太平洋戦域全体図 日本本土全体図 海軍:鎮守府・警備府
海軍:鎮守府:警備府
日本本土(日本列島)における海軍根拠地(鎮守府・警備府)の配備状況図です。
主に太平洋戦争中のものをマークしている為、日清・日露戦争当時ものは除外してあります。


鎮守府
鎮守府とは・・・ 太平洋戦争中・・・日本海軍にとっての鎮守府とは日本国内における海軍の根拠地として艦隊の後方支援・統轄を行う機関であり、明治時代に兵部省内に設置された海軍提督府を前身としている。
主に担当する管区内の防備や、所属艦船の整備・補給から訓練・徴募まで全般に渡って監理・運営を行っている。
  
横須賀鎮守府 1884年(明治17年)12月、東海鎮守府を移転して横須賀に設けた鎮守府であり、横須賀造船所も含む。
帝都防衛の要港である為、組織上は他の鎮守府と同格とされているが、実際には地位が一段高い鎮守府とされている。

太平洋戦争中の鎮守府司令長官は以下の通りである。
平田 昇中将(34期) 1941年(昭和16年)10月18日〜
古賀峯一大将(34期) 1942年(昭和17年)11月10日〜
豊田副武大将(33期) 1943年(昭和18年)4月21日〜
吉田善吾大将(32期) 1944年(昭和19年)5月3日〜
野村直邦大将(35期) 1944年(昭和19年)8月2日〜
塚原二四三中将(36期)  1944年(昭和19年)9月15日〜
戸塚道太郎中将(38期) 1945年(昭和20年)5月1日〜


     
呉鎮守府 1886年(明治19年)5月、呉港に鎮守府を置くことが定められ、1889年7月に呉鎮守府が告示、翌年4月に開庁した。
瀬戸内海を担当区域とするため、海軍の実質的戦闘部隊の中心的存在である。

太平洋戦争中の鎮守府司令長官は以下の通りである。
豊田副武大将(33期)  1941年(昭和16年)9月18日〜
高橋伊望中将(36期) 1942年(昭和17年)11月10日〜
南雲忠一中将(36期) 1943年(昭和18年)]6月21日〜
野村直邦中将(35期) 1943年(昭和18年)10月20日〜 在任中に大将に昇進
沢本頼雄大将(36期) 1944年(昭和19年)7月17日〜
金沢正夫中将(39期) 1945年(昭和20年)5月1日〜


     
佐世保鎮守府 1889年(明治22年)7月に開庁した鎮守府であり、九州・西日本方面の防衛を担当する。
佐世保に鎮守府が置かれた理由が朝鮮半島及び中国方面への拠点ということだが、何よりも天然の良港であると同時に人口が少なく港を作るのに便利だったからだという。

太平洋戦争中の鎮守府司令長官は以下の通りである。
谷本馬太郎中将(35期) 1941年(昭和16年)11月20日〜 病没
南雲忠一中将(36期) 1942年(昭和17年)11月11日〜
小松輝久中将(37期) 1943年(昭和18年)6月21日〜
杉山六蔵中将(38期) 1944年(昭和19年)11月4日〜


    
舞鶴鎮守府 1889年(明治22年)、対ロシア戦略の拠点として日本海側に鎮守府の設置が決定され、湾の状況から舞鶴湾に鎮守府設置が決定した。だが同時に整備に入った呉、佐世保の両鎮守府の工事が優先された為に開庁は1901年(明治34年)になってからであった。
舞鶴鎮守府建設にあたっての費用は日清戦争で得た清国からの賠償金が当てられたという。
初代鎮守府司令長官は東郷平八郎中将(当時)であった。

1923年(大正12年)よりワシントン軍縮条約により格下げとされ、要港部になった。だが条約明けの太平洋戦争前、1939年(昭和14年)に再び鎮守府に格上げされている。

