用語事典

     
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愛知航空機(旧:愛知時計電気)
1898年(明治31年)に設立された愛知時計電機製造株式会社が1843年(昭和18年)に航空機部門を独立させて愛知航空機となった。
同社は1920年(大正9年)より航空機の生産を開始した。主に海軍機向けの航空機を生産は、主な機体は『99艦爆』『流星改』『晴嵐』、そして空技敞が開発・設計した『彗星』の生産を行う。
  
錨見台
艦首錨付近の舷側に有る小さな張り出し。錨を上げ下げする際に状態を見るためのもので、投錨台ともいう。
    
恩賜の軍刀
西南戦争終了後の1878年(明治11年)に陸軍士官学校第1回卒業式にて、明治天皇から二人の優等生に自ら恩賜の刻印の入った洋式軍刀授与したのが最初である。以後各軍学校の優等生に恩賜品が贈られるようになるが、その時代や学校により様々であった。恩賜品は主に軍刀(長剣・短剣)銀時計である。
原則として陸大・陸士・海大は天皇が直接、それ以外は代理の侍従武官や皇族が出席し手渡した。(陸大・陸士・海大は東京にあった為、天皇が手渡したといわれる)
  
乙航空隊
昭和19年7月10日付けで実施された空地分離制度によって誕生した航空隊。
通常広い地域の名称が付けられ、『関東空』『北東空』『東海空』『東カロリン空』『馬来空』などといった名称を持つ。
特定の飛行隊を持たず、地域の基地設備の提供と管理を主目的とし、特設飛行隊が司令部を伴わずに進出した場合などには指揮を担当する。これにより拡大した戦線において、移動を簡略化し、また他の航空隊との協調作戦を取りやすくした。また例外的に小規模の航空戦力を保有するケースもある。(例:東カロリン空)
だが実情は制度を実施するのが遅く、外地(前線)の取り残された航空隊(特に地上員のみの部隊)を取りまとめるのと、本土防空戦における各地への戦闘機隊派遣。そして沖縄戦における天一号作戦に協力する為に多数の応援部隊を派遣した際の受け入れ先の管理という面が強かった。
(後は本土決戦時における指揮系統が分断された場合の対応用?)
乙航空隊一覧

[余談]
芙蓉部隊が本来の所属である131空から離れて関東空が管理する藤枝基地に移動した際には、本来関東空司令の指揮下で行動する。だが、実際には航空を知らないからと言う理由で航空作戦全般に関しては美濃部少佐の指揮により作戦行動をとっている。芙蓉部隊が第5航空艦隊に援軍として派遣された沖縄航空作戦・菊水作戦では当初芙蓉部隊宛の命令は全て関東空宛で発令されていた。(後に芙蓉部隊宛で発令されるという異例な事態となるが)
   



 
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海軍省
軍政統治機関であり、行政官庁各省の中の一つ。
1872年(明治5年)兵部省から分離独立、長たる海軍大臣は現役の武官から選出される。当初に軍令関係は参謀本部の吸収された為(後に軍令部として独立)、海軍省は軍政関係を管轄する。
海軍大臣は陸軍大臣と共に天皇に直隷し国務大臣の一員として天皇輔弼(ほひつ)の重責に任ずる。そして天皇と共に海軍の軍政を管理し海軍軍人・軍属を統督する。
      
回天      
特攻兵器
大型化した魚雷の中央部に操縦席を設け、小型潜望鏡で目標を捕捉しつつ体当たり攻撃を敢行する帝國海軍の特攻兵器である。
全長15m 全重量約8トン 炸薬量約1.5トン 九三式六一センチ魚雷(酸素魚雷)を基本に、頭部を撤去し後部はそのまま採用。乗員1名の操縦部を中央部に設けて最先端に炸薬を搭載した。約12ノットの速力で80キロ程度の後続距離を有し、如何なる巨艦と言えども轟沈確実と言わしめる破壊力を持つ。
主に潜水艦搭載型の回天が運用されたが、陸上の海岸基地から運用したケースもある。
初出撃は1944年(昭和19年)11月20日未明のウルシー環礁の攻撃である。
編成は『回天特別攻撃隊菊水隊』であり、伊三六潜・伊三七潜・伊四七潜の3隻に搭載された全12隻の回天である。但し伊三七潜は攻撃予定日の直前11月18日に米駆逐艦及び哨戒機によって撃沈されている。20日未明に出撃に成功したのは伊36潜から1基(他の3基は機関故障の為出撃ならず)、伊四七潜の4基であり、相当の戦果を報告したが実際には1隻の撃沈もならなかった。
   
海里(浬)
海面上の長さや航海・航空距離などを表すのに使われる距離を示す単位である。
地球の大円上における1分の長さとして定義されており、その長さは1852mである。(1929年制定。それ以前は1853.184mが用いられていた。)
海里は赤道上における1分の長さであるので、海里は子午線上での緯度の差として表れる。
毎時1海里の速度をノット(単位は『kt』もしくは『kn』)という。
 『  1ノット=1.852km/h』
 『 30ノット=55.56km/h』
 『350ノット=648.2km/h』
   
薫空挺隊
台湾軍遊撃部隊の一部であり、台湾の現地部族『高砂族』で編成されている。
ジャングル戦での遊撃特殊部隊であり、2個中隊編成。特技者以外は全て高砂族で編成した部隊であり、昭和19年11月のレイテ島に対する強行着陸作戦に投入された。
  
滑走制止索
空母に着艦した艦載機が制動索だけでは止まらないときに使用する。両舷の支柱間に2〜3本のワイヤーを甲板から2〜5mの高さに張る。前部及び中部エレベーター後方付近に設置されており、通常は甲板に密着させるように収納している。当時の空母は先に着艦した艦載機は甲板前部に貯めておく為、後続機が着艦に失敗すると前部の収納した機体に突っ込んでしまう為、制止索で強制的に止める必要性があった。
尚、国家によって仕様が異なり、ネットを使う例も有り。
      
川崎航空機
1937年(昭和12年)、川崎造船所(のちに川崎重工業に改称)から分離して川崎航空機工業(株)となる。
太平洋戦争中には主に『2式複座戦闘機・屠龍』『3式戦闘機・飛燕』『99式双発軽爆撃機』『1式貨物輸送機』などを製造した。
陸軍機のみを生産しているが、当初は海軍機向けの機体も試作したが採用されなかった。その為、陸軍御用達メーカーとも言われる。
      
川西航空機
1920年(大正9年)、旧川西財閥が出資していた中島飛行機から技術者を引き抜く形で川西機械製作所に航空機部門を設置、1928年(昭和3年)には独立して川西航空機となる。
『97式大艇』『2式大艇』といった大型飛行艇の生産を行う一方、水上戦闘機『強風』を開発した。この『強風』を陸上戦闘機化したものが『紫電』であり、全面改良された機体が大戦末期の新鋭局地戦闘機『紫電改』であった。
敗戦後は新明和興業株式会社に改称、さらに新明和工業株式会社となって現在の海上自衛隊が運用する飛行艇『US−1』などを製造した。
   
関東軍特殊演習(関特演)
1941年(昭和16年)7月、日本軍は東南アジアへの兵力進出を目的とした『南進』、そして対ソ連戦を目的とした『北進』に対して企画されたのが関東軍特殊演習、いわゆる『関特演』である。
満州に大兵力を動員し、いつでもソ連に攻め込めるよう準備を整えたものである。
 
艦名命名
艦艇の名前は誰が命名するのか?
主用艦艇である戦艦・航空母艦・巡洋艦に関しては海軍大臣が1つの艦に対し2つの艦名案を選ぶ。これを天皇陛下にさしだし、どちらかを決めてもらう方法を採用した。尚、これ以外の艦名に関しては海軍大臣が決定した。
         
艦名命名基準
帝國海軍に所属する艦名には一定の基準があります。下記に艦種別の艦名命名基準を記載します。
戦艦   旧日本国国名
 (武蔵・長門・伊勢etc)
金剛級は山の名前をつけられているが、これは元々が巡洋戦艦として建造されたためである。
巡洋戦艦   山の名前
 (金剛・比叡・榛名・天城・鞍馬etc)
航空母艦   鳥や龍に関係のあるもの。
正規空母は龍や鶴の付く名前。
 (飛龍・翔鶴・龍驤)
 *例外として鳳の字の付いた艦名有り(大鳳)
他の軍艦からの改造艦は鳳の付く名前
 (祥鳳・龍鳳)
商船からの改造艦は鷹のつく名前
 (準鷹・大鷹)
昭和18年から国の名前・山の名前を持つ艦名が追加される。大型艦が国の名前が付くもの、中型艦が山の名前が付くもの
 (天城・葛城)
他に加賀のように建造時の艦種の名前をそのまま利用したりするケース有り(加賀・赤城・信濃・千代田・千歳)
一等巡洋艦
 (重巡)  
山の名前
 (鳥海・羽黒・衣笠etc)
軽巡として建造された艦はそのまま川の名前を使用している(最上・加古)
二等巡洋艦
 (軽巡)
川の名前
 (北上・大井・大淀)
練習巡洋艦 神宮の名前
 (香取・鹿島・香椎)
一等駆逐艦 天象・気象・海洋・季節などに関係の有る名前。
昭和18年からは草や木の名前が追加。
二等駆逐艦 草や木の名前。
大正10年〜大正12年の間は番号で呼ばれていた。(第1駆逐艦・第2駆逐艦)
大正13年〜昭和3年の間は番号で呼ばれていたが『号』が付く。(第1号駆逐艦・第2号駆逐艦)
一等潜水艦 伊号第□□潜水艦と呼ぶ。
(伊号第9潜水艦=イ-9)
二等潜水艦 番号で呼ぶ
500トン以上:呂号潜水艦
500トン未満:波号潜水艦
水上機母艦 古い武勲のあった艦の名前で、抽象名詞・特殊名を用いる
 (千代田・日進・瑞穂)
潜水母艦 特殊な名前で鯨の名の付く名前(大鯨・長鯨・迅鯨)
剣崎は改造前の特務艦名をそのまま使用。後に空母に改造したときに改名している。
敷設艦
 (機雷敷設艦)
島の名前と海峡の名前
敷設艦
 (急設網艦)
鷹の付く名前。
但し空母と混同しやすいため昭和18年に鳥の付く名前に変更
砲艦 名所古蹟の名前
海防艦 島の名前、または番号
輸送艦 番号
一等輸送艦:100番未満
二等輸送艦:101番以上
水雷艇 鳥の名前
敷設艇 鳥の名前又は島の名前
特務艦 岬・海峡・瀬戸の名前
      
