解説 |
日中戦争勃発後の昭和13年編成が完結した師団であり、前年に編成された第二六師団に続く3単位師団である。
当初編成完了後直ちに中国大陸の戦線に投入される予定であったが、北満・ハイラルの騎兵集団が中国戦線に投入された結果、その穴埋めとして満州に派遣された。
ハイラルでの警備任務に従事していたが、昭和14年5月、満州-外蒙古の国境地帯であるノモンハンでソ連軍の越境事件(ノモンハン事件)が発生した。第二三師団は直ちに師団捜索隊を基幹とする東支隊を編成・派遣した。
だがソ連軍の姿は無く、引き換えした直後に再びソ連軍が現れた。これに対し師団長
小笠原中将は歩兵第六四連隊を派遣。先の東支隊と合わせてあらたに山形支隊として現地に向かわせた。
5月28日、ソ連軍との戦闘により支隊主力はバラバラとなり後退わ余儀なくされる。その結果、関東軍は部隊の再編成と、戦車連隊(戦車第三・四連隊)を増援して安岡支隊を編成。さらに第二三師団主力の投入も決定した。
7月2日、2回目の総攻撃を開始したが、ソ連軍の前に敗退。戦車連隊も半数も失った。歩兵部隊もソ連砲兵部隊の砲撃を受け大損害を蒙る。そして8月20日のソ連大反攻により師団は壊滅した。(損害は総兵力の79%にも及ぶ)
このノモンハン事件後、師団を再建。砲兵、工兵、輜重兵を機械化し、師団戦車隊まで編成するという当時としては破格の装備強化が行われた。但し、歩兵連隊に関しては従来のままであり、陸軍の歩兵第一主義というか、頑迷さが伺える。
師団は太平洋戦争開戦後も満州に駐屯し続けるが、昭和19年、台湾派遣が決定し、満州を離れる。だが、師団がたどり着いたのはフィリピン・ルソン島であった。しかも輸送途中に米潜水艦の雷撃により輸送船が撃沈。歩兵第六四連隊と野砲兵第十七連隊の内の1個大隊が失われた。
フィリピンの尚武集団に配属された師団は米軍のリンガエン湾上陸の際に迎撃戦を展開。約1ヶ月の戦闘ののち後退して持久戦態勢に移行し、そのまま終戦を迎えた。師団の損害率は非常に高く、現地補充兵を含めて30,000人中、生き残ったのは5,000人足らず、生還率16%であった。 |