舷主機の修理が不可能だった為、右舷推進器を撤去した後、『妙高』を護衛して内地に向かう。
12月13日、『妙高』が被雷。同艦の曳航を行うが、推進器が半減している『潮』では曳航できず、分離して内地に向かう。途中『ヒ八二船団』と合同し、輸送船団を護衛しつつ高雄に到着した。
高雄での修理が完了した『潮』は年末に高雄を出港。

1945年(昭和20年)1月9日、呉に入港した『潮』は、その後横須賀に回航され帰投。だが『潮』の修理は後回しとされる。
1月26日、『響』が連合艦隊附属から第七駆逐隊に編入される。『響』は当初戦艦『大和』を中心とした海上特攻作戦に参加する予定であった。3月29日に呉を出撃したが周防灘にて触雷により航行不能となり、作戦への参加は不可能となった。
4月20日、『潮』は第三一戦隊付きとなり、第七駆逐隊は解隊となった。

その後は、5月5日、連合艦隊付属。6月4日、横須賀鎮守府部隊付き。そして6月10日に予備艦となり、『潮』の生涯は事実上終了となり、機銃等は陸揚げされている。

修理の完了した『響』は第一〇五戦隊に編入されている。

    
駆逐隊司令
小西要人大佐(44期) 1942/7/25 1843/1/11
山本岩多大佐(48期) 1943/1/12 1944/9/4
古閑孫太郎大佐(49期) 1944/9/5 1944/9/4
岩上次一大佐(50期) 1944/9/5
(欠員)
所属駆逐艦

1931/10/31 佐世保工廠で竣工
開戦時 第一航空戦隊第七駆逐隊に所属
グァム島攻略部隊に参加(単艦で参加)
1941/12/13 南方部隊ハウランド方面攻撃支隊に配属
1942/2/1 南洋部隊に配属
1942/4/10 横須賀鎮守府付に編入
第七駆逐隊→横須賀鎮守府所属)
(その後)
1942/7/14 第五艦隊附属に編入
1942/10/17 キスカ島への輸送作戦中に米軍機の爆撃を受け戦没

1931/7/31 藤永田造船所で竣工
開戦時 第一航空戦隊第七駆逐隊に所属
主力部隊直衛として父島方面に出撃
1941/12/26 南方部隊に編入
1942/1/13 本土(呉)を出港し、南方作戦に従事
座礁損傷した『電』と交代しケンダリー攻略作戦に参加
1942/1/31 アンボン上陸作戦に参加
1942/2/6 第十一航空戦隊直衛としてマカッサル攻略作戦に参加
1942/2/17 東方支援隊に配属されデリー上陸作戦支援に参加
1942/3/1 スラバヤ沖海戦に参加
1942/4/10 第十戦隊に編入(新編)
1942/5/8 珊瑚海海戦に参加
1942/6 アリューシャン作戦に参加
1942/8/17 柱島を出港し、南方方面に進出
以後、南東方面〜本土輸送任務に従事
1944/1/1 北東方面艦隊第五艦隊に編入
1944/6/19 マリアナ沖海戦に参加
1944/10/24 捷一号作戦(スリガオ海峡海戦)に参加
損傷放棄された『最上』を撃沈処分
1944/10/31 第二次多号作戦に参加
1944/11/5 マニラ湾で空襲により大破
キャビテ入港後に第103工作部で修理
1944/11/13 マニラ湾で空襲により大破着底により放棄

1932/5/19 舞鶴工廠で竣工
開戦時 第一航空戦隊第七駆逐隊に所属
『潮』と共にミッドウェー島砲撃隊として作戦を実施
1942/1 蘭印部隊に編入されアンボン・デリー攻略作戦に参加
1942/2/27 スラバヤ沖海戦に参加
1942/4/10 第十戦隊に編入(新編)
1942/5/8 珊瑚海海戦に参加
1942/6 アリューシャン作戦に参加
1942/7 南東方面に進出
その後、ガダルカナル島輸送作戦・中部太平洋方面輸送作戦に従事
1944/1/12 カ号作戦に参加
1944/1/14 パラオ諸島北方(ヤップ島近海)で米潜水艦『アルバコア』の雷撃を受け戦没

1931/11/14 浦賀船渠で竣工
開戦時 第一航空戦隊第七駆逐隊に所属
『漣』と共にミッドウェー島砲撃隊として作戦を実施
1942/1 蘭印部隊に編入されアンボン・デリー攻略作戦に参加
1942/2/27 スラバヤ沖海戦に参加
1942/4/10 第十戦隊に編入(新編)
1942/5/8 珊瑚海海戦に参加
1942/6 アリューシャン作戦に参加
1942/7 南東方面に進出
その後、ガダルカナル島輸送作戦・中部太平洋方面輸送作戦に従事
1944/11/14 マニラ湾で米艦載機群の攻撃を受け損傷
(その後横須賀に回航)
終戦時 横須賀で中破状態で残存
(戦後、解隊処分)

以下追加配備・他隊から編入
1944/11/15 第十八駆逐隊から編入
第十八駆逐隊→南方部隊→第九駆逐隊第十八駆逐隊→第一水雷戦隊付→第七駆逐隊
1944/11/20 第一水雷戦隊解隊
第二水雷戦隊付となる
1944/12/26 礼号作戦(ミンドロ島沖海戦)に第二水雷戦隊旗艦として参加
1945/2/10〜 北号作戦に参加
1945/3/10 第二一駆逐隊に編入
第十八駆逐隊→南方部隊→第九駆逐隊第十八駆逐隊→第一水雷戦隊付→第七駆逐隊第二一駆逐隊
1945/4/7 坊ノ岬沖海戦(『大和』特攻作戦)において米艦載機の攻撃を受け大破(後、自沈処理)

1945/1/26 連合艦隊附属から編入
第六駆逐隊→連合艦隊附属→第七駆逐隊
1945/3/29 周防灘で触雷損傷
1945/7/10 第一〇五戦隊に編入
第六駆逐隊→連合艦隊附属→第七駆逐隊→第一〇五戦隊)
終戦時 残存 戦後復員輸送に従事
1947/7 賠償艦とソ連に引渡


第八駆逐隊
解説
『朝潮』級4隻で編制された駆逐隊。
太平洋戦争開戦時は第二水雷戦隊に属し、マレー半島上陸作戦、続いてフィリピン・リンガエン湾上陸作戦に参加した。

1942年(昭和17年)1月、蘭印作戦においてアンボン攻略作戦、マカッサル攻略作戦に参加。
2月20日、ジャワ島侵攻の足掛かりともなるバリ島攻略作戦時に輸送船『相模丸』が空襲により損傷。揚陸作業終了後『荒潮』『満潮』が護衛について先に帰投した。一方、残った『朝潮』『大潮』はもう1隻の輸送船『笹子丸』を護衛して揚陸作業を継続する。これにABDA艦隊が攻撃に向かってきた為、反撃を行い(『荒潮』『満潮』も反転して来援)、バリ島沖海戦が発生する。この海戦により『満潮』大破、『大潮』小破となってしまう。この為両艦とも本土(横須賀・舞鶴)に回航され、修理を実施。原隊復帰は『満潮』が10月、『大潮』が12月となってしまった。

残された『朝潮』『荒潮』はジャワ島攻略戦後、4月よりフィリピン・コレヒドール攻略作戦に参加。
6月、ミッドウェー作戦に組み込まれ、攻略部隊支援隊として参加する。この海戦で損傷した第七戦隊の重巡洋艦『最上』『三隈』救援に向かったが共に損傷。本土帰還後『朝潮』は横須賀、『荒潮』は佐世保で修理を受けることとなる。
全艦が修理状態となった為、第八駆逐隊は活動休止となってしまった。『朝潮』は7月に修理に完了後横須賀鎮守府付警備艦とされ、再び第八駆逐隊が活動を開始するのは1942年(昭和17年)10月20日からである。

1942年(昭和17年)10月、まず修理の完了した『朝潮』『満潮』『荒潮』の3艦で活動を再開する。第八艦隊に編入され、ソロモン方面に出撃し、11月よりガダルカナル島輸送作戦に参加し、『朝潮』は第八艦隊の1艦として第三次ソロモン海戦に参加した。『満潮』がショートランド沖で空襲受け損傷し、本土(横須賀)に回航された。その後もブナ輸送、フィンシュハーヘン攻略戦に参加する。

1943年(昭和18年)2月、原隊に復帰した『大潮』と『荒潮』はガダルカナル島撤収作戦に参加。その後2月20日、ウエワク輸送に護衛任務で参加中に『大潮』が米潜水艦『アルバコア』からの雷撃を受け被雷、大破。航行不能となり、曳航中に船体が切断され沈没した。
3月、ラエ輸送作戦(後に『ダンピールの悲劇』と呼ばれるビスマルク海海戦)に参加。『朝潮』『荒潮』は輸送途中に空襲を受け、『荒潮『』が被弾、大破。漂流中に第二次攻撃を受け戦没した。『朝潮』は第一次、第二次の攻撃を振り切った後、僚艦の救援に当たったが、『荒潮』と特務艦『野島』の生存者救助作業中敵機が来襲。被弾、沈没した。

駆逐隊司令、佐藤大佐が戦死し、稼動艦無しとなった為、第八駆逐隊は1943年(昭和18年)3月3日解隊。
本土で修理中の『満潮』は修理完了後の11月、第二四駆逐隊に編入となった。
    
