めちゃくちゃいい加減な(笑)海軍関係 主要人物事典 |
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海軍・航空機搭乗員関係の人物に関する資料です(・・・一応) (リンク切れ多数あり) 随時 加筆・追加中 (^ω^#) 検索サイトから当ページに来られた方へ・・・ すまん、人名が分かってない場合、非常に見つけにくいと思う。 ・・・仕様なんで勘弁(笑) |
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相生高秀 | ||||||||||||||
海兵56期 第25期飛行学生 戦闘機搭乗員 初陣は1938年(昭和13年)4月29日の漢口攻撃であり、12空分隊長として参戦。(イ-15×2機撃墜) その後も数回南昌、漢口攻撃に参加したが、同年12月に空母『赤城』分隊長に転出。その後、一時12空に戻るも、また『赤城』に戻る。その後大分空、横空を経て、日米開戦時には空母『龍驤』飛行隊長として開戦を迎えた。 1942年(昭和17年)2月より3空飛行隊長転じ、南方作戦からソロモン方面ガダルカナル島航空作戦、ポートダーウィン航空作戦へと従事する。その後部隊は202空へと改称されるが、引き続き202空飛行隊長を勤め、同年11月に少佐に昇進した。 1944年(昭和19年)8月よりあ号作戦で壊滅した母艦航空隊を再建すべく601空飛行隊長として地上指揮に移る。10月の捷号作戦では乗り込んだ空母『瑞鶴』が沈没したが、駆逐艦に救出されフィリピンに上陸する。 1945年(昭和20年)春に本土に戻った後、343空副長に就任し、そのまま終戦を迎えた。 海軍戦闘機隊を代表する名指揮官であり、戦後は海上自衛隊に入隊。最後は自衛艦隊司令官となって退官した。 撃墜総数は10機。 |
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赤松貞明 | ||||||||||||||
17期操縦練習生 戦闘機搭乗員 支那事変以前よりの古参操縦者。空母『赤城』『龍驤』『加賀』、横空、大村空といった航空隊を経て、支那事変勃発後の1937年(昭和12年)12月に13空に転属。中支戦線に出動し、翌年9月に『蒼龍』に転属するまでに11機撃墜を記録(日中戦争における海軍第5位の撃墜記録)している。初陣は2月25日の南昌攻撃で4機撃墜を記録した。 開戦前に部内で編隊空戦における是非で揉め、一度海軍を除隊した。だが開戦を前に操縦者が一人でも多く必要な時期のため、即日召集により再び海軍に。開戦時には3空に所属し、フィリピン航空戦、蘭印航空戦に参加した。 1942年(昭和17年)5月に本土に帰還、大村空で教官となる。 1943年(昭和18年)7月、331空に転属し、カルカッタ攻撃に参加したが、間もなく本土に帰還。 その後302空に所属し、以後本土防空戦に従事。同隊のまま終戦を迎えた。 302空時代の氏は豪胆でP-51編隊75機に零戦1機で立ち向かい、1機撃墜の上無事生還を果たしたり、局地戦闘機『雷電』を駆りP-51やF6Fと渡り合っている。難物『雷電』を嫌う古参搭乗員が多い中で『雷電』を高評価し、坂井三郎をして『雷電でヘルキャットと互角に空戦できるのは赤松中尉のみ』と評している。 戦闘機生活14年、飛行時間6000時間を越える古参搭乗員であり、また奇行と豪傑振りでも有名。撃墜記録はなんと自称350機以上(中国戦線で250機)。記録上で確認できるのは27機だが・・・ だが豪傑なイメージの強い氏ではあるが、空戦は合理的な空戦に終始し、空戦理論家でもあった。 |
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石井静夫 | ||||||||||||||
50期操縦練習生 海軍入隊後、整備兵から操縦に転じた戦闘機搭乗員。 1941年(昭和16年)4月より12空に配属され、中支戦線に出動。この時期、空戦の機会はほとんど無くなっていたにもかかわらず、3機撃墜の記録をあげている。 開戦直前の10月に台南空に転属。フィリピン航空戦、蘭印航空戦に参加し、1942年(昭和17年)4月より大村空に教官として転じた。 ミッドウェー作戦敗戦後の機動部隊再建の再に空母乗り組みを命ぜられ、9月より空母『準鷹』に乗り込む。以後ソロモン、ニューギニアと転戦し、1943年(昭和18年)9月より204空に転じた。 同年10月24日、ラバウル上空邀撃戦にて戦死。撃墜数は29機(公認)。内17機(協同撃墜4機含)は戦死1ヶ月半前に記録しており、驚異的なハイペースで撃墜記録を重ねた。 最終階級は飛曹長。 |
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石原 進 | ||||||||||||||
甲種3期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 1941年(昭和16年)4月、飛錬卒業後、新編された1空付として配属。7月に漢口に進出するが、空戦の機会は無かった。10月、台南空に転属し開戦時にフィリピン航空戦に参加する。 1942年(昭和17年)4月、徳島空に教官として帰還。 1943年(昭和18年)6月、582空に転属し、南東方面に進出。間もなく204空に転属となり、ブイン及びラバウルで航空作戦に従事する。特に大型爆撃機攻撃を得意としていたようだ。 同年12月、202空に転じて南西方面に移動。 1944年(昭和19年)3月、トラック島に移動。5月末、ビアク作戦に参加。その後マリアナ方面の戦局に対応する為ヤップ島に前進し、サイパン沖の米艦船攻撃に参加する。 7月、呉空に転属。8月以降332空所属として零戦及び雷電に搭乗し本土防空戦に参加し、そのまま終戦を迎えた。 最終階級は少尉。総撃墜数16機 |
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板谷 茂 | ||||||||||||||
海兵57期 開戦時の南雲機動部隊・空母『赤城』(戦闘機隊)飛行隊長であり、真珠湾攻撃隊第一次攻撃隊制空隊隊長。 海軍兵学校を2番で合格(陸軍士官学校は1番で合格したが海軍に入隊)し、卒業時にはトップであった。以後航空の道を進む。 龍驤、横空、15空、大分空、12空、飛龍の分隊長を務めた後1940年(昭和15年)に少佐に昇進。その後飛龍飛行隊長を経て1941年(昭和16年)4月に赤城飛行隊長となる。 板谷は開戦時の真珠湾攻撃に於いて、第一次攻撃隊の制空戦闘機隊、零戦43機を率いて空母『赤城』を発艦。真珠湾上空では輸送機1機(単独)、練習機1機(協同)の戦果を挙げた。 その後もポート・ダーウィン空襲、セイロン島空襲に制空隊を率いて出撃している。だがミッドウェー海戦での敗戦後、暫くは宮崎県富高基地にいたが、1942年(昭和17年)10月、第二三航空戦隊航空参謀としてセレベス島ケンダリーに進出。その後軍需省を経て1944年(昭和19年)7月、第五一航空戦隊航空参謀として北海道美幌基地に向かう。 7月24日、要務で北千島の幌筵に向かう途中、到着直前に乗機の九六陸攻が米軍機と間違われて陸軍機の邀撃により撃墜され戦死した。 |
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伊藤 清 | ||||||||||||||
丙種2期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 開戦直前の1941年(昭和16年)11月に飛練卒業後、直ちに3空に配属。翌年4月4日のポート・ダーウィン攻撃に初陣として参加し、1機撃墜を果たす。その後も同地に留まりポート・ダーウィン攻撃に参加するが、9月より3空主力の南東方面派遣に伴いラバウルに進出。11月に復帰するまでソロモン航空戦に従事した。 1943年(昭和18年)11月までアラフラ海、ポートダーウィン方面の航空作戦に従事し、開戦より2年間の間に撃墜破30機(撃墜17機・撃破13機)を記録し、特別表彰を受けた。 本土帰還後、大分空、筑波空で教官を務め、そのまま終戦を迎えた。 |
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岩本徹三 | ||||||||||||||