義号作戦
空挺部隊を爆撃機、輸送機に搭乗させ、敵飛行場にパラシュート降下または強行着陸させ制圧、または混乱させることを目的とした作戦の総称である。
(1) 薫空挺隊によるレイテ島強行着陸攻撃作戦であり、昭和19年11月26日に決行された。
当時レイテ島にあった飛行場(5箇所)の内、ブラウエン北及び南飛行場に強行着陸した。飛行第二〇八戦隊の輸送機4機が使用されたが、飛行場に強行着陸が確認できたのは僅か1機だけであり、着陸後は現地にあった第二六師団と行動を共にしたらしい。他の3機は消息不明で、同作戦の生き残りは不明。全滅したと思われる。

さらに12月6日に高千穂空挺隊がレイテ島の飛行場5箇所に空挺降下したが、これも全滅したと思われる。ブラウエン飛行場に降下した隊員は第十六師団と合流したとのことだが、同師団はレイテ島の戦いで全滅しており、詳細は不明である。
 
(2) 義烈空挺隊による沖縄強行着陸作戦であり、昭和20年5月24日に結構された。
九七式重爆撃機12機による編成だったが、機体の不調により4機が引き返し、8機が突入し、北飛行場に1機が胴体着陸したことが確認されている。
若干の破壊活動に成功し、空挺隊員の1人が生存し、後日現地の第三二軍司令部に戦果を報告している。
だが、この機を生かして戦果を拡大することは叶わなかった。
 
その他 上記以外に強行着陸して撹乱攻撃を行った作戦として昭和19月11月27日、第1次御盾特別攻撃隊隊員によるサイパン・アスリート飛行場に対しての強行着陸(本来は零戦による片道銃撃作戦であったが、隊長:大村謙次中尉は全弾打ちつくした後に強行着陸して単身突撃したとのことである。

また計画段階で中止されたが、昭和19年10月に第七飛行師団の指揮下でモロタイ島へ第一挺進団をパラシュート降下させ、敵飛行場を征圧しようとしたが、直前になって中止された。代わりに台湾・高砂族による切り込み隊が海路より侵入し、ゲリラ戦を展開した。
尚、当初予定されていた第一挺進団は本来ニューギニアの戦いで第四航空軍の指揮下に在って空挺作戦に投入される予定であったが、使われることがなく、この作戦で使われる予定であった。

他に昭和20年3月20日を目処に義烈空挺隊を硫黄島に強行着陸させる計画があったが、その前に硫黄島守備隊が玉砕した為、計画は中止され、変わりに沖縄戦に使用された。
 
基準排水量
ワシントン条約により艦艇の排水量は全て基準排水量を用いる事となる。これは『工事完成し、乗員を充実し、機関を据えつけ、その上一歳の武器並びに弾薬、艤送品、備品、食料、清水、各種需品、戦時において搭載すべき各種の要具を含める航海準備を完成し、ただ燃料及び予備缶水搭載せざる艦船の排水量をいう』と定義されている。
     
九州飛行機
福岡の渡邊鉄工所の飛行機部門を1943年(昭和18年)に分離独立したものが九州飛行機である。主に海軍機の他社機体の生産が主体であり、『零式小型水上機』『機上作業練習機・白菊』などの生産を行った。
九州飛行機の生産機体として有名なのが唯一の対潜攻撃専門機である『陸上哨戒機・東海』や、空技敞との共同開発であるエンテ翼戦闘機『十八試戦闘機・震電』がある。
  
玉音放送
天皇の肉声を放送する事を言うが、一般的には1945年(昭和20年)8月15日正午に放送された、太平洋戦争敗戦の放送を指す。
御前会議においてポツダム宣言の受諾を決定した為、大東亜戦争終結ノ詔書(通称:終戦の詔書)が発布。これを昭和天皇が肉声によって朗読し録音したものを8月15日正午よりラジオ放送し、国民に対して敗戦、降伏を告げた。
尚、戦争の継続を望む一部軍人達は、この玉音放送の妨害・玉音盤の強奪を狙って8月14日〜15日に奪取計画を実行した。(宮城事件参照)
   
金星62型(発動機)
三菱製空冷発動機。海軍の艦上爆撃機『彗星33型』や、陸軍の『100式司令部偵察機3型』や『5式戦』に搭載された。(陸軍呼称は『ハ112−2』)
1000馬力級発動機のスタンダード版空冷発動機『栄』に比べ。同じ14気筒で直径が100mmほど大きいだけであるが、長年製造してきた実績とし、構造上のゆとりから離昇出力で1500馬力を出すことが出来た。これは液冷発動機『ハ40』の出力向上型『ハ140』と同じ馬力であった。その為『ハ40』『ハ140』の生産遅延・整備問題に苦悶していた陸海軍の『彗星』『3式戦・飛燕』が空冷化を計画した際に選定された発動機であった。
  離昇出力   1500馬力
公称1速 1350馬力
公称2速 1250馬力
その他 水・エタノール噴射装置付

   
近接信管
VT(Variable Time)信管、またはマジックヒューズとも呼ばれ、米軍が対空用砲弾に採用された信管である。砲弾内に真空管を内蔵したこの砲弾は、砲そのものの発射時の衝撃に耐えねばならず、製作が非常に困難だった。
目標に接近したことを検知して作動する為、従来の、そして日本軍が採用していた時限信管方式に比べ格段の性能向上が認められた。
時限信管方式は発射前に時間を設定する必要が有り、砲弾の速度・角度により事前に砲弾が炸裂する距離・高度が限定される。段々高速戦闘化する対航空機戦では僅か数秒でめまぐるしく位置関係が変化する為、時限信管方式はさほど効率がよい方法ではなかった。
その点VT信管を採用した米軍では、事前の高度・距離に関係なく敵機にもっとも近づいた時点で砲弾が炸裂するため、対空戦闘の効率は格段に上がったという。これは戦争末期の日本軍特攻機から艦船を防御するのに非常に効果的だったという。

確かにVT信管は従来の時限信管方式に比べ3倍程度にまで性能が向上したという。だが一説には性能が向上したVT信管を用いても高射砲の命中率は0.6%程度だったとも言う。対空砲による対航空機戦闘そのものは非常に非効率的なものである。
米海軍による日本軍特攻機迎撃の際に驚異的・圧倒的性能をもって貢献したとも言われるが、結局のところ物量による圧倒的戦力差が大きかったともいえる。
    
空戦フラップ
(後日記載予定)
      
空対空爆弾
航空機が空中投下することによって敵機撃墜を目指した兵器
海軍用の三号爆弾、陸軍用のト弾が存在したが有効な兵器とは言えなかった。
   
空地分離制度
海軍航空隊が昭和19年7月10日付けで実施された制度であり、特設飛行隊を持つナンバー航空隊(甲航空隊)と、通常飛行隊を持たず基地の提供と管理、そして航空隊司令部を持たずに進出した飛行隊を臨時指揮する乙航空隊とに分離する制度。
  
軍艦とは・・・
一般的には海軍で使用している艦船だけを軍艦と呼び、艦種に菊花紋章を付けている艦だけを指す。その為駆逐艦は軍艦とは呼ばないとされている。
だが、駆逐艦も軍艦籍に入っていた時代も存在します。
開戦時には戦艦・航空母艦・巡洋艦・水上機母艦・潜水母艦・敷設艦・練習戦艦・練習巡洋艦・海防艦・砲艦が含まれていたが、海防艦は1942年(昭和17年)に艦種変更により軍艦籍から外れました。1944年(昭和19年)には砲艦も除かれます。
また開戦前の昭和6年までは巡洋戦艦も含まれていましたが、金剛級の艦種変更(巡洋戦艦→戦艦)に伴い同種の艦艇が廃止された為除かれました。
他に明治期には水雷母艦・通報艦という艦種が軍艦籍に存在しました。
さらに海軍が正式に保有しているものを艦船、民間から借入れている艦を特設艦船と分類します。