駆逐隊司令
阿部俊雄大佐(46期) 1941/9/1 1942/3/13
小川莚喜大佐(46期) 1942/3/14 1943/2/14
佐藤康夫大佐(44期) 1943/2/15 1943/3/3 戦没
所属駆逐艦(開戦時)

朝潮 1937/8/31 佐世保工廠で竣工
開戦時 第二水雷戦隊第八駆逐隊に所属
マレー半島上陸作戦に参加
1942/2/20 ジャワ攻略戦に参加し、連合軍艦隊と交戦(バリ島沖海戦
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/11/12・14 第三次ソロモン海戦に参加 
1943/3/3 ダンピールの悲劇』において、米軍機の攻撃を受け戦没。
1942/10/13 ガダルカナル島砲撃作戦に参加
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1942/11/30 ルンガ沖夜戦に参加
1943/2/1・7 イサベル島沖海戦(ケ号作戦)に参加
1943/3/3 ダンピールの悲劇』において、米軍機の攻撃を受け戦没。

大潮 1937/10/31 舞鶴工廠で竣工
開戦時 第二水雷戦隊第八駆逐隊に所属
マレー半島上陸作戦に参加
1942/2/20 ジャワ攻略戦に参加し、連合軍艦隊と交戦(バリ島沖海戦)し、損傷
1942/12/29 修理完了 原隊復帰
1943/2/1・7 イサベル島沖海戦(ケ号作戦)に参加
1943/2/20 マヌス島沖で米潜水艦アルバコアーの雷撃を受け大破
1943/2/21 沈没

満潮 1937/10/31 藤永田造船所で竣工
開戦時 第二水雷戦隊第八駆逐隊に所属
マレー半島上陸作戦に参加
1942/2/20 ジャワ攻略戦に参加し、連合軍艦隊と交戦(バリ島沖海戦)し、損傷
1942/10/22 修理完了 原隊復帰
1942/11/13 ショートランドで空襲を受け中破
(1943/11/14 修理完了後、第二四駆逐隊に編入)

荒潮 1937/12/20 川崎重工神戸で竣工
開戦時 第二水雷戦隊第八駆逐隊に所属
マレー半島上陸作戦に参加
1942/2/20 ジャワ攻略戦に参加し、連合軍艦隊と交戦(バリ島沖海戦
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加、損傷
1942/10/20 修理完了 原隊復帰
1943/2/1 イサベル島沖海戦(ケ号作戦)に参加
1943/3/3 ダンピールの悲劇』において、米軍機の攻撃を受け戦没。


第九駆逐隊
解説
『朝潮』級4隻で編制された駆逐隊。
太平洋戦争開戦時は第四水雷戦隊に属し、フィリピン攻略作戦(ビガン、リンガエン上陸作戦)に参加した。だがリンガエン上陸作戦で『山雲』が触雷、損傷してしまう。香港に後退した『山雲』は応急修理を施した後、本土(横須賀)に回航され修理を実施する。(その後他の駆逐隊に移籍した為、『山雲』は第九駆逐隊には復帰していない。)

1942年(昭和17年)1月、蘭印攻略作戦に参加し、タラカン、パリクパパン、クリスマス島攻略に参加したが、『夏雲』損傷する(軽微?)。
2月にはマカッサル攻略。ジャワ島方面に侵攻し、『朝雲』『峯雲』がスラバヤ沖海戦に参加する。この海戦で『朝雲』が損傷し、第九駆逐隊は一度本土に戻ることとなった。『夏雲』『朝雲』は4月より横須賀にて修理にはいり、次は6月のミッドウェー作戦に参加することとなった。
作戦終了後、一時的に北方部隊に編入されたが、再び南方進出が決定し、8月にはトラック島に進出した。だが『峯雲』がトラックを出撃するときに座礁、損傷してしまう。この後応急修理を施し、水上機母艦『千歳』を護衛してガダルカナル東方海域に進出。その間に『朝雲』『夏雲』の本隊は第二次ソロモン海戦に参加した。
9月末よりガダルカナル島輸送任務に従事する。
10月、ガダルカナル島輸送任務中に『峯雲』が米軍機の至近弾により損傷。トラックで応急修理を施した後、横須賀に回航されることとなる。同月11日、サボ島沖海戦が発生。ガダルカナル島重火器輸送部隊護衛任務に従事していた『朝雲』『山雲』『白雲』が帰路に分離してこの海戦で沈められた『古鷹』『吹雪』(?)の生存者を救出した。だが『叢雲』が『古鷹』の生存者を救出後、帰路ニュージョージア島沖(?)で米軍機の攻撃を受けて大破(後、雷撃処分)した。再び救出向かったのだが、今度は『夏雲』米軍機の攻撃により被弾、沈没。生存者は『朝雲』によって救出された。
11月、『朝雲』は第三次ソロモン海戦に参加し、戦艦『霧島』の生存者救出を行う。帰投後、空母『冲鷹』の護衛で横須賀まで回航。

1943年(昭和18年)1月、『峯雲』原隊復帰。『朝雲』『峯雲』は再びガダルカナル島輸送作戦に参加。
2月、『朝雲』はガダルカナル島撤収作戦に参加し、その後ウエワク輸送船団の護衛任務に就く。
3月、『朝雲』がラエ輸送任務に参加。ダンピール海峡で爆撃機の攻撃(ビスマルク海海戦)を受けるが、無事帰投。
3月5日、『峯雲』がコロンバンガラ輸送作戦に参加中、米艦隊(米駆逐隊)からレーダー射撃を受け沈没した。(米側呼称:ビラ・スタンモーア夜戦) その後『朝雲』もコロンバンガラ輸送任務に参加する。
4月、第九駆逐隊は第一水雷戦隊の指揮下に編入され、『薄雲』『白雲』が編入された。(『白雲』の編入1942/8/28とする場合とが有り不明)
5月25日、アッツ島救援に出撃するが同島玉砕により作戦中止となる。
6月6日、『白雲』が幌筵で『沼風』と触衝し、艦首大破。占守に帰投し応急処置、その後大湊、函館へと回航され修理された。『白雲』は修理の為キスカ撤収作戦への参加は出来なくなったが、この修理期間中に機銃増備工事を実施。二番砲塔の撤去による機銃の増設と、電探の装備が行われた。
7月7日、第一次キスカ撤収作戦に参加するが、作戦中止。22日から第二次キスカ島救出作戦に参加し、守備隊員の収容に成功する。その後は千島方面で待機状態となった。
10月31日、『朝雲』が第十駆逐隊に移籍。

1944年(昭和19年)3月1日、南方方面で行動中だった『不知火』が編入。
3月16日、襟裳岬東方で船団護衛中の『白雲』が米潜水艦『トートグ』の雷撃を受けて沈没。
残存艦が『薄雲』『霞』『不知火』となった第九駆逐隊は31日解隊、第十八駆逐隊と改称された。

(※『霞』の編入日、不明)
    
駆逐隊司令
佐藤康夫大佐(44期) 1941/4/10 1943/2/14
小西要人大佐(44期) 1943/2/15 1943/8/17
井上良雄大佐(48期) 1943/8/18 1944/3/31
所属駆逐艦

朝雲 1938/3/31 川崎重工神戸で竣工
開戦時 第四水雷戦隊第九駆逐隊に所属
比島攻略戦作戦に参加
1942/1〜 タラカン・パリクパパン攻略作戦に参加
1942/2/27 スラバヤ沖海戦に参加、損傷(本土に戻り修理)
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
ガダルカナル輸送作戦に従事
1942/11/12・14 第三次ソロモン海戦に参加 
1943/2/4 イサベル島沖海戦(ケ号作戦)に参加
空母『『冲鷹』を護衛して横須賀に回航
1943/3/3 ダンピールの悲劇(ビスマルク海海戦)』に遭遇。
1943/4/13 第五艦隊第一水雷戦隊に編入
1943/5/25〜 アッツ島救援に出撃(同島玉砕により作戦中止)
1943/7/22〜 キスカ撤収作戦に参加
1943/11/1 第十駆逐隊に移籍

山雲 1938/1/15 藤永田造船所で竣工
開戦時 第四水雷戦隊第九駆逐隊に所属
比島攻略戦作戦に参加
1941/12/31 リンガエン湾上陸作戦中に触雷、損傷
(香港で応急修理→横須賀で修理)
1942/10/1 横須賀鎮守府海面防備隊に編入
(その後第四駆逐隊に編入)

夏雲 1938/1/15 佐世保工廠で竣工
開戦時 第四水雷戦隊第九駆逐隊に所属
比島攻略戦作戦に参加
1942/1〜 ジャワ島、クリスマス島攻略戦に参加(損傷?)
1942/4/20 横須賀にて入渠修理実施
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
ガダルカナル輸送作戦に従事
1942/10/12 サボ島沖海戦での生存者救出任務に従事中に米海兵隊機の攻撃を受け戦没

峯雲 1938/4/30 藤永田造船所で竣工
開戦時 第四水雷戦隊第九駆逐隊に所属
比島攻略戦作戦に参加
1942/1〜 タラカン・パリクパパン攻略作戦に参加
1942/2/27 スラバヤ沖海戦に参加
1942/3〜 ジャワ島攻略作戦支援に参加
1942/4/24 横須賀にて入渠整備実施
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8/20 トラックを出港する際に座礁(応急修理後に出港)
1942/9〜 トラック〜ショートランド間輸送任務に従事
1942/10/5 ガダルカナル輸送作戦中に爆撃を受け損傷
(その後トラックで応急修理後、横須賀に回航)
1942/12/3 修理完了、原隊復帰
1943/3/5 クラ湾で米艦隊からの砲撃を受け戦没