最強の零戦パイロットと謳われる名操縦士。第34期操縦練習生 日米パイロットの中で唯一200機撃墜(自己申告:202機撃墜)の記録を持つ撃墜王であり、戦闘機搭乗員として7年(日中戦争〜太平洋戦争)に及ぶ戦闘経験を持つ。 初陣は1938年(昭和13年)2月、12空所属にて南昌攻撃に参加して5機撃墜。その後中支戦線において(2月〜9月)に82回の出撃で14機撃墜し、海軍戦闘機隊のトップエースとなる。 開戦時には第一航空艦隊の空母『瑞鶴』戦闘機隊所属し、ハワイ作戦、インド洋作戦、珊瑚海海戦に参加する。1942年(昭和17年)8月より練習航空隊の教官に転じたが、翌1943年(昭和18年)3月より新設された281空に所属して北方方面・幌筵島方面に配備された。だが11月には南方、ソロモン戦線に派遣され、204空、253空と移って1944年(昭和19年)2月のソロモン方面引き上げまでラバウル方面で航空戦に従事した。6月に本土に帰還し、9月には252空戦闘316飛行隊付として少尉に昇進する。台湾沖航空戦を経てフィリピンに進出するが、10月末には本土に帰還する。 1945年(昭和20年)には203空に移って沖縄航空戦に参加し、終戦まで戦い抜いた。 氏の撃墜記録は対米戦開戦前と、太平洋戦争中の204空時代(不確実5機を含む20機撃墜)以外に個人撃墜記録の記載・記録が無い為、総撃墜数の算定が不可能である。回想録(氏によるもの。未公刊)によるとラバウル時代142機を含む202機撃墜とされているが、実際には80機前後ではないかと推測されている。 最終階級は中尉 |
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羽藤一志 | ||||||||||||||
乙種飛行予科練習生9期 戦闘機搭乗員 1941年(昭和16年)11月に乙9期飛錬卒業後、翌年2月に台南空に配属。以後4月にラバウル、ついでラエと進出し、ポート・モレスビー攻撃時に初戦果を上げた。以後、坂井機の列機として空戦を重ね、ニューギニア、ソロモンと転戦する。 1942年(昭和17年)9月13日のガダルカナル島攻撃で行方不明となり戦死。 撃墜数は19機(公認) 最終階級は2飛曹 |
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江草隆繁 | ||||||||||||||
海兵58期 艦爆搭乗員 海兵卒業後、館山航空隊で艦攻の訓練を受けるが、その後1935年(昭和10年)10月に佐伯航空隊に配属されたときに艦爆に移っている。これは当時採用が決まり、まだ急降下爆撃が未知の分野であった頃である。これが江草の艦爆乗りとして第一歩であり、後に艦爆の神様とまで呼ばれるようになる。 開戦時、南雲機動部隊にあって空母『蒼龍』飛行隊長(艦爆)であった江草は第二次攻撃隊艦爆隊の総指揮官として78機の九九艦爆を率いて出撃。『蒼龍】隊はアリゾナ型戦艦に対し爆撃を敢行し命中弾を与えた。だが損害も大きく、率いた78機の内14機が未帰還となった。江草機も被弾し燃料が漏れていたが無事帰艦を果した。 その後ポート・ダーウィン空襲やセイロン島空襲に参加。特に1942年(昭和17年)4月4日のセイロン島沖海戦では江草指揮下の艦爆隊が英艦に対し平均87%という驚異的な命中率を叩き出した。4月9日には英空母『ハーミス』に対する爆撃で命中率82%を記録。この海戦によって江草の『艦爆の神様』という称号は不動のものとなった。 続くミッドウェー海戦では江草の艦爆隊は出撃することなく乗艦を失い大敗北を喫した。 その後横須賀航空隊を経て521空飛行隊長に着任。新型陸上爆撃機『銀河』を装備する航空隊であり、『銀河』の実用実験と搭乗員教育に務める。この部隊が後のあ号作戦(マリアナ沖海戦)に於ける第一航空艦隊の主力航空部隊の一翼を担う事になるのだが、機材・搭乗員共に未完のまま投入され、戦果を挙げることなく消耗し、失われていった。 1944年(昭和19年)6月15日、米軍がサイパン島に上陸した当日夕方、江草が陣頭指揮する『銀河』8機がヤップ島を出撃し米空母群に攻撃をかけるが、米艦隊の対空砲火は熾烈を極め、8機全機が撃墜された。 江草は翌1945年(昭和20年)1月に二階級特進となり大佐に昇進した。 |
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大木芳男 | ||||||||||||||
37期操縦練習生 戦闘機搭乗員 機関兵として入団後に整備兵に転じ、その後操練を経て戦闘機搭乗員となった 1940年(昭和15年)7月、横空から12空に転じ、初出撃の重慶爆撃で4機撃墜を果した。 1942年(昭和17年)7月より台南空に転じ、ソロモン、ニューギニア航空戦に参加。11月に本土に引き上げたが、翌1943年(昭和18年)5月に再び251空所属としてラバウルに再進出する。だが6月16日まルッセル島上空の空戦で戦死。 最終階級は少尉。総撃墜数17機。 |
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太田敏夫 | ||||||||||||||
46期操縦練習生 戦闘機搭乗員 1941年(昭和16年)6月より12空に所属し、漢口に進出したが、空戦の機会は無かった。その後10月に台南空に転属し、開戦時のフィリピン航空戦に参加し、以後比島、蘭印と転戦する。 1942年(昭和17年)1月29日、バリクパパン上空でのB-17と交戦し、以後空戦から遠ざかる。 同年4月、笹井中隊の一員としてソロモン方面ラバウルに進出。その後目覚しい戦果を上げ続け、坂井、西沢らと撃墜競争を展開する。だが10月21日、空戦で1機撃墜後行方不明となり、戦死と認定された。 撃墜数は34機(公認)であり、短期間での撃墜記録としては最高の撃墜ペースであった。 |
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大原亮治 | ||||||||||||||
丙種4期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 卒業は1942年(昭和17年)7月であり、卒業後直に6空配属となる。10月より補充員としてブインに進出。ガダルカナル島攻撃で初戦果を挙げた。その後1943年(昭和18年)10月に本土帰還になるまでの1年間、ソロモン、ニューギニアの激戦を戦い抜く。 特に1943年(昭和18年)5月13日のルッセル島上空での空戦ではF4Uコルセア1機撃墜後に被弾。尾翼損傷の為、離脱して帰還途中に追尾してきたコルセア2機に対して反撃して1機撃墜を果す。だがその後コロンバンガラ島に不時着した。この空戦で204空司令より善行表彰を受けた。 本土帰還後は横空勤務なったが、1945年(昭和20年)春からは本土防空戦にも参加し、大戦を生き残った。戦後は海上自衛隊に入隊。 総撃墜数は16機。最終階級は飛曹長。 |
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岡野 博 | ||||||||||||||
54期操縦練習生 戦闘機搭乗員 操錬卒業後に横空を経て1941年(昭和16年)より千歳空に転属。開戦時にはマーシャル諸島防空任務に就く。 1942年(昭和17年)4月より1空に転じ、5月下旬より台南空の増援部隊としてラバウルに派遣され、以後半年間ソロモン航空戦に参加する。同年12月、201空に転じ、マーシャル諸島防衛任務に従事する。 1943年(昭和18年)3月、本土引き上げ。7月より201空の南東方面進出により空母『雲鷹』にて進出。ブインに前進するが、11月に331空に転じて南西方面に移動する。 1944年(昭和19年)3月、202空に転属。戦闘603に所属してビアク作戦に参加。その後9月に本土に帰還し、343空戦闘401に所属。そのまま終戦を迎えた。 総撃墜数19機。最終階級は飛曹長。 |
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荻谷信夫 | ||||||||||||||
48期操縦練習生 戦闘機搭乗員 開戦時は千歳空に所属し、内南洋方面に配属。その後281空に転じて北千島の防空任務に従事した。 1943年(昭和18年)11月、204空に転属となりラバウル航空戦に参加。初撃墜は同年12月16日のマーカス岬攻撃時である。翌年1月末に253空に転属するが、その間僅か1ヶ月の間に24機撃墜(公認記録)を記録する。特に1月20日のラバウル邀撃戦では単機で5機撃墜を果たし、ラバウル上空で記録した僅か13日間で18機撃墜という撃墜ペースは日本最高の高密度撃墜記録である。 1944年(昭和19年)2月13日、ラバウル邀撃戦にて戦死。彼の機体には32個の撃墜マークが描かれていたという。 最終階級は少尉。 |
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奥村武雄 | ||||||||||||||