以下は終戦時の艦船分類です。
艦船(海軍保有)
艦艇 軍艦 戦艦
航空母艦
巡洋艦
水上機母艦
潜水母艦
敷設艦
練習戦艦
練習巡洋艦
駆逐艦
潜水艦
砲艦
海防艦
輸送艦
水雷艇
掃海艇
駆潜艇
敷設艇
哨戒艇
特務艦 工作艦
運送艦  給油艦
給炭艦
給炭油艦
給兵艦
給糧艦
雑用艦
砕氷艦
測量艦
標的艦
練習特務艦
特務艇 敷設特務艇
哨戒特務艇
駆潜特務艇
掃海特務艇
海防艇
電纜敷設艇
魚雷艇
雑役船 救難船兼曳船
曳船兼交通船
曳船
交通船
交通船(砲艇型)
飛行機救難船
曳船(敷設艇型)
曳船(駆潜艇型)
内火艇
内火艇(砲艇型)
輸送船
特型運貨船
飛行機運搬船
魚雷運搬船
水船
重油船
軽質油船
潤滑油船
起重機船
浮ドック
工作船
動力船
浚渫船
岩砕船
標的船
測量船
測量艇
消火艇
魚雷追跡艇
雷艇
海洋観測船
測量船兼海洋観測船
交通船兼海洋観測船
練習船
潜水作業船
その他
特設艦船(民間保有)
特設軍艦 特設水上機母艦
特設航空機母艦
特設航空機運搬艦
特設巡洋艦
特設敷設艦
特設急設網艦
特設水雷母艦
特設潜水母艦
特設掃海母艦
特設砲艦
特設特務艇  特設捕獲網艇
特設防潜網艇
特設敷設艇
特設駆潜艇
特設掃海艇
特設監視艇
特設特務艦船  特設工作艦
特設港務艇
特設測量艇
特設電纜敷設艇
特設病院船
特設救難船
特設運送艦 給兵
給水
給油
雑用
特設運送船 給兵
給水
給油
給糧
給炭
給炭油
雑用
       
軍令部
日本海軍の中央統括機関(海軍省と共同で行う)。
明治期に日本軍が創設されたときは陸軍が主体であり、天皇を補佐する機関として参謀本部が設立、その下に参謀本部海軍部として設置されたのが始まりである。
1893年(明治26年)に海軍軍令部となり独立、1933年(昭和8年)に軍令部となる
軍令部総長(創設当時は軍令部長)には海軍大将又は中将が任命され、総長を補佐する役職として次長が存在する。
主に作戦立案・用兵の運用を行い、作戦目標を立案する。軍令を出せるのは軍令部のみである。
    
高オクタン価燃料
航空燃料は海軍が95オクタン価、陸軍が87オクタン価の燃料を使用する。オクタン価は燃料が発動機内でノッキング(燃料の異常燃焼)の起こしにくさを示す数値であり、数値が高いほどノッキングが起こりにくい。それ故燃えやすさ・燃焼カロリーの高低差が有るわけではない。
海軍と陸軍で使用する燃料オクタン価が違うのは海軍が高オクタン価(ハイオク)燃料の精製方法を陸軍に教えなかった為である。(一説には陸軍は荒れた大陸での運用を考慮したためオクタン価の低い燃料を云々・・・という説もあるが何がなんだか・・・真意は不明)
オクタン価の数値は0〜100で示される。よって最高が100となるのだが、稀に100以上の数値をもつ高オクタン価燃料が存在する。これは耐ノック性が100以上の場合、出力価を用いられる為である。(オクタン価と出力価のスケールは同一であり、出力価は一般的に航空機用燃料に使用される。)
米軍の『130オクタン価ガソリン』という表記は当時の米軍が使用していた『パフォーマンス価』という表示法である。『グレード100/130』というものであり、当時標準使用されていたものである。『130オクタン』というものは存在せず、間違って伝えられたものとされている。
戦後の話として米軍に接収された日本機が米軍の130オクタン燃料を使用したところ、速度が日本軍が計測した以上の数値をしめしたという例がある(『彩雲』や『疾風』等)。この際に使われた燃料は上記の燃料を使ったものである。
また日本と欧米各国では速度の計測方法に若干の違いがあることも考慮する必要が有る。
        
航空機メーカー
当時の日本航空機メーカー(一部)
 三菱重工業
 中島飛行機
 川崎航空機
 愛知時計電気(昭和18年2月、愛知航空機と改称)
 川西航空機
 九州飛行機
 立川飛行機

他に発動機製造メーカーとして以下の企業が存在する。
 石川島航空工業
 日立航空機(昭和14年に東京瓦斯電気から改称)
 日本国際航空工業
     
皇道派
陸軍に於ける派閥の一つ。命名は当時の新聞記者たちによる。
陸軍の指導者的立場にあった荒木貞夫中将が日本軍を『皇軍』と呼んだことが始まりであり、陸軍大臣(犬養内閣)当時、十月事件の首謀者を中央から左遷させ遠ざけたことにより陸軍の中堅将校達から反発を招いた。結果、荒木に近い者達が中枢に残り、反する者が排除された為、陸軍中枢で二派に分かれた対立が起こることになる。このとき荒木に近い者たちが『皇道派』と呼ばれるようになり、また排除された者たちが、永田鉄山や東条英機を中心とした『統制派』と呼ばれるグループへとなっていく。
皇道派は大陸での拡大を無用とし、満州の工業化を行えば、共産主義に対する充分な対抗となると確信していた。
また日露戦争当時の状態を理想とし、当時の状態に戻すことが軍の強化に繋がると考え、そして対ソ戦を早く決行できると考えた。そして天皇親政を実現すべしとの思想があった。一方で国家改造の為には直接的な行動も辞せなかった。それが2.26事件へと繋がっていく。
だが2.26事件の失敗は皇道派にとって致命傷となり、その多くは予備役へと追いやられることになる。また統制派の実施した軍部大臣現役武官制の復活により、皇道派からの陸軍大臣擁立が不可能となった。これにより統制派は政治力が増え、皇道派vs統制派の対立は統制派の勝利となった。
    
甲標的
特殊潜航艇である。
開戦時に真珠湾奇襲攻撃時に5隻運用されたのが有名ではあるが、その時は機密性の高さから特殊潜航艇という名称さえ機密扱いとされ、『特型格納筒』の名称で呼ばれた。
全長24m 重量46トン 乗員2名 兵装四五センチ魚雷発射管2基 電池推進による小型潜水艇であり、元々は母艦『千代田』『日進』等に搭載されて戦艦同士の艦隊決戦前面に展開、多数により敵主力艦に奇襲するという着想の元に建造された。
真珠湾作戦に投入された甲標的は全部で5隻であったが、全艇が未帰還となった。乗員10名の内戦死者9名は軍神として祭られたが、伊二四潜から出撃した酒巻和男少尉だけは捕虜となった。これが日米戦における捕虜第1号である。
       
蛟龍
特殊潜航艇の改良型 甲標的丁型である。
全長26.2m 重量約60トン 乗員5名 兵装四五センチ魚雷発射管2基 敗戦間際の本土決戦における海軍の沿岸水際防衛の主戦力となることを期待され各要所に配備された小型潜航艇である。開戦時の甲標的に比べれば相当進歩したものであったが、この頃には通用するようなものではなかった。
   



    
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参謀
上官を補佐する参謀職としては以下のような参謀が存在した。
以下は海軍の場合。
参謀長   作戦全般に渡り司令長官の補佐
艦隊機関長   艦船の機関、航空機の機隊や発動機の整備、燃料等に関しての司令長官の補佐
作戦参謀 作戦全般に渡り参謀長の補佐
航空参謀 主として航空機の行動に関することを分担
整備参謀 主として航空機、燃料、爆弾、機関銃弾の整備補給に関することを分担
通信参謀 通信や暗号に関する事を分担
砲術参謀 対空射撃、基地の防衛に関することを分担
機関参謀 軍艦の機関や燃料、需品等を分担
   
射撃用電波探信儀
1941年(昭和16年)秋から開発の開始された海軍の邀撃レーダー。(陸軍は1942年(昭和17年)初めから開発開始)
従来の電波探信儀を一歩進めて、高角砲(高射砲)や照空灯と組み合わせて使うことを前提とし、侵入機の方位・高度・距離・速度を正確に測定する為のレーダーとして開発。
正確なデータ入手を目的とするため捜索レーダーよりも高い精度を要求された結果。発射電波の幅を狭くした高感度方式を採用したが、試作段階では良好な結果を得られなかった。
開戦後まもなくシンガポール・フィリピンで捕獲した英米のレーダーを参考にし、実用第1号が完成・配備されたのは1943年(昭和18年)8月であった。
実用第1号は四号一型射撃用電探、対編隊有効距離40キロ 測距離精度±100m 測角度精度±1〜1.5度 数値的にはまずまずの性能であったが、実際には故障の多いレーダーであった。
対水上艦船用射撃レーダーの場合、波長の短い10センチ前後のマイクロ波を使用するタイプの開発が必要(波長の長いメートル波は海面の乱反射を受けやすい為)だが、比較的早期に開発に着手していた為、試作レーダー二号二型射撃電探は戦艦『日向』に搭載されミッドウェー海戦に酸化している。
だがやはり故障が多く、安定度の高い電探は1944年(昭和19年)3月頃まで待たねばならない。
    
遮風板
航空母艦の甲板、前部エレベーターの前方、あるいは前方と後方の両方に設置されている風除けの板。通常は飛行甲板に埋め込まれるように倒されて収納してある。
    
真珠湾九軍神
(後日記載予定)
  
制動索
アレスティング・ワイヤー
横索とも言う。航空母艦の飛行甲板に横に張られたワイヤーのことであり、艦載機が着艦する際にこのワイヤーに着艦フックを引掛けて着艦する。
通常8〜12本程度のワイヤーを張り、使用しないときは甲板に密着させるようにして収納している。使用時には甲板から10〜15センチほど持ち上げて使用。
       
