1945年(昭和20年)の海戦 |
北号作戦[1945/2/10〜2/20] | |||
1945年2月、もはや制空権・制海権なき状況であり、フィリピン近海は完全に連合国軍に制圧され、敵がいつ沖縄に来るか・・・という状況下で行われた強行輸送作戦である。 既に南方航路は壊滅し、ほとんど一切の南方資源が入手できなくなった日本にとって、石油の輸入は重要課題であった。 比島沖海戦で生き残った航空戦艦『伊勢』『日向』は、その艦体後部に設けられた航空機用格納庫を利用して物資輸送用に用いられたのである。日本本土からフィリピン・シンガポール方面に物資を輸送した両艦は、今度は物資を本土に持ち帰る任務を受けた。既に敵潜水艦が跋扈し、爆撃機の行動範囲と成った東シナ海・南シナ海を強行突破するのである。 艦隊は当時シンガポール方面に存在した艦艇が集められた。 航空戦艦『伊勢』『日向』 軽巡洋艦『大淀』 駆逐艦『朝霜』『初霜』『霞』 これらを指揮するのが第4航空戦隊司令官、松田千秋少将である。作戦名は『北号作戦』、部隊名を『完部隊』と名付けられた。この部隊名は『任務を完遂する』という意味から名付けられた部隊名であった。 物資はシンガポールで積み込まれた。主な積載物資は重油・ガソリンであり、格納庫内にドラム缶を大量に積み込んだ。 艦隊は1945年2月10日、シンガポール・セクター軍港を出撃、大陸寄り沿岸地域を北上して日本を目指す。だが早くも11日には米軍哨戒機と捕捉された。13日には米爆撃隊が向かうも、スコールによってこと無きを得たが、直後に潜水艦により雷撃を受ける。だがこれを全弾回避、艦隊は無傷であった。 翌14日にも爆撃機が来襲するも、今回もスコールによって回避出来た。 米軍側は戦艦2隻出撃の意味を計りきれなかった。いったい何のために・・・ 米軍側には昨年10月の比島海戦の記憶があり、戦艦が何処に突入してくるのか予測し切れなかったのである。まさか戦艦を輸送船の代わりにしているとは思いもしなかったのである。 その後20日に艦隊は無傷で呉に帰還し、作戦は終了した。 この艦隊が決死の輸送作戦で持ち帰った物資がどうなったか・・・ 艦隊が運び込んだ重油に関しては全て第2艦隊の戦艦『大和』に移し変えられた。この燃料が4月の大和特攻作戦に使われた燃料の一部となったのである。 |
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坊ノ岬沖海戦[1945/4/7] | |||
ペナン沖海戦[1945/5/16] | |||