戦隊編成(1)
太平洋戦争中の戦隊編成

第一戦隊            
解説
日本艦隊最強の戦艦部隊である。
太平洋戦争開戦前の昭和16年8月11日に連合艦隊司令部戦隊として第一艦隊より分離独立した。このため戦隊指揮は連合艦隊司令長官直卒戦隊として編制されている。
太平洋戦争開戦時には『長門』『陸奥』の2隻で編制されており、主力部隊として日本本土より出撃。ハワイ方面に出撃した第一航空艦隊他の全般指揮と支援にあたる予定であったが、広大な太平洋に散るように戦線を展開した日本艦隊にとって、低速の戦艦部隊が本土から出撃したところで役に立ちはしなかっただろう。事実開戦当日に出撃した第一戦隊を中心とする主力部隊は僅か3日後に作戦は順調に推移していると判断し、本土に引き返している。機動部隊側ではこの行動を航海手当て目的じゃないのかと判断したようだ。

昭和17年4月10日、世界最大の戦艦として知られる大和級の1番艦『大和』が連合艦隊に引き渡され、第一戦隊に編入。あわせて連合艦隊旗艦をこれまでの『長門』から『大和』に変更となった。
第一戦隊出撃の機会は無く、第一段階作戦の間は本土に待機し続ける。

第二段階作戦の入り、ミッドウェー作戦の為に出撃するが、既に戦艦から空母へと時代が変化しており、敵と交戦することなく本土に引き上げることとなった。

ミッドウェー作戦直後、敗戦による艦隊編制再編により第一戦隊も編制替えが行われた。第二戦隊所属の『伊勢』『日向』の2隻が空母(航空戦艦)への改造が決定した為、『長門』『陸奥』の2隻が第二戦隊に転出することとなった。これにより第一戦隊の所属艦は『大和』1隻となり、大和級2番艦『武蔵』の艦隊編入までの間、単艦での編制であったが、元々の編制が連合艦隊司令部戦隊であったこと。また戦艦による海戦が発生しづらい状況であったなどの理由により、特に問題とはならなかった。
昭和17年8月5日、『武蔵』竣工。8月7日、第一戦隊に編入された。だが、その後も『武蔵』は各種試験が行われ、実戦に投入されるようになるのまだ先であった。その間にも『大和』は南東方面の作戦指揮のためにトラック島に前進、連合艦隊の指揮をとる。

翌昭和18年1月、各種試験・訓練を終えた『武蔵』が柱島を出撃、トラック島に前進する。ここに日本海軍史上最強の戦艦戦隊が完成した。また通信指揮設備が『大和』より優れている『武蔵』に旗艦が変更されることなり、2月11日旗艦変更が行われた。しかし折角揃った大和級2隻ではあったが、この直後に『大和』は呉に帰還し、呉工廠で入渠修理となる。
『武蔵』最初の任務は戦闘ではなかった。4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六大将戦死。そして山本元帥(戦死後昇進)の遺骨を乗せ、本土まで航海することとなった。5月末、横須賀に帰投。
8月初旬、再び『武蔵』はトラック島に前進。『大和』も遅れて8月末にトラック島に前進してきた。

その後米艦隊がタラワ方面に進出。索敵攻撃の為に第一戦隊も出撃するが空振りに終わる。

12月、『大和』がトラック沖北方で米潜水艦の雷撃を受け被雷。このため年が明けた昭和19年1月にトラック島を出発し本土に帰還する。一方連合艦隊司令部は水上艦艇の大部分を撤退させ、パラオに移動させることを決定。あわせて司令部を陸上に移すことを計画し、水上艦艇は第二艦隊に集結。第二艦隊第三艦隊をあわせて一つの機動部隊とすることを計画した。このため、第一艦隊は解隊することとし、第一戦隊も第二艦隊への編入が決定した。『武蔵』は軽巡『大淀』、駆逐艦『満潮』『玉波』を伴なって本土にいったん帰還。他はパラオに移動を開始する。
昭和19年2月17日、米機動部隊がトラック島に来襲。トラック泊地全体が大空襲により被害を出すが、連合艦隊の大部分は脱出に成功していた。但し、一部艦艇と多数の商船が犠牲となり、海軍のみならず日本全体にとっての悲劇となった。

第一戦隊は昭和19年2月25日付けで第二艦隊に編入。戦隊司令官に宇垣 纏中将が就任した。(第一艦隊は解隊)
尚、このときに戦艦『長門』が第一戦隊に編入され旗艦となり、戦艦3隻体制となる。(『武蔵』はトラック→本土、『大和』は呉(対空兵装強化)、『長門』はトラック→パラオ→リンガ泊地→シンガポール))
本土に帰還した第一戦隊は直ぐにパラオに向かい、パラオ到着後第一戦隊を含む第二艦隊は新編の第一機動艦隊に編入された。
3月30日、米機動部隊がパラオ来襲。パラオを脱出した『武蔵』が米潜水艦の雷撃を受け被雷。その後再び呉に帰還する。
その後第一戦隊の各艦は6月にタウイタウイ泊地に集結し、あ号作戦(マリアナ海戦)参加する。
米機動部隊のマリアナ侵攻はもはや時間の問題と思われたが、なかなか現れず、その間に艦隊がタウイタウイ泊地に集結していることは米軍側に筒抜けとなっていた。泊地の外周を米潜水艦群が取り囲み、次々と駆逐艦をはじめ艦船が被害にあって沈められていった。また米軍のマリアナ侵攻前に敵がビアク島に侵攻。足元に火をつけられた状態になった連合艦隊ではビアク方面に対処する為に『渾作戦』を発動。第十六戦隊と2個駆逐隊からなる戦力を派遣することとなった。
同部隊が米艦隊との交戦により被害を出した渾作戦部隊は作戦を中止する。連合艦隊司令部は第二次渾作戦を計画するが、第一機動艦隊側の提案で第一戦隊を中心とする増援戦力の派遣を提案。これを受け入れて第一戦隊(『大和』『武蔵』のみ 『長門』欠)、第二水雷戦隊がタウイタウイ泊地を出撃しビアクを目指した。
この作戦に第一戦隊が投入された目的は、巨艦2隻の砲撃力もさることながら、敵機動部隊を誘き出す為の囮の役割も含まれていた。途中ダバオから出撃・派遣されてきた第五戦隊その他とも合流予定であったバチアン泊地にて合流し、戦闘準備を進めていく。
だが集結した翌6月13日には連合艦隊司令部は『あ号作戦』決戦用意を発令、あわせて渾作戦の中止を下令した。急ぎ引き返す渾作戦部隊だが、第一機動艦隊は既にタウイタウイ泊地を出撃している為、作戦行動している洋上での合流となった。16日、機動部隊と合流した渾作戦部隊は所定の艦隊陣形の配置に付き、第一戦隊は前衛部隊となる第二艦隊と会合した。
マリアナ海戦における機動部隊の攻撃は完全に失敗した。なすすべなく艦載機群の殆どを失い、また米潜水艦により主力空母2隻(『大鳳(艦隊旗艦)』『翔鶴』)が沈められた。この為損害を顧みることなく敵艦隊に決戦を求める当初の作戦方針は一転し、艦隊は後退した。この後退の最中にも敵艦載機群の追撃は続き、更に空母1隻(『飛鷹』)を失った。第一戦隊を含む遊撃部隊(第二艦隊)は中城湾を経由した後フィリピンのギマラスに回航された。