絶対国防圏
1943年(昭和18年)8月に決定された国防上の絶対死守防衛線構想を指す。
敗色の濃いソロモン方面の戦闘が昭和18年2月のガダルカナル島撤退以降、急速に日本軍不利に傾き、夏以降米軍の本格的反攻が開始される。4月に大本営は守勢色が濃いが、本来の中部太平洋迎撃戦構想に立ちかえった第3段階作戦に以降する。ただし、それまでの消耗戦故に手持ちの戦力の殆どを使いきり、最小限の戦力さえも思うに任せない状態であったため、現状の戦力のみでニューギニア・ソロモンを含む南方戦線を耐え、その間に敵の反攻に対応しきるだけの新たなる戦力、戦局と作戦を用意する方針を固めた。
この現状に照らし合わせ戦線の縮小とその準備が整うまでの間、一歩も敵を踏み入れさせない強力な布陣の構築をするとされた。そのギリギリの確保区域としたのが、千島列島〜小笠原諸島〜内南洋中西部(マリアナ・東カロリン諸島・西カロリン諸島)〜西部ニューギニア〜小スンダ列島〜ジャワ〜スマトラ〜ビルマ のラインであり、これを『絶対国防圏』と称した。
このラインの設定には遠大な後続距離を有すると言われているB−29の基地設営を防ぐという意味合いも含まれていたが、肝心のB−29の性能推定が進んでいない為、徹底さを欠く結果となった。
また海軍は絶対国防圏構想着手後も防備の為の兵力を外郭部である東部ニューギニアの一連の戦闘に投入した為、国防圏内の陣地構築は遅々として進まなかった。
絶対国防圏構想は結果として絵に描いた餅以外の何者でもなかったのである。
      
戦闘機構想
陸軍   軽戦闘機 敵戦闘機と戦い、制空権を確保
重戦闘機 敵爆撃機を迎撃、また近距離出撃の見方爆撃機を援護
遠距離戦闘機  味方爆撃機と共に敵地深くへ侵攻し飛行場攻撃を行う
海軍  艦上戦闘機 主に空母から作戦し、敵戦闘機と戦闘
局地戦闘機 陸上基地に展開し、基地・要地上空を敵爆撃機から守る
遠距離戦闘機   陸上基地に展開し、陸上攻撃機を援護して遠く敵基地に侵攻
上記のような分類によって分けられて開発・生産を行ったが、各機種の定義は時代により変更される。開戦時と敗戦間際とでは機種の分類にも差が現れる。
また夜間戦闘機に関しては陸軍・海軍共に規定は存在していなかった。
海軍はその後1943年(昭和18年)4月になって試作機の整理を進めると同時に戦闘機の機種を改めている。
海軍   甲戦   基地又は空母から作戦し、敵戦闘機を撃墜し制空権を確保。
乙戦 基地から作戦し、速度・上昇力・重武装で敵爆撃機を撃墜する。
丙戦 基地から作戦し、夜間の局地防空と中距離哨戒を行う。
上記のように開戦時に比べ甲・乙戦は名称が変更になった程度だが、丙戦(夜間戦闘機)が加わっている。これは防空が主体となった戦局の変化を表している。
さらに陸軍も昭和18年夏になって名称変更が行われた。
陸軍   近距離戦闘機   行動半径500キロ 高度10000m以下の空戦で敵戦闘機を撃墜する任務機。
防空戦闘機  速度・上昇力・重武装を備えた対爆撃機用の戦闘機。
夜間戦闘機 操縦が容易で、重武装の夜間戦闘機
高高度戦闘機   高度10000m以上でも敵戦闘機・爆撃機と戦闘可能な戦闘機。
遠距離戦闘機   行動半径1000キロ以上で、敵戦闘機と戦闘可能な戦闘機
以上5機種である。ただし、防空任務機が2機種も含まれている事、5機種では試作・生産が混乱するのが明白とのことで年末には3機種に整理されることとなる。
陸軍   防空戦闘機を兼ねる近距離戦闘機
高高度戦闘機
遠距離戦闘機を兼ねる夜間戦闘機
この時点で陸軍航空隊の運動性至上主義は完全に影を潜める事となる。小口径機銃は一掃され、20〜30ミリクラスの機関砲重視の機種中心となった。
     
創氏改名
朝鮮半島にて1940年(昭和15年)2月11日より行われた『氏設定届』であり、『創氏改名』は『創氏(強制政策)』と『改名(任意制)』の2つの政策であった。
『創氏』は『設定創氏』と『法定創氏』の2通りがある。
『設定創氏』は政策が開始された1940年(昭和15年)2月11日より6ヶ月間の間に『氏』を届け出ることにより自由に『氏』をつける事が出来た。
『法定創氏』は期間内に届出が出なかった場合、家長の姓(朝鮮風であれ日本内地風であれ、その時点での姓)を『氏』として採用するものである。この際に日本風の『氏』を名乗ることも認められた。
期間内に約80%が『設定創始』を行い、残りは『法定創氏』となった。
『改名(公用名を従来の姓名から日本式の氏名に変更すること)』は任意であり、その際には手数料が必要であった。
本政策の目的は、日本内地での戸籍法が適用されていなかった朝鮮の戸籍を日本内地のものに近いものにする為であった。
  
【補足】    元々朝鮮では合併前まで公式な戸籍制度が存在していなかった。また元々朝鮮は親族集団であり、宋と呼ばれる祖先祭祀を中心とした男系血統集団である。この男性系統を表示する『姓』と、一族の始祖の発祥名を示す『本貫』を称号としていた。
朝鮮人の本来の名前は朝鮮読みだったものに漢字をあてたものである。新羅の時代、手柄のあった者が中国の姓を賜り、金や李など支那式の姓が増えていく。だがそれは上流階級の人たちだけであり、下層階級の人たちには姓がなかった。
さらに過去の戦争・内乱等により戸籍が失われるたびに、階級の低い人々、姓を持たない下級階級の人々が階級の高い姓『金』『李』等を勝手に名乗ることが多数あったという。この為朝鮮での『姓』は比較的同じ『姓』に偏ってしまったという状況もあった。

朝鮮は、父系血縁による家族制度である。これは儒教の考えによるものであり、祭祀を行えるのは父系血縁の直系男子のみだからである。それゆえ朝鮮半島や中国・台湾では、結婚しても女性は改姓しない。
一方、日本(その他欧米諸国)では、結婚すると男女のどちらかが『姓』を変えて夫婦で『氏』を統一する。

1909年(明治42年)、大韓帝国(李氏朝鮮・当時は日本の保護国)は、翌年の日韓合併を控え、日本の指導に基づき民籍法を制定、近代的戸籍の整備を開始した。
だがそれは朝鮮の慣習と衝突しない事にも留意したため、整備が終了したのは併合直前の1910年4月であった。
その際に一部の朝鮮人が従来の『姓』ではなく、日本内地風の『姓名』で届け出る事件が発生し、混乱が生じた。この為、朝鮮総督府は1911年(明治44年)11月11日、総督府令第124号『朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件』などの通牒によって、『内地人ニ紛ハシキ姓名』を許可しないこととし、出生届を出す際に厳しい制限が付けられた。(既に内地風の名前で民籍に登録した朝鮮人には元の名前に戻す措置がとられた。)

1922年(大正11年)、朝鮮総督府令第154号による朝鮮の慣習家族法に基づく朝鮮戸籍令が行われ、戸籍の別途編成が行われる。これは日本統治下の朝鮮においても、朝鮮人は日本内地に適用される戸籍法の適用を受けないとするものであった。
そしてこれを、日本内地の同様にしようとしたものが『創氏改名』政策である。

この政策に関しては諸説ある。
(1) 朝鮮本来の家族制度による姓を名乗り続けることによって、近代化の障害になることが、懸念されたためであるという説。
(2) 植民地支配としての、皇民化政策の一環として朝鮮固有の伝統の破壊を図ったのだという説
(3) 国内外において、日本内地人とは別の国民・民族として区別され差別を受けていた朝鮮人の要望に基づくものだという説
・・・等である。
実際、、朝鮮人からの要望としては満州に移住した人々から出されたもので、朝鮮が歴史的に中国の属国の位置にあったことから、中国人から朝鮮人が不当な扱いを受けることが多く『我々も日本国籍を持つ以上、日本名を名乗らせて欲しい』という要請が、総督府にたびたび寄せられていたという事実もある。

1940年2月11日から8月10日までの半年間に『氏設定届』として届出された『設定創氏』で、届出の無かったものについては『法定創氏』である。『家長の姓』を『氏』として採用し、併せて『内地風の氏』を名乗ることも認めた。(『内地風の氏』に合うように改名も許可されたが、改名は任意。また余談ではあるが、従来の朝鮮法では禁止されていた婿養子制度も導入された。)
これにより日本の家(同一戸籍の家族集団)制度を持ち込み、その称号である『氏』を新たに創設し、公用名を従来の姓名から日本式の氏名に変更させたのが『創氏改名』であった。

また『設定創氏』届出期間である半年のうちに、届け率は80%に達した。これは当初任意による届出制であったが、4月の道知事会議で『きたる7月20日迄に全戸数の氏届出を完了する様特段の配慮相成りたし』等の訓示があり『実質強制』と判断され、4月を境に『設定創氏』戸数の割合が急上昇した。だがこの『実質強制』も地域によってまちまちであった。地方機関の行政的な強要もあれば、末端吏員が点数稼ぎに暴走したとの説もある。朝鮮総督府全体の意思であったともとれるが、自発的に創氏したものも決して少なくはない。なお朝鮮半島在住の朝鮮人で改名した者の割合よりも日本内地や満州に在住していた朝鮮人が『設定創氏』をした者の割合の方が遥かに多かったともいう。

尚、法定創氏で改名することなく朝鮮名のまま議員・軍人となった者もいる。
貴族院議員:韓相龍・李埼鎔
衆議院議員:朴春琴
陸軍軍人:洪思翊(中将)・白洪錫(少将)