42期操縦練習生 戦闘機搭乗員 1940年(昭和15年)3月より14空に配属され南支戦線に出動。初戦果は同年10月7日の昆明攻撃で、敵戦闘機4機撃墜であった。 1942年(昭和17年)7月より空母『龍驤』飛行隊に転属。ソロモン戦線に出撃した。8月24日第二次ソロモン海戦ではガダルカナル島攻撃時に一時行方不明となったが、生還を果たした。だが『龍驤』戦没によりその後台南空に転属した。同年12月、本土引き上げ。 1943年(昭和18年)5月、201空に転じて再びソロモン方面に進出。7月からはブインに進出して連日迎撃作戦に従事する。この時期の迎撃戦で9月14日付けの迎撃作戦の折、5次の空戦で戦闘機8機、艦爆1機、大型機(B-24)1機(協同撃墜)の計10機を撃墜する。これは非公認ながら太平洋戦争における1日における最高撃墜数とされている。この殊勲により南東方面司令長官草鹿中将より『武功抜群』と記された白鞘の軍刀が授与された。だが授与式に出る間もなく、1週間後の9月22日、クレチン岬沖の敵船団攻撃作戦に参加し行方不明となった。(悪天候下で敵機50機と交戦、行方不明) 戦死と認定され、二階級特進が上申されたが、これは実現しなかった。 撃墜数は支那事変時4機、ソロモン戦線50機とされているが、おそらく30機程度であったとされている。 最終階級は飛曹長。 |
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鴛淵 孝 | ||||||||||||||
海兵68期 海軍戦闘機搭乗員 昭和18年5月、ラバウルに再進出する251空分隊長としてソロモン方面に出撃。だが251空が9月に夜戦隊専門の航空隊に改編されると昼戦隊搭乗員は201空ならびに253空に転属となる。同じく251空で分隊士であった林 喜重中尉、西沢広義飛曹長らと共に253空に転属となった。 ソロモン航空戦から本土に後退した鴛淵大尉は昭和19年4月、203空戦闘304に転属となる。(飛行隊長) 昭和19年11月、フィリピン航空戦で戦闘中に負傷。療養の為、内地に帰還。 昭和20年1月、343空『剣部隊』所属、戦闘701飛行隊『維新隊』の飛行隊長として松山基地に着任。。 7月24日、大村基地を発進した343空所属機21機は、豊後水道を南下。呉方面から帰還中と思われる米機動部隊艦載機群約200機に対して邀撃戦を展開。戦闘中に発動機に被弾、白煙を上げて墜落したと思われる。 『温厚で、人情あつい人格者』と言われていた。最終階級は少佐(1階級特進) |
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か |
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加藤邦逵 | ||||||||||||||
丙種10期飛行予科練習生 戦闘機操縦員 飛練卒業後の1943年(昭和18年)5月、大村空から254空(海南島)に配属。同年夏、来襲したP-38を撃墜して初撃墜を記録した。同年末には来襲する米軍機相手に果敢な迎撃戦を繰り広げ、9機撃墜を記録し、254空のトップ・エースの座を占めた。 1944年(昭和19年)秋、210空に転じて内地に帰還。明治基地を中心に本土防空戦に参加し、翌年には国分基地に進出し、沖縄航空戦では特攻作戦機掩護に従事する。 最終階級は上飛曹。総撃墜数16機。 |
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上平啓州 | ||||||||||||||
甲種1期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 予科練卒業後、大分空、大村空、横空を経て1940年(昭和15年)8月より12空に配属。翌1941年(昭和16年)3月14日の成都攻撃に参加。その際に羽切一空曹(当時)の2番機として空戦に挑み一気に4機撃墜(内不確実1機)を記録した。 開戦時には台南空所属としてフィリピン航空戦に参加。開戦当日に1機撃墜を果たしている。 1942年(昭和17年)4月、新設された6空に配属。ミッドウェー作戦後に同島に進出が予定され、空母『準鷹』に乗り組み、アリューシャン作戦に従事するが作戦は失敗。進出は無くなった。 その後7月より大分空に転属。 1943年(昭和18年)10月、381空に配属。ボルネオ・セレベス地区防空任務に従事し、三号爆弾によるB-24撃墜の戦果を有する。 1944年(昭和19年)9月、メナド邀撃戦ではP-38×2機、B-24×5機(うち不確実2機)を撃墜する。だが負傷により帰還。 その後特攻隊の教官を務め、終戦を迎えた。 最終階級は中尉。17機。 |
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川戸正治朗 | ||||||||||||||
丙種12期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 卒業は1943年(昭和18年)7月で、直にトラック島へ送られた後、零戦を受領して10月10日にはラバウルの253空に赴任した。 飛行時間300時間足らずで赴任したが、向こう見ずな敢闘精神により有名を馳せる。赴任後直の11月2日のラバウル邀撃戦でB-25編隊に正面から挑み、発火した1機に下方離脱を図ったが衝突。体当たりにより1機撃墜した。(川戸は落下傘降下、着水したが負傷無し) 続けて11日の邀撃戦では敵艦爆を撃墜した直後に後方より奇襲され被撃墜。被弾炎上する機から落下傘降下により脱出し救助された。(負傷により1ヶ月戦線離脱) 12月17日の空戦でP-38と正面反航で撃ち合い衝突。再び落下傘降下により着水、救助された。 翌年2月6日にB-24に体当たりを決行し再び落下傘降下。 2月20日にラバウル所在の航空隊はほとんどがトラック島に後退したが、少数の搭乗員と共にラバウルに残留。廃棄された零戦から組みあげた機体により偵察飛行やゲリラ戦を展開する。この間253空は解隊となり、以後105航空基地隊付となった。 1945年(昭和20年)3月9日、複座零戦でB-25追撃に出撃したまま行方不明。戦死と認定された。 実際は追撃中に敵駆逐艦を発見。攻撃を加えるが対空砲火により被弾墜落。重症を負いつつも海岸に辿り着き、ジャングルで生活中に豪州軍の捕虜となり、戦後レイテ収容所から帰還。 体当たり3回、被撃墜2回、落下傘降下4回という稀な記録を持ち、総撃墜数は18機に達する。 最終階級は上飛曹。 |
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菅野 直 | ||||||||||||||
海兵70期 第38期飛行学生 戦闘機搭乗員。 昭和19年4月、343空(初代)分隊長として南洋方面に進出。同部隊が『あ号作戦』後に解隊した後、201空戦闘301分隊長に転属。 (あ〜なんか書くのも億劫になるほどの豪傑ぶり。エピソード多すぎ。) 10月からの始まったレイテ作戦で、第一航空艦隊が特攻隊を編成する際に、最初の特攻隊隊長として候補に上がっていた。だが直前に本土に帰還していた為、特攻隊『敷島隊』の隊長には同飛行隊分隊長で、海兵同期の関 行男大尉が任命された。関大尉が特攻で散った翌日、フィリピンに戻った菅野は特攻隊に志願した。だが関 大尉を失った後、飛行隊に菅野大尉を上回る指揮官は存在せず、また『部下を特攻に出すなら自分が代わりに行く』と言って隊員選抜を拒否し続けた。 12月、戦局が厳しいフィリピンからの航空戦力後退を行った海軍は戦闘301に343空(2代)への転出を指示。菅野大尉は飛行隊長に任命された。343空は松山基地で練成を始め、使用機は『紫電改』となった。 (・・・もうね、本当にエピソード多すぎ、なにこの人・・・) 昭和20年8月1日、大村基地を出撃。屋久島西方のB24編隊を攻撃しようとしたところ、機銃筒内爆発事故が発生。白煙を引いて降下し、以後戦闘により消息不明。未帰還となり戦死と認定された。 最終階級は中佐(2階級特進) 個人・協同含め敵機撃墜破数72機 個人記録は25機(公認) 『頭脳は緻密だが、やりだしたらあとへ引かない』とは隊員の評である |
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小町 定 | ||||||||||||||
49期操縦練習生 戦闘機搭乗員 開戦時より空母『翔鶴』戦闘機隊員としてハワイ、インド洋、珊瑚海、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦と、初期の主要空母作戦の殆どに参加する。 1942年(昭和17年)末に大村空に教官として帰還するが、翌1943年(昭和18年)12月より204空、その後253空へと転じラバウル、トラック島方面の航空戦に参加する。 1944年(昭和19年)6月、『あ号作戦』に参加する為、トラック島からグアム島に移動する際、着陸寸前にF6Fの攻撃を受け被撃墜。海岸に不時着し、火傷を負うが救助され本土に帰還する。 終戦時には横空に配属。 最終階級は飛曹長。総撃墜数は18機。 |