マリアナ海戦後、再び第一戦隊が戦場に戻るのはフィリピン決戦、レイテ湾である。
フィリピン奪回を目指し侵攻してくるマッカーサー率いる米軍がフィリピンに来るのは時間の問題であり、日本陸海軍はフィリピンに決戦の場を設定して迎え撃とうと計画する。これを捷一号作戦という。
米機動部隊はフィリピン攻略に先駆け、日本に対する牽制と陽動を兼ね、台湾に来襲する。これを迎え撃つ海軍航空隊は米機動部隊に対して大打撃を与えたと戦果報告を行った。この台湾沖航空戦による戦闘結果がフィリピン防衛戦構想を覆す結果になるとは殆どの人が予想もしなかった。
昭和19年10月17日、ニューギニア各地から出撃した米上陸部隊がフィリピン・レイテ島に上陸を開始。
翌18日、第二艦隊司令長官 栗田健男中将率いる第一遊撃部隊は捷一号作戦発動に伴ないリンガ泊地を出撃した。
もはや搭載する艦載機も碌にない空母機動部隊(第三艦隊)は19日に瀬戸内海を出撃、フィリピン近海に遊弋する米機動部隊を北方に吊り上げるべく、自らを囮として第一遊撃部隊のレイテ突入を支援した。第一遊撃部隊の任務は損害を顧みることなく、敵上陸部隊が密集するレイテ湾に突入し、第一戦隊他の戦艦の主砲によって敵輸送船団も、上陸部隊もまとめて砲撃して殲滅することにあった。日本水上打撃艦隊の総力を上げた艦隊殴りこみ作戦である。
突入する艦隊は主に3つの部隊に分かれて行動するが、ここでは第一戦隊が配置された第一部隊の動きについて解説する。
パラワン水道からジブヤン海、そしてサン・ベルナルディノ海峡を通過してレイテ湾を目指す作戦である。
10月22日、ブルネイ湾に回航し、燃料補給を終えた各艦は出撃し、パラワン水道に突入する。翌23日、米潜水艦にレーダー探知された艦隊は早朝から潜水艦の波状攻撃を受け、重巡『愛宕』『高雄』が被雷する。艦隊総旗艦である『愛宕』が沈没し、司令長官栗田中将は『愛宕』から『大和』に移乗し、艦隊の旗艦を『大和』に変更する。『高雄』は損傷激しくブルネイに後退。その間にさらに重巡『摩耶』がまた潜水艦によって被雷、沈没した。
第一遊撃部隊は作戦の初っ端から第四戦隊の重巡3隻を失ったのである。
潜水艦からの通報を受けた米第3艦隊のハルゼー大将は第38任務群の空母部隊より攻撃隊を発進させ、第一遊撃部隊に対して執拗な航空攻撃を繰り返した。攻撃隊は戦艦、輪形陣を組む日本艦隊のうち、特に『武蔵』に攻撃を集中する。
この敵機動部隊による攻撃から艦隊を支援すべく、基地部隊が攻撃を開始。またルソン海峡東方に到達した第三艦隊からも艦載機群が出撃した。
敵の第1次攻撃(45機)は『武蔵』に魚雷1本を命中させる。
続いて第2次攻撃隊(31機)は『大和』『武蔵』に集中し、『武蔵』に魚雷3本、爆弾2発が命中。速度が22ノットにまで低下する。
第3次攻撃隊(44機)は隊列から落伍しつつある『武蔵』に集中し、魚雷5本、爆弾4発が命中。(『大和』は爆弾1発命中) 速度は16ノットに低下した。もはや艦隊に同行することが出来なくなった『武蔵』は台湾に後退させることを決定。
その間に到来した第4次攻撃隊(32機)は『大和』『長門』に攻撃を加え、『大和』に爆弾1発が命中する。
更に第5次攻撃隊(67機)が来襲し、その大半が『武蔵』に攻撃を集中した。魚雷10本、爆弾11発が命中し航行不能となる。『長門』は爆弾2発命中、速度が21ノットに低下した。
他にも多くの艦艇が損傷し、栗田中将は15:30、ついに艦隊に反転を命じた。

17:15、満身創痍となった『武蔵』はついに総員退艦命令が発せられ、19:35沈没した。

一方、空母部隊の攻撃で日本戦艦部隊を後退させたと信じたハルゼー大将、攻撃目標をより重要な空母、小沢中将率いる第三艦隊に志向する。囮部隊である第三艦隊に敵が喰らい付いた瞬間である。
17:45、ハルゼー艦隊の攻撃が止んだ為、再度レイテ湾を目指すべく第一遊撃部隊第一・第二部隊残存艦艇は再反転し、再び進撃を再開した。
レイテ湾を守備するオルデンドルフ少将率いる米第7艦隊の旧式戦艦部隊は、別海路を通ってレイテを目指す西村中将率いる第一遊撃部隊第三部隊を迎撃すべく、スリガオ海峡で交戦状態にあった。

西村部隊、志摩部隊(第二遊撃部隊)、そして小沢部隊の状況を知らぬままレイテ湾目指して進撃した栗田部隊(第一遊撃部隊第一部隊)は10月25日06:43、サマール沖を航行中に前方35kmの海上に数本のマストを発見。やがて空母と判断され、ここに栗田中将はハルゼーの空母部隊を、自らの戦艦の主砲射程圏内に捕捉したと判断したのである。
0658、距離32kmに接近した時点で突撃命令が下り、『大和』『長門』以下、戦艦、重巡部隊が敵空母群めがけて突撃を開始した。だが・・・栗田部隊が捕捉した敵艦隊はハルゼー率いる機動部隊ではなく、クリフトン・スプレイグ少将に指揮された第77任務群第4群第3集団の護衛空母6隻他からなる小部隊であった。
『大和』『長門』が突撃を開始したが、空母を守るべく肉薄し雷撃を敢行してくる敵駆逐艦に阻まれ接近できずにいた。敵艦が発射した魚雷と平行して航行する状況となり、変針出来なかった為、貴重な時間が失われていった。
米護衛空母群はスコールに飛び込み、護衛の駆逐艦は空母を死守すべく果敢に突撃を敢行し、発艦出来た艦載機が手当たり次第爆撃を敢行する。
一方栗田部隊も戦艦・巡洋艦の砲撃戦に終始し、燃料不足の危機に陥っていた駆逐艦部隊への突撃命令がなかなか発令されない為、ただ時間だけが過ぎていった。ようやく突撃命令が下され、駆逐艦が目標を捕らえ、後1歩という段階で集結命令が下された。約2時間に及ぶ追撃戦の結果部隊は分散し、部隊の掌握が困難になった為であったのだが、前線の部隊は納得出来ずにいた。この遭遇戦で第一戦隊の戦果は駆逐艦『ジョンストン』撃沈だけであった。(但し、米側記録に『大和』『長門』の主砲による撃沈戦果の記録はない。)
集結した栗田部隊は再度レイテ湾を目指すが、南西方面艦隊からの入電により北方100kmの海域に米機動部隊がいると知らせてきた。時間にして約1時間で捕捉できると判断した栗田中将は米同部隊目指して反転・進撃を開始する。レイテは後で目指せばよいと・・・これがレイテ作戦最大の問題と言われている『謎の反転』である。
その間にも神風特攻・敷島隊(関 行男大尉指揮)がスプレイグ隊に特攻を敢行し、護衛空母『セントロー』を撃沈して、栗田部隊を支援していた。
結局米機動部隊を捕捉することも出来ず、再びレイテに突入する機会も失われ、栗田部隊は目的を果せずに作戦を終了した。

レイテ海戦後ブルネイに寄港し、第一戦隊は解隊された。『大和』は第二艦隊旗艦となり、『長門』はレイテ海戦で失われた『金剛』の代わりとして第三戦隊に編入された。
  
所属艦艇
1941年(昭和16年)12月 開戦時(連合艦隊司令長官山本五十六大将(32期)直卒)
長門(旗艦)   陸奥        

1942年(昭和17年)4月10日
(連合艦隊司令長官山本五十六大将(32期)直卒)
大和(旗艦) 長門 陸奥

1942年(昭和17年)7月14日
(連合艦隊司令長官山本五十六大将(32期)直卒)
大和(旗艦)

1942年(昭和17年)8月7日
(連合艦隊司令長官山本五十六大将(32期)直卒)
大和(旗艦) 武蔵

1943年(昭和18年)2月12日
(連合艦隊司令長官山本五十六大将(32期)直卒)
武蔵(旗艦) 大和

1943年(昭和18年)4月21日
(連合艦隊司令長官古賀峯一大将(34期)直卒)
武蔵(旗艦) 大和

1943年(昭和19年)2月25日
(司令官:宇垣 纏中将(40期))
長門(旗艦) 武蔵 大和 第二艦隊に編入(第一艦隊、解隊)

1943年(昭和19年)5月4日
(司令官:宇垣 纏中将(40期))
大和(旗艦) 武蔵 長門
                                    .