太平洋戦争中の鎮守府司令長官は以下の通りである。
小林宗之助中将(35期) 1941年(昭和16年)9月18日〜
新見政一中将(36期) 1942年(昭和17年)7月14日〜
大川内伝七中将(37期) 1943年(昭和18年)]12月1日〜
牧田覚三郎中将(38期) 1944年(昭和19年)4月1日〜
田結 譲中将(39期) 1945年(昭和20年)3月1日〜


   


警備府
警備府とは・・・ 要港部を改編し、鎮守府に準じた組織だが、固有の艦艇戦力は有していない(海兵団のみ)。その為警備戦隊、防備戦隊は有しておらず、また工廠も存在しない。(代わりに工作部が設置)
太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和16年)11月20日に馬公(後に高雄に移転)、大湊、旅順(後に縮小・廃止)、鎮海といった要港部を警備部に格上げし、また阪神海軍部、海南島根拠地隊も合わせて警備部に改編して戦時対応とした。
     
大湊警備府 大湊要港部(1905年(明治38年)12月12日設置)
当初は室蘭に設置される予定であった室蘭鎮守府であったが、太平洋方面の防衛が地勢的に不利との判断から大湊に変更された。但し設置されたのは鎮守府ではなく大湊水雷団(横須賀鎮守府管下)であった。
日露戦争当時は津軽海峡防衛を担当し、戦後樺太方面の担当を任されたため、要港部に昇格した。
太平洋戦争開戦前の1941年(昭和16年)11月20日に大湊警備府に改編された。主に千島方面の防衛・海上護衛や、第五艦隊の後方支援を担当した。

太平洋戦争中の鎮守府司令長官は以下の通りである。
大熊政吉中将(37期) 1940年(昭和15年)11月15日〜 大湊要港部司令官
1941年(昭和16年)11月20日〜 大湊警備府司令長官
河瀬四郎中将(38期) 1942年(昭和17年)9月15日〜
井上保雄中将(38期) 1943年(昭和18年)4月1日〜
後藤英次中将(37期) 1945年(昭和20年)2月15日〜 第十二航空艦隊司令長官を兼任
宇垣完爾中将(39期) 1945年(昭和20年)3月15日〜 第十二航空艦隊司令長官を兼任

尚、河瀬四郎中将以外は全員 大湊警備府司令長官が最終職であり、その後予備役に編入されている。


    
大阪警備府 1940年(昭和15年)3月、大阪都市圏における海軍事務と取り仕切る為設置された阪神海軍部。
これに紀淡海峡防衛の為の戦力を持たせて警備府に格上げしたのが1941年(昭和16年)11月20日であった。
戦力的には極少数の兵力しか持たないが、衣糧廠・予科練航空隊といった膨大な人員・物資の管理を行っていた。

阪神海軍部・大阪警備府司令長官は以下の通り。
奥 信一少将(38期) 1940年(昭和15年)3月15日〜 阪神海軍部長
小林 仁中将(38期) 1941年(昭和16年)11月20日〜
牧田覚三郎中将(38期) 1943年(昭和18年)3月9日〜
大野一郎中将(38期) 1944年(昭和19年)4月1日〜
岡 新中将(40期) 1944年(昭和19年)11月1日〜


   
馬公警備府 日清戦争で獲得した台湾に進出するにあたり、馬公(澎湖諸島)に要港を設置した。ここは上海・青島に向かう欧米諸国の船舶を監視するのに適していたが、ワシントン軍縮条約により基地拡大に関しては凍結されていた為、要港部として存在していた。
条約失効後、台湾の軍事開発が進み、太平洋戦争海戦直前の1941年(昭和16年)11月には場公警備府と格上げされたが、警備府は高雄警備府に移されることとなった。(馬公には馬公方面特別根拠地隊が設置された。)

太平洋戦争中の馬公警備府司令長官は以下の通り。
山本弘毅中将(36期) 1941年(昭和16年)2月27日〜 馬公要港部司令官
1941年(昭和16年)11月20日〜 馬公要港部司令官から継続
高木武雄中将(39期) 1942年(昭和17年)11月20日〜
 〜1943年(昭和18年)3月31日
引き続き高雄警備府司令長官に移籍


