海軍航空隊一覧   
三〇〇番台=戦闘航空隊(2)
  

第三〇一海軍航空隊
  開隊 昭和18年11月5日
装備機種 艦戦 局戦
原隊・原駐在地 茂原航空基地
所属(最終時) 第一航空艦隊 第二二航空戦隊
解隊 昭和19年7月10日
解説 新編された第一航空艦隊(基地機動航空部隊)所属の航空隊であり、新鋭局地戦闘機『雷電』を装備する戦闘601と、零戦を装備する戦闘316の2個飛行隊で編成された航空隊である。
『雷電』を装備する戦闘601は、配備間もない『雷電』の初期不良に悩まされつつも実戦配備を進めるが、最終的には第一航空艦隊の指示した期日までにマリアナへの展開に間に合わないと判断して全機零戦に乗機を変更して進出することとなった。
一方、零戦装備の戦闘316は事情が異なっていた。この戦闘316は美濃部大尉(当時・938空飛行隊長)がソロモン航空戦で発案した夜間襲撃部隊として編成された飛行隊であり、元々水上機部隊に零戦を配備して欲しいとの美濃部大尉の要望を受け、軍令部の源田中佐(当時)が、ならば新編の飛行隊でと編成された飛行隊であった。その為搭乗員の多くは水上機からの転科者であり、訓練も対戦闘機用の空戦訓練ではなく、夜間進攻による銃爆撃攻撃に重点を置いたものであった。むしろ攻撃飛行隊に近かった。戦闘316の301空配備自体が一時的なものと判断していた美濃部大尉と、そのような事情など知らない301空司令八木中佐の戦闘機隊なのだから空戦を行って当たり前という考えでは対立が必然であった。八木中佐はもともと対重爆迎撃を主任務として訓練してきた戦闘601の『雷電』隊が対戦闘機戦闘に苦手な為、その援護として零戦隊である戦闘316に期待していたのである。両者の合わない意見対立は、結局美濃部大尉の302空夜戦隊への転勤という形で一応の決着をみることとなった。
昭和19年6月、先発隊18機がマリアナ諸島テニアン島に進出したが、11日の米機動部隊の空襲の際に迎撃戦に出撃して全滅した。
6月中旬、硫黄島まで進出した後続部隊も同様に15日の米機動部隊の迎撃戦の際に出撃してほぼ全滅に近い被害を受ける。(残存機1機のみ)
残った後続部隊(本隊)も硫黄島まで進出した際に7月3日4日の2日間の迎撃戦で全滅し、何一つ戦果を上げることなく部隊は壊滅した。
301空解隊後、戦闘316は252空に転出され再建される。

第三〇二海軍航空隊
  開隊 昭和19年3月1日
装備機種 艦戦 局戦 夜戦
原隊・原駐在地 横須賀航空基地
所属(最終時) 第三航空艦隊 第七一航空戦隊
解隊 終戦
解説 厚木基地に展開した海軍航空隊の帝都防空航空隊であり、局戦『雷電』や夜戦の『零夜戦』『彗星夜戦』『銀河夜戦』『彩雲夜戦』を配備していた。局地防空任務の為、特設飛行隊制度は導入されず、昼間戦闘を主とす第1飛行隊(『雷電』装備)と夜戦部隊の第2飛行隊(『月光』装備)が存在し、後に第3飛行隊が編成された。
『雷電』部隊は新設部隊であり、当初開発・生産が遅れていた為、機数が揃わなかったが、サイパンに進出する301空『雷電』隊(戦闘601)が機数不足のため、全機零戦に切り替えた為、余剰機が302空に集められた。
夜戦隊である『月光』隊は厚木空で編成された夜戦部隊の練成を目的とした厚木空木更津派遣隊を引き抜いて基幹戦力とした。
昭和19年11月末から、サイパンを出撃した米陸軍のB29による東京空襲が始まったが、その迎撃に出撃し続けた。ただ戦果はさほど上がらなかったと言われている。
昭和20年4月からは沖縄航空戦に増援として戦力を抽出し、約半数が南九州に展開。沖縄特攻攻撃の支援を行った。またB29による空襲の重点が阪神地区移ると、それに呼応して伊丹基地に約20機を派遣した。
昭和20年8月15日、終戦にあたり、302空司令 小園安名大佐は徹底抗戦を主張した。各航空隊に決起文を送ったりして一部の航空隊から共鳴し、多隊の航空機が飛来したりもした。
だが周囲の説得により武装解除が進められた。この一連の騒動は厚木基地の反乱事件とされた。
  