以下追加配備・他隊から編入
白雲 1943/4/1 編入
第十二駆逐隊第二十駆逐隊第九駆逐隊
(『白雲』の第九駆逐隊編入日不明・以前の行動記録不明)
1943/5/25〜 アッツ島救援に出撃(同島玉砕により作戦中止)
1944/3/16 襟裳岬東方で米潜水艦『トートグ』の雷撃を受け沈没

薄雲 1942/4/1 北方部隊に編入(修理中)
第十二駆逐隊→北方部隊(六駆))
1942/7/30 戦前からの修理が完了
1943/4/1 北方部隊から編入
第十二駆逐隊→北方部隊(六駆・二一駆)→第九駆逐隊
1943/5/25〜 アッツ島救援に出撃(同島玉砕により作戦中止)
1943/7/22〜 キスカ撤収作戦に参加
1944/3/31 第九駆逐隊解隊 第十八駆逐隊に移籍(改称)
第十二駆逐隊→北方部隊(六駆・二一駆)→第九駆逐隊第十八駆逐隊

1943/9/1 南方部隊から編入
第十八駆逐隊→南方部隊→第九駆逐隊
1944/3/31 第九駆逐隊解隊 第十八駆逐隊に移籍
第十八駆逐隊→南方部隊→第九駆逐隊第十八駆逐隊

不知火 1944/3/1 南方部隊から編入
第十八駆逐隊→南方部隊→第九駆逐隊
1944/3/31 第九駆逐隊解隊 第十八駆逐隊に移籍(改称)
第十八駆逐隊→南方部隊→第九駆逐隊第十八駆逐隊


第十駆逐隊
解説
夕雲級4隻で編制された駆逐隊。
編制は1942年(昭和17年)3月14日

1944年(昭和19年)7月10日、解隊
  
駆逐隊司令
阿部俊雄大佐(46期) 1942/3/14 1943/1/47
吉村真武大佐(45期) 1943/1/18 1943/9/20
天野重隆大佐(47期) 1943/9/21 1944/3/19
赤沢次寿雄大佐(49期) 1944/3/20
所属駆逐艦

秋雲 1941/9/27 浦賀船渠で竣工
開戦時 第五航空戦隊附属として真珠湾作戦に参加
1942/1/8 柱島に帰投
1942/1/14 ビスマルク諸島攻略作戦に参加
1942/4 インド洋作戦に参加
1942/4/10 第十戦隊第十駆逐隊に編入(新編)
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
その後アリューシャン攻略戦に従事
1942/8 南東方面に進出
1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
ガダルカナル島輸送作戦に従事
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
米空母『ホーネット』を雷撃により撃沈処分
1943/2/1 ガダルカナル島撤収作戦に参加
1943/5 戦死した山本五十六元帥の遺骨を本土に輸送する『武蔵』に随伴して本土に回航
1943/7/29 キスカ島撤収作戦に参加
1943/10/6 ベララベラ海戦に参加
1944/4/11 セレベス海で米潜水艦『レッドフィン』の雷撃を受け戦没

夕雲 1941/12/5 舞鶴工廠で竣工
単艦で第十駆逐隊を編制
1942/4/10 第十戦隊第十駆逐隊に編入(新編)
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
その後アリューシャン攻略戦に従事
1942/8 南東方面に進出
1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
ガダルカナル島輸送作戦に従事
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1943/2/1 ガダルカナル島撤収作戦に参加
1943/5 戦死した山本五十六元帥の遺骨を本土に輸送
1943/7/29 キスカ島撤収作戦に参加
1943/10/6 ベララベラ海戦に参加、米艦隊と交戦し戦没

巻雲 1942/3/14 藤永田造船所で竣工
1942/4/10 第十戦隊第十駆逐隊に編入(新編)
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
その後アリューシャン攻略戦に従事
1942/8 南東方面に進出
1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
ガダルカナル島輸送作戦に従事
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
米空母『ホーネット』を雷撃により撃沈処分
1943/2/1 ガダルカナル島撤収作戦に従事
サボ島沖で触雷損傷(その後雷撃処分)

風雲 1942/3/28 浦賀船渠で竣工
1943/4/13 第十戦隊第十駆逐隊に編入
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
その後アリューシャン攻略戦に従事
1942/8 南東方面に進出
1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
ガダルカナル島輸送作戦に従事
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
米空母『ホーネット』を雷撃により撃沈処分
1943/2/1 ガダルカナル島撤収作戦に参加
1943/5 戦死した山本五十六元帥の遺骨を本土に輸送する『武蔵』に随伴して本土に回航
1943/7/29 キスカ島撤収作戦に参加
1943/10/6 ベララベラ海戦に参加
1944/6/8 ダバオで米潜水艦『ヘイク』の雷撃を受け戦没

以下追加配備・他隊から編入
朝雲 1943/11/1 第九駆逐隊から編入
第九駆逐隊第十駆逐隊
1944/6/2〜 第一次渾作戦に参加(作戦中止)
1944/6/12 第三次渾作戦に参加(作戦中止)
1944/6/19 マリアナ沖海戦に参加
1944/7/10 第四駆逐隊に移籍
第九駆逐隊第十駆逐隊第四駆逐隊


第十一駆逐隊
解説
特T型駆逐艦(吹雪級)3隻『吹雪』『白雪』『初雪』で編制された駆逐隊。
開戦時は第三水雷戦隊に所属し、マレー半島上陸作戦に参加した。

12月13日、ボルネオ攻略作戦支援の為、『吹雪』が第十二駆逐隊と共に(他に第二十駆逐隊の『狭霧』)輸送船船団を護衛してカムラン湾を出撃。17日にボルネオ島ミリに陸軍部隊を揚陸した。

1942年(昭和17年)1月、蘭印方面作戦に参加し、ボルネオ島クチン攻略作戦に参加。またエンドウ沖海戦に参加した。
2月13日、『吹雪』が第二十駆逐隊の『朝霧』と共に英河川用砲艦『スコーピオン』を撃沈。
3月、バタビヤ沖海戦に参加。この海戦で『白雪』が艦橋に被弾している。その後3月10日に第十二駆逐隊より『叢雲』が編入され、北部スマトラ掃討作戦に参加。
4月、インド洋方面の作戦に参加。馬来部隊の一隊としてベンガル湾機動作戦(通商破壊作戦)の警戒隊として参加する。その後南方作戦を終えた各艦は本土にて入渠修理・整備を行う。この間に対空兵装の増設を行っている。5月末までに作業を終えた各艦は柱島に集結。その後のミッドウェー作戦に参加することとなる。
6月、ミッドウェー作戦に連合艦隊主力部隊の護衛として全艦が参加するが、交戦なし。
8月、南東方面に進出。ガダルカナル島輸送作戦に従事する。また29日のガダルカナル島輸送作戦で壊滅状態となった第二十駆逐隊より『天霧』『夕霧(損傷修理中)』が編入された。
31日、『吹雪』『白雪』『初雪』『天霧』の4艦は第三水雷戦隊の指揮の下、再びショートランドを発ってガダルカナル島輸送に参加。ガダルカナル島に突入し、9月1日無事ショートランドに戻ってきた。
翌9月2日、再び『吹雪』『白雪』『天霧』がガダルカナル島に突入。この作戦ではガダルカナル島飛行場に砲撃を敢行した。
4日、『初雪』『叢雲』が第四水雷戦隊の指揮下でガダルカナル島に突入。同日夜の揚陸作戦中に『夕立』(第二駆逐隊)と共に『初雪』『叢雲』はルンガ泊地に突入し、米高速輸送艦『グレゴリー』『リットル』の2艦を発見、砲撃を行いこれを撃沈した。
12日、『吹雪』がガダルカナル島砲撃作戦に参加。
15日、『吹雪』『白雪』がガダルカナル島輸送作戦に参加し、青葉支隊の人員と機材を輸送した。
21日、ガダルカナル島輸送作戦に参加していた『初雪』が米軍機の銃爆撃を受ける。(損傷無し?)
10月1日、陸軍青葉支隊を輸送。その帰路に米軍機8機の爆撃を受け『初雪』が舵損傷によりショートランドに帰投する。
4日、『吹雪』『白雪』『叢雲』が『綾波(第十九駆逐隊)』『時雨(第二七駆逐隊)』と共に陸兵700名と食料24tをカミンボに揚陸。その後6日以降も揚陸は続けられ、7日には再び『吹雪』『白雲』『叢雲』が『綾波』と共に陸兵600名と山砲6門及び弾薬をタサファロングに揚陸した。
10月11日、第二師団の重装備を輸送すべく水上機母艦『日進』『千歳』を中心とする輸送部隊に『叢雲』『白雲』が参加する。だがこの輸送部隊は米軍機によって発見され、この部隊を迎撃すべく米艦隊・スコット隊(指揮官:ノーマン・スコット少将)の率いる巡洋艦部隊が北上を開始する。一方、同日夜半にガダルカナル島飛行場砲撃を砲撃すべく後藤少将指揮下の第六戦隊の重巡洋艦3隻(『青葉』『古鷹』『衣笠』)が出撃。この護衛として『吹雪』『白雪』が参加していた。
スコット隊は水偵を発艦させ索敵を開始したところ、接近する日本艦隊を発見。これを迎撃すべく進路をとる。ガダルカナル島砲撃任務の為、単縦陣で高速航行をしていた後藤部隊を、旗艦『ヘレナ』のレーダーが捕捉。一方後藤部隊旗艦『青葉』も肉眼で艦影3隻を発見するが、ガダルカナル島に敵艦隊がいるとの情報を得ていなかった後藤少将は味方輸送部隊と誤認する。米艦隊からの砲撃を受けても、誤射だと思った後藤少将が『ワレ アオバ』と味方識別信号を送るが、短時間で制圧、戦力を喪失した『青葉』が回頭して戦線の離脱を図る。その後2番艦の位置につけていた『古鷹』が集中砲撃を受けつつも『青葉』に続航。『衣笠』は状況を確認して『青葉』とは逆回頭にて後退を開始し、同航した『初雪』と共に米艦隊先行部隊であった米駆逐艦に対し砲雷撃戦を敢行する。『吹雪』は旗艦の回頭に続いて回頭を行うが、米艦隊の砲撃により沈没。その後同航戦状態となった日米巡洋艦部隊は火災の発生している『古鷹』に集中砲撃を行い、これを撃沈した。
このサボ島沖海戦において日本海軍は初の夜間水雷戦に敗退するという事態になった。一方でガダルカナル島輸送部隊は揚陸に成功する。
翌12日、揚陸部隊護衛の『叢雲』『白雪』がガダルカナル島からの帰路途中で沈没した『古鷹』の生存者救出任務に駆けつけたが、『叢雲』が米軍機の攻撃によって被弾、航行不能となる。その為、艦長以下の生存者は『白雪』に一時収容され、現場を離れることとなった。その後、再調査の上、自沈作業を行い、処分されている。
13日、第三戦隊『金剛』『榛名』によるガダルカナル島艦砲射撃を実施。14日も重巡洋艦『鳥海』『衣笠』の飛行場砲撃が行われ、その影では駆逐艦による輸送作戦が行われ、それに『白雪』が参加する。
その後もガダルカナル島を巡る戦いは続けられ、15日は重巡洋艦『妙高』『摩耶』が砲撃戦を、17日には駆逐艦による砲撃として『天霧』が『望月』と共にガダルカナル島砲撃に赴いている。
11月になっても、駆逐艦によるガダルカナル島輸送作戦は続けられ、2日夜には『白雪』もタサファロンガ岬への輸送に参加している。
11月12日より行われた第三次ソロモン海戦では、第一回戦となる第一夜の海戦にて失敗したガダルカナル島砲撃作戦を再度行うべく、戦艦『霧島』を中心とした第二艦隊に『白雪』『初雪』も参加する。この海戦では『白雪』も被弾し、戦死者32名を出した。