第二戦隊
解説
第一戦隊と共に、日本海軍の主力となる戦艦部隊。
本来第一艦隊は連合艦隊司令部直卒艦隊として編制される筈だったが、第一戦隊が第一艦隊から分離独立し司令部戦隊として編制された為、第一艦隊司令部が設けられた。その際に第一艦隊司令長官直卒戦隊とされた為、開戦時の第二戦隊は高須四郎中将直卒部隊となっている。

開戦にあたり、第一戦隊と共に本土に待機し、主力部隊として作戦全般の支援にあたるものとし、第一航空艦隊がハワイ真珠湾を攻撃すると本土から出撃した。
作戦はほぼ順調に進んだ為、3日後には反転し、本土に引き上げた。
第一段階作戦当時は戦艦部隊が前線に出る機会は無く、本土で待機を続ける。
第二段階作戦開始にあたり、ミッドウェー攻略作戦に参加。主力部隊に属して出撃するが、空母同士、航空機同士の戦いに終始したため、戦闘に参加する機会は無かった。
ミッドウェー海戦において、日本の主力空母4隻を一挙に失うと、日本海軍は空母戦力補充の為にあらゆる方策を検討する。この一環として第二戦隊所属の戦艦『伊勢』『日向』の2隻を空母に改造する計画が浮上した。これはミッドウェー海戦直前の昭和17年5月、伊予灘で演習中の戦艦『日向』の第五砲塔が爆発事故を起こしたことに端を発する。『日向』は就役直後の1919年(大正8年)10月にも第三砲塔爆発事故を起こしており、ある意味縁起の悪い船でもあった。

今回はミッドウェー作戦直前であった為、突貫工事で修理したが、その際に砲塔そのものを修理するのではなく、撤去して代わりに機銃を4基増設して作戦に参加していた。
この事故の影響により既存戦艦の空母改造計画の第一号として『伊勢』『日向』が選ばれた。
(ちなみに空母化計画は大和級を除く全ての戦艦で検討されたが、様々な理由により実行されたのは伊勢級の2隻だけである。)

『伊勢』『日向』が第二戦隊から外された後、新たな戦艦が第二戦隊に編入された。第一戦隊から移籍された『長門』『陸奥』の2隻である。

その後も長く本土での待機を命ぜられ、戦局にはなんら寄与しなかった。その為か途中『扶桑』が士官候補生実習艦として実戦任務から外された期間があったり、改装の完了した『伊勢』と『山城』が輸送任務に従事したりした。
そして『陸奥』が瀬戸内海にて謎の爆発事故を起こし、有力な戦艦戦力の一つが失われた。

昭和19年2月25日、第一艦隊が解隊され、その結果所属が第二艦隊となる。

米軍のマリアナ侵攻を迎え撃つべく準備された『あ号作戦』において、米軍の侵攻地点を完全に読みきることが出来ず、マリアナ方面を警戒している最中にビアク島への米軍上陸が始まった。これを放置すれば南西方面、特にパラオ諸島周辺から南部フィリピン、ボルネオ方面が空襲圏内に納められ、『あ号作戦』の成否に関わるとのことからビアク島に対する増援戦力の逆上陸作戦が計画された。この作戦は渾作戦と命名され、その(第一次)渾作戦・間接護衛隊の1艦として『扶桑』が参加する。だが、ビアク島への進撃途中で敵哨戒機によって発見され、また米機動部隊を発見したとの陸軍偵察機からの報告により一端引き返したが、機動部隊発見の報告は誤報であった。だが既に逆上陸部隊を退避先のソロンで陸揚げしてしまった為、再度進撃を行うには時期を逸し、作戦は中止された。(その後、駆逐艦だけによる第二次作戦、第一戦隊を増援に加えた第三次作戦も行われたが、いづれも中止された)

あ号作戦』後、本土で対空機銃増設・電探装備を実施した後リンガ泊地に進出し、フィリピン決戦に備えた。西村中将率いる第一遊撃部隊第三部隊としてレイテ湾突入を目指しスリガオ海峡突破する。
この部隊は低速戦艦である『扶桑』『山城』を中核とするため、栗田中将率いる第一遊撃部隊第一部隊(第一戦隊他)、第二部隊(第三戦隊他)とは別のルートを辿り、最短距離でレイテ島を目指したのである。
海峡突入して直ぐに米魚雷艇隊によって発見された西村舞台は、米駆逐隊の雷撃を受ける。魚雷4本が命中した『扶桑』は大爆発を受け、船体真っ二つに折れた後沈没した。他にも多数の艦艇が雷撃によって損害を受け、『山城』も魚雷1本が命中したが、航行には支障がなかったようだ。ただ、この最初の戦闘により西村部隊の残存艦艇は僅か3隻(『山城』『最上』『時雨』)だけとってしまう。更に追い討ちを掛けるように米旧式戦艦部隊であるオルデンドルフ少将指揮下の第78任務群・第79任務群の戦艦6隻他によってT字戦法による集中砲火を受ける。『山城』『最上』が最初に大破炎上し、さらに雷撃を受け『山城』は大爆発後、転覆沈没した。『最上』は大破炎上しながらも脱出したが、退避中に『那智』と接触事故を起こし、結局は志摩部隊(第二遊撃部隊)の駆逐艦『曙』の雷撃によって自沈処分される。
西村部隊で生き残ったのは駆逐艦『時雨』ただ1艦だけであった。

戦艦『扶桑』『山城』を失った第二戦隊は昭和19年11月5日、解隊となった。
  
所属艦艇
1941年(昭和16年)12月 開戦時第一艦隊司令長官高須四郎中将(35期)直卒)
日向(旗艦)   伊勢   山城   扶桑    

1942年(昭和17年)7月14日
第一艦隊司令長官高須四郎中将(35期)直卒)
長門(旗艦) 陸奥 山城 扶桑

1943年(昭和18年)9月1日
第一艦隊司令長官清水光美中将(36期))
長門(旗艦) 陸奥 山城 扶桑 伊勢

1943年(昭和18年)9月1日
第一艦隊司令長官清水光美中将(36期))
長門(旗艦) 山城 扶桑 伊勢 日向

1944年(昭和19年)5月1日
第一艦隊司令長官清水光美中将(36期))
山城(旗艦) 扶桑

1944年(昭和19年)9月10日
(司令官:西村祥治中将(39期))
山城(旗艦) 扶桑
                                                          


第三戦隊
解説
高速戦艦(旧:巡洋戦艦))で編制され、太平洋戦争で運用された戦艦の中でもっとも旧式の戦艦部隊であり、恐らくもっとも活躍したであろう戦艦戦隊である。
第一艦隊に所属する戦艦戦隊として太平洋戦争を迎えたが、戦隊に所属する4隻のうち、第一小隊(『金剛』『榛名』)が南方作戦に協力する為に南方部隊に配属され、第二小隊(『比叡』『霧島』)を第一航空艦隊・南雲機動部隊の支援部隊として分派した。

第一小隊・・・南方部隊・本隊(第二艦隊主力)として近藤信竹中将直接指揮の下、南部仏印のカムラン湾を根拠地とし南シナ海に展開し、マレー半島攻略作戦に参加した。『金剛』『榛名』の目標敵艦はシンガポールの英戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』『レバルス』の2戦艦であった。マレー攻略作戦にあたり、最大の障害と考えられたのが、この英最新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』であり、第三戦隊の日本海軍でもっとも古い2戦艦では荷が重い敵と思われていた。
開戦時、マレー半島に上陸した日本軍に対し、東方に大きく迂回(想定された機雷源を迂回する為)して一気に上陸船団に対して攻撃を試みようとした英艦隊ではあったが、日本軍機に接触・発見されたとの判断、また既に揚陸は終了してしまったとの判断から、上陸地点攻撃を中止し、反転・南下を開始した。この日本軍機の接触と、それに続く照明弾投下による日本軍の作的行動は英艦隊ではなく、南方艦隊・南遣艦隊本隊(『鳥海』『狭霧』)に対して行われた誤投下であり、未だ英艦隊を発見していた訳ではなかった。このとき僅か100数十マイル程度にまで接近していた両艦隊が接触・交戦を行っていたならば、日本艦隊にとってかなり拙い状況になっていたであろうが、結果的には交戦に到らず、その後の第十一航空艦隊所属機による史上初の航行中の戦艦を航空機が撃沈するマレー沖海戦へと発展したのである。
以後の南方攻略作戦は戦艦を投入する戦いは発生せず、全般支援と称して待機することとなる。