ちなみに・・・何故このようなことになったかというと、日本側で統治する際に日本風のマトモな戸籍が無かったからに過ぎない。
同じ村に同名の者が複数いる社会では戸籍制度が維持出来ないからからある意味当然の措置ともいえる。日本でも士農工商が解消された時に『氏を名乗る』事を許され、農民たちが全員自由に『氏』をつけた様に、朝鮮でも同じ対応を行なっただけに過ぎないのである。
当然朝鮮だけでなく、台湾でも同様の措置が取られている。




      
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大政翼賛会
(詳細は後日記載予定)
   
大日本言論報国会
1942年(昭和17年)12月23日設立。
内閣情報局の下に設立され、大東亜戦争遂行の為の言論統制を目的とした団体。
戦争に協力的とされた評論家が会員として選ばれ、内閣情報局と軍部の庇護下で新聞や雑誌で戦争遂行を謳った。
また『思想戦大学』を開催する。
     
大本営
1893年(明治26年)に制定。戦時中のみ設置される天皇直属の最高統帥機関である。のちに改正され戦時中のみならず、事変でも設置可能となる。
大本営会議の構成メンバーは陸軍・参謀本部、海軍・軍令部、陸海両大臣であり、大本営命令(天皇の命令として大陸令・大海令を)を発令できる。これにより大本営は軍の最高司令部としての能力を持つこととなる。
  
大陸打通作戦
1943年(昭和18年)初めに陸軍によって計画された作戦。
主な目的としては以下の3点に主眼が置かれていた。
(1)  中国大陸を縦断する鉄道網を確保して南方軍の管轄域と結び、危なくなった海路に代わる物資輸送・連絡手段の確保。
(2) 中国軍の撃破と重慶の国民政府に対する牽制。
(3) 中国南西部の米軍航空基地の占領と制圧。
これは陸軍が太平洋戦争開始以来の大規模作戦であり、陸軍本来の戦闘が出来ると大いに乗り気で計画された作戦であった。
計画は1943年(昭和18年)12月に大本営に提出、直ちに兵棋演習が行われた。これは『虎号兵棋』と呼ばれる演習であり、昭和19年〜21年における陸軍全体の作戦を研究・検討する図上演習であった。
本作戦は1号作戦と命名・準備される事となる。但し見通しの甘さから上記3目標に重点がおかれ、本土空襲に対する配慮は足りなかった。
1944年(昭和19年)1月、首相・軍需相・陸軍大臣を兼任する東條英機大将に作戦の説明が行われた。東條は1号作戦の目的が多岐に渡っている点に納得せず、当面の目的であるB−29の進出予想飛行場制圧を目的とした中国南西部の米航空軍基地の占領・破壊の1本に絞るように要望した。陸上部隊による積極防空作戦である。本来陸軍大臣に作戦内容を決定する権限は無いが、参謀本部ではこれを認め目的の変更を行った。
大本営の1号作戦下令に伴い支那派遣軍では計画の立案に着手したが、作戦計画は前記の大陸打通の色が濃く残された。
元々絶対国防圏構想を元に計画された作戦ではあったが、昭和18年末から19年にかけて、マーシャル諸島・東カロリン諸島トラック・中部太平洋マリアナ諸島と立て続けに米機動部隊の空襲を受け早くも絶対国防圏構想はほころびを見せていた。
この一連の機動空襲の結果は陸海軍の参謀総長・軍令部総長の更迭を引き起こす。結果統帥権強化の立場から陸海軍大臣がそれぞれ兼任する事となった。支那派遣軍が1号作戦の計画大綱を参謀総長を兼ねることとなった東條英機大将に上申したのは昭和19年3月20日のことであった。
未だ大陸打通の色が濃く残る1号作戦に中国大陸の米航空軍基地覆滅だけに的を絞るように厳命、さらに西安方面の飛行場制圧を指示、さらに西安攻略を重ねて指示した。だが参加兵力50万人、連続侵攻距離1400キロという大規模作戦の開始は翌月に迫っており、再び計画を練り直すだけの時間は無かった。結果東條大将承認の形となり、ほぼ当初の計画のまま作戦は開始された。
結果からすると1号作戦は失敗であった。
B−29が中国大陸の奥地、成都に進出した際、そこは日本軍にとってまったく手が出せない程の遠隔地であった。せめて早期に西安を攻略していれば西安〜成都間での航空攻勢は可能と判断されたのだが。
既に作戦の意味は無くなったとして1号作戦は中止せよとの声も上がったのは当然の事であった。しかしも作戦そのものは順調であり、また大陸打通の思想はなおも中央にも現地軍にも根強く残っており中止には至らなかった。なによりこの後のサイパン陥落で東條内閣が倒れたのである。
その後も続けられた1号作戦は1945年(昭和20年)1月に大陸打通を完成、国民政府軍を追い詰めるも、西安攻略は行われなかった。もっとも行われたとしても既にB−29の作戦地はサイパンを初めとするマリアナ諸島に移っており、陸軍による唯一積極的な防空任務という見地からすればまったく意味を成さない結果となったのである。
     
立川飛行機
1924年(大正13年)石川島造船所・他の出資により創設された石川島飛行機製作所を前身とする飛行機メーカー。主に初等練習機『赤とんぼ』などの生産に従事していた。1936年(昭和11年) 陸軍の意向により立川飛行機と改称した。
他にもロッキードの輸送機14Lのライセンス生産や、長距離試験機A−26(キ77)の生産を行う一方、中島飛行機の陸軍戦闘機『1式戦・隼』などの生産も行った。

敗戦後、立川飛行機の元従業員たちが立ち上げた会社『東京電気自動車(のちに『たま電気自動車』に改名)』が後にプリンス自動車となる。
       
直上方攻撃
局地戦闘機・迎撃戦闘機による敵爆撃機攻撃方法の1つ。
約45度の降下角で突入を開始、背面飛行から垂直降下に入り、敵機の操縦席、主翼付根を射撃して60〜70度で下方につき抜ける攻撃方法。
敵から見える面積が小さく、高速で突き抜ける為、被弾の可能性が薄い。反面降下角が60度を超えると殆ど垂直降下に近い感覚の為、機を引き起こす時の強いGで血液が下がってブラックアウト現象に陥り易くなる。
   
転進
ガダルカナル島で大敗北を喫した日本軍は、『退却』を『転進』と発表した。
発案者は陸軍省軍務局長 佐藤賢了と第2部長 有末精三である。
勝てば有頂天、負ければ悄然とする日本民族の国民性を見抜き、士気を高める為に発案した新造語だったと言われるが、この大本営発表後、次々と伝えられる敗北・撤退に事実を公表する機を失い、あのような嘘だらけの大本営発表を続けることとなる。
  
電波警戒機甲
1940年(昭和15年)に陸軍技術本部が試作品を完成させた初期の対空レーダーである。正確には目標までの距離は判別できないが当時としては一応の実用性はあったとして採用された。
出力の大きさにより大小4タイプが存在し、最大400ワットの出力のものが350キロ、最小10ワットのものが80キロの警戒線の長さを誇る。
ドップラー効果を応用した警戒機であり、送信所・受信所間に流された電波に航空機が横切るか、近づいた時に反応するシステム。当初テストを兼ねて大陸に配置されたが、敵の位置は確認出来ず、距離も不明。取扱も不便で使用地が限定されるなどの欠点を多く有していた。
海軍では同様のシステムは不適切と判断され、試作止りであった。
陸軍は1942年(昭和17年)春より本格的に設置し、その年の内に本土・朝鮮・台湾に約70組を設置した。
   
電波警戒機乙
志向性アンテナとパルスを応用したタイプの対空レーダーである。
1939年(昭和14年)頃から基礎研究に入り、1941年(昭和16年)2月に駐英武官より英国のレーダー開発情報が、4月頃には独伊派遣団からドイツのレーダー技術がもたらされて開発が大きく前進した。10月に試作機2機が完成し、1942年(昭和17年)6月に銚子に第1号機が設置された。
本機は要地用の対空捜索(警戒)レーダーであり、メートル波を使用するタイプである。最大有効距離300キロで目標編隊の大小と距離を探知でき(単機飛行の機体だと捜索距離は半分以下)、一応の実用性はあった。だが、方位はおおよその方位しか判別できず、高度は判別不可能であった。
本機はまず油田地帯防衛用として1943年(昭和18年)1月にスマトラ島バレンバンに設置された後、順次本土(但し東部軍から)に配備される。
同様のシステムは海軍では『1号1型電波探信儀』
      
電波警戒機タキ1号

陸軍が開発した航空機搭載用の小型警戒レーダーである。
試作品の完成は1943年(昭和18年)3月であり、重爆搭載用として完成した。本機は対艦船捜索用であり、重量150キロとやや重い。 波長1.5メートルで最大有効距離は大型艦船で約100キロ 浮上潜水艦で20キロ程度であった。
      
電波警戒機タキ2号
電波警戒機タキ1号の発展型として機載用邀撃レーダーとして開発。
発見した敵機に対する射撃データを供給するのが目的であり、現在のFCS(火器管制装置)のハシリである。1943年(昭和18年)4月から開発に着手したが、完成は敗戦間際であった。極一部の夜間戦闘機に搭載され本土防空戦に使用。
    