【余談】
一般に『厚木航空隊』と称すると、大戦前半は厚木空(こっちが正式)を指す。そしてこの航空隊は203空と改称され、北東方面・アリューシャン、千島方面に進出した後、フィリピン決戦に参加。続いて沖縄で特攻攻撃の護衛機部隊として戦闘を続けた。
一方、大戦後半の『厚木航空隊』とは、上記に記したように302空のことを指す場合がある。
(正式には『302空』と『厚木空』はまったくの別航空隊)

[余談:302空誕生秘話]

第三一二海軍航空隊
  開隊 昭和20年2月5日
装備機種 秋水
原隊・原駐在地 厚木航空基地
所属(最終時) 横須賀鎮守府
解隊 終戦
解説 幻の海軍航空隊であり、装備機はロケット戦闘機『秋水』であった。
だが搭乗員は配備されたものの予定されていた『秋水』は1機も完成しないうちに終戦を迎えた。

第三二一海軍航空隊
  開隊 昭和18年10月1日
装備機種 夜戦
原隊・原駐在地 茂原航空基地
所属(最終時) 第三航空艦隊 第六一航空戦隊
解隊 昭和19年7月10日
解説 新編された第一航空艦隊(基地機動航空部隊)所属、『鵄』部隊として昭和19年2月に連合艦隊に編入されテニアン島に進出した。
夜間戦闘機部隊として編成されたが、夜戦に出動したことは殆ど無く、対潜哨戒、船団護衛、早朝哨戒といった任務に従事した。
練成地であった松山基地から順次テニアン島に配備されたが、米機動部隊の空襲により消耗を重ね、『あ号作戦』時にはほとんどの戦力を失っていたという。また米軍のテニアン上陸の際には地上部隊として抵抗戦に参加し玉砕した。

第三二二海軍航空隊
  開隊 昭和19年3月15日
装備機種 夜戦
原隊・原駐在地 豊橋航空基地
所属(最終時) 第二航空艦隊
解隊 昭和19年7月10日
解説 夜戦専門航空隊として編成された航空隊であり、この航空隊は開隊と同時に特設飛行隊制度が適用された。このとき編成された戦闘飛行隊が戦闘八〇四飛行隊である。322空の部隊呼称『電』部隊の名は航空隊解隊後も戦闘804に引き継がれていく。(戦闘804は141空に転出)
厚木空で編成された丙戦(夜戦・『月光』)練成部隊・木更津派遣隊が、厚木空203空への改編時に302空に配置換えされ、302空夜戦隊の基幹要因となった。その際に木更津派遣隊から株分けして編成されたのが戦闘804であり、322空の基幹となった。(一部搭乗員にはこの際に203空に配置が戻された。)