第二小隊・・・南雲機動部隊の直衛任務に就いた『比叡』『霧島』はハワイ・真珠湾攻撃作戦に参加する。同作戦中は敵艦と交戦する機会もなく、作戦終了後には本土に引き返し、以後も機動部隊と共に南東方面ラバウルからパラオ・セレベス・ポートダーウィン方面と太平洋戦争主要戦域外縁部を制圧して機動空襲を続けていくこととなった・・・のだが、直衛部隊に交戦の機会はなく、ただ空母に付き従うだけであった。

第三戦隊の4艦が揃ったのはインド洋作戦を行う為に作戦参加艦艇が昭和17年3月にセレベス島スターリング湾に集結したときであった。開戦以来初めて4隻が揃ったのである。ちなみに艦隊編成上、金剛級戦艦4隻が同一戦隊で全艦揃ったのも開戦直前の一時期を除けばこの時だけであった。

インド洋作戦に続き参加したミッドウェー攻略作戦では再び戦隊を2隊に分割した。『比叡』『金剛』の2艦がミッドウェー島攻略部隊本隊(第二艦隊司令長官近藤中将直卒)に配属され、『榛名』『霧島』が南雲機動部隊の直衛隊に配属された。
この作戦は日本海軍にとって痛恨の敗戦となった。主力空母4隻を一気に失ったのである。だが第三戦隊にとっての戦闘は続く。攻略部隊から北方部隊支援隊に編入、そのままアリューシャン攻略作戦に参加してから本土に回航された。
昭和17年7月、空母機動部隊再建の為に第一航空艦隊は解隊が決定し、新たに第三艦隊を新編する。その際に今まで作戦のつど臨時編成されていた第三戦隊他の直衛部隊を固定配置とするために新設戦隊が編制された。その為『比叡』『霧島』の2艦で第十一戦隊を新編、第三戦隊は『金剛』『榛名』の2艦編成となった。

オーストラリア侵攻の足がかりとして根拠地を前進させていた日本軍であったが、ソロモン諸島ガダルカナル島に飛行場設営を行ったことをきっかけに米軍の反攻作戦が始まった。ガダルカナル島を巡る一連の戦闘において、第三戦隊もソロモンの戦いに投入されていくこととなる。
それがガダルカナル島に対する戦艦の主砲をもって直接砲撃する作戦であった。当時の常識として戦艦vs陸上砲台では陸上砲台に分があるとされていた。だが、航空機による攻撃範囲ギリギリの位置にあるガダルカナル島に対しては有効な攻撃手段が無く、連合艦隊司令部では戦艦の投入を決定した。
第三戦隊司令部ではこの作戦に反対したが、再三の協議の結果いくつかの条件の下この作戦を受け入れた。(1.敵艦が迎撃に出撃した場合は、敵艦撃破を優先とする。 2.ガダルカナル島に対する砲撃は1航過に留める。 3.損傷・座礁した場合は陸地に乗り上げ、陸戦隊となって戦う為の陸戦装備の支給 等)
ガダルカナル島に上陸した『大和』砲術長以下の観測隊要員がエスペランス岬、タサファロング岬、クルツ岬の計3ヶ所に篝火を灯し、これを基準に三角測量を行って砲撃目標を確定する。第三戦隊の砲撃目標はガダルカナル島ヘンダーソン航空基地である。
28ノットの速度で砲撃針路を固定、『金剛』が三式砲弾(104発)を、『榛名』が零式砲弾(189発)を目標目掛けて砲撃を開始した。砲撃に気づいた米軍は砲兵陣地より反撃を行ったが、沿岸に設置した12.7センチ砲では砲撃距離が短く、また手前に位置する護衛の駆逐艦に目標変更したが、これも届かなかった。
1航過後、艦隊は180度反転し、再度砲撃を開始する。三式弾・零式弾共に打ちつくし、次に滑走路破壊用に鉄鋼弾(零式弾・2艦合計625発)を撃ち込む。
2回の砲撃戦を行った後、艦隊は全速で戦場を離脱。砲撃途中に米魚雷艇が接近したが、前路警戒隊の駆逐艦によって撃沈された。
砲撃戦果は大成功であり、ヘンダーソン基地は火の海に包まれた。航空機の半数が損傷し、ガソリンタンクは燃え、滑走路には大穴が開き、一時使用不能となった。だが、元々日本海軍設営隊によって建設された飛行場のみを目標とし砲撃を加えた結果、最近になった完成した第2飛行場の存在を知らなかった。このため、飛行場施設としては能力が半減しただけであり、航空機の運用を完全に止めるには到らなかった。この作戦の後、陸軍第二師団を上陸させる予定であったが、結局輸送船団は航空機の攻撃により損害を出し、第二師団は重砲装備を陸陸揚げすることが出来なかった。

後日2度目の戦艦によるガダルカナル島砲撃が実施された際には同型艦ある『比叡』『霧島』で編制された第十一戦隊が投入されたが、3日間に及ぶ2度の交戦(第三次ソロモン海戦)で両艦ともソロモンの海に没した。

次に第三戦隊が参加した作戦は『あ号作戦』であり、昭和18年は主だった作戦には参加していない。この時期は水上艦艇に活躍の機会はなく、精力的に動いたのは航空機、駆逐艦以下の小艦艇、潜水艦であった。米軍のアッツ島攻略に対し、迎撃準備の為東京湾に艦隊が集結したが、作戦行動には移らず、再び訓練に従事する。

あ号作戦』はマリアナ諸島に侵攻してくる米軍を、そして米機動部隊に対して日本機動部隊の総力を上げてこれを迎撃。中部太平洋にて決戦を行い勝利を得ることを企図した作戦であったが、既に航空戦力において日米の数・質の差が大きく開いており、ほぼ一方的に敗戦に追い込まれた海戦であった。正規空母2隻を含む主力3隻を失い、また多くの空母・艦艇が損傷した。
第三戦隊はこの海戦に前衛部隊(第二艦隊)の一部隊として参加。空母部隊本隊の前衛として敵艦載機を吸引、味方の空母を間接的に守ることを目的としていた。前半の第三艦隊から出撃した日本側攻撃部隊は敵艦載機の行動半径の外からアウトレンジ戦法をもって先制攻撃する予定であったが、既に当時の艦載機搭乗員の練度はソロモン航空戦での消耗に耐え切れず開戦当時の練度を持ってはいなかった。そのため、艦隊司令部が企図した作戦を実施レベルで要求に答えられず攻撃は失敗、ほぼ一方的に航空戦力を消耗してしまった。
結果、当初の予定では味方の損害を顧みず、全戦力を注ぎ込んででも勝利を掴む予定ではあったが、航空戦力無き水上艦隊では手の出しようもなく、一端後退をを余儀なくされた。だが、最初の航空攻撃を行った翌日、追撃してきた米機動部隊艦載機群の攻撃により『榛名』が直撃弾×1発、至近弾多数、当面の戦闘航海に支障はなかったものの、火薬庫が漏水した為、入渠修理が必要になってしまった。
艦隊全体では初日に潜水艦によって正規空母2隻、翌日の空襲で改装空母1隻を失い、その他多数が損傷する結果となった。