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さ |
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斎藤三朗 | ||||||||||||||
44期操縦練習生 戦闘機搭乗員 1939年(昭和14年)10月、大分空での練成後に12空に配属され漢口に進出。初空戦は同年12月末の桂林攻撃であった。 翌1940年(昭和15年)1月には空母『赤城』乗り組みとなる。その後大分空、徳島空、築城空と練習航空隊を回り、その間に太平洋戦争開戦を迎える。 1942年(昭和17年)11月、上飛曹進級と同時に空母『瑞鶴』乗り組みとなりソロモンに進出。翌年1月末にガダルカナル島撤収(ケ号作戦)に協力する為にラバウルに進出した。2月1日に撤収作戦援護の為、瑞鶴戦闘機隊は艦爆隊を直衛してツラギ沖の敵艦船を攻撃。この時の空戦によりF4Fを協同撃墜し、これが初戦果となった。その後の作戦に参加し、撃墜数を重ねる。4月の『い号作戦』の他、ガ島沖、オロ湾、モレスビー、ミルン湾攻撃といった作戦に参加後、『瑞鶴』の本土帰還に合わせて後退する。 同年7月、再びトラック島に前進。11月の『ろ号作戦』に参加する為に瑞鶴戦闘機隊は再びラバウルに派遣され、邀撃戦に参加。トロキナ岬沖攻撃にも参加し、撃墜数を重ねていく。瑞鶴戦闘機隊は1週間の派遣で7割以上の搭乗員を失いトラック島に帰還。だが直にルオット島に7機で派遣され、その後タロア島防空任務に従事し、米艦載機群と交戦する。タロア島邀撃戦で戦力を消耗した為、残存搭乗員は中攻でトラックに帰還。その後本土に帰還した。 1944年(昭和19年)7月、徳島空を経て252空戦闘317に配属される。10月の捷号作戦に参加するため台湾経由でフィリピンに進出。10月24日の総攻撃参加したが米艦載機群との交戦により1機撃墜後被弾墜落。ラモン湾に不時着し、負傷するが警備隊により救出され本土に帰還した。 その後は再起出来ないまま終戦を迎えている。 総撃墜数は確実18機、協同及び不確実6機。 最終階級は少尉。 |
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坂井三郎 | ||||||||||||||
38期操縦練習生首席 戦闘機搭乗員 1938年(昭和13年)9月より12空に配属され中支戦線に出動。だがこの時期航空戦はほぼ終わっていた。初戦果は同年10月5日の漢口攻撃時。 その後1941年(昭和16年)4月に再び12空所属として漢口に進出。成都、蘭州攻撃参加する。10月より台南空に転属し、開戦を迎えた。 開戦時のフィリピン航空戦に参加し、翌1942年(昭和17年)4月にはソロモン方面ラバウルに進出。台南空笹井中隊の先任搭乗員として活躍する。 8月7日、ガダルカナル島初攻撃時に米艦爆隊の旋回機銃により被弾負傷。重症を負ったが単機ラバウルへの生還を果たし、その後本土に送還された。だがこの時の負傷が原因で以後は練習航空隊の教官となる。 1944年(昭和19年)6月には横空で硫黄島迎撃戦に参加したが、以後は視力低下のため空戦を断念。 1945年(昭和20年)に新設された343空には教官として参加。 総撃墜数64機、その殆どが開戦初期(フィリピン・東部ニューギニア戦)に記録されたものである。 戦後、書籍『大空のサムライ』を出版。 |
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笹井醇一 | ||||||||||||||
海兵67期 35期飛行学生 戦闘機搭乗員 開戦時、台南空所属の士官搭乗員としてマニラ、ボルネオ、スラバヤ、ジャワと転戦。初出撃は12月10日のルソン島進攻時であったが、機体不調により引き返している。初戦果は翌年2月3日のジャワ上空戦。 その後台南空とともにソロモン方面に進出。ラバウル、ラエに転出した。ラバウル進出時ごろから空洗技術が向上し、撃墜記録が急増しはじめている。 ラエでは中隊長として坂井一飛曹、西沢一飛曹とコンビ組む。ガダルカナル攻防戦で列機であった坂井一飛曹が負傷した後、昭和17年8月26日にソロモン上空で未帰還(戦死)となった。 撃墜数27機であり、これは海兵出身の搭乗員としては最多数である。尚、戦死直前の手紙では笹井は撃墜54機を報告しており、自らリヒトホーヘンの記録(82機)を破ると予告していたという。 最終階級は少佐(2階級特進) |
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志賀正美 | ||||||||||||||
50期操縦練習生 戦闘機搭乗員 1937年(昭和12年)海軍に入団し、整備兵となる。その後隊内選抜で50期操縦練習生となり、戦闘機搭乗員となった。 1941年(昭和16年)6月、千歳空に配属され、開戦を迎えた。内南洋タロア島防空任務に当たり、翌年2月1日の米機動部隊来襲時に邀撃戦で初戦果を記録した。その後もマーシャル群島に駐屯し防衛にあたったが戦闘の機会はなかった。 1943年(昭和18年)7月、201空に転属。ソロモン航空戦に参加すべくブイン島に進出し、その後もソロモン・ラバウル・ニューギニアの各戦線を戦い抜く。 1944年(昭和19年)2月、横空に転属。6月には硫黄島に派遣されるが、その際には坂井三郎の列機として数次の空戦に参加している。 1945年(昭和20年)2月、203空に転属して沖縄航空戦に参加。 総撃墜数は16機。最終階級は少尉。 戦後は航空自衛隊に入隊。(戦後、大友と改姓) |
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渋川 茂 | ||||||||||||||
丙種6期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 1942年(昭和17年)9月、丙飛卒業。その後12月に253空に配属され翌年にカビエンに進出した。ソロモン・ニューギニア方面の航空戦に参加し、5月にサイパンに後退したが、9月には再びラバウルに進出した。その後10月末の進攻作戦や邀撃戦に従事するが、11月1日のトロキナ岬艦戦攻撃に直衛隊として出撃。F6Fを1機撃墜したが後方から射たれて負傷。病院船で本土に帰還した 回復後、筑波空に配属され錬成に従事しつつ終戦を迎えた。 最終階級は飛曹長。 撃墜数は15機。 |
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白根斐夫 | ||||||||||||||
海兵64期 31期飛行学生 戦闘機搭乗員 開戦時、赤城戦闘機隊分隊長。ミッドウェー海戦後に瑞鶴に移り、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦と連戦する。その後11月に横空に転属し、1943年(昭和18年)11月に新鋭機『紫電』を装備する341空飛行隊長なり、その後同航空隊指揮下の戦闘401飛行隊長(零戦装備)となる。だが肝心の紫電の配備が遅れ、あ号作戦には間に合わなかった。 1944年(昭和19年)7月、『紫電』配備に伴ない、熟練者を集めた戦闘701が編制。この飛行隊長には新郷少佐が、その後岩下大尉が就任するが、10月の台湾沖航空戦の際に岩下大尉が病気により指揮を執れなくなり、代わって白根少佐が戦闘701を率いてT部隊の直衛に就くこととなった。 10月24日の総攻撃の際に多数機を失い、稼働数が僅か4機にまで激減する。 11月は戦闘701はT部隊の編制から外れ、原隊(341空)に復帰し、その後白根少佐が戦闘401・402・701の3個飛行隊を統一指揮しフィリピン航空戦を戦い抜く。 だが11月24日のレイテ進攻作戦の際にオルモック湾上空で戦死した。(P-38と空戦自爆) 撃墜機数9機(公認) 最終階級は中佐 |
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新郷英城 | ||||||||||||||
海兵59期 戦闘機搭乗員 開戦時の台南空飛行隊長 台南空 251空 飛行隊長 1941年(昭和16年)10月〜1942年(昭和17年)4月 6空 飛行隊長 1942年(昭和17年)4月〜5月 元山空艦戦隊 飛行隊長 1942年(昭和17年)5月〜7月 翔鶴 飛行隊長 1942年(昭和17年)7月〜10月 331空 飛行隊長 1943年(昭和18年)7月〜 202空 戦闘603飛行隊長 1944年(昭和19年)3月 341空 戦闘701 飛行隊長 1944年(昭和19年)7月 |