   
旅順警備府 日清戦争で得た遼東半島を三国干渉で失った後、日露戦争で再び手に入れた遼東半島に旅順口鎮守府を設置し黄海・遼東海湾方面の防衛を担当した。
その後旅順鎮守府と改称されたが、1914年(大正3年)に旅順要港部に縮小された、更には1922年(大正11年)に旅順防備隊に移管される。
1933年(昭和8年)、再び旅順要港部が再設置され、太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和19年)11月20日に旅順警備府に改編されたが、翌1942年(昭和17年)1月15日廃止(定員を置かず、実質的に廃止となった。)、新たに旅順特別根拠地隊に任務は委ねられた。

太平洋戦争中の旅順警備府司令長官は以下の通り。
浮田秀彦(37期) 1941年(昭和16年)7月5日〜 旅順要港部司令官
1941年(昭和16年)11月20日〜
〜1942年(昭和17年)1月5日
旅順要港部司令官から継続
(以後、警備府は廃止。)


    
鎮海警備府 日露戦争中、対馬島・竹敷要港部だけでは艦隊を収容しきれない為設置された前進停泊地であり、李朝朝鮮からの租借地での治安維持を図りつつ設けられたのが鎮海要港部である。
朝鮮半島最大の拠点であり、日中戦争当時の後方拠点として機能した。
1941年(昭和16年)11月20日、それまでの要港部を警備府に格上げ。主に対馬海峡封鎖の拠点として機能した。

太平洋戦争中の鎮海警備府司令長官は以下の通り。
坂本伊久太中将(36期) 1941年(昭和16年)9月1日〜 鎮海要港部司令官
1941年(昭和16年)11月20日〜 鎮海要港部司令官から継続
後藤英次中将(37期) 1942年(昭和17年)9月15日〜
岡 敬純中将(39期) 1944年(昭和19年)9月9日〜
山口儀三郎中将(40期) 1945年(昭和20年)4月20日〜

海南警備府 1939年(昭和14年)1月、第四根拠地隊として海南島に配備された部隊を海南島根拠地隊とした改称したものが前身である。
1941年(昭和16年)4月、それまでの根拠地隊を警備府に格上げしたものであり、それまでの陸戦隊主体の部隊に事務組織を加えた編制となっている。
開戦時のマレー半島攻略部隊の集結地として、また中継拠点として周辺地域を統括し、海南島の防衛、資源開発、軍政といった任務も持つ。その為他の警備府とは多少任務上の性格が違っている。

太平洋戦争中の海南警備府司令長官は以下の通り。
砂川兼雄中将(36期) 1941年(昭和16年)11月20日〜
小池四郎中将(37期) 1942年(昭和17年)12月15日〜
松本益吉中将(37期) 1943年(昭和18年)10月1日〜
伍賀啓次郎中将(38期) 1943年(昭和18年)11月4日〜


  
高雄警備府 1943年(昭和18年)4月、それまでの馬公警備府を移転させ、あらたに高雄警備府とした。
台湾は戦前から軍事拠点としての航空隊やその他施設を設置していた為、利便性の問題から高雄に移転された。以後は連合国軍側によるフィリピン侵攻に備え、フィリピン戦・沖縄戦の際に台湾方面の戦力を統率する中心となっていく。

高雄警備府司令長官は以下の通り。
高木武雄中将(39期) 1943年(昭和18年)4月1日〜 馬公警備府司令長官から継続
山縣正郷中将(39期) 1943年(昭和18年)6月10日〜
福田良三中将(38期) 1943年(昭和18年)11月30日〜
志摩清英中将(39期) 1945年(昭和20年)5月10日〜 第一航空艦隊司令長官兼任



 






















   
大湊警備府
舞鶴鎮守府
呉鎮守府
大阪警備府
横須賀鎮守府
佐世保鎮守府