統制派
陸軍内部の派閥の一つ。
10月革命で左遷させられた陸軍中堅将校達を中心とし、永田鉄山や東条英機といった人たちを中心に据えた派閥である。
日本が満州を手に入れるだけでは不十分と考え、対ソ戦に備え、中国そのものを支配することによって安全を得られると考えた。
また天皇親政・財閥規制を目指して直接的な行動を行う皇道派に対して、陸軍大臣を通して政治上の要望を実現していくという合法的な考えで列強に対抗しうる国家建設を目指した一派である。
10月革命で皇道派に左遷されたが、皇道派による2.26事件が失敗し鎮圧されると代わって統制派が台頭する。この際、皇道派は予備役へと追いやられ、また皇道派が陸軍大臣になることを阻止すべく、軍部大臣現役武官制を復活させた。これにより皇道派き駆逐され、統制派の勝利となった。後にこの制度を利用して軍部に非協力的な内閣を倒閣する為の手段として用い、陸軍の政治的発言が増すようになっていった。その終着点が東条内閣の誕生とも言えた。
    
特別根拠地隊
海軍特別根拠地隊令によって編成され、作戦地その他所要の地に設置された。
司令官以下軍艦に類似の司令部編成とし、副長・科長・分隊長を、また必要に応じて参謀が配置される。
  
特設根拠地隊
特設艦船部隊令によって編制される。
前進根拠地の防衛及び付近海面の測量・通信などを担当し、特設防備隊・特設航空隊などを編成して所要の艦船を付属する。
司令部の編成は艦隊司令部に類似し、司令官・参謀長以下が存在する。
類似に特別根拠地隊が存在するが、編成が異なる別の部隊である。
  
特設飛行隊制度
昭和19年3月1日付けで定め定められた海軍航空隊の空地分離制度である。同年3月以降に開隊するナンバー航空隊に当初より導入され、既存のナンバー航空隊にも逐次導入されていく。ただし、302空332空といった各鎮守府直属で局地防空専任部隊に適用されていない。根拠地が決まっており、他地域への移動がない為、舷側として適用されていない。例外もあり、352空は後に適用されたが。
基本的な考えは航空兵力の消耗と、輸送能力の低下によって航空隊単位での大規模移動が難しくなった為、航空隊司令部と飛行機隊を切り離して運用。戦局や状況にあわせて1個または複数の飛行隊をもっとも適切な航空隊の指揮下に臨時編入することを目的とした制度であった。
この制度により特設飛行隊は、最小限の整備員他地上作業員を伴っただけの一種の独立組織となった。
特設飛行隊制度の基本ナンバー(例:昭和19年3月時点)
  戦闘第   1〜 400飛行隊   甲種戦闘機(艦上戦闘機・制空戦闘機)
戦闘第 401〜 800飛行隊 乙種戦闘機(局地戦闘機)
戦闘第 801〜1000飛行隊 丙種戦闘機(夜間戦闘機)
偵察第   1〜 200飛行隊 陸上偵察機
偵察第 201〜 300飛行隊 飛行艇
偵察第 301〜 600飛行隊 水上偵察機
偵察第 801〜1000飛行隊 哨戒機
攻撃第   1〜 200飛行隊 艦上爆撃機
攻撃第 201〜 400飛行隊 艦上攻撃機
攻撃第 401〜 600飛行隊 陸上爆撃機
攻撃第 601〜 800飛行隊 陸上攻撃機
挺進第   1〜 100飛行隊 輸送機
     
ト弾
陸軍が開発した空対空爆弾。 幾つかのタイプが開発されたが、アイディア倒れのものでしかなかった。
 ト二弾:落下傘を装備したタイプで、敵編隊中に多数散布投下するタイプ。
 ト三弾:ロープ付きの曳航爆弾で、敵機にカラミ付かせるように使用するタイプ
いずれも使用に耐えられる兵器ではなかった。
      
虎号兵棋
昭和19年(1944年)から昭和21年(1946年)の陸軍全体の作戦を検討・研究した大規模図上演習。検討内容には大陸打通作戦(1号作戦)や、やがて出現するであろう米陸軍航空隊のB−29の存在が重視されたが、全般的に楽観ムードの観が強かった。彼我の戦力差が把握できていなかったのは致命的であったとさえ言える。昭和19年には持久体制を整え、昭和20年には局地的反撃、昭和21年には総反撃と計画しているほどの見通しの甘さがあった。
結局演習を行った参謀本部は陸軍省軍事課から甘すぎるとの反論も出たほどである。
虎号兵棋演習の主務者は参謀本部作戦課長:服部卓四郎大佐
  



    
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中島飛行機
元海軍機関大尉・中島知久平氏が1917年(大正6年)に飛行機研究所を群馬県尾島町(現:群馬県太田市) に創設したのが始まりである。多くの陸海軍機を設計・開発・生産し、三菱重工とともに、太平洋戦争時の日本航空機の一大生産拠点として存在した。
主な生産機は陸軍向けの『九七式戦闘機』『一式戦闘機・隼』『二式単座戦闘機・鐘馗』『四式戦闘機・疾風』『一〇〇式重爆撃機・呑龍』。
海軍機向けの機体では『九五式艦戦』『九七艦攻』『二式水戦』『二式陸偵/夜間戦闘機・月光』『艦攻・天山』『艦偵・彩雲』などである。
そして最大の目玉が計画段階で終わった幻の重爆撃機『富嶽(陸上攻撃機)』である。
他に発動機生産メーカーとして『寿』『栄』『』といった発動機の開発・生産を行っている。

戦後は日本の航空機生産能力を奪う目的でGHQにより解体され、その多くの企業は自動車生産に振り向けられた。いくつかは現在でも現存し、その代表はいくつかの工場が合併・共同して設立された富士重工業(SUBARU)である。
また一部(東京工場)は後のプリンス自動車工業となったが、日産に吸収合併された。
       
斜め銃
1942年(昭和17年)、ソロモン諸島ガダルカナル島をめぐる一連の戦闘で、もっとも脅威に感じた米陸軍航空隊重爆撃機B−17に対し『機銃を下向きに付けてB−17を撃ったら?』という当時の台南空(後の二五一空)副長、小園安名中佐の発想を下に実現した夜間戦闘機の傾斜式装備銃。
当初はあまりに単純な発想に一笑されたが、中佐が独自に部隊内で実験をくり返し、さらに昭和18年(1943年)春になってからは同様のアイディアを持ち、尚且つ実験で証明して来た浜野喜作中尉が部下となったことで一気に実現に向かって進む事となる。
装備機は余剰機となっていた一三試双発陸上戦闘機(二式陸上偵察機の試作機)であり、後部動力銃座を撤去し、胴体中央部に上向きに2門、下向きに2門の20o機関砲それぞれ30度の角度で固定装備した。
試作機2機は7機の二式陸偵と共に二五一空所属で昭和18年5月ラバウルに再進出する。5月21日夜、早速戦果が上がり、初空戦でB−17を2機撃墜した。
この戦果に驚いた軍令部は他の二式陸偵を夜戦に改造する部品を送りつけると共に本機を『月光を命名ス』と打電。ココに帝國海軍航空隊初の夜間戦闘機が誕生した。
以後斜め銃は日本軍戦闘機隊の夜間戦闘機必須装備となり、陸海軍多種多様な機種が夜間戦闘機はなって戦場を飛びつづける事となる。
陸軍航空隊では当初二式複座戦闘機『屠龍』に上向き銃(陸軍の呼称)が採用された。但し、当初は12.7o機銃を装備。上向き砲装備機は昭和18年9月頃からである。
  
ニイタカヤマノボレ一二○八
有名な日米開戦を決意、各部隊に対し開戦を知らせた有名な電報である。だが、これは陸海軍共通ではなく海軍側のみの電報である。
当時の日本軍は米軍によって暗号が解読されているなどと思ってもいない故での暗号なのだが・・・実は陸軍では『ヒノデハヤマガタ』という同様の意味の暗号文を使用した。
これは後半のヤマガタの部分が日にちを表す隠語であり、地名を数字に当てていた。(1日:ヒロシマ 2日:フクオカ 等)
万が一にも敵に情報が漏れないようにとの配慮であり、考案者は当時参謀本部兼大本営参謀(作戦全般)の瀬島少佐であったという。
そして・・・実際に暗号解読した米海軍通信文が『ニイタカヤマノボレ一二○八』を解読して一番驚いたという逸話。内容解読以前に12月8日に何かあるだろう・・・というのが一目瞭然な電報であったからだ。
暗号や情報に海軍がいかに疎かったかが分る話である。
   
鼠輸送
帝國海軍がガダルカナル戦当時に採用した艦艇(主に駆逐艦)による物資・兵員輸送戦術。敵の制空権・制海権の中を通常の輸送船舶で輸送した場合被害が甚大である為、高速の海軍艦艇を用いて行われた強行輸送戦術である。
当然専用の輸送設備を有している訳ではない為、輸送量は微々たるものである。兵員を駆逐艦等に搭乗させ上陸地点付近でも大発に乗せ変えて上陸させる。また物資(主に糧食等)はドラム缶に積め、付近の海域で海上に投下して、回収は現地部隊の大発等で自力回収する。物資を詰めたドラム缶を海上で浮くようにする為、内部には物資を満載せずいくらかの気室を設けるように積める為、その分更に効率は悪くなる。
本来なら非常手段とも言うべき輸送方法だが、ガダルカナル戦当時の日本軍は常に非常事態に近く、以後恒常的にこの輸送方法を用いることが多々あった。
  



    
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ハ25(発動機)
中島製発動機であり、陸軍の一式戦闘機『隼』等に使われた。海軍の零式戦闘機二一型以前に使用された『栄二一型』とほぼ同じではあるが、性能に僅かな差がある。これは燃料オクタン価統一以前に陸軍が採用していた低オクタン価燃料の差によるものである。
 