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進藤三郎 | ||||||||||||||
零戦搭乗員 赤城飛行隊 龍鳳飛行隊 |
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杉尾茂雄 | ||||||||||||||
乙種5期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 1939年(昭和14年)9月、12空に配属され中支戦線に出動するも、空戦の機会は無く、翌年本土帰還。 1941年(昭和16年)4月、再び12空に転じて漢口に進出するが、戦果は輸送機1機撃墜に留まった。10月には新編の3空に転じて開戦を迎える。 フィリピン航空戦、蘭印航空戦に小隊長として参加し、多数の戦果を上げる。翌年4月にチモール島に前進し、ポート・ダーウィン空襲に参加する。9月〜11月の間、ラバウルに分遣。中隊長代理としてガダルカナル島方面の空戦に参加する。 その後南西方面に復帰後は再びダーウィン攻撃に参加し、1943年(昭和18年)4月、本土に帰還した。 以後、教官として丙飛錬の練成に従事する一方で、1944年(昭和19年)春に南寧攻撃に参加する。 1944年(昭和19年)5月、神ノ池空に転じて本土帰還。9月、201空所属としてフィリピン航空戦に参加。 1945年(昭和20年)5月、筑波空に転属して局地戦闘機『紫電』の教官として終戦を迎えた。 撃墜機数20機以上 最終階級は中尉 |
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杉田庄一 | ||||||||||||||
丙種3期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 開戦後の1942年(昭和17年)3月に卒業して6空(後204空に改称)に配属された戦闘機操縦員。 ミッドウェー海戦に出撃したが、空戦の機会は無く、その後ソロモン方面に進出した。初戦果は同年12月のブイン迎撃戦でB-17に単機突撃、体当たりにより右翼切断撃墜という異例の戦果であった。 1943年(昭和18年)4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六大将のブイン視察における護衛戦闘機6機の内の1機として護衛任務に参加。来襲機2機を撃墜するも山本大将機は撃墜されてしまった。 同年8月、空戦により被弾。落下傘降下により一命を取り留めたが全身火傷により本土に帰還する。 1944年(昭和19年)3月、263空に編入され、マリアナ、カロリンを転戦し、7月には201空に転じてフィリピン戦線に派遣された。 1945年(昭和20年)1月より新編された343空戦闘301飛行隊に転属し、同飛行隊隊長、菅野大尉の列機として沖縄航空戦、本土防空戦に従事する。この時期、坂井少尉と共に多数撃墜者として表彰を受けている。だが4月15日、鹿屋基地を離陸途中に敵戦闘機に奇襲され、機もろとも炎上、戦死。 戦死と共に全軍布告、二階級特進で少尉に昇進した。 個人撃墜70機、協同撃墜40機で個人感状が公認されており、撃墜破数120機といわれているが、判定には多少疑問があり、撃墜数は30機台が妥当とされている。 |
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杉野計雄 | ||||||||||||||
丙種3期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 飛錬課程終了後、春日丸(後の空母『大鷹』)戦闘機隊に配属され開戦を迎える。 1942年(昭和17年)4月、新設された6空に転属。ミッドウェー作戦後の同島進出予定として空母『赤城』に乗り込んで作戦に参加したが空戦の機会無く母艦が被弾戦没。救助され帰還を果たしたものの、再び『大鷹』乗り組みとなった。 同年10月より大村空にて教官。その後1943年(昭和18年)2月より空母『翔鶴』乗り組みとなっる。だが11月には艦隊航空隊のラバウル進出によりラバウルに前進配置。その後本隊は引き上げたが、253空に残留が決定し、南東方面放棄まで同地にあって作戦に参加しつづける。尚、杉野の初陣・初戦果は11月2日の空戦であり、開戦から2年を経て初戦果(3機撃墜)を得た。 ラバウル放棄後、本土に帰還し筑波空・他で教員を勤め、あ号作戦後の空母部隊再建の折、634空に転属する。だが乗るべき母艦も無く、そのまま台湾沖航空戦、そしてフィリピン航空戦に参加することとなった。 1945年(昭和20年)2月、台湾から本土に帰還し、博多空にて特攻教員を勤めるが、そのまま終戦を迎えた。 開戦前に実戦部隊に配備されが、実戦における航空作戦の機会が1943年(昭和18年)11月以降と非常に短いにもかかわらず撃墜記録は32機撃墜を記録している。 戦後は海上自衛隊勤務。最終階級は飛曹長。 |
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周防元成 | ||||||||||||||
海兵62期 28期飛行学生 戦闘機搭乗員 兵学校を卒業後、艦隊勤務を経て飛行学生となって戦闘機搭乗員となった。卒業後も佐伯空・横空で延長教育を受けた後、1938年(昭和13年)2月に12空付きとなる。(当時中尉) 12空で中支戦線に出動すが、まもなく負傷して入院。退院後、4月29日の漢口空襲で1機撃墜を果たし初戦果を挙げた。 7月4日の南昌上空戦で2機撃墜し、その後15空に転属となる。その後本土に帰還し、霞空、大分空で教官。 1939年(昭和14年)10月、大尉昇進と同時に14空分隊長となって再び支那戦線に出動。12月30日及び翌年1月10日の柳州及び桂林攻撃でそれぞれ2機撃墜を果たす。 1940年(昭和15年)秋、漢口で零戦を受領し慣熟訓練を受け、その後ハノイに前進し、小福田大尉指揮下の零戦隊第2小隊長として昆明進攻に参加。単機で4機撃墜を果すが、内1機は谷間に追い詰めて衝突させたものであり、射弾は無かった。 11月には元山空に転じ、1941年(昭和16年)4月からは空技廠のテストパイロットとなった。零戦と雷電の実用実験に当たったが、1942年(昭和17年)12月に252空飛行隊長としてソロモンに進出。ソロモン群島ムンダ基地に赴任する。 邀撃戦、ブナ進攻、ガダルカナル島撤退戦、ラエ輸送船団護衛にと活躍し、1943年(昭和18年)2月に内南洋に後退した。その後ウェーク島派遣隊指揮官となったが、10月6日の大空襲で部隊は全滅。生き残った搭乗員と共に中攻でルオット島に収容された。 11月24日、零戦19機を率いてマキン島銃爆撃に出撃。だが進撃途中の洋上でF6F編隊に奇襲され、周防大尉も燃料槽に被弾してミレ島に着陸。攻撃は失敗に終わった。 1944年(昭和19年)3月、本土に帰還。(5月、少佐に昇進) 元山空、築城空の飛行長として地上配置に移って終戦を迎えた。 空戦技術では士官パイロット随一で、寡黙、沈着な武人肌の名手と称された。支那事変に於ける個人撃墜数11機は士官パイロットの中でも最高撃墜数であった。 最終階級は少佐。 総撃墜数は15機。 戦後は航空自衛隊に参加してジェットパイロットとなる。空将まで昇進して退官した。 |
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関 行男 | ||||||||||||||
海兵70期 最初の神風特別攻撃隊指揮官に選ばれた。 当時201空に所属しており、戦局の厳しい事態を挽回すべく大西中将によって発案・指示された特攻攻撃の指揮官として選出された。 |
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高塚寅一 | ||||||||||||||
22期操縦練習生 戦闘機搭乗員 支那事変では12空所属として重慶攻撃等に参加し、3機撃墜を果たす。 開戦直前の1941年(昭和16年)10月に飛曹長に昇進後除隊。だが直ちに再召集され台南空所属となった。 1942年(昭和17年)6月、ラバウルに進出。9月13日のガダルカナル島上空の空戦で行方不明となり戦死と認定された。 総撃墜数16機(公認) |
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田中国義 | ||||||||||||||