1943年(昭和18年)2月、ガダルカナル島撤収に伴うケ号作戦に『白雪』が参加。1日、4日、7日に行われた3回の作戦全てに『白雪』は参加した。一方、長期修理から復帰した『夕霧』もソロモン方面に進出していたが、撤収作戦への参加は無理と判断され、ショートランドで付属隊として待機していた。だが2日に損傷した『巻波』救助の為に出動している。その後ショートランドで触礁し、推進器故障の為、再び本土に修理の為回航している。
2月17日、今度は『初雪』がカビエン沖で岩礁に接触し、推進器翼が損傷。応急修理するが振動が大きく、内地への回航が決定する。このため、八一号作戦(ラエ輸送)には参加出来なかったが、同作戦で戦没した艦船の乗員救出の為に緊急出動し、救助にあたった。
3月2日より始まったラエ増援輸送の八一号作戦に『白雪』が参加する。この作戦で米軍機の低空からの反跳爆撃で中破。その後弾薬庫の引火・誘爆により戦没した。(座乗していた第三水雷戦隊司令官木村少将が重症を負ったが、生存者と共に『浦波』によって救助された。)
4月7日、『天霧』がイザベル島レカタへの物資輸送中にB-17の爆撃を受ける。至近弾によりにより損傷。
5月16日、『夕霧』カビエン付近で米潜『グレイバック』の雷撃を受け艦首切断・大破。応急修理後本土に回航され、呉で入渠修理となる。(修理完了は11月)
6月1日、南西方面艦隊に編入され、主にスラバヤ〜アンボン輸送
6月30日、米軍がレンドバ島に上陸。これを攻撃する為に7月2日に第三水雷戦隊がブインを出撃し、この中に第十一駆逐隊から『初雪』『天霧』が参加する。しかし米輸送船団を発見できず、米魚雷艇と交戦しただけで帰投する。
7月5日、クラ湾夜戦。レンドバ島、次いでニュージョージア島に上陸した米軍に対応する為に、コロンバンガラ島及びニュージョージア島に陸軍部隊の増援輸送を決定。輸送任務の『初雪』『天霧』は三水戦司令部からの集結命令により引き返し、米艦隊と交戦。『天霧』が損傷するも、再びコロンバンガラ島輸送任務に戻り揚陸を行う。(修理は7日よりラバウルにて応急修理)
7月12日、コロンバンガラ島沖海戦に再び『初雪』『天霧』が参加する。
7月17日、コロンバンガラ島輸送任務の為、ショートランドで補給作業中の『初雪』が米軍機の空襲を受け戦没。
8月1日、ブインからコロンバンガラ島に向かう駆逐艦4隻からなる輸送隊で警戒任務に就いた『天霧』が米魚雷艇と交戦。最初の交戦では魚雷艇を撃退したが、帰投中に遭遇した3隻の魚雷艇の内1隻(PT-109)と衝突し、魚雷艇の船体を二つに切断した。この魚雷艇(PT-109)の艇長が後の米大統領となるケネディ中尉であった。
9月28日、セ号作戦(コロンバンガラ島撤収作戦)の第一回目に『天霧』が参加。
11月1日、米軍がブーゲンビル島に上陸。これを攻撃・逆上陸する為に艦隊が出撃し、『天霧』は輸送隊として参加する。2日にブーゲンビル島沖海戦が発生するが、作戦は失敗。この海戦で『天霧』は魚雷を受けるが不発であった。その後6日にブーゲンビル島タロキナに逆上陸を行い、この輸送作戦に『天霧』が参加。
11月24日、米軍がブーゲンビル島に続きブカ島にも上陸すると警戒した日本軍はブカに兵力輸送を開始。2回目となる24日の輸送には『天霧』『夕霧』が参加。第二次輸送作戦で輸送隊に指定された両艦は米艦隊と交戦(セントジョージ岬沖海戦)。砲戦により『夕霧』が被弾、戦没。
12月7日、カビエン付近で『天霧』が『秋風』と触衝。艦首付近が損傷し、稼動艦の無くなった第十一駆逐隊は1943年(昭和18年)12月7日解隊が決定。
『天霧』は第十九駆逐隊に移籍となった。
   
駆逐隊司令
荘司喜一郎大佐(45期) 1941/6/18 1942/7/14
杉野修一大佐(46期) 1942/7/15 1943/7/8
山代勝盛大佐(47期) 1943/7/9 1943/12/7
所属駆逐艦

吹雪 1928/8/10 舞鶴工作部で竣工
開戦時 第三水雷戦隊第十一駆逐隊に所属 マレー半島上陸作戦に参加
1942/1/27 エンドウ沖海戦に参加
1942/3/1 バタビア沖海戦に参加
1942/4 ベンガル湾機動作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8 ガダルカナル島輸送作戦に参加
1942/10/11 サボ島沖海戦に参加 米艦隊と交戦、被弾戦没

白雪 1928/12/18 横浜船渠で竣工
開戦時 第三水雷戦隊第十一駆逐隊に所属 マレー半島上陸作戦に参加
1942/1/27 エンドウ沖海戦に参加
1942/3/1 バタビア沖海戦に参加
1942/4 ベンガル湾機動作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8 ガダルカナル島輸送作戦に参加
1942/11/14 第3次ソロモン海戦に参加
1943/2/1 ガダルカナル島輸送作戦(ケ号作戦)に参加
1943/3/5 ダンピールの悲劇(ビスマルク海海戦)において、空襲を受け被弾、戦没

初雪 1929/3/30 舞鶴工作部で竣工
開戦時 第三水雷戦隊第十一駆逐隊に所属 マレー半島上陸作戦に参加
1942/1/27 エンドウ沖海戦に参加
1942/3/1 バタビア沖海戦に参加
1942/4 ベンガル湾機動作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8 ガダルカナル島輸送作戦に参加
1942/10/11 サボ島沖海戦に参加 米艦隊と交戦、被弾戦没
1942/11/14 第3次ソロモン海戦に参加
1943/2/1 ガダルカナル島輸送作戦(ケ号作戦)に参加
1943/7/5 クラ沖夜戦に参加
1943/7/17 ブイン沖で物資揚陸中に米軍機の攻撃を受け戦没

以下追加配備・他隊から編入
叢雲 1942/3/10 第十二駆逐隊から編入
第十二駆逐隊第十一駆逐隊
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8 ガダルカナル島輸送作戦に参加
1942/10/12 ガダルカナル島輸送作戦の帰路、サボ島沖海戦で戦没した『古鷹』の救助作業中に空襲を受け戦没

夕霧 1942/8/28 第二十駆逐隊より移籍
第二十駆逐隊第十一駆逐隊
但し、損傷により修理実施
1943/1 修理完了
1943/2/2 ショートランドで座礁(呉に回航、修理)
1943/5/16 ムッソウ島沖で米潜水艦の雷撃を受け大破(艦首切断)
1943/8〜11 呉工廠で修理
1943/11/25 セントジョージ岬沖海戦に参加 米艦隊と砲戦、被弾沈没