第三三一海軍航空隊
  開隊 昭和18年7月1日
装備機種 艦戦
原隊・原駐在地 大分航空基地
所属(最終時) 第十三航空艦隊 第二八航空戦隊
解隊 昭和20年5月15日
解説 スマトラ島北端のサバンに進出、対潜哨戒や船団護衛任務に従事。当初は艦攻隊も所属していたが、昭和18年9月に551空に改編されて転出された。
昭和18年12月、ビルマ中部のマグエに進出。中攻隊や、陸軍飛行戦隊と共にカルカッタ攻撃に参加する。(インパール作戦当時)
昭和19年2月、装備する戦闘機隊を全てが戦闘603に改編され202空に編入され、戦力を失った同部隊は内地に戻り、岩国で部隊再建にとりかかる。2ヶ月後には再びサバンに進出。後ペナンに移動した。一部戦力をペリリュー島やヤップ島に派遣したが会敵の機会は無く、ペナンに戻ったという。
昭和19年10月、再び艦戦隊(戦闘309)を編入し、混成部隊として艦攻隊(攻撃253)と共にボルネオ島バリクパパンに移動。レイテ作戦に一部戦力(零戦8機)を派遣、ルソン島マバラカットに進出した。
昭和20年2月、ボルネオ島の航空戦力はシンガポール方面に後退。後ジョホールに移動して5月に大村基地に帰還して解隊された。

第三三二海軍航空隊
  開隊 昭和19年8月1日
装備機種 局戦 夜戦
原隊・原駐在地 岩国航空基地
所属(最終時) 第三航空艦隊 第五三航空戦隊
解隊 終戦
解説 海軍の防空作戦方針の転換に伴い、呉空岩国分遣隊として編成・派遣されていた部隊が元である。当初の装備機は零戦・『月光』・『雷電』であったが、主力は零戦であった。
編成後、零戦隊の大半20機がフィリピン航空戦に参加の為ルソン島に進出。201空戦闘303に編入され、搭乗員の多くが還らなかった。また丙戦隊『月光』と一部の零戦が帝都防衛戦の応援戦力として厚木に派遣されるが、昭和19年12月からは鳴尾基地に移動して陸軍第十一飛行師団の指揮下で阪神地区の防空戦に従事した。
昭和20年4月、沖縄航空戦に呼応して鹿屋基地に進出。基地周辺の迎撃戦に参加した。
沖縄戦後、岩国に戻り本土決戦の準備中に終戦を迎えた。

第三四一海軍航空隊
  開隊 昭和18年11月15日
装備機種 艦戦
原隊・原駐在地 松山航空基地
所属(最終時) 南西方面艦隊 第二六航空戦隊
解隊 終戦
解説 『獅子』部隊と称され、当初より新鋭戦闘機『紫電』を配備する予定であり、また『紫電』を最初に配備した航空隊である。だが開発の遅れから『紫電』が充足したのは昭和19年7月のことであった。練成後、台湾・高雄に進出、中国大陸からの米軍機に対する迎撃戦に従事する。
航空隊開隊時に配備されていた飛行隊は戦闘401及び戦闘402である。紫電の充足に伴い、戦闘701を加えた3個飛行態勢となる。
昭和19年10月、台湾沖航空戦に参加し戦力を消耗した。その後フィリピン・ルソン島マルコットに進出し、レイテ航空総攻撃に参加、戦力の殆どを失ってしまう。(残存機:『紫電』4機)
その後は『紫電』を使用した高速偵察機部隊として活動し、また特攻機の援護機としても出撃を重ねた。
昭和20年1月8日、リンガエン湾上陸船団に対する攻撃に参加し、全機を失った。

第三四三海軍航空隊(初代)
  開隊 昭和19年1月1日
装備機種 艦戦 艦爆
原隊・原駐在地 松山航空基地
所属(最終時) 第一航空艦隊 第六一航空戦隊
解隊 昭和19年7月10日
解説 新編された第一航空艦隊(基地機動航空部隊)所属、『隼』部隊として編成され、昭和19年3月〜5月にテニアン島に進出した。当時の一航艦の中ではもっとも有力な航空隊の一つであった。
343空は防空任務を担当し、新鋭機『紫電』を装備する予定だったが、生産の遅れから『紫電』は僅かに1が配備されたのみだった。2月、『紫電』配備を諦め、零戦による編制に切替えられたが、基幹要員となる熟練者が1割しかおらず、搭乗員の多くは練習航空隊教程を終了したばかりの甲飛10期生を主体とする若年者が主体であった。
2月のマリアナ空襲により先発した他隊の損害が大きく、343空の進出が繰り上げられ、3月27日に第一次12機がテニアンに進出。地上員は4月に輸送され、5月1日に最後の本部要員と第三次進出部隊により全部隊がテニアンに進出した。
機数的にはマリアナに進出した一航艦部隊の中では有力な部隊であったが、5月25日に発動されたビアク作戦のためパラオ進出が決定。1個中隊を残し、本隊はペリリュー島に進出。さらにパラオ本島のアイライ基地の完成と同時に移動してパラオ諸島全島の防空任務に当った。