続いて参加したのが捷1号作戦であり、フィリピンに侵攻してくる米艦隊に対する日本海軍水上艦隊主力を持ってする艦隊殴りこみ作戦であった。もはや開戦前に考えられた海戦・作戦などとはまるで違った作戦であり、通常であればありえない作戦ではあったが、日本海軍はこの作戦を計画し、半ば成功させてしまった。
第三戦隊は『金剛』『榛名』共に殴りこみ艦隊の主役である第二艦隊の指揮下にあって、第一遊撃部隊第二部隊の主力としてレイテ湾を目指した。
リンガ泊地に集結した第二艦隊は作戦が開始するとブルネイ湾に回航。燃料補給後、第一遊撃部隊第三部隊(西村部隊)や別働の第二遊撃部隊(志摩部隊)とは別にパラワン水道からジブヤン海に入り、サン・ベルナルディノ海峡を通過して一路レイテ湾を目指した。
米機動部隊からの攻撃を受け、数度に及ぶ空襲に耐えた。だが敵の攻撃が激しく、ついに第一戦隊所属の戦艦『武蔵』が脱落(後、沈没)。艦隊は一端後退する為に反転し、レイテから離れる。その間に囮部隊となった第一機動艦隊第三艦隊)によって、米空母機動部隊が北方に吊り上げられた。また旧式戦艦部隊から編成される米第7艦隊の第78任務部隊・第79任務部隊もスリガオ海峡を突破しようとした西村部隊・志摩部隊に対応する為に戦場から離される結果となった。
米艦載機群の空襲が止んだ後、第一遊撃部隊(栗田部隊)は再度反転、再びレイテ湾目指して進撃を再開した。
10月25日06:43、 最難関と思われていたサン・ベルナルディノ海峡を突破し、サマール沖を航行中に前方35kmの海上に数本のマストを発見。やがて空母と判断され、ここに栗田中将はハルゼーの空母部隊を、自らの戦艦の主砲射程圏内に捕捉したと判断したのである。だがこれ艦隊はクリフトン・スプレイグ少将に指揮された第77任務群第4群第3集団の護衛空母6隻他からなる小部隊であった。
栗田中将は直ちに砲撃戦を決意、戦艦・重巡による突撃を命令する。『金剛』『榛名』は必死で戦場から離脱しようとする米空母に対して追撃戦を開始。護衛の駆逐艦が空母を守る為に煙幕を展開、その後身を挺して守るように死に物狂いの反撃に転じてくる。艦載機も出撃可能な機体から発艦し、手当たり次第爆撃を開始する。その中を追撃し、スコールに飛び込んだ敵空母が再びスコールから出てくるところに砲撃を開始した。他の重巡部隊と共同して砲撃し、駆逐艦『ホエール』『サミュエル・B・ロバーツ』を撃沈。さらに『金剛』『羽黒』『利根』が護衛空母『ガンビア・ベイ』を撃沈した。
攻撃開始から約2時間、思うほど戦果が上がらず、また広範囲に戦線が散った為、栗田中将は艦隊に一端集結を命じる。そこに艦隊の北方100km地点に米機動部隊発見との報告が南西方面艦隊から入電した。栗田部隊はこれを攻撃した後、再度レイテ湾に突入することとしたが、この米機動部隊発見の報告には色々と謎があり、実際に誰が報告したのかがはっきりとしていない。また100km北方の米機動部隊に戦艦部隊が向かったところで攻撃できるとは通常であれば考えられず、適切な判断を下せないほどの部隊の混乱と疲弊があったとされる。
この判断に基づいた艦隊の反転は今尚『謎の反転』とされ、戦史上の謎とされている。

この海戦で第三戦隊の『金剛』『榛名』は共に損傷はしたものの生き残ることが出来た。だが損傷が激しく、本土に回航して修理を必要とした『金剛』はブルネイに回航後、駆逐艦『浦風』と共に本土に回航された。
昭和19年12月21日、台湾沖を航行中に米潜水艦『シーライオン』の雷撃を受ける。魚雷4本が被雷、サマール沖海戦で被弾した船体各所が耐え切れず、何よりも艦齢30年を越える老朽艦だったこともあり、撃沈された。『金剛』は潜水艦によって撃沈された唯一の戦艦となった。
乗艦していた第三戦隊 鈴木義尾少将も戦死した。

残された『榛名』も本土に回航され修理を受けるが既に燃料もなく、港湾での防空砲台としてしか活用の道は残されていなかった。第一戦隊が残された『大和』を第二艦隊旗艦として戦隊を離れたため『長門』が『金剛』の代わりに第三戦隊に編入された。だが既に燃料もなく、戦隊して、いや戦艦自体に使い道がなくなったこの時期、もはや戦隊を編制する意義もなく、戦死した鈴木少将の後任も決まらないまま昭和20年1月1日、解隊となった。
  
所属艦艇
1941年(昭和16年)12月 開戦時(司令官:三川軍一少将(38期))
比叡(旗艦)   霧島   金剛   榛名    

1942年(昭和17年)7月14日
(司令官:栗田健男少将(38期))
金剛(旗艦) 榛名

1943年(昭和18年)7月22日
(司令官:鈴木義尾少将(40期))
金剛(旗艦) 榛名

1944年(昭和19年)12月15日
(司令官: 欠 員 )
榛名 長門
                                    .

第四戦隊
解説
開戦時には第二艦隊直卒戦隊として南方作戦に従事。
高雄級重巡洋艦4隻からなる戦隊として編制されたが、『鳥海』だけは小沢治三郎少将指揮する南遣艦隊の旗艦としてZ部隊に派遣された。
南方作戦本隊として第二艦隊司令長官近藤信竹中将直卒の下、マレー半島上陸作戦を支援。シンガポールに駐留する英戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』『レパルス』に対応する為に第三戦隊と共にマレー沖を航行したが、すれ違いで交戦には到らず、結果として第十一航空艦隊の陸攻部隊によって英戦艦は撃沈された。(マレー沖海戦
その後の南方作戦ではフィリピン攻略作戦・リンガエン湾上陸作戦支援、蘭印攻略作戦支援に参加する。ジャワ海方面での作戦請行動中に連合国軍の駆逐艦・商船等を撃沈した。
一方南遣艦隊に派遣された『鳥海』は蘭印攻略作戦に参加し、一度修理(暗礁に触れ損傷)の為に占領後のシンガポールに回航した。その後4月から空母機動部隊によるインド洋作戦と同時に実施されたインド洋通商破壊作戦第七戦隊と共に参加、この作戦の米英に与えた影響は非常に大きかった。

南方作戦を終了した第四戦隊の『高雄』『愛宕』『摩耶』の3艦は昭和17年4月17日本土に帰還し横須賀に入港した。だが翌日帝都が米ドーリットル部隊による空襲を受ける。このため緊急出動し、第二艦隊は米機動部隊迎撃・追撃にはいったが、捕捉するすることは出来なかった。

続くミッドウェー作戦において、第四戦隊は支作戦であるアリューシャン攻略作戦に参加した。
ミッドウェー海戦が参加した主力空母4隻全艦を失って失敗に終わると、せめて支作戦であるアリューシャン作戦だけは成功させるべく攻略作戦は続行された。

作戦終了後、全艦隊の再編成が行われる。第四戦隊も改編が行われたが、『鳥海』が新編された外南洋方面担当の第八艦隊旗艦に選ばれ、戦隊を離れた。だが、開戦以来別行動を続けていた『鳥海』が戦隊から外されても、事実上今までと変化は無かったと言える。

米軍のソロモン諸島ガダルカナル島攻略に端を発したソロモンの戦いは全艦隊を巻き込んでいく。第四戦隊も例に漏れず、第二艦隊主力としてソロモンに戦いに参加していくこととなった。
だが、ソロモン諸島は日本海軍にとっても未知の海域であり、正確な海路図も無く、また狭い海域での戦いである為、巡洋艦では行動の制限があった。結果として航空機と駆逐艦を中心とした戦いに終始し、巡洋艦隊に活躍の機会は少なかった。それでも第二次ソロモン海戦南太平洋海戦第三次ソロモン海戦に参加し、特に第三次ソロモン海戦では第十一戦隊と共に米戦艦と砲雷撃戦を展開している。この海戦で損傷した『愛宕』は修理のために本土に回航された。

昭和18年11月、トラック島で待機し続ける第四戦隊以下の巡洋艦部隊に活躍の機会は無く、やっと前線根拠地たるラバウルに前進した翌日、米機動部隊艦載機群に空襲され、『高雄』『愛宕』『摩耶』の3艦共に被弾損傷した。この結果第4戦隊は本土に回航され、特に『摩耶』は開戦によって延期されていた改装工事と、対空兵装の増強工事を行うこととなった。