31期操縦練習生 戦闘機搭乗員 1937年(昭和12年)10月に13空に転じ上海に進出。12月9日の南昌攻撃が初出撃で2機撃墜を果した。当時最若年搭乗員にもかかわらず6回の空戦に参加し12期撃墜を果した支那事変有数の撃墜王であった。 1938年(昭和13年)7月に本土に帰還後、大村空、空母『龍驤』、鈴鹿空、鹿屋空を経て1941年(昭和16年)10月に台南空に転属、開戦を迎えた。 開戦時のフィリピン航空戦では飛行隊長新郷大尉の2番機として参加するし、続く蘭印戦ではB-17撃墜に活躍した。 1942年(昭和17年)4月に本土帰還。大分空の教官となったが、病気により以後実戦部隊には出られず終戦まで教官に従事することとなった。 最終階級は少尉。撃墜数は17機。 |
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田中民穂 | ||||||||||||||
乙種11期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 1939年(昭和14年)に乙飛に入った最若年エースパイロットの一人。 1942年(昭和17年)9月に23日飛練課程を卒業し、翌1943年(昭和18年)6月に261空に配属された。 1944年(昭和19年)2月末、サイパン島に進出。3月30日には指宿大尉の指揮でペリリュー島に移動し、翌31日の米艦載機群との空戦で初陣を迎えた。 6月、ハルマヘラ島に移動したが、あ号作戦に備えてヤップ島に集結。6月18日に銀河隊を直衛してサイパン沖の米船団を攻撃。この空戦でF6Fを2機撃墜した。空戦後グアム島に着陸し、その後連日邀撃戦に出撃する。だが可動数が激減した為、司令以下が脱出するが、田中以下4名は残って7月上旬まで連日のように出撃し、サイパン沖の船団攻撃や邀撃戦に活躍する。 米軍上陸の当日に60kg爆弾を抱いて出撃。上陸地点を爆撃後メレヨン島に脱出し、パラオ経由でセブ島に到着した。 その後201空に転属。神風特別攻撃隊の直衛任務に当たる事になる。 1945年(昭和20年)1月、本土に帰還。253空、次いで203空に移って本土防空戦と沖縄航空戦に従事し、終戦を迎えた。 被撃墜落下傘降下3回の記録を持つ。 最終階級は飛曹長。 撃墜数は15機。 戦後は全日空の操縦士。 |
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谷水竹雄 | ||||||||||||||
丙種3期飛行練習生 戦闘機搭乗員 開戦直前の1941年(昭和16年)11月に卒業後、翌1942年(昭和17年)4月に6空所属となる。 ミッドウェー海戦後に特設空母『春日丸』乗り組みとなるが、1943年(昭和18年)2月より空母『翔鶴』乗り組みとなる。 11月より翔鶴飛行隊はラバウルに進出し、11月2日の邀撃戦でP-38を2機撃墜したのが初陣となった。その後もラバウル撤退までラバウルに残留し、1944年(昭和19年)3月に台南空(二代目)に転じ教官となる。 台南空では教官として練成にあたる一方、B-24迎撃や、台湾沖航空戦にも参加する。11月にアモイ沖で船団護衛中に被弾。落下傘降下し一命を取り留めるも火傷により入院する。同年末に本土に帰還。 1945年(昭和20年)、復帰後203空に所属し沖縄航空戦及び本土防空戦に参加する。 最終階級は飛曹長。総撃墜数18機。 |
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な |
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中仮屋国盛 | ||||||||||||||
乙種8期飛行練習生 戦闘機搭乗員 1940年(昭和15年)3月に飛練卒業後、大分・大村・鹿屋空を経て1941年(昭和16年)4月に12空付きとなり、漢口基地に進出する。5月21日、鈴木実大尉指揮下の零戦11機が宣昌基地を出撃。天水及び南鄭への遠距離攻撃に参加。この空戦で初戦果として2機撃墜を記録した。 9月、3空に転属。開戦後、比島航空戦、蘭印航空戦に参加する。その後チモール島クーパンに進出。アラフラ海防衛とダーウィン攻撃に参加することとなった。 1942年(昭和17年)秋、3空はラバウルに進出が決定し、移動を開始するが、中仮屋はクーパンに残留し、その後も防空任務にあたった。 1943年(昭和18年)5月、教員として大村空への転属が決まり、本土に帰還する。 1944年(昭和19年)5月、飛曹長に昇進。同時に653空に転属となった。6月にはあ号作戦(マリアナ海戦)に参加する。 10月には捷号作戦に参加すべく比島進出が下令され、陸伝い(沖縄〜台湾〜比島)でルソン島バンバン基地に進出する。ここで本隊と合流してさらにセブ島に進出し、レイテ進攻と、防空任務に参加する。だが11月には失った戦力回復の為、生き残った隊員を中心に本土帰還を命ぜられる。中仮屋らは本土に転進後、601空への転属を命ぜられ、本土防空戦と沖縄航空戦に参加した。 最終撃墜数は16機。最終階級は少尉。 |
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中島文吉 | ||||||||||||||
33期操縦練習生 戦闘機搭乗員 1936年(昭和11年)9月卒業時17歳であり、最若年戦闘機操縦者の一人。 鹿屋空に配属され、支那事変では台湾に進出して防空任務にあたった。 開戦時には3空所属としてフィリピン航空戦に参加する。 1942年(昭和17年)11月より252空に転じラバウルに進出。ソロモン及び東部ニューギニア航空戦に参加し、その後マーシャル群島に移動した。 1943年(昭和18年)10月6日、米機動部隊によるウェーク島来襲に呼応して、増援部隊として陸攻を護衛してマロエラップからウェーク島に進出するが、途中米艦載機群に奇襲攻撃され乱戦となる。 零戦7機、陸攻7機の編隊だったが、零戦5機はウェーク島に不時着したが、中島機を含む2機は行方不明となった。 最終階級は飛曹長。総撃墜数は16機。 |
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中瀬正幸 | ||||||||||||||
乙種5期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 1938年(昭和13年)に練習課程を終了後、大村空を経て14空に配属。支那戦線に出動するが空戦の機会はなかった。 1940年(昭和15年)7月、横空勤務中に零戦隊として出動が決定し、零戦第一陣として12空に転属して漢口に進出した。10月4日の成都攻撃では太平寺飛行場強行着陸による焼き討ちに参加する。 1941年(昭和16年)9月、3空に転じて開戦を迎え、フィリピン航空戦に参加。その後蘭印航空戦にも参加したが1942年(昭和17年)2月9日にセレベス島マカッサル付近で地上部隊銃撃中に被弾して自爆した。 下士官搭乗員の中核的な存在であり、空戦技術には天才的なものが有ったとされている。 戦死後二階級特進により少尉。総撃墜数は18機。 |
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長野喜一 | ||||||||||||||
56期操縦練習生 戦闘機搭乗員 操練卒業後、1941年(昭和16年)10月に千歳空に配属され、開戦を迎える。開戦時には内南洋タロア島の防空任務に従事。 1942年(昭和17年)6月、2空(後に582空に改称)に転じ、本土帰還となるが、8月には南東方面ラバウルに進出。以後、1年間同方面で航空戦に従事する。撃墜記録は公認19機(内、不確実3機)であり、582空のトップエースとなる。(同部隊は1943年(昭和18年)3月以降、個人撃墜記録の記録を取っていないため後半期の記録は不明) 1943年(昭和18年)7月、厚木空に転属。同部隊が203空に改称後、戦闘304飛行隊に所属して1944年(昭和19年)4月に北千島に進出。だが10月には捷号作戦のため南方に移動。台湾沖航空戦に出撃後、フィリピン・バンバン基地に進出する。連日の艦船攻撃援護にレイテ島進攻作戦や邀撃戦に当ったが、11月6日のバンバン上空邀撃戦で米艦載機群と交戦、戦死した。 最終階級は飛曹長。撃墜機数は19機 |
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仲道 渉 | ||||||||||||||