6月11日、米軍によるマリアナ来攻に対し、テニアン残留部隊が迎撃戦に参加。その後残存機はグアムに移動するが、詳細は不明である。
一方パラオ展開の本隊に対し、一航艦司令部はヤップ島、グアム島を往復しつつ『あ号作戦』に参加するように指示。17日一部がヤップ島に前進しテニアン沖の米艦隊攻撃に向かう。
6月末までサイパン沖の艦船攻撃や邀撃戦闘に参加するが、部隊は壊滅状態となり、幹部搭乗員が失われると生存者は28日にアイライ基地に帰還。
7月10日に解隊となった。

第三四三海軍航空隊(二代)
  開隊 昭和19年12月25
装備機種 局戦
原隊・原駐在地 松山航空基地
所属(最終時) 第五航空艦隊 第七二航空戦隊
解隊 終戦
解説 通称『剣』部隊と呼ばれた、ある意味もっとも有名で、海軍航空隊最後の最強部隊として誕生した新鋭局地戦闘機『紫電改』を装備する航空部隊である。司令は源田実大佐
『空戦に勝てないから戦闘に負ける』との考えの下、源田大佐が自ら司令を勤める部隊として半ば強引に他部隊からベテランパイロットを引き抜いて編成し、新鋭局戦『紫電改』を独占的に配備した。実に3個戦闘飛行隊全てが『紫電改』装備である。(戦闘301・戦闘407・戦闘701、他に練成用部隊として戦闘401が配備)
また専属の偵察部隊として高速偵察機『彩雲』も配備した。(偵察4) (他に練成飛行隊を持つが、これはあまり知られていない)
戦法としては可能な限り編隊空戦の訓練を施し、戦果の拡大を狙ったものであったが、実際には最初の一撃こそ編隊空戦だったものの、あとは単機戦闘に移るケースも多かったという。
343空がもっとも有名になった戦いが、松山上空戦である。
昭和20年3月19日、偵察4所属の『彩雲』から入電した『敵機動部隊見ユ、室戸岬ノ南30浬』『敵戦爆連合大編隊、豊後水道ヲ北上中、高度三千』の情報を下に『紫電改』54機が出撃、米艦載機群(総数160機程度)のうち、52機(艦戦48機・艦爆4機)を待ち伏せ、迎撃戦を展開した。戦果(日本側報告)は撃墜波57機(対空砲による撃墜5機を含む)であったという。(日本側損害は自爆16機+大破5機)
この戦いが343空の初陣にして最大の戦果であり、以後海軍航空の切り札的存在として戦果を重ねていく。
(注:戦後の米軍側調査によると、この戦いの米戦闘機損失は、着艦後に破棄された4機を含めても14機だったとの調査記録もある。)
昭和20年4月、沖縄航空戦が開始されると九州各地(鹿屋・国分・大村)の基地に展開し、特攻機の誘導・援護を行った。また九州に飛来するB29に対しても迎撃戦を展開した。
同隊は終戦の日まで戦い続け、最後には士官搭乗員が居なくなるまで戦い続け、残った稼動機は20機前後までに減ったという。戦死(未帰還含む)者数74名、戦果約170機(B29 12機含む)であったという。
同隊からの特攻攻撃は上級司令部より要請はあったものの、源田司令が拒否したため最後まで行われることは無かったという。