昭和19年6月、米軍のマリアナ侵攻がほぼ確実視されるようになると、第一機動艦隊前衛部隊(第二艦隊)の一部として『あ号作戦』に参加することとなる。この海戦は日本海軍のほぼ全艦艇を投入し、米機動部隊を迎え撃って決戦を行うことを企図したものであったが、戦い事態は両軍の艦載機部隊による攻撃に終始し、水上艦艇に活躍の機会はなかった。
海戦の結果、正規空部2隻を含む3隻の空母を失い、その艦載機群のほとんど全てを失った日本第一機動艦隊に継戦する能力は無く、当初の艦隊の損害を試みず決戦を行うという方針は変更され後退を余儀なくされた。

あ号作戦』後、第二艦隊を中心とする水上艦艇は一部が本土に回航されたが、その後リンガ泊地に集結。続くフィリピン決戦(捷一号作戦)に戦力をつぎ込むこととなった。この作戦の主役は戦艦であり、巡洋艦他、水上艦隊によるフィリピン・レイテ湾への艦隊殴りこみ作戦であった。
第四戦隊は第二艦隊司令長官 栗田健男中将直卒の戦隊として第一遊撃部隊として作戦に参加。『愛宕』を艦隊旗艦としてレイテを目指した。リンガ泊地を出航後、ブルネイで燃料補給行いパラワン水道に突入する。その後シブヤン海を通過し、サン・ベルナルディノ海峡を突破してレイテ湾を目指す予定であった。
だが、ブルネイを出撃した翌10月23日、出撃を潜水艦の水上レーダーで察知されていた栗田部隊は早朝から潜水艦部隊の雷撃を受ける。『高雄』『愛宕』が被雷する。第二艦隊司令部は『愛宕』から離艦して『大和』を新たな旗艦とする。『愛宕』は復旧の見込み無く沈没し、『高雄』は戦線を離脱、後退を余儀なくされた。またその間に今度は『摩耶』が被雷する。短時間の間に第四戦隊は4隻中3隻が戦列から離れた。残る『鳥海』は単艦で部隊と共に行動し、米機動部隊の空襲を潜り抜ける。
一度は反転した第一遊撃部隊ではあったが、敵の空襲が一端止んだ間に再反転し、再びレイテ湾を目指す。サン・ベルナノディノ海峡を突破することに成功した部隊はサマール沖を南下中に前方に米機動部隊らしき艦影を捉えた。当初ハルゼー大将指揮下の米機動部隊かと思われたが、それは米第7艦隊所属のクリフトン・スプレイグ少将に指揮された第77任務群第4群第3集団であった。
これまでの作戦行動から随伴する駆逐艦の燃料不足を懸念した栗田中将は戦艦・巡洋艦による砲撃戦を決意し、米護衛空母艦隊に突撃を指示した。
『鳥海』も突撃に参加、米護衛空母部隊及び、その護衛の駆逐艦部隊と交戦を開始する。だが護衛空母から発艦した艦載機の攻撃により被弾し、搭載していた魚雷が誘爆した為損傷、戦線を離脱した。その後も艦載機の攻撃を受け大破。駆逐艦『藤波』の雷撃により自沈処分された。

レイテ海戦によって大破した『高雄』はブルネイまで後退し、結果として第四戦隊唯一の生き残りとなった。その後戦隊を維持することは叶わず、昭和19年12月15日、第四戦隊は解隊となり、『高雄』はその後第十方面艦隊附属として編入された。

所属艦艇
1941年(昭和16年)12月 開戦時第二艦隊司令長官近藤信竹中将(35期))
愛宕(旗艦) 摩耶 高雄 鳥海  

1942年(昭和17年)7月14日
第二艦隊司令長官近藤信竹中将(35期))
愛宕(旗艦) 摩耶 高雄

1943年(昭和18年)8月9日
第二艦隊司令長官栗田健男少将(38期))
愛宕(旗艦) 摩耶 高雄

1943年(昭和18年)9月1日
第二艦隊司令長官栗田健男少将(38期))
愛宕(旗艦) 摩耶 高雄 鳥海
                                    .

第五戦隊
解説
太平洋戦争開戦時、第二艦隊に所属し妙高級重巡洋艦3艦で編制された重巡戦隊である。
パラオに進出し、フィリピン(ダバオ・ホロ)攻略戦をはじめ、セレベス島・ジャワ島といった南方資源地帯攻略作戦に従事するが、途中『妙高』が米陸軍航空隊 B−17の爆撃を受け、一時本土に回航され、『那智』『羽黒』の2艦で作戦を続行した。
ジャワ島攻略では陸軍部隊輸送船団の護衛に付き、迎撃に来たABDA艦隊との間でスラバヤ沖海戦が発生。この海戦では多くの問題点が発生したが、第五戦隊『那智』『羽黒』は部隊を率いた戦隊司令官 高木少将の消極的な作戦指揮と、遠大な砲雷撃戦距離による問題点が指摘された。また海戦(主戦)後の掃討作戦では蘭印部隊に派遣されていた『妙高』が『足柄』と共に別働隊を編成し、駆逐艦2隻(『雷』『曙』)と輸送船団を護衛していたが、本隊(第五戦隊)が発見した敵艦隊を捕捉撃滅を目指したが前日までの海戦により残弾不足に陥った為、急遽応援として攻撃を命ぜられた。

スラバヤ沖海戦後の3月10日、『那智』が北方部隊に編入され。第五艦隊旗艦として編成から外される。その後『妙高』『羽黒』の2隻編成で参加したのが珊瑚海海戦であった。
珊瑚海海戦はオーストラリア攻略の足がかりとしニューギニアのポート・モレスビー(MO)攻略を目指したものであったが、作戦全般指揮担当は第四艦隊司令長官井上茂美中将であり、同作戦中主力となるであろう空母部隊(MO機動部隊)を指揮するの、作戦部隊に編入された第五航空戦隊の司令官原 忠一少将ではなく、空母部隊の指揮をとったことのない第五戦隊司令官高木武雄中将(5/1昇進)であった。このMO作戦でも高木武雄中将の指揮ぶりは色々と問題が発生した。だが、一番の問題は空母部隊の指揮をとったことのないものに部隊を任せたことであろう。
この作戦は史上初の空母機動部隊同士の海戦となり、いろいろと問題を多く残したが、この海戦において第五戦隊をはじめ、水上艦艇はまったくと言ってよいほど活躍の機会はなかった。

続くミッドウェー作戦において、第五戦隊は第二艦隊司令長官近藤信竹中将が直卒する攻略部隊本隊に加わって参加した。ミッドウェー海戦において、主力空母4隻を失った機動部隊に合流すべく攻略部隊は戦場を急進。あわせて合流後に夜戦を連合艦隊司令部より命ぜられたが、成功の見込み無しとして戦場を離脱する。この海戦でも水上艦艇に活躍の機会はなかった。

米軍のガダルカナル島上陸から始まったソロモン諸島を巡る日米の戦いは熾烈を極め、多くの艦艇がソロモンの海に沈んだ。第五戦隊もその戦いに投入される。第2次ソロモン海戦、そして南太平洋海戦がそれである。両作戦とも第五戦隊は近藤中将指揮する第二艦隊(前進部隊)の一隊として参加。陸軍のガダルカナル島反攻作戦に呼応しての作戦にて発生した海戦ではあったが、陸軍の作戦は共に失敗。また米機動部隊との戦いにおいては空母機動部隊(第三艦隊)が主役となり、第二艦隊をはじめ水上艦艇には活躍の機会はなかった。
南太平洋海戦は日本機動部隊が米機動部隊相手に勝利を納めた最後の海戦となった。
この海戦の後(昭和17年11月10日)、司令官は交代し第一水雷戦隊から移動してきた大森仙太郎少将が司令官に就任した。