ハ40(発動機)
陸軍がドイツ・ダイムラーベンツ社からライセンス生産権を獲得し、川崎航空機が生産したDB601Aaの国内生産型発動機。
国内では珍しい液冷発動機であり、陸軍戦闘機である三式戦闘機・飛燕に装備された。
離昇出力1175馬力、公称出力1100馬力/高度4200m
ライセンス生産権をドイツから購入するのに陸軍と海軍が別々に購入すると言う日本以外では考えられないような事態を起こし、物笑いの種とされることがある。(海軍が生産権を獲得し生産した発動機は愛知が生産した『熱田』である。
尚、DB601のライセンス獲得に辺り、その特徴の1つであった燃料噴射装置は生産元のボッシュ社が完成品の輸出しか認めなかった。当時既に欧州では戦争が始まっていた為、十分な輸入は不可能と判断、止む得ず三菱が自社発動機用に開発していた燃料噴射装置を取付けられた。
DB601は構造が複雑で、高度な生産技術が必要とされたが、実際に国産化に着手すると特に問題無く国産化できたという。部分的にはオリジナルを超える部分もある(流体継手等)。だが基礎工業力違いからくる使用部材の材質の精度の違いがハ40の問題を大きくする(クランクシャフトや、さらにはバネのような小物に至るまで)。さらに凝りすぎた作りである事、耐用時間の考えの違い(ドイツ本国では稼働500時間で発動機の換装を行う)、日本の航空業界が空冷主体で進んでいた事もあり、液冷発動機を十分に整備できる下地も無い段階でハ40を装備した三式戦・飛燕を最前線に投入した事などもかさなり、国内での評価は決して高くは無かった。
   
ハ112−2(発動機)
三菱製空冷発動機『金星62型』の陸軍呼称
詳しくは『金星62型』の項目参照
  
ハ140(発動機)
ハ40の出力向上型発動機
(詳細は後日記載予定)
   
発動機(エンジン)一覧
三菱系
   『瑞星』 『金星』 『火星』
『震天』
中島系
『寿(ハ8)』 『光』 『護』
『栄(ハ25・ハ115・ハ35)』
誉(ハ45)
川崎系
『ハ40』 『ハ140』
愛知系
『91式』 『熱田』
日立系
『神風』 『天風』 『初風』
広廠系
『94式』
爆撃回避法
松田千秋少将が標的艦『摂津』艦長時代に、代々の艦長が残した記録を元に自分の考えを加えて執筆した『爆撃回避法』に関する帝國海軍唯一の教本。
松田少将の持論として爆撃回避の上手下手によって海戦の勝敗が決まると書いている。

戦時中の航空機による対艦船攻撃では航空機側が有利であり、攻撃されると最早どうしようもないとまで思われるようになった。これがレイテ海戦での第2艦隊(栗田部隊)の反転の一因となっていると松田氏は戦後述べている。
一方爆撃されたら回避してしまえという思考と、その回避できる自信があればこそ奮戦したのが、レイテ海戦当時松田少将の下で航空戦艦『伊勢』の艦長を勤めた中瀬泝少将であったという。
  
バルジ
軍艦の艦体側面につけられる膨らみ部分で、浮力増加と水中防御力の強化を兼ねる。
軍艦は数度の改装を行うたびに兵装・儀装品の増加による重量(排水量)増加が発生する。なによりトップヘビーになるケースが多く、浮力そして復元性増加の為に改装時にバルジの交換を行うケースが多い。その結果さらなる重量増加と速度の低下が発生してしまう。
   
日立航空機
1910年(明治43年)東京瓦斯工業として創設、東京瓦斯電気工業と改称されたのちに1928年(昭和3年)より航空機用発動機(国産発動機・神風)の製造を開始する。その後数社と合併後東京自動車工業となる。(後のいすゞ自動車・さらに旧瓦斯電自動車部門の人材は分離して、後の日野自動車の前身となる)
『航研機』の組み立てに従事したのち1939年(昭和14年)に航空機部門が独立して日立航空機となった。
   
ヒノデハヤマガタ
『ニイタカヤマノボレ一二○八』を参照
  
ビルジキール
水上航行を行う船舶は必ず動揺が発生する。横揺れのローリングと縦揺れのピッチング、船首揺れのヨーイングである。これらの揺れは常に組み合わさって発生するものであるが、この内の横揺れを減少させる目的で艦体側面の喫水線下に設置するのがビルジキールである。
これは艦首によって大きさ・形状まちまちであるが、殆どの船舶に設置されている。
      
フェアリード
フェアリーダー
索道(つなみち)、導索器であり、甲板上の舷側付近に設置されている。曳索や留索を艦外から甲板上に導く際にもつれたり絡まったりするのを防ぐ為に使用する。動きをスムーズにするためにローラーがついているものも有る。
       
航空用レシプロエンジンの一種であり、中島飛行機が開発した2,000馬力級の航空機用空冷星型(18気筒)エンジンである。海軍では『誉』、陸軍では『ハ四五』と呼称した。
太平洋戦争末期の陸海軍航空機にメーカーや機種を問わず幅広く搭載された。
1940年(昭和15年)に開発が開始、翌年公式審査を終了した。基本設計は中島飛行機の1,000馬力級エンジン『栄(ハ25)』を踏襲し、前列シリンダーの隙間に後列シリンダーを配置することによって複列式の後列が冷却不足にならないように配慮された。
『栄』の直径1150oに対して、『誉』の直径は1180oでしかなく、僅か30o程大きくなっただけであった。この小型発動機の完成は『誉』を奇跡のエンジンとまで称えられたが、設計に無理の多い発動機であった。また量産に移った戦争中期以降、多数の熟練工を徴兵で失い、品質の安定を図ることが出来ず、また粗製濫造から稼働率が著しく低下した。
現実には予定出力が1気筒当り100馬力、18気筒合計で1,800馬力を基準として開発されていたが、三菱で試作機に搭載した際には予定出力を発揮できなかった。(三菱側で検査した結果1,300馬力程度しか出力が出なかったとも言われている。)
だが『誉』の前評判とカタログスペックに喜んだ陸海軍は、多くの試作機に『誉』の搭載を指示、敗戦の日まで量産し続けることとなる。『誉』を搭載指示された為、試作機が完成した段階で予定性能を発揮できず開発が遅れた機体も存在した(『烈風』等)。
  
ボラード
ボラード・ヘッドが正式名。双繋柱ともいう。甲板上の舷側に設置してあり、艦船が碇泊時に留索を巻き付けて置くためのもの。必ず2本一組で設置してある。
       
ホ103(機関砲)
陸軍の一式戦闘機『隼』等に搭載されている12.7mm機関砲
ブローニングM2機関砲を基本にヴィッカース系(伊国・ブレタ製)弾薬を組み合わせて開発された小型軽量機関砲である。炸裂弾の使用や発射速度の向上が見られるが、軽量弱装弾を使用したため、威力が小さく、また有効射程も短くなっている。
それでも安定した射撃性能は高い命中率を誇り、多数が採用されたが、米英の大型爆撃機相手には火力不足が明らかであった。
 



    
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マウザー砲
所謂陸軍がドイツから輸入したMG151/20 20ミリ機銃のことを指す。
非常に優秀な砲ではあるが、輸入量が僅か800門でしかなく、陸軍航空隊の三式戦闘機『飛燕』の初期型に搭載された。本機銃を使いきった後、国産20ミリ砲の『ホ五』を装備する事となるが、威力の点で本家マウザー砲におよびもしなかった。
   
マ弾
陸軍の航空機搭載用機関砲(機銃)用弾丸として開発された特殊弾であり、通称『マ弾』と呼ばれた。
 マ101:7.7o用対燃料炸裂弾(99式特殊実包)
 マ102:12.7o用対燃料炸裂弾
 マ103:12.7o用瞬発(触発)信管付炸裂弾
特に信管付弾丸は当時各国共20o以上のものに限られていた為、日本陸軍独自のユニークなものであったと言う。
  
マンハッタン計画
米国による原爆開発計画
(詳細は後日記載)
   
三菱重工業
1884年(明治17年)に三菱財閥が工部省の長崎造船局を払い下げし、長崎造船所としたところから始まる。のちに重機・自動車・航空機と幅広く事業を拡大、日本の兵器産業の中心となる。艦船部門では超弩級戦艦『武蔵』や、零式艦上戦闘機などを生み出した。
     
南機関

昭和16年〜昭和17年にかけて存在したビルマ特殊工作機関。(機関長:鈴木敬司陸軍大佐)
ビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とし、ビルマ独立義勇軍の誕生に貢献。
   

無線電信機
航空機搭載用の小型捜索レーダー。 本来電波探信機と呼称する所を無線機としたのはレーダーである事を隠す為である。
三式空六号無線電信機参照
  



     
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養成制度
空中勤務者[陸軍]
搭乗員[海軍]

陸軍・海軍共にパイロットになるための行程は様々である。士官・兵では当然違うように。主な学校・養成機関別に纏めて見る。
陸軍   陸軍士官学校   将校空中勤務者
航空士官学校 将校空中勤務者
(開設は昭和13年)
特別操縦見習士官
(特操) 
将校空中勤務者
(開設は昭和18年7月)
*1期生は海軍の13期飛行予備学生と同時期
少年飛行兵 下士官空中勤務者養成機関
(高等小学校、中学校から入隊)
下士官操縦学生   他の兵科や整備兵から転じて下士官操縦者になる。
乙種予備生徒   逓信省の乗員養成所から召集。予備役の下士官操縦者になる。
海軍 海軍兵学校 士官搭乗員になる。
飛行予備学生 予備士官搭乗員になる。
(大学・高等専門学校から入隊)
甲種飛行予科練習生   下士官搭乗員になる。
(中学校から入隊)
乙種飛行予科練習生 下士官搭乗員になる。
(尋常小学校・高等小学校・中学校から入隊)
丙種飛行予科練習生
(旧:操縦/偵察練習生)
水兵や整備員から下士官・兵搭乗員になる。
予備練習生 陸軍の乙種予備生徒に該当