第三四五海軍航空隊
  開隊 昭和19年2月1日
装備機種 艦戦
原隊・原駐在地 松山航空基地
所属(最終時) 第二航空艦隊
解隊 昭和19年7月10日
解説 『光』部隊と称され、新鋭局地戦闘機『紫電』を装備する予定であった。鳴尾基地で開隊されたが、『紫電』の配備が遅れたため零戦による練成を行った。
練成途中で『あ号作戦』が始まったっが、出撃の機会なく解隊となった。

第三五二海軍航空隊
  開隊 昭和19年8月1日
装備機種 局戦 夜戦
原隊・原駐在地 大村航空基地
所属(最終時) 第五航空艦隊 第七二航空戦隊
解隊 終戦
解説 『草薙』部隊と称された北九州(長崎・佐世保・大村)の防空を担当とする防空航空隊であり、元は佐世保空大村分遣隊である。
まだ352空改編前、分遣隊当時の昭和19年7月7日〜8日、B29による夜間空襲があった。主目標が佐世保・大村方面と判断されたにも拘らず、零戦隊は夜間邀撃に発進できなかった。一方、陸軍は同じ大村基地から離着陸の難しい『鐘馗』(246戦隊所属)で邀撃に発進している。その為、急遽302空から『月光』夜戦隊の大村派遣隊が進出した。
昭和20年4月、沖縄航空戦では零戦隊を国分基地に、『雷電』隊を鹿屋に派遣し、B29や米艦載機群に対する防空戦闘に従事した。この『雷電』隊は302空332空、352空の本土防衛用の3個航空隊から抽出された混成部隊であり、『竜巻部隊』と呼称される。以後南九州の各飛行場に来襲するB29に対する邀撃戦を展開するが、B29による南九州爆撃作戦は沖縄戦における一時的な協力であり、5月半ばには作戦が終了した。これにより『竜巻部隊』は解散、302空332空『雷電』隊は原隊に復帰するが、352空『雷電』は6月初まで鹿屋で邀撃戦を続けた。
5月、南方からの部隊引揚げに伴ない381空戦闘902が352空に編入された。その後本土決戦準備に伴ない組織改編が行われ、352空は従来の佐世保鎮守府所属から五航艦七二航戦に編入されることとなった。(これにより局地防空任務から外れ、連合艦隊指揮の下、他の航空隊同様の攻撃任務にも運用されることとなった。)
6月8日、鹿屋から戻った乙戦隊(『雷電』隊)は332空に編入され鳴尾に移動、『雷電』隊の集中運用態勢が敷かれた。これは中部・関西方面の防衛態勢強化の為の手段であった。
甲戦隊(零戦隊)も203空に編入され築城に進出し、一部の搭乗員は343空戦闘401(錬成隊)に転勤していった。
6月15日、352空甲戦隊、乙戦隊の両昼間戦闘部隊は解散し、以後は戦闘902のみの夜戦航空隊となる。
8月9日、長崎への原爆投下の際には、その上空まで進出して最初に偵察をした。

第三六一海軍航空隊
  開隊 昭和19年3月15日
装備機種 艦戦 艦爆
原隊・原駐在地 鹿児島航空基地
所属(最終時) 第二航空艦隊
解隊 昭和19年7月10日
解説 『晃』部隊と称され、新鋭局地戦闘機『紫電』を装備する予定であったが『紫電』の配備が遅れ、零戦による訓練も機数が集まらず自然消滅の形で解隊された。
所属飛行隊は戦闘第四〇七飛行隊(飛行隊長:林 喜重大尉
戦闘407はその後枝分けするように戦闘308(221空)に搭乗員が転属していく。
解隊後、戦闘407は221空に編入され、フィリピン航空戦に参加、昭和20年には343空『剣部隊』所属となる)