北方方面・アッツ島に対する米軍の侵攻に対し、連合艦隊は東京湾に集結する。だが戦況は思わしくなく、アッツ島が占領された。同方面担当の第五艦隊が急行していたが作戦の目処が立たず、連合艦隊の出撃は中止された。『妙高』『羽黒』はこの後対空兵装・電探の装備を実施し、7月末に連合艦隊旗艦『武蔵』と共に瀬戸内海を出港し、トラック島に再進出した。

昭和18年11月、米軍がブーゲンビル島タロキナに上陸を開始した。海軍は奪回を目指し逆上陸部隊を編成して出撃させた。輸送部隊を支援すべく第五戦隊・第三水雷戦隊第十戦隊からなる3個襲撃隊を編成、米艦隊撃滅を目指して艦隊を出撃させた。
一方米艦隊は進撃してくる日本艦隊を哨戒機が発見し、迎撃の態勢を整える。米艦隊に発見されたことを知った日本艦隊は上陸作戦を中止。直ちに輸送船団は引き返したが、襲撃部隊は敵撃滅の為にエンプレス・オーガスタ湾への突入を命ぜられた。艦隊中央に位置する艦隊総指揮官を命ぜられた大森少将率いる第一襲撃隊(第五戦隊基幹)はタロキナ沖へ進出、米艦隊と同航戦態勢となった。両艦から発進した水偵隊は米艦隊に対して照明弾を投下。まず第三水雷戦隊が交戦した。第五戦隊は照明弾を発射して交戦を開始したが、最初の交戦で旗艦『川内』が大破した第三水雷戦隊には混乱が生じ、駆逐艦『白露』と『五月雨』が接触してしまう。
一方レーダー射撃を実施し、遠距離砲戦に徹した米艦隊によって『羽黒』が被弾。敵に翻弄された第五戦隊もまた混乱し、360度回頭した挙句、やはり混乱して回頭していた第十戦隊と混交し『妙高』が駆逐艦『初風』と衝突してしまう。艦首を失い、大破・航行不能となった『初風』は後に米艦隊によって沈没させられてしまう。
遅ればせながら敵艦隊の陣容を掴んだ大森少将は隊列を立て直し、米艦隊に攻撃を再開する。近距離まで近つづいての砲撃を行ったことにより敵艦隊に対して命中弾が出始めた。米艦隊は再び距離をとるべく煙幕を展開、回頭を始める。
一方敵に対する至近弾により発生した水柱を魚雷命中による敵艦撃沈と判断した大森少将は敵艦隊を撃沈したと判断し、戦闘終了して艦隊を反転させる。
この海戦の結果、軽巡洋艦『川内』、駆逐艦『初風』を失い、2度も衝突事故を起こした上、戦果誤認して引き上げてしまった稚拙な艦隊指揮に対して大森少将を直ちに解任してしまった。

第五戦隊は新司令官に橋本信太郎少将が就任(昭和18年11月25日)し、リンガ泊地に移動する。以後は訓練に従事することとなる。

1944年(昭和19年)2月、米軍はアドミラルティ諸島、マヌス島に侵攻。4月にはホーランジア、アイタペに上陸とニューギニアを侵攻していった。これは米陸軍によるフィリピン攻略ルート(マッカーサー・ライン)であると共に、米海軍による中部太平洋・マリアナ諸島攻略ルート(ニミッツ・ライン)に対する支援作戦でもあった。そして5月、米軍は西部ニューギニアの要衝、ビアク島侵攻を決定し、その前段階で5月18日にワクデ島に上陸した。
5月27日、米軍はビアク島への上陸を開始する。この時点で日本軍はニューギニア侵攻ルートとサイパン侵攻ルート、どちらが本命の侵攻ルートであるのか判断がついていなかった。だがビアク島が陥落した場合、南部フィリピン・東部蘭印・パラオ諸島が空襲圏に晒され、あ号作戦そのものが瓦解する可能性があった。その為西部ニューギニア・ソロンに航空戦力を送り込むのと同時にビアク島への陸軍増援部隊を緊急輸送(逆上陸)することが決定した。
この輸送作戦を『渾作戦』と名づけられ、第五戦隊は警戒部隊の一翼を担って6月2日にダバオを出撃する。だが翌3日に敵哨戒機によって発見され、さらに陸軍の偵察機が米機動部隊を発見したと報告してきた。これにより渾作戦部隊は作戦の中止を決定。ソロンに向かい、陸軍部隊をソロンに揚陸した後、艦隊は退避し、5日にダバオに戻った。
尚、陸軍機の発見した米機動部隊は誤報と判明した。その為増援部隊輸送の再開を決定したが、作戦部隊は高速の駆逐艦だけで編成された部隊となり、第五戦隊に出撃の機会はなかった。だがこの第二次増援豚輸送も米陸軍機及び米水上艦隊との交戦より失敗(作戦中止)となった。
海軍は再度増援輸送を決定。第三次渾作戦が発動された。第五戦隊は攻撃部隊に配属され、6月11日にソロン沖バチャン泊地に入港して作戦に備える。だが同日米機動部隊がマリアナ諸島に来襲した為、13日に作戦中止が決定した。第五戦隊を始め、渾作戦参加部隊はバチャンを出港し、あ号作戦に参加すべく第一機動艦隊に合流すべく進撃を開始。16日午後に合流を果した。
第五戦隊は第一機動艦隊甲部隊(第一航空戦隊基幹)の護衛部隊として任務に就きマリアナ沖海戦を戦うこととなる。作戦自体は失敗となり、第一航空戦隊は主力空母3隻の内、2隻をこの作戦で失い、第一機動艦隊全体でも3隻の空母を失い、残りの空母も損傷を負った。
第五戦隊は『妙高』『羽黒』共に生き残り、機動部隊を護衛して沖縄・中城湾に一旦入港。そのまま直ぐに呉に移動した。

その後6月29日、陸軍部隊を輸送して呉を出港し、マニラ経由で7月12日にシンガポールに進出する。『羽黒』がシンガポールで入渠整備後、リンガ泊地に回航され待機状態となった。
海軍は捷号作戦を決定。フィリピンに決戦を求める捷一号作戦に参加すべく第一遊撃部隊第一部隊(栗田部隊)に編入され、10月20日にブルネイ湾に到着。22日に同泊地を出撃し、フィリピン・レイテ島を目指して進撃を開始した。
10月24日、シブヤン海で米機動部隊の空襲を受けた第一遊撃部隊は『大和』『武蔵』以下各艦が損傷し、『妙高』も魚雷1本を受け、速力が12ノットに低下。この為戦場から離脱した。(29日にブルネイ入港)
一方『羽黒』はこのジブヤン海海戦、そして引き続き行われたサマール沖海戦に参加。米護衛空部部隊(スプレイグ隊)追撃戦を戦い、第四戦隊・第七戦隊の重巡が次々に失われていく中生き残り、他の第一遊撃部隊と共に28日にブルネイ湾に生還することが出来た。(作戦自体は失敗)

10月30日、第五戦隊はブルネイ湾を出港し、シンガポールに回航する。『妙高』の応急修理を行う為である。その後シンガポールで応急修理を施した『妙高』は『羽黒』と共に本土に戻るべくシンガポールを出港するが12月13日にサンジャック沖で米潜水艦『バーゴール』の雷撃を受け損傷(中破)してしまう。『羽黒』に曳航されシンガポールに引き返し再び入港。以後同地の防空砲台として終戦を迎えることとなる。(25日、シンガポール再入港)

その間の12月15日、同日付で解隊された第四戦隊の残存艦『高雄』と、11月21日付けで解隊されていた第七戦隊の残存艦『利根』(11月15日付編入)が第五戦隊に編入された。だが『利根』はこの時点で本土に在り、舞鶴で入渠修理に入るところであった。他に『熊野』が編入されたが、11月25日に戦没している。
1945年(昭和20年)1月1日付けで『利根』は呉練習戦隊に編入。代わって『足柄』が第五戦隊に編入される。
一方、損傷艦である『高雄』『妙高』は1月20日付けで第一南遣艦隊付属に編入された。結果、第五戦隊は『羽黒』『足柄』の2隻体制でシンガポール方面に在ったが、もはや水上艦は戦力としては役に立たない状態であった。