丙種4期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 1940年(昭和15年)呉海兵団に入隊。翌年土浦空に入り丙飛4期を卒業。引き続き霞ヶ浦空、大分空で操縦教育を受け21期飛練過程を終了。 1942年(昭和17年)12月、空母『隼鷹』乗り組みを命ぜられるが、1943年(昭和18年)夏には204空に転じ、ブイン基地に進出した。翌年3月に帰国するまでの9ヶ月の間に19機(協同・不確実9機を含む)を撃墜した。 1944年(昭和19年)11月以降、721空(神雷部隊)戦闘機隊に所属し、神雷特攻隊の掩護任務に従事する。 最終階級は飛曹長。総撃墜数は15機(公認) |
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中谷芳市 | ||||||||||||||
丙種2期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 海軍入団後、整備兵から部内選抜コースにあたる丙飛を経て戦闘機搭乗員となった。卒業後は千歳空に配属され、開戦時には内南洋防空任務にあたった。 初戦果は1942年(昭和17年)2月1日のルオット島邀撃戦であり、米機動部隊の来襲時に艦爆を1機撃墜。 8月より台南空への補充員としてラバウルに進出。10月末までソロモン航空戦に参加した。 10月には201空(旧千歳空戦闘機隊)に復帰、再びマーシャル群島防空にあたる。その後一度本土に引き上げるが、1943年(昭和18年)7月より再びブインに進出する。 この進出時にはいくつかの面白いエピソードがあり、(1)敵機P-38を空中で捕虜にし、着陸する直前に事情を知らない僚機に撃墜された。(2)敵P-38の2機編隊を追い詰めて、空中衝突させた。などがある。 同年12月、331空。1944年(昭和19年)3月、202空。その後221空に転属。 本土に帰還後は筑波空・谷田部空の教官を務めて終戦を迎えた。 最終階級は飛曹長。撃墜機数は16機 |
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南郷茂章 | ||||||||||||||
海兵55期 戦闘機搭乗員 昭和6年より練習航空隊飛行学生(第22期飛行学生)となり、航空の道を進んだ。 日中戦争において第一三航空隊に所属し、昭和12年12月2日の南京攻撃作戦で南郷大尉(当時)が率いた戦爆連合(九六艦戦6機、九六艦攻8機)が中国空軍と交戦。敵機30数機に対して僅か6機で13機撃墜という戦果を上げた。この戦果は当時の空戦における戦例・法則に当てはまらない圧倒的勝利とされ、南郷大尉の名を一躍有名にした。この時の南郷隊の活躍により南京上空から敵機は姿を消したとも言われており、また支那方面艦隊長官より感状が授与された。 南郷は日本のリヒトフォーヘンと呼ばれるほどになり、またそれだけ期待が大きくなっていった。 その後空母『蒼龍』分隊長となりいったん本土に戻るが、昭和13年4月25日、再び『蒼龍』飛行機隊は第二連合航空隊に編入され中国に進出した。 昭和13年6月5日、新設された第一五航空隊の飛行隊長兼分隊長に補される。そして7月18日、南昌飛行場を襲撃した際に邀撃してきた敵機と交戦。撃破し、燃え盛る敵機(グラジュエーター)が不規則な旋回をしたときに南郷機の左翼に激突。その途端南郷機は空中分解して地上に激突、散華した。 |
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西沢広義 | ||||||||||||||
乙種7期飛行予科練習生 日本人最多撃墜数記録保持者(公式87機撃墜) 開戦時は千歳空所属。その後1942年(昭和17年)2月より四空に転入しラバウルに進出、初撃墜は2月3日のラバウル上空の邀撃戦。同年4月より台南空に転じて東部ニューギニア戦に転戦。米軍の反攻作戦となった8月7日のガダルカナル侵攻作戦にも参加。(6機撃墜) その後もソロモン方面に出動を重ね、11月に内地(豊橋)に引き上げるまでに記録した撃墜数は個人撃墜で30機であった。 1943年(昭和18年)5月、251空(旧台南空)の再進出により再びラバウルへ。その後253空に転じ(9月)、10月まで南東方面で戦闘を続けた。尚、この期間は6月以降個人記録の記入を中止したため、正確な撃墜数は不明。 11月からは飛曹長に昇進。203空に所属して北千島方面に進出する。 1944年(昭和19年)10月26日、捷号作戦に参加する為北方部隊の一員としてフィリピン・ルソン島マバラカットに進出。フィリピン航空戦の最中、飛行機受領のため零式輸送機でセブからマバラカット基地への移動中、F6F戦闘機の襲撃を受け戦死。 空戦では絶対に落とされないと確信していた不死身の撃墜王ではあったが、輸送機上ではなすすべも無かった。戦死後全軍布告・二階級特進となった。 日本陸海軍戦闘機隊を通じての最高撃墜数記録保持者(87機) 但し公認ベースによる推定では60〜70機、自己記録(家族への手紙)では147機、戦死時の新聞記事では150機。 |
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野中五郎 | ||||||||||||||
海兵61期 陸攻搭乗員 当初は艦攻乗りであったが、直ぐに陸攻に移る。 太平洋戦争開戦時にはフィリピン航空戦に参加。 昭和19年10月、人間爆弾『桜花』による特別攻撃隊『神雷部隊』が編成されると、『桜花』を搭載する陸攻部隊(第七二一海軍航空隊)の指揮官に任命された。 野中の率いる部隊は、自らと部下たちを侠客に見立てて士気高揚をはかり、『野中一家』とも呼ばれ、これは彼なりの人心掌握術であったといわれている。 昭和20年3月21日、野中少佐に率いられた721空は、母機となる一式陸攻18機(搭載された『桜花』は15機)は、第一神風特別攻撃隊神雷部隊として出撃。少佐が陣頭指揮で出撃した。 しかし、少佐自らが予言したとおりに米機動部隊の遥か手前で迎撃され、全機撃墜・全滅、戦死した。(二階級特進で大佐) |
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羽切松雄 | ||||||||||||||
林 喜重 | ||||||||||||||
海兵69期 37期飛行学生 戦闘機搭乗員 251空に配属され、昭和18年5月ラバウルに分隊士として進出。このときのラバウル進出メンバーの中に分隊長として鴛淵孝中尉が含まれていた。 ラバウルに進出した251空だが、9月に夜戦隊に改編されると昼戦隊は201空及び253空に編入、林中尉は鴛淵中尉と共に253空に移り、11月までソロモン航空戦を戦い、その後本土に帰還。。 昭和19年3月に開隊した361空戦闘407 飛行隊長となり、その後221空所属飛行隊として練成後の10月にフィリピンに進出する。フィリピン航空戦で戦力を消耗した戦闘407は台湾経由で本土に帰還後、343空に転入。乗機は『紫電改』へと変更となった。 昭和20年4月21日、B29邀撃戦において1機撃墜を報したまま鹿児島県阿具根海岸近くの浅い海面に不時着、戦死した。(死因は不時着時の衝撃による頭蓋底骨折) |
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東山市郎 | ||||||||||||||
淵田美津雄 | ||||||||||||||
海兵52期 攻撃機搭乗員 開戦時の南雲機動部隊・真珠湾攻撃部隊の飛行隊総指揮官。 ミッドウェー海戦では病気(虫垂炎)により空中指揮が執れず、空母『赤城』が沈没する際に両足を骨折。その後横須賀航空隊教官、海軍大学校教官、軍令部出仕を経て第一航空艦隊参謀となる。 戦後はクリスチャンとして布教活動に従事。 |
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布留川 泉 | ||||||||||||||
海兵63期 攻撃機搭乗員 開戦時の『赤城』艦攻隊分隊長。真珠湾攻撃において第一次水平爆撃隊第三中隊一番機(偵察員)として参加した。 1943年(昭和18年)7月、761空飛行隊長として第一航空艦隊の主力攻撃隊(龍部隊)を率いる。 1944年(昭和19年)2月23日、マリアナに来襲した米機動部隊に対し夜間雷撃を敢行して戦死。(戦死後、中佐に特進) |
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本田 稔 | ||||||||||||||
甲種5期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 甲飛卒業後、第二二航空戦隊司令部付戦闘機隊に配属。だが配属が開戦後の1942年(昭和17年)1月だった為、南方戦線における空戦の機会はなかった。その後鹿屋空戦闘機隊に配属され南西方面各地を転戦したのち9月よりラバウルに進出した。 1943年(昭和18年)5月まで同隊(鹿屋空→253空)でソロモン航空戦、ニューギニア航空戦に参加。 1944年(昭和19年)4月、戦闘407に配属。10月よりフィリピン航空戦に参加する。その後同飛行隊は343空に転属となり、本土防空戦、沖縄航空戦に参加する。 最終階級は少尉。総撃墜数は17機。 |