第三八一海軍航空隊
  開隊 昭和18年10月1日
装備機種 艦戦 夜戦 艦爆 陸攻
原隊・原駐在地 美保航空基地
所属(最終時) 第十三航空艦隊 第二八航空戦隊
解隊 終戦
解説 絶対国防圏構想により誕生した誕生した航空隊であり、当時最重要拠点として考えられたボルネオ島バリクパパンの防空を主任務とした。だがその守備範囲は広大であり、セレベス島ライカン・ジャワ島スラバヤ・ボルネオ島北岸タカラン・アンボン島・西部ニューギニアのソロンであり、米軍の西部ニューギニア進攻の際にはホーランジアまで進出した。
同航空隊はその主任務から、編制当初より局地防空戦闘機として開発された『雷電』を配備されることとし、『雷電』を装備した最初のナンバー航空隊(実用航空隊)となった。
定数27機(+補用9機)で編制を開始したが、量産開始間もない『雷電』は数が揃わず零戦での錬成を始める。また故障も多く、着陸速度の速い『雷電』には編制地であった館山基地は狭く、後に豊橋基地に移転することとなった。これは生産工場である三菱の名古屋航空機製作所が近くにあるからだとも言われている。
昭和19年1月、381空の配備先である南西方面の上位組織、第二三航空戦隊からは編制後も一向に来ない381空に対し、同地進出を促す(同地の202空が中部太平洋方面に移動予定となっていた為)が、『雷電』の生産と故障の多さ故に、結局零戦に乗り換えての同地進出となった。
3月1日、特設飛行隊制度の導入と拡大が行われ、甲戦隊 戦闘311(定数36機)、乙戦隊 戦闘602(定数36機)、丙戦隊 戦闘902(定数18機)へと様変わりした。だが戦闘602の装備機は零戦のままであり、同飛行隊が『雷電』を装備するようになったのは9月になってからのことであった。(以後も零戦と『雷電』の併用となる。)
5月、米軍のビアク島上陸から上記地域は空襲圏となり、381空の重要度は一気に高まる。331空と共に防空戦闘が激化するが、米爆撃機群に護衛戦闘機部隊が随伴するようになると損害が増大するようになった。
9月、米陸軍第13航空軍及び応援の第5航空軍がバリクパパン方面への空襲を開始。30日より始まった連続大空襲ではB-24の大編隊(2回目以降は護衛戦闘機が随伴)により甚大な被害を受ける。
その直後にはフィリピン航空戦が開始。381空各隊もルソン島中部マバラカットに進出したが、零戦の多くが特攻用として一航艦に召し上げられてしまい、搭乗員の多くは本土に新規受領に赴くこととなる。だが特攻に向かない『雷電』は残留し、マニラ防空の任務にあたる。だがこの期間戦場はレイテ島を中心に行われているため戦闘の機会は殆ど無かった。
12月初め、本来の防衛担当地域であるバリクパパンの防空を担当する第二八航空戦隊(上位組織の変更により第十三航空艦隊・第二八航空戦隊が担当)から戻るように指示された。
だが戦闘602『雷電』分隊がバリクパパンに戻った直後、米陸軍B-24によるマニラ空襲が開始されたのである。
昭和20年4月、十三航艦航空戦力の本土帰還命令が発令。戦闘602、戦闘902の各機はジャカルタ経由でシンガポールに後退し331空と合流した。その後搭乗員たちは内地に戻り、戦闘602の搭乗員の多くは343空に配備されることとなる。これは豊富な南方石油で充分に訓練を積んだ搭乗員の腕を源田大佐が見込んだ為とも言われている。また夜戦隊である戦闘902は本土に戻ると352空に編入され、同航空隊の本土決戦準備における中核飛行隊となった。
また本土帰還が命ぜられた331空の内、艦攻隊である攻撃253は381空に吸収される形となった。
381空は『雷電』をはじめとするシンガポールに残された機材をもって各機種混成の航空隊として内容を一変し、同地にあった他の攻撃飛行隊を統合して再編成された。ペナンで再編し、特攻攻撃の訓練を開始するが、出撃することなく終戦を迎えた。