5月6日、第五戦隊は解隊された。だが残された2艦は以後も第十方面艦隊第五戦隊所属として編制表に残されている。
5月、インド洋アンダマン諸島に残存する部隊に対する物資補給と、兵員のマレーへの輸送任務の為に第十方面艦隊は残存する僅かな艦艇の中から『羽黒』『神風』(指揮官:橋本信太郎中将)の2隻を派遣することとした。行動不能の『妙高』『高雄』の2艦から砲弾を譲り受け、また物資を搭載する為に魚雷発射管を撤去した『羽黒』はシンガポールを出港したが、陸軍機の偵察情報により前方に有力な英艦隊が発見された為作戦は中止。部隊はペナンに退避することとなった。だが5月16日、英艦隊駆逐艦部隊に捕捉された『羽黒』『神風』はこれと交戦。『羽黒』は被雷後集中砲撃を受け戦没した。(『神風』は脱出。)
ペナン沖海戦が第二次世界大戦最後の水上艦艇による海戦となった。

6月8日、バタビ緊急輸送作戦に参加した『足柄』は作戦からの帰路、バンカ海峡にて英潜水艦『トレンチャント』の雷撃を受け戦没。
ここに第五戦隊所属艦は全て失われることとなった。
    
所属艦艇

第六戦隊
解説
太平洋戦争開戦時、第一艦隊所属ではあったが、内南洋方面作戦に投入され、グアム攻略作戦支援に参加する。上陸作戦成功後、トラック島に向かい、引き続き(第二次)ウェーキ攻略作戦を支援する。これは開戦時に作戦失敗したウェーク島攻略作戦の第二次作戦であり、真珠湾攻撃から帰投途中の第二航空戦隊、第八戦隊・他と共に増援部隊として派遣されたものである。
本作戦終了後、ルオット島経由でトラック島に戻り、引き続きラバウル攻略作戦の支援部隊として出撃する。
ラバウル攻略後は同地の海上警戒任務に従事することとなる。
1942年(昭和17年)1月25日、『古鷹』『加古』搭載の水上機によるマヌス島ロレンゴウに対し爆撃を実施する。
以後も同方面にあって警戒任務に従事するが、2月に入って米空母部隊がマーシャル方面に来襲(4日)すると、直ちに出撃し同方面に向かうも会敵せず。20日も同様の報により出撃するも敵情を得ず、トラック島に帰投している。
3月、ラエ・サラモア攻略作戦支援に参加、その後ブーゲンビル島攻略作戦に参加する。
4月、ハーミット諸島各島に陸戦隊を揚陸し、トラック島に帰投する。以後、各艦の整備作業を実施。
4月30日、ポートモレスビー攻略作戦に参加する為、トラック島を出撃。MO攻略部隊として空母『祥鳳』、駆逐艦『漣』と共に出撃し、ツラギ攻略部隊を支援する。その後ショートランド島泊地に引き返し、再びポートモレスビー攻略部隊(輸送船団)を支援する為に出撃する。5月5日にショートランド島を出撃した艦隊は翌6日に哨戒任務中のB-17に捕捉、爆撃される。作戦全般指揮をとる井上中将は米空母部隊にMO攻略部隊が発見されたと判断し、部隊に一時北方への退避を命じた。
翌7日、日米双方共に早朝より索敵機を飛ばし、敵空母部隊を捜し求めていた。

6:25 米索敵機が『空母×2隻、重巡×4隻発見』の報を知らせた。米機動部隊指揮官フランク・J・フレッチャー少将はこれまで発見できなかった日本機動部隊であると判断した。
7:26 戦闘機18機、艦爆53機、雷撃機22機からなる攻撃隊を発進させる。

ただし、この索敵機が報じた敵艦隊は『重巡×2隻、駆逐艦×4隻』の誤報であったことが帰還後に判明した。
9:00 米攻撃隊が日本艦隊上空に到着し、艦隊を発見、攻撃を開始する。
そしてこの艦隊こそが、日本側のMO機動部隊(空母部隊)…ではなく、第六戦隊と空母『祥鳳』、駆逐艦『漣』で編成されたMO攻略部隊であった。
米攻撃隊は空母『祥鳳』に攻撃を集中し、第六戦隊各艦も奮戦するも、『祥鳳』は撃沈された。

この航空攻撃で『青葉』が魚雷発射管付近に被弾し、損傷している。

その後MO機動部隊も空母『翔鶴』が被弾損傷すると、作戦指揮を執っていた井上中将によりMO作戦の中止が伝えられる。
第六戦隊からは『古鷹』『加古』の2隻が分離しMO機動部隊と合流、『翔鶴』を援護して戦場を離脱するが、途中『加古』が米潜水艦によって被雷した敷設艦『沖島』の曳航・救難の為に派遣されるが、合流前に『沖島』が沈没。また同海域(クインカロラ湾)にて座礁中の救難船兼曳船『雄島』の救難作業に入り、『雄島』を離礁させる。その後14日に損傷した『青葉』と合流し、16日トラックに帰投した。
一方『古鷹』は12日にMO機動部隊から離れキエタに向い、ショートランドにて補給後キエタにて哨戒任務に着く。これは『衣笠』も同様であり、その後2艦はツラギに向うが途中反転し、17日にトラックに帰投する。同日、先に帰投していた『加古』『青葉』が呉に向かいトラックを出港。呉到着後入渠整備にはいる。
『古鷹』『衣笠』は遅れて31日にトラックを出港し、呉に帰投後入渠整備を実施している。

整備を終えた第六戦隊各艦は順次ソロモン方面に出動する。第一陣として『加古』『青葉』が6月16日に呉を出港、『古鷹』『衣笠』が28日に出港し訓練後トラックに向った。
その後ラバウル方面にて輸送・対潜哨戒任務に従事する。

7月14日、外南洋方面を担当とする第八艦隊(司令長官:三川軍一中将)が新編されると第六戦隊もその指揮下に編入された。
8月7日、突如ツラギ島及びガダルカナル島に米軍(第1海兵師団)上陸、米機動部隊発見の報により第八艦隊に終結命令が下される。各艦はラバウル港外に集結し、一路ガダルカナル島沖合いに集結する米輸送船団攻撃に向け出撃する。第八艦隊は新編後、ただの一度も艦隊が集結・訓練することなく、これが初の出撃となった。

8月7日
14:30 司令長官:三川中将座乗の重巡洋艦『鳥海(艦隊旗艦)』は、第十八戦隊の軽巡洋艦『天龍』『夕張』、駆逐艦『夕凪』を率いてラバウルを出港。
16:05 艦隊はラバウル港外にて第六戦隊各艦と合流。ブカ島北方を経由し、ブーゲンビル島東方海上に向う。
18:00 米潜水艦『S38』が航行する第八艦隊を発見し、報告する。
発見の報を受けた米遠征部隊の内、水陸両用部隊を指揮する指揮官:リッチモンド・ターナー少将は発見した日本艦隊の位置がガダルカナル島から550海里も離れていた為、様子を見る事とした。

8月8日
4:00 第八艦隊はブーゲンビル島東方にて、索敵機×4機を発艦させる。
4:30 第二五航空戦隊(司令官:山田定義少将は索敵機×5機を出撃させるも、米機動部隊を発見出来ず。














23:24 米軽巡洋艦『ヘレナ』がレーダーでサボ島南岸水道から接近する日本艦隊を捕捉、ガダルカナル島に輸送船団を護衛して入泊していたダニエル・キャラガン少将の巡洋艦部隊(キャラガン少将の部隊と、ノーマン・スコット少将の巡洋艦部隊の合同部隊)が迎撃に向かう。
23:30 挺身隊(第十一戦隊)、サボ島南岸を通過。
阿部中将が飛行場砲撃を発令。
23:37 キャラガン少将の部隊が日本艦隊の針路を押さえるべく北上を開始。
所属艦艇
1941年(昭和16年)12月 開戦時(司令官:五藤存知少将(38期))
青葉(旗艦) 衣笠 古鷹 加古  

1942年(昭和17年)11月10日 解隊

第七戦隊
解説
所属艦艇

第八戦隊
解説
所属艦艇

第九戦隊
解説
所属艦艇

第十戦隊
解説
所属艦艇