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増山正男 | ||||||||||||||
49期操縦練習生 戦闘機搭乗員 佐世保空、14空を経て開戦時には3空所属としてフィリピン航空戦、蘭印航空戦に参加。その後チモール島に進出しポート・ダーウィン侵攻作戦に従事する。 1942年(昭和17年)9月よりソロモン方面ラバウルに分遣されガダルカナル島空襲に参加する。 1943年(昭和18年)4月、航空技術廠実験部テストパイロットとして帰国。 最終階級は飛曹長。総撃墜数17機。 |
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松場秋夫 | ||||||||||||||
26期操縦練習生 戦闘機搭乗員 初陣は1937年(昭和12年)8月、上海上空で偵察爆撃機1機を協同撃墜。同年末霞ヶ浦空に戻り、その後空母『龍驤』、岩国空、元山空、大分空と転じる。 1943年(昭和18年)11月、301空戦闘601に転属。翌1944年(昭和19年)6月に『あ号作戦』に参加する為に硫黄島に進出し、邀撃戦を展開する。 同隊解隊後は戦闘701に転じてT攻撃部隊として台湾沖航空戦に参加し、その後レイテ作戦に参加する。本土後退後は戦闘701が343空所属となる。本土防空戦で2度の負傷をするが、終戦まで戦い続けた。 最終階級は中尉。総撃墜数18機。 (2010/10/18 訂正) 『松葉』→『松場』 間違えてました。訂正。 |
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南 義美 | ||||||||||||||
30期操縦練習生 戦闘機搭乗員 1933年(昭和8年)に海軍に入団。航空兵を目指して1935年(昭和10年)に30期操縦練習生を卒業して、大村空を経て1937年(昭和12年)7月に13空に配属となった。その後12空に転じた。 上海戦線に出征。第三次南京空襲を手始めに、南昌、漢口で空戦を繰り広げ、9機撃墜の記録を持ち、一時は12空のトップエースとなった。 1938年(昭和13年)5月31日、漢口攻撃では吉富中隊9機が敵機50機と空戦になり、乱戦の中で南三空曹(当時)は1機撃墜。但し燃料タンクに被弾し、単機で敵機12機に包囲され為体当たりを敢行。左翼先端を切断したしたまま帰路に着き、途中不時着した。不時着した飛行機を焼却中に味方捜索機によって救出され生還を果たしている。これにより第二の樫村として知られるようになった。 1938年(昭和13年)9月、本土に帰還。 開戦時には空母『翔鶴』に配属され、ハワイ、印度洋、珊瑚海海戦に参加する。 1942年(昭和17年)6月、教官として大村空に転属(飛曹長に昇進)。 1944年(昭和19年)2月、601空付きとして空母『大鳳』むに配属。6月のあ号作戦(マリアナ沖海戦)に参加し、制空隊として米艦隊攻撃に参加。帰艦後『大鳳』沈没時に負傷している。 本土帰還後に653空付きとなり比島沖海戦に参加。 1944年(昭和19年)11月25日、レイテ作戦において、神風特別攻撃隊笠置隊員として特攻出撃。比島東方海面の米機動部隊に突入して戦死した。 最終階級は大尉(戦死後2階級特進)。最終撃墜数は15機(公認) エースの中で数少ない特攻戦死者の一人である。 |
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宮野善治郎 | ||||||||||||||
海兵65期 32期飛行学生 戦闘機搭乗員 1941年(昭和16年)に支那戦線で12空所属として出撃するが戦果はなく、初戦果は開戦初日のフィリピン航空戦であった。 開戦時、3空分隊長として出撃。フィリピン侵攻作戦でルソン島上空で初撃墜を記録。その後、フィリピン、蘭印と戦い続ける。 1942年(昭和17年)4月、新編された6空分隊長に転じ、6月のダッチハーバー攻撃の際に、分乗した隼鷹から出撃した。 その後予定されていたミッドウェー進駐は作戦の失敗により無くなり、代わりにラバウル進出が決定する。ソロモン航空戦では6空、そして204空の分隊長として、続いて飛行隊長として1年近く陣頭指揮を続ける。 日本海軍航空隊での4機編隊戦法の採用や、戦闘機による戦闘爆撃機用法の開発などに携わった、卓越した戦闘機指揮官であったという。 1943年(昭和18年)6月16日、ガダルカナル島ルンガ沖の船団攻撃の際に、艦爆隊が攻撃離脱後に収容する任務を提案し、自ら指揮にあたったが、その際に敵機との乱戦により行方不明となった。 戦死後、全軍布告、二階級特進。最終階級は中佐。総撃墜数は単独撃墜16機。 ただし、部隊撃墜は一説には228機になるとも言われている。 |
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武藤金義 | ||||||||||||||
32期操縦練習生 戦闘機搭乗員 機関兵として入団後に操縦に転じた。 支那事変勃発と同時に13空に編入され、中支戦線に出動した。その後12空に転じ、南昌、漢口当の航空作戦に参加する。 本土帰還後は大分空、鈴鹿空、元山空を経て1941年(昭和16年)9月に3空に配属。横山飛行隊長の2番機としてフィリピン航空戦、蘭印航空戦を戦う。 1942年(昭和17年)4月、元山空戦闘機隊に転属。長く内地にあったが、11月にはラバウルに進出した。(同部隊は9月に252空に改称・改編されている。) ソロモン、東部ニューギニア方面の航空戦に参加した後、1943年(昭和18年)11月(?)より横須賀航空隊に転属となった。 1944年(昭和19年)6月、中部太平洋方面(あ号作戦)の戦局に伴い横空戦闘機隊は硫黄島に進出し、防空戦闘および米機動部隊攻撃に参加する。 1945年(昭和20年)6月、343空で戦死した杉田少尉の後任として343空に転属。飛行隊長菅野大尉の護衛役として源田大佐に請われての転属であった。 だが7月24日の豊後水道上空の空戦で戦死した。 撃墜記録は28機前後(推定)。 最終階級は中尉。 |
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吉野 俐 | ||||||||||||||
乙種5期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 1940年(昭和15年)10月、千歳空開隊に伴ない同戦闘機隊に配属。開戦直前の1941年(昭和16年)10月にマーシャル群島に進出し内南洋防空任務に付く。 1942年(昭和17年)2月、4空に転じ、ラバウルに進出する。2月11日に九六艦戦4機でスルミ湾哨戒中に豪州空軍のハドソン3機と遭遇し、空戦で2機撃墜し初戦果を挙げる。13日にも1機撃墜。その後乗機を零戦に更新しラエに進出。進出した初日に1機撃墜し、4空戦闘機隊の中核として活躍する。その後も4機撃墜の戦果を挙げ、台南空に転属後もモレスビー進攻、ラエ邀撃戦に活躍するが、6月9日のラエ上空邀撃戦でB-26編隊を追撃中にワードフント岬沖でP-39の11機編隊に奇襲され行方不明となった。 最終階級は少尉。 曹撃墜数は15機(公認) |
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渡辺秀夫 | ||||||||||||||
丙種2期飛行予科練習生 戦闘機搭乗員 1937年(昭和12年)に海軍に入団。その後隊内選抜の丙飛を経て1942年(昭和17年)3月に千歳空に配属となった。 当初は内南洋防空任務にあたっていたが、1943年(昭和18年)3月に204空に転じ、ソロモン航空戦に参加することになる。 204空は飛行隊長であった宮野飛行隊長が戦死すると、隊内に士官、准士官が殆どいない状態となった為、渡辺上飛層(当時)が中隊長代理となり、時には大隊長代理となって204空を指揮することになった。 8月26日、ブインに空襲をかけた米戦爆連合に対し単機迎撃を敢行。B-24 1機、F4F 1機を撃墜後後方より被弾。右眼球貫通・前頭骨折の重症を受けたが、海面墜落の寸前に立て直して基地に着陸する。そのまま入院となり、ラバウルの海軍病院で草鹿長官より『武攻抜群』と記された軍刀を授与された。 その後は本土送還となり帰国したが、再起することなく終戦を迎えた。 総撃墜数は16機。 最終階級は飛曹長。 |
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