天霧 1942/8/29 第二十駆逐隊より編入
第二十駆逐隊第十一駆逐隊
(注) 編入時期が資料によっては1943/2/25
第二十駆逐隊第三水雷戦隊付(?)→第十一駆逐隊
1942/10/17 ガダルカナル島砲撃
1943/1 本土(呉)に回航(護衛任務) 後に入渠修理実施
(1943/2/25) 第十一駆逐隊に移籍)
1943/7/5 クラ湾夜戦に参加
1943/11/25 セントジョージ岬沖海戦に参加
1943/12/7 カビエンで『秋風』と衝突 艦首損傷
1944/3/1 第十九駆逐隊に編入
第二十駆逐隊第十一駆逐隊第十九駆逐隊


第十二駆逐隊
解説
特T型駆逐艦(吹雪級)4隻で編制された駆逐隊であったが、開戦前に『薄雲』が機雷に触雷し大破。長期修理状態の為、開戦時には作戦に参加していなかった。
開戦時にはマレー半島上陸作戦に参加。
第二十駆逐隊と共に上陸部隊の主力を乗せた船団17隻を護衛して12月8日朝、タイ領シンゴラ沖に進出し、上陸作戦を支援した。シンゴラへの揚陸作業は無事完了したが、別働隊としてコタバルに向かった第三水雷戦隊旗艦『川内』と第十九駆逐隊は揚陸途中で空襲を受け、退却。その為合同して翌9日にコタバルに再進出、揚陸作業を終了した後カムラン湾に戻った。
12月13日、ボルネオ攻略部隊を乗せた輸送船団を護衛する為、同隊の3隻と、他に第十一駆逐隊の『吹雪』、第二十駆逐隊の『狭霧』と共にカムラン湾を出撃。17日にボルネオ島ミリに揚陸を開始する。この攻略作戦時に於いて港外で哨戒任務に就いた『東雲』が敷設機雷により轟沈する。(爆撃機(飛行艇?)による戦没の可能性も有り、詳細は不明)
1942年(昭和17年)、蘭印方面作戦に参加し、3月にジャワ島攻略作戦における輸送船団護衛部隊として参加し、バタビヤ沖海戦が発生する。この海戦で『叢雲』『白雲』は行動不能となった豪軽巡『パース』に対し雷撃を行い、これを沈没している。また遅れてバタビアを脱出した蘭駆逐艦『エベルトセン』に遭遇し、これを砲撃を行った。(同艦は擱座後、放棄)
その後1942年(昭和17年)3月10日、第十二駆逐隊は解隊され、『叢雲』は第十一駆逐隊に移籍。『白雲』は第二十駆逐隊に移籍することとなった。
また長期修理中であった『薄雲』は修理完了後(1942年(昭和17年)8月以降)に北方部隊に編入されることとなった。
     
駆逐隊司令
小川莚喜中佐(46期)
所属駆逐艦

叢雲 1929/5/10 藤永田造船所で竣工
開戦時 第三水雷戦隊第十二駆逐隊に所属 マレー半島上陸作戦に参加
1942/3/1 バタビア沖海戦に参加
1942/3/10 第十一駆逐隊に移籍

東雲 1928/7/25 佐世保工廠で竣工
開戦時 第三水雷戦隊第十二駆逐隊に所属 マレー半島上陸作戦に参加
1941/12/17 ボルネオ島沖で敷設機雷に触雷、沈没

薄雲 1928/7/26 石川島造船所で竣工
1941/8/15 南日水道で触雷、大破
開戦時 修理中につき作戦不参加
1942/3/10 第十二駆逐隊解隊
1942/7/30 修理完了後、北方部隊に編入(第六駆逐隊に仮編入?)

白雲 1928/7/28 藤永田造船所で竣工
開戦時 第三水雷戦隊第十二駆逐隊に所属 マレー半島上陸作戦に参加
1942/3/1 バタビア沖海戦に参加
1942/3/10 第二十駆逐隊に移籍


第十三駆逐隊
解説
若竹級4隻で編制された駆逐隊であったが、1932年(昭和7年)12月5日に『早蕨』が戦没。以後3隻態勢で太平洋戦争開戦を迎えた。
開戦時は呉鎮守府呉防備戦隊に所属。その後第一海上護衛隊に編入され船団護衛任務に従事するが、1942年(昭和17年)12月に第十三駆逐隊は解隊となった。だがその後も単艦単位で第一海上護衛隊の指揮下で船団護衛任務に従事することとなる。
     
駆逐隊司令
天谷嘉重大佐(47期) 1941/6/23 1942/7/9
金岡国三大佐(48期) 1942/7/10 1942/12
所属駆逐艦

若竹 1922/9/30 川崎重工神戸造船所で竣工
開戦時 呉鎮守府防備戦隊第十三駆逐隊所属
1942/4/10 第一海上護衛隊に編入
南西方面〜本土の輸送護衛任務に従事
1942/12 第十三駆逐隊解隊
第一海上護衛隊に個艦単位で編入
(その後)
1944/3/30 パラオ沖で米艦載機群の攻撃を受け戦没

呉竹 1922/12/21 川崎重工神戸造船所で竣工
開戦時 呉鎮守府防備戦隊第十三駆逐隊所属
1942/4/10 第一海上護衛隊に編入
南西方面〜本土の輸送護衛任務に従事
1942/12 第十三駆逐隊解隊
第一海上護衛隊に個艦単位で編入
(その後)
1944/12/30 バシー海峡で米潜水艦『レザーバック』の雷撃を受け戦没

早苗 1924/7/24 浦賀船渠で竣工
開戦時 呉鎮守府防備戦隊第十三駆逐隊所属
1942/4/10 第一海上護衛隊に編入
南西方面〜本土の輸送護衛任務に従事
1942/12 第十三駆逐隊解隊
第一海上護衛隊に個艦単位で編入
(その後)
1943/11/15 セレベス海で米潜水艦『ブルーフィッシュ』の雷撃を受け戦没


第十四駆逐隊
解説
1939年(昭和14年)12月に解隊。
以後、太平洋戦争中は第十四駆逐隊は欠番。


第十五駆逐隊
解説
『陽炎』級4隻で編制された駆逐隊。
開戦時には第二水雷戦隊に所属し、フィリピン・ダバオ攻略戦、ホロ(スールー諸島)攻略戦に参加した。
1942年(昭和17年)1月よりメナド、ケンダリー、アンボン、マカッサルといった蘭印攻略戦に参加。その際に『夏潮』がマカッサル沖で米潜水艦『S-27』からの雷撃を受け被雷、損傷。『黒潮』が曳航しケンダリーまで後退しようとしたが浸水が激しく2月9日に沈没した。
部隊はその後もクーパン攻略やジャワ南方機動作戦に参加。
3月、パラオで座礁した空母『加賀』が修理する為に本土・呉に回航することが決定、第十五駆逐隊はその護衛として呉まで一度戻っている。
4月には再びフィリピンに進出。カガヤン攻略戦に参加。
5月、珊瑚海海戦で傷ついた空母『翔鶴』を護衛する為にマニラを出港。合流後、『翔鶴』を護衛して、また呉に戻った。
6月、第十一航空戦隊を護衛してミッドウェー作戦に参加。
7月、壊滅状態となった第十八駆逐隊の『陽炎』を編入し、南西方面に進出。ペナンで対潜警戒活動に参加するが、南東方面での戦闘が開始された為ソロモン方面に急行。
ガダルカナル島輸送作戦に参加し、その後も南太平洋海戦(10月)、第三次ソロモン海戦(11月)、ルンガ沖夜戦(11月)に参加する。
11月24日、ラエ輸送作戦に参加した際に米陸軍機(B-17)の攻撃を受け『早潮』が被弾、戦没した。

1943年(昭和18年)1月、『親潮』が損傷修理の為トラック経由で呉に帰投。その後『黒潮』はケ号作戦の為のルッセル島攻略作戦に参加。『陽炎』は支援の為の前進部隊に加わった参加した。
2月のガダルカナル島撤収作戦には『黒潮』も参加し、3回行われた撤収作戦のいずれにも参加した。だが第二次作戦の際に爆撃を受け小破しており、この為一度呉に修理の為戻ることとなる。

『黒潮』『親潮』の修理は3月まで掛かり、4月には再び空母『大鷹』『冲鷹』を護衛して南東方面に復帰した。
その後ムンダ輸送作戦に従事するが、5月8日に『親潮』『黒潮』『陽炎』の3艦ともコロンバンガラ島近海(クラ湾)にて触雷した。『黒潮』は沈没、『親潮』『陽炎』は大破し、さらに米軍機の攻撃を受けて沈没した。

書類上は1943年(昭和18年)6月20日付けで除籍処分となっており、第十五駆逐隊の歴史は幕を降ろした。
    
駆逐隊司令
佐藤寅治郎大佐(43期) 1941/6/18 1942/12/25
牟田口格郎大佐(44期) 1942/12/26 1943/6/20 解隊
所属駆逐艦(開戦時)

黒潮 1940/1/27 藤永田造船所で竣工
開戦時 第二水雷戦隊第十五駆逐隊に所属
比島・ダバオ攻略作戦支援に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/10/13 ガダルカナル島砲撃作戦に参加
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1942/11/30 ルンガ沖夜戦に参加
1943/2/1・7 イサベル島沖海戦(ケ号作戦)に参加
1943/5/8 コロンバンガラ島近海(クラ湾)で触雷、戦没

親潮 1940/8/20 舞鶴工廠で竣工
開戦時 第二水雷戦隊第十五駆逐隊に所属
比島・ダバオ攻略作戦支援に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1942/11/30 ルンガ沖夜戦に参加
1943/2/1・7 イサベル島沖海戦(ケ号作戦)に参加
1943/5/8 コロンバンガラ島近海(クラ湾)で触雷、戦没