     
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(り)
1891年(明治24年)の度量衡法における長さの単位。
メートル条約加入の際、43.2kmを11里と定めた。
 『1里=3.927km』
 『100里=392.7km』
備考: 『里』は元々中国の律令制における尺貫法の長さの単位でもあり、日本の律令制も同じである。300歩(1歩は5尺)を1里としたが、国や時代によって長さは異なる為、注意が必要。
  
陸軍省
軍政統治機関であり、行政官庁各省の中の一つ。
陸軍軍政事務は以下の通り。
一般国務に関する軍政事務として兵役行政・経理事務・徴発事務を、統帥及び編成事項に関する軍政事務として平時編制・動員計画・要塞兵備などを行う。ただし軍令に関しては天皇直属の参謀本部があたる。
1872年(明治5年)兵部省から分離独立。太政大臣の統制化に軍政、軍令を統轄するが、1878年(明治11年)に参謀本部が独立して軍政統治機関となる。長たる陸軍大臣は現役の武官から選出される。
  



     
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A〜N
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DB601
ドイツ・ダイムラーベンツ社が作り上げた傑作発動機(エンジン)
ヨーロッパ各国の競争故に作り上げられた高性能な液冷発動機である。
1936年(昭和11年)に生産に入った最初の型はDB601Aであり、倒立V型12気筒の1000馬力級である。その最大の特徴は流体継手(トルク・コンバーター)と燃料噴射装置の採用であった。
だがこのような新機軸を採用することによって得られた性能と引き換えにマイナス面も生じた。構造の複雑化による生産・整備保守の困難さである。液冷発動機が多く、工業力が高いドイツであれば量産・実用化にこぎつける事が出来たが、万人向けの発動機ではなかったと言える。
この難物発動機を日本でライセンス生産することになった。1938年(昭和13年)にライセンス権を獲得した。当初この発動機に関しては海軍が目をつけ、その後商社経由で陸軍にも情報が流れる。海軍では液冷発動機の生産に実績のあった川崎(川崎航空機)に行わせる予定であったというが、元々川崎が陸軍系の航空機メーカーであったことから海軍系の愛知(愛知時計電機のちに愛知航空機)に鞍替えした事により話しがこじれてしまった。
結局愛知がダイムラーベンツとライセンス生産の契約を、その後1939年(昭和14年)1月に川崎がライセンス生産権を結ぶと言う事態になった。日本政府が生産権を獲得すれば1回で済む物をそれぞれ別個に生産権を獲得すると言う日本以外では考えられないような事態になったのである。

日本がライセンス生産用に供給された見本は『DB601Aa』であり、DB601Aの小改造版である。
 離昇出力:1175馬力
 公称出力:1020馬力/高度4500m

川崎航空機で生産されたDB601Aaは国産版を『ハ40』、その改造版を『ハ140』という。
また発動機最大の特徴の1つでもある燃料噴射装置だが、製造元のボッシュ社がライセンス生産を認めず、完成品での販売しかしないと通知してきた。だが、第二次世界大戦は既に始まっており、長期にわたって大量の完成品を日本に輸出しつづける事は事実不可能であった。そこで愛知では海軍向けのDB601に代わりの気化器を装着した。だが不具合が発生し、結局は燃料噴射装置を無断でコピーする事となった。
一方陸軍向けを生産する川崎では三菱(三菱重工)が開発した『ハ112』用の燃料噴射装置を取り付けるよう陸軍から指示があった。元々空冷星型発動機用の装置を液冷発動機用に変更したため当初は不具合が多発したが、これは三菱側の努力により克服。以後『ハ40』には全て三菱製燃料噴射装置を取り付ける事となった。
  



      
O〜Z
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数字
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二式二十粍高射機関砲
『九八式二十粍高射機関砲』の発展型であり、独鹵獲兵器である『ラ式二十粍高射機関砲』を参考に新型砲架を装備した高射機関砲。
   
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三号爆弾
海軍が採用した空対空爆弾。 昭和14年(1939年)に完成した九九式三号爆弾は総重量30キロで内部に弾子144個を詰め込む。戦闘機が敵編隊上空で空中投下、時限信管方式で炸裂し弾子が傘状に散る事によって敵編隊を包み込む親子爆弾である。弾子1発あたり75グラムの黄燐と鉄片で構成されており、命中すれば防弾燃料タンクも破壊する威力があったが投下タイミングが非常に難しく、邀撃レーダーもロクに装備していない当時の航空機では命中させるのは困難であった。
         
三式十二糎高射砲
1943年(昭和18年)から配備の始まった陸軍の高射砲。
最大射高14000m 有効射高11000m 陸軍で唯一高高度侵入機に対応可能な高射砲であったが、生産数の少なさから有効な戦力とは言えなかった。   

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三式空六号無線電信機
1942年(昭和17年)5月に実験が行われた航空機搭載用の小型索敵レーダー。
九七式飛行艇にて実験が行われた後改良され、同年8月に性能の安定した改良試作品が完成した。略称H−6と呼ばれる本機は本来探信機と呼称されるはずであったが、レーダーであることを秘匿する為に『無線機』とされた。
重量110キロ 波長2メートル 対船団110キロ 対飛行機70キロ 対浮上潜水艦2〜30キロという最大有効索敵距離を持ち、1943年(昭和18年)以降、大型の飛行艇から単発の艦攻まで幅広く採用される。昭和18年度の生産台数は300基程度。
       
四式七糎半高射砲
野戦防空の主力高射砲、『八八式七糎野戦高射砲』に代わる高射砲として開発された高射砲。
   
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五式十五糎高射砲
対B-29用の高々度迎撃用高射砲として期待された『三式十二糎高射砲』であったが、設計段階においてB-29に対して有効性を維持できないと判断した陸軍により急遽開発が進められた高射砲。
   
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十年式四五口径十二センチ高角砲
(大正)三年式十二センチ平射砲を高角砲に改装した高角砲であり、竣工当時の空母『赤城』『加賀』、改装空母『大鷹』級、重巡洋艦『青葉』級、敷設艦『白鷹』、海防艦『御蔵』級以降の海防艦に搭載された。
砲の口径に比して砲身が長く、初速825m/sと比較的速かった。最大射高14,000m、最大射程11,900mであり、毎分5〜12発が発射可能であった。
     
十一年式七糎半野戦高射砲
設計が開始されたのは1911年(大正9年)であり、大阪砲兵工廠で完成した初の高射砲である。
設計当初から野戦高射砲として設計され、戦場で使用すること前提とした砲である。

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十四年式十糎高射砲
十一年式七糎半野戦高射砲』の性能不足故に射高が不足しているのが予測されている為に、基本構造をそのままに口径を105mmに拡大した高射砲。

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十八試空六号無線探信機
三式空六号無線電信機(H−6)である程度の有効性を示した航空用レーダーではあったが、発見したのちに有効な射撃データを提供する事の出来る機載用邀撃レーダーとして開発されたのが本機である。
1943年(昭和18年)夏頃から開発に着手、呼称FD−2として試作機が完成したが、敗戦間際の本土防空戦で極一部の夜間戦闘機が装備して使用したに留まっている。
    
20ミリ機関砲
海軍航空隊の零式艦上戦闘機が採用した航空機用としては大口径砲に当る機関砲である。
スイスのエリコン社製FF型をライセンス生産したタイプを九九式1号銃という。但しこの型は装弾数や初速に問題があり、長砲身FFL型をベースにした2号銃が開発された。
後により大口径の30ミリ砲のベースともなり、国産二式30ミリ機関砲が製作されることとなる。
   
八八式七糎野戦高射砲
1928年(昭和3年)正式採用の野戦高射砲
1942年(昭和17年)末頃まで高射砲隊の装備砲のほとんどを占めるがその当時でさえ旧式化が著しく、高高度での侵入機には殆ど効果を得られない性能であった。
実口径は7.5センチ 初速が遅く最大射程9100mだが、有効射高は7300mであり、昭和17年当時の飛行機は大抵がこれ以上の高度を飛行可能な為、有効な戦力とはなりえなかった。だが生産面から新型砲が開発されても必要な数量を確保する為に増産が続けられ、これは陸軍に流れる員数主義の悪しき弊害ともいえる。
但し悪条件下での使用を前提とする外戦部隊では手馴れた八八式を欲したとも言われ、また常に敵機が高高度で進入するわけではない為、決して弊害ばかりではなかった。もっとも本土防空戦においては殆ど打ち上げ花火程度の役にしか立たなかったというのは事実ではあるが。

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九八式二十粍高射機関砲 / 九八式二十粍高射機関砲(特)
中距離における対空射撃と、対戦車/対装甲車用の水平射撃戦闘も考慮に入れられて開発され日本陸軍の主力高射機関砲。各種運用方法が検討されたが、最終的には駄載型・輓曳型(馬2頭による)・自動貨車搭載型などが採用され、各状況下で活躍した。また単装砲として開発されたが、後に2連装型も配備されている。

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九九式八糎高射砲    
陸軍が八八式に代わる新型高射砲として配備した実口径8.8センチの新型高射砲。実は中国軍から鹵獲したドイツ・クルップ社製のデッドコピー品である。
最大射高10000m 有効射高8000m 一応有効と判定されるが、後継として新式7.5センチ高射砲(のちの四式)が開発・配備される予定であった為、生産は遅々として進まなかった。

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