早潮 1940/8/21 浦賀船渠で竣工
開戦時 第二水雷戦隊第十五駆逐隊に所属
比島・ダバオ攻略作戦支援に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1942/11/24 ラエ近海で米軍機の攻撃を受け戦没

夏潮 1940/8/21 藤永田造船所で竣工
開戦時 第二水雷戦隊第十五駆逐隊に所属
比島・ダバオ攻略作戦支援に参加
1942/2/6 マカッサル沖で米潜S-27の雷撃を受け大破
1942/2/9 僚艦黒潮により曳航中に浸水により沈没

以下追加配備・他隊から編入
陽炎 1942/7/15 第十八駆逐隊より編入
第十八駆逐隊第十五駆逐隊
1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
1942/11/30 ルンガ沖夜戦に参加
1943/2/1・7 イサベル島沖海戦(ケ号作戦)に参加
1943/5/8 コロンバンガラ島近海(クラ湾)で触雷、戦没


第十六駆逐隊
解説
『陽炎』級4隻で編成された駆逐隊であり、太平洋戦争中最高の幸運艦と知られる『雪風』が配備されていた。
第二艦隊 第二水雷戦隊に所属し、開戦時にはフィリピン・レガスピー攻略戦、蘭印攻略戦、ニューギニア攻略戦に参加。2月にはスラバヤ沖海戦に参加した。

1942年(昭和17年)7月、ミッドウェー作戦後に再建された空母部隊(第三艦隊)指揮下の第十戦隊に移籍し、ソロモン方面の海戦に参加。
8月、第二次ソロモン海戦では空母『龍驤』を護衛する為に『天津風』『時津風』が分派。『初風』『雪風』が主隊と共に行動した。
10月、南太平洋海戦に参加。
11月、第三次ソロモン海戦に『雪風』『天津風』の2隻が参加、第一夜戦において『天津風』は損傷し、本土回航となった。また『雪風』は被弾して傷ついた戦艦『比叡』を自沈させるべく雷撃(自沈処分)を行っている。

1943年(昭和18年)1月、ガダルカナル島沖で『初風』が触雷し大破(7月原隊復帰)。
2月にはガダルカナル島撤退(ケ号作戦)に伴なうイサベル島沖海戦に『雪風』『時津風』が輸送隊として参加。
3月に『ダンピールの悲劇』と知られるラエ緊急輸送にも参加し、ビスマルク海海戦で『時津風』が米軍機の攻撃を受け戦没した。
11月、ブーゲンビル島沖海戦に『初風』が第十戦隊の1艦として参加。米艦隊の高速運動とレーダー射撃による遠距離砲戦に翻弄された日本側は回避中の接触事故が多発、『初風』も『妙高』と接触、艦首切断となり大破、航行不能となってしまう。その後米艦隊(アーレイ・バーグ大佐の駆逐隊)の砲撃によって戦没した。

1944年(昭和19年)1月、本土に戻った『雪風』『天津風』はシンガポール行きの船団護衛に参加。南支那海で『天津風』が米潜水艦から雷撃によって被雷。機関部損傷により漂流状態となってしまう。救援に駆けつけた『朝顔』他(第十九号駆潜艇)により曳航されたが、修理が長引くと判断されたため、残された『雪風』は2月以降『千歳』『初霜』とペアを組んでサイパン方面航路の護衛任務に従事する。

1944年(昭和19年)3月末、第十六駆逐隊は実働1隻なった為、解隊が決定。『雪風』は第十七駆逐隊に移籍することが決定した。
第十六駆逐隊は1944年(昭和19年)3月20日、解隊となった。
   
駆逐隊司令
渋谷紫郎大佐(44期) 1941/7/25 1942/7/31
荘司喜一郎大佐(45期) 1942/8/1 1943/4/26
鳥居威美大佐(47期) 1943/4/27 1943/12/5
古川文次大佐(49期) 1943/12/6 1944/1/16 戦没
所属駆逐艦(開戦時)

初風 1940/2/15 川崎重工神戸で竣工
開戦時 第二水雷戦隊第十六駆逐隊に所属
比島レガスピー攻略作戦に参加
1942/2/27 スラバヤ沖海戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1943/1/10 ガダルカナル島沖で触雷、大破
1943/7/10 修理完了、原隊復帰
1943/11/2 ブーゲンビル島沖海戦で『妙高』と接触し、大破。
その後米艦隊の砲撃を受け沈没。

雪風 1940/1/20 佐世保工廠で竣工
開戦時 第二水雷戦隊第十六駆逐隊に所属
比島レガスピー攻略作戦に参加
1942/2/27 スラバヤ沖海戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1942/11/12 第三次ソロモン海戦に参加
1943/3/2 ビスマルク海海戦に参加
1943/7/12 コロンバンガラ島沖海戦に参加
1944/1 南シナ海・船団護衛任務参加
1944/2 サイパン方面・船団護衛任務に参加
1944/3/20 第十七駆逐隊に移籍

天津風 1940/10/26 舞鶴工廠で竣工
開戦時 第二水雷戦隊第十六駆逐隊に所属
比島レガスピー攻略作戦に参加
1942/2/27 スラバヤ沖海戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1942/11/12 第三次ソロモン海戦で被弾損傷。
(トラックで応急修理、本土回航。1943/2復帰・以後輸送護衛任務。 原隊復帰は1943/9)
1944/1/16 南シナ海で輸送船団護衛中に被雷、大破。
(その後) 以後修理を重ね、修理完了は1945/3
1945/4/6船団護衛中に米軍機の爆撃により大破、翌日漂着。 4/10自沈。

時津風 1940/12/15 浦賀船渠で竣工
開戦時 第二水雷戦隊第十六駆逐隊に所属
比島レガスピー攻略作戦に参加
1942/2/27 スラバヤ沖海戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1943/3/3 ダンピールの悲劇』において、米軍機の攻撃を受け戦没。


第十七駆逐隊
解説
『陽炎』級4隻で編成された駆逐隊。
開戦時の所属は第一艦隊第一水雷戦隊であったが、空母部隊(第一航空艦隊)の護衛任務としてハワイ攻撃作戦に参加している。真珠湾奇襲作戦後、常に機動部隊と共にあり、ラバウル、蘭印、インド洋、ミッドウェーと作戦行動をとっている。

1942年(昭和17年)7月、機動部隊が第三艦隊として再編されるとそれまでの第一水雷戦隊から離れ、空母直衛専門の第十戦隊に編入され、南太平洋海戦に参加した。

1943年(昭和18年)2月、ガダルカナル島からの撤収作戦(ケ号作戦)に参加。
7月には陸軍増援部隊を乗せた輸送隊の支援隊として第三水雷戦隊と共に『浜風』『谷風』が参加。クラ湾夜戦に参加。さらに先の海戦で第三水雷戦隊司令部が壊滅した為、急遽第二水雷戦隊が輸送任務を継続。この警戒部隊に『浜風』が参加し、コロンバンガラ島沖海戦に参加した。
10月、中部ソロモンのベララベラ島からの撤退に再び第三水雷戦隊を投入。この警戒部隊に『磯風』が参加している。(ベララベラ海戦

1944年(昭和19年)、同型艦で編制されている第十六駆逐隊が2隻失い、1隻が長期修理の為戦列を離れることとなった。この為残された『雪風』が第十七駆逐隊に編入され、5隻体制となる。
ソロモン放棄後、中部太平洋マリアナ諸島での米艦隊撃滅を狙いあ号作戦が計画される。だが主力たる空母部隊は補給の問題から南西方面タウイタウイ泊地を艦隊集結地とした。この泊地で待機中、湾外に出たときに『谷風』が米潜水艦の雷撃によって戦没、第十七駆逐隊初の損失艦となった。また『雪風』がタウイタウイ泊地において浅瀬に乗り上げ、推進器の先端の一部が折傷し、全速運転が無理となった。その為あ号作戦では残り3隻が本隊と共に行動し、『雪風』は第二補給部隊の護衛として本隊を追う形となった。

1944年(昭和19年)10月、捷一号作戦に参加。栗田部隊・第二部隊の護衛として参加。沈み行く『武蔵』の生存者救出の為『浜風』が戦列を離れ、残りの3隻はサンベルナルジノ海峡を突破後、サマール島沖の米護衛空母部隊と交戦状態に入った。(この海戦では4隻とも生き残った)
レイテ海戦後、艦隊は再び再編制され、第十七駆逐隊は第二艦隊第二水雷戦隊に編入される。
11月、戦艦部隊を護衛し、本土に回航していたところ、21日に米潜水艦『シーライオン』の雷撃を受け、『金剛』『浦風』が戦没し、駆逐隊司令 谷井大佐が戦没した。

横須賀に回航された第十七駆逐隊は今度は空母『信濃』を瀬戸内海まで護衛することとなる。『信濃』側の回航航路と第十七駆逐隊で意見の相違が発生。結果『信濃』側の判断で横須賀を出港したところ11月29日に米潜水艦によって『信濃』が戦没してしまった。

1945年(昭和20年)4月、『大和』の沖縄特攻(菊水作戦)に護衛部隊として参加。この海戦(坊ノ岬沖海戦)で『磯風』大破(自沈)、『浜風』戦没となり、生き残ったのは『雪風』1隻だけになってしまう。
この為、第十七駆逐隊は4月20日付けで解隊が決定した。

雪風は終戦まで生き残り、帝國海軍最高の幸運艦として知られるようになった。
   
駆逐隊司令
杉浦嘉十大佐(46期) 1940/12/15 1942/4/9
北村昌幸大佐(45期) 1942/4/10 1943/6/16
宮崎俊男大佐(48期) 1943/6/17 1943/12/17
谷井 保大佐(50期) 1943/12/18 1943/11/21 戦没
新谷喜一大佐(50期) 1944/12/5 1945/4/14
松原滝三郎大佐(52期) 1945/4/15 1945/8/15
所属駆逐艦(開戦時)

浦風 1940/12/15 藤永田造船所で竣工
開戦時 第一水雷戦隊第十七駆逐隊に所属
ハワイ・真珠湾攻撃作戦に参加
1942/4 インド洋作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1944/6/19 マリアナ沖海戦に参加
1944/10/23 捷一号作戦(シブヤン海海戦・サマール沖海戦)に参加
1944/11/21 台湾海峡で米潜水艦『シーライオン』の雷撃を受け戦没。

磯風 1940/11/30 佐世保工廠で竣工
開戦時 第一水雷戦隊第十七駆逐隊に所属
ハワイ・真珠湾攻撃作戦に参加
1942/4 インド洋作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1943/10/6 ベララベラ海戦に参加
1944/6/19 マリアナ沖海戦に参加
1944/10/23 捷一号作戦(シブヤン海海戦・サマール沖海戦)に参加
1944/11/29 『信濃』回航護衛作戦に作戦
1945/4/7 坊ノ岬沖海戦(『大和』特攻作戦)において米艦載機の攻撃を受け行動不能となる。
僚艦『雪風』の砲撃により自沈処分

浜風 1941/6/30 浦賀船渠で竣工
開戦時 第一水雷戦隊第十七駆逐隊に所属
ハワイ・真珠湾攻撃作戦に参加
1942/4 インド洋作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1943/7/5 クラ湾夜戦に参加
1943/7/12 コロンバンガラ島沖海戦に参加
1944/6/19 マリアナ沖海戦に参加
1944/10/23 捷一号作戦(シブヤン海海戦・サマール沖海戦)に参加
1944/11/29 『信濃』回航護衛作戦に作戦
1945/4/7 坊ノ岬沖海戦(『大和』特攻作戦)において米艦載機の攻撃を受け戦没。

谷風 1941/4/25 藤永田造船所で竣工
開戦時 第一水雷戦隊第十七駆逐隊に所属
ハワイ・真珠湾攻撃作戦に参加
1942/4 インド洋作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/10/26 南太平洋海戦に参加
1943/7/5 クラ湾夜戦に参加
1944/6/9 あ号作戦準備中、タウイタウイ泊地湾外にて米潜水艦『ハーダー』の雷撃を受け戦没。

以下追加配備・他隊から編入
雪風 1944/3/20 第十六駆逐隊より編入
第十六駆逐隊第十七駆逐隊
1944/6/18 タウイタウイ泊地にて浅瀬に乗り上げ損傷。
1944/6/19 マリアナ沖海戦に参加
1944/7/3 呉に帰投し、推進器を修理。
1944/10/23 捷一号作戦(シブヤン海海戦・サマール沖海戦)に参加
1944/11/29 『信濃』回航護衛作戦に作戦
1945/4/7 坊ノ岬沖海戦に参加
終戦時 宮津湾にて残存 戦後は復員輸送に従事
1947/7 戦時賠償艦として中国に引き渡される。


第十八駆逐隊
解説
開戦時には『朝潮』級2隻と、『陽炎』級2隻で駆逐隊を編制し、第一航空艦隊の護衛としてハワイ・真珠湾攻撃作戦に参加した。(原隊は第二水雷戦隊

作戦後は本土に戻り、再び機動部隊ともに警戒隊としてラバウル攻略、ポートダーウィン攻略、ジャワ攻略、インド洋作戦に参加した。

1942年(昭和17年)4月、一連の作戦行動後本土にて入渠整備を実施。
5月、機動部隊から離れ、サイパンに進出。6月に実施されるミッドウェー作戦の攻略部隊警戒隊に組み込まれる。
作戦が失敗後、一時北方部隊に組み込まれ、支作戦として実施されたアリューシャン方面・アッツ島、キスカ島の占領支援の為水上機母艦を護衛してキスカ島に向かう。
7月5日、キスカ沖合いで仮停泊中に米潜水艦グローラーの雷撃を受け『霰』が戦没、『霞』『不知火』が艦首切断の大破となった。この一件により、駆逐隊司令 宮坂大佐は責任をとらされて更迭・予備役編入となり、残された『陽炎』は第十五駆逐隊に転出された。
8月15日付けで第十八駆逐隊は解隊となった。

1944年(昭和19年)3月31日、第十八駆逐隊は再び『霞』『不知火』と、解隊された第九駆逐隊から『薄雲』が編入され、3艦で再建された。(『白雲』を失った第九駆逐隊が第十八駆逐隊と改称されたと言った方が正解である。)
第一水雷戦隊所属隊として北方方面に進出し船団護衛に従事。
7月7日、『薄雲』は択捉北方で北千島への船団護衛任務中に米潜水艦『スケート』の雷撃により沈没する。
8月、硫黄島方面への輸送任務に参加。
だが10月になるとフィリピン方面への戦力抽出が必要となり、第五艦隊北東方面艦隊所属のまま南方に進出。第十八駆逐隊も南方に進出して捷一号作戦に第二遊撃部隊(第五艦隊基幹・志摩部隊)として参加することとなる。
10月24日深夜(25日)、フィリピン・スリガオ海峡に突入した西村部隊の状況を見るに突入は不可と考えた志摩部隊は反転、脱出する。そして27日、先の海戦の裏方として多号作戦(オルモック輸送)に従事して戦没した軽巡洋艦『鬼怒』の生存者救援の為に現場海域に向かうが発見できず。帰途米軍機の攻撃により『不知火』が戦没、駆逐隊司令 井上大佐も戦死した。
残された『霞』は第一水雷戦隊付となり、第十八駆逐隊は10月27日付けで解隊となった。
   
駆逐隊司令
宮坂義登大佐(47期) 1941/9/1 1942/7/14 更迭・予備役編入
(休止期間)
井上良雄大佐(48期) 1944/3/31 1944/10/27 戦没
所属駆逐艦(開戦時)

1939/4/15 舞鶴工廠で竣工
開戦時 第一水雷戦隊第十八駆逐隊に所属
ハワイ・真珠湾攻撃作戦に参加
1942/4 インド洋作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/7/5 キスカ島近海で米潜グローラーの雷撃を受け戦没

1939/6/28 浦賀船渠で竣工
開戦時 第一水雷戦隊第十八駆逐隊に所属
ハワイ・真珠湾攻撃作戦に参加
1942/4 インド洋作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/7/5 キスカ湾外で米潜の雷撃により艦首切断 舞鶴に回航
(1942/8/13付けで呉鎮守府所属扱い)
1943/6/30 修理完了
1943/9/1 第九駆逐隊第五艦隊第1水雷戦隊)に編入
北方方面輸送任務に従事
1943/12/22〜 第二砲塔を撤去し、対空兵装を増強
1944/3/31 第十八駆逐隊再建
1944/10/25 捷一号作戦(スリガオ海峡海戦)に参加
1944/10/27 第十八駆逐隊解隊
第一水雷戦隊付となる
1944/11/15 第七駆逐隊移籍
第十八駆逐隊→南方部隊→第九駆逐隊第十八駆逐隊→第一水雷戦隊付→第七駆逐隊

陽炎 1939/11/6 舞鶴工廠で竣工
開戦時 第一水雷戦隊第十八駆逐隊に所属
ハワイ・真珠湾攻撃作戦に参加
1942/4 インド洋作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/7/15 第十五駆逐隊に転出

不知火 1939/12/20 浦賀船渠で竣工
開戦時 第一水雷戦隊第十八駆逐隊に所属
ハワイ・真珠湾攻撃作戦に参加
1942/4 インド洋作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/7/4 キスカ島近海で米潜グローラーの雷撃を受け大破
(1942/8/13付けで舞鶴鎮守府所属扱い)
1943/11/15 修理完了
1944/1〜 ウエワク輸送任務に従事
1944/3/31 第十八駆逐隊再建
1944/10/25 捷一号作戦(スリガオ海峡海戦)に参加
1944/10/27 シブヤン海で米機動部隊艦載機の攻撃を受け沈没

以下追加配備・他隊から編入
薄雲 1944/3/31 第九駆逐隊より編入
第十二駆逐隊→北方部隊→第九駆逐隊第十八駆逐隊
1944/7/7 択捉北方で米潜水艦『スケート』の雷撃を受け沈没


第十九駆逐隊
解説
特T型・特改T型・特U型の4隻、『綾波』『磯波』『浦波』『敷波』で編制された駆逐隊であり、第三水雷戦隊に所属してマレー半島攻略部隊に参加。
第三水雷戦隊旗艦『川内』と共にマレー半島の英領コタバルに上陸する陸軍部隊を乗せた輸送船3隻を護衛した。開戦当日の12月8日早朝、上陸作戦を開始した部隊を支援していたが、2/3を揚陸したところで英・豪軍の激しい空襲を受ける。この空襲で3隻の輸送船のうち『淡路山丸』が沈没し、残る2隻も被弾した為、揚陸を打ち切って退却となった。
同部隊はシンゴラで揚陸を支援していた第十二駆逐隊第二十駆逐隊と合同し、翌9日早朝に再びコタバルに進出。残りの揚陸作業を終えてカムラン湾に後退した。
その後、同地警戒の為に残った『浦波』は19日深夜に、損傷して浮上していた蘭潜水艦『O-20』を発見、砲撃を行った。敵潜が緊急潜行した為、爆雷攻撃を行ったところ、翌20日に泳いでいる『O-20』乗組員を救助・捕虜とした。
その後蘭印方面パレンバン・ジャワ・アンデマンといった要地攻略戦に参加する。

1942年(昭和17年)2月17日、『綾波』がアナンバス付近で岩礁に接触し推進器を損傷するという事故が起こった。幸い浸水は無く、航行に多少の不具合が発生したようだが、即座に修理は無く、4月に呉に戻った際に修理したという。
3月、ジャワ西方攻略船団迎撃に向かったABDA艦隊との間で発生したバタビヤ沖海戦において第七戦隊『最上』『三隈』の護衛についた『敷波』が交戦状態となる。この海戦により至近弾を受け推進器が損傷。戦闘終了後シンガポール経由で呉に回航されることとなった。
4月、馬来部隊によるインド洋通商破壊作戦(ベンガル湾機動作戦)を支援する警戒隊の1艦として『磯波』が参加。
4月末、南方作戦を終えた各艦は本土にて入渠修理・整備を行う。この間に対空兵装の増設を行っている。5月末までに作業を終えた各艦は柱島に集結。その後のミッドウェー作戦に参加することとなる。
6月、ミッドウェー作戦に主力部隊の護衛として参加。だが作戦終了後の帰路において『磯波』と『浦波』が接触事故を起こし、『磯波』は損傷してしまう。『磯波』は艦首損傷により速度が出せなくなり、修理が完了したのは9月になってからであった。尚、両艦共にこの修理期間中に探信儀装備工事を行っている。
8月、南東方面ソロモンに進出。ガダルカナル島輸送作戦に参加し、8月24日には第二次ソロモン海戦に『敷波』『浦波』『綾波』がそろって第一航空戦隊の護衛として参加した。

10月には第二航空戦隊の護衛をしつつ『磯波』がトラック諸島に進出したが、原隊とは別行動をとり、ニューギニア方面、主にブナ輸送作戦に増援部隊として投入されている。
11月2日、『綾波』『浦波』『敷波』の3隻は『望月(第三十駆逐隊)』『満潮(第八駆逐隊)』と共にガダルカナル島コリ岬に陸兵300名と弾薬・食料を揚陸する。
14日夜、第三次ソロモン海戦の第二回戦となった14日夜戦にも『綾波』『浦波』『敷波』の3隻が揃って増援として参加。この海戦でに於いて1隻だけ離れて米艦隊に近寄りすぎた『綾波』が集中砲撃を浴びて戦没した。(生存者の一部は『浦波』により救助され、また一部はガダルカナル島に上陸。)
12月11日、ブナ沖合いで輸送任務に従事していた『磯波』が空襲を受け小破した。
その後『敷波』が『日進』を護衛しつつ本土に回航。年末に機銃増備工事を施工。損傷した『磯波』も翌年1月にガダルカナル島輸送作戦に参加後、修理の為に呉に回航され修理と機銃増備を実施。『浦波』も1月に『冲鷹』を護衛して浦賀に入港し、機銃増備工事を実施している。

1943年(昭和18年)1月、『敷波』は丙一号輸送・第三輸送隊として釜山〜パラオ〜ウエワク輸送に従事。『浦波』が2月にトラック島進出後にトラック〜ラバウル輸送に従事。その後『敷波』と共に外南洋部隊に加わって、マダン揚陸作戦、八一号作戦、コロンバンガラ島輸送作戦に従事する。
一方『磯波』は2月に丙三号輸送に参加。その後パラオに回航された後、3月にはスラバヤ方面に移動。『足柄』護衛に参加した後、スラバヤ〜アンボン間の船団護衛任務に従事する。
3月、『敷波』は呉に帰投し訓令工事による探信儀装備を実施。一方『敷波』と分かれた『浦波』はパラオ経由でスラバヤ方面に移動するが4月3日、『浦波』は輸送船団護衛からの帰途にマカッサル南西沖で座礁する。スラバヤに回航された『浦波』は第一〇二工作部によって入渠修理が行われたが、修理完了するのは実に8月13日のことであった。
4月9日、工事が完了した『敷波』は『日進』を護衛してダバオ経由でスラバヤに進出。だが同日セレベス島南東端バンダ海で『磯波』は護衛中の『彼南丸(ペナン丸)』が米潜により被雷し、その救助中に米潜『タウトグ』によって被雷、戦没する。
5月、『敷波』はアンボンに移動して、以後同地を根拠地として輸送作戦に従事することとなる。
9月20日、『浦波』の修理完了を待って第十九駆逐隊は第十六戦隊に配属される。以後、シンガポールを中心にインド洋方面・スラバヤ方面での輸送・護衛任務に就き、時には航空隊の雷撃訓練の標的艦となった。
12月7日、解隊となった第十一駆逐隊より『天霧』が編入される。(損傷中の為、修理完了後に編入)

1944年(昭和19年)1月、『浦波』がシンガポールからペナンへの陸軍部隊輸送任務中の『足柄』『青葉』『球磨』を護衛する。以後、第十六戦隊所属の各艦はシンガポール・インド洋方面での輸送任務に従事することとなる。
3月、連合軍の南方・ニューギニア方面からの侵攻に対応する為、南西方面艦隊は戦力の再編制を行う。
4月23日、『天霧』がマカッサル海峡で触雷、沈没。
6月、あ号作戦準備による待機の中、ビアク島方面に侵攻した敵に対して渾作戦が計画された。『敷波』『浦波』、共に各渾作戦に組み込まれたが、戦局の変化によって『敷波』の参加した作戦計画は中止され、『浦波』の参加した第二次渾作戦だけが決行。米艦隊との交戦にはいった。
9月12日、あ号作戦失敗後、捷号作戦の準備中に『敷波』が海南島沖で米潜水艦『グロウラー』からの雷撃によって戦没。
残存艦が『浦波』1隻だけとなった第十九駆逐隊は9月26日に解隊となった。

残された『浦波』は第十六戦隊付としてフィリピン・オルモック湾輸送任務に参加。
解隊から1ヶ月後の10月26日に米艦載機群の攻撃によって戦没した。
  
駆逐隊司令
大江賢治大佐(47期) 1941/8/11 1943/1/9
原 為一大佐(49期) 1943/1/10 1943/1/31
福岡徳治郎大佐(48期) 1943/2/1 1943/12/9
大原利通大佐(49期) 1943/12/10 1944/9/26
所属駆逐艦(開戦時)

磯波 1928/6/30 浦賀船渠で竣工
開戦時 第三水雷戦隊第十九駆逐隊に所属 マレー半島上陸作戦に参加
1942/2 蘭印攻略作戦に参加
1942/4 ベンガル湾機動作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/6/9 『浦波』との接触事故により損傷(→修理)
1942/9 修理完了
1942/10 トラック島進出(第二航空戦隊を護衛)
1942/12/1 ブナ沖で爆撃を受け小破
1943/2 ウエワク輸送船団の護衛に参加(丙三号輸送)
1943/4/9 バンダ海で船団護衛中に米潜水艦『タウトグ』の雷撃を受け戦没

浦波 1929/6/30 佐世保工廠で竣工
開戦時 第三水雷戦隊第十九駆逐隊に所属 マレー半島上陸作戦に参加
1942/2 蘭印攻略作戦に参加
1942/4/2 セレベス島近海で座礁
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
1942/6/9 『磯波』との接触事故
ガダルカナル島輸送作戦に参加
1842/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
1942/11/15 第三次ソロモン海戦に参加
1943/4/2 マカッサル南西で座礁
以後、スラバヤに回航され第一〇二工作部で入渠修理
(修理完了は8月13日)
1944/2〜 南西方面での輸送任務に従事
1944/9/8 第二次渾作戦(ビアク沖海戦)に参加
1944/9/26 第十九駆逐隊、解隊
(その後)
1944/10/26 第一次多号作戦に参加(第十六戦隊付?)
米護衛空母艦載機群の攻撃を受け戦没

綾波 1930/4/30 藤永田造船所で竣工
開戦時 第三水雷戦隊第十九駆逐隊に所属 マレー半島上陸作戦に参加
1942/2 蘭印攻略作戦に参加
1942/3〜 アンダマン諸島攻略作戦、ビルマ攻略支援作戦に参加
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
ガダルカナル島輸送作戦に参加
1842/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
1942/11/15 第三次ソロモン海戦に参加 米艦隊との交戦により戦没

敷波 1929/12/24 佐世保工廠で竣工
開戦時 第三水雷戦隊第十九駆逐隊に所属 マレー半島上陸作戦に参加
1942/2 蘭印攻略作戦に参加
1942/3/1 バタビヤ海海戦に参加(至近弾により損傷)
1942/6/5 ミッドウェー作戦に参加
ガダルカナル島輸送作戦に参加
1842/8/24 第二次ソロモン海戦に参加
1942/11/15 第三次ソロモン海戦に参加
1943/1 ウエワク輸送船団の護衛に参加(丙一号輸送)
1944/6/8 第二次渾作戦(ビアク沖海戦)に参加 小破
1944/9/12 海南島沖で米潜水艦『グロウラー』の雷撃により戦没

以下追加配備・他隊から編入
天霧 1944/3/1 第十九駆逐隊に編入
第二十駆逐隊第十一駆逐隊第十九駆逐隊
1944/4/23 マカッサル海峡で触雷沈没