帝國陸軍師団(3)

  第二十師団
   通称号   
編成 大正4年12月24日
編成地 龍山
補充担当 京城
解説 日露戦争後、日本は朝鮮半島を併合した。当時朝鮮半島には陸軍1個師団が交代で駐留していたが、明治末期から大正初期にかけて朝鮮半島に2個師団の増設が検討されていた。だが、財政難からなかなか実現しなかったが、大正4年になってやって編成されたのが第十九・二十師団である。但し、実際に編成が開始されたのは大正7年からであり、編成が完結したのは大正10年になってからであった。
昭和6年9月18日、柳条湖事件の際にも師団の一部をもって混成第三九旅団を編成して出撃している。同部隊は直ちに満州・朝鮮国境線に進出。そして朝鮮軍司令官 林銑十郎大将の独断により中国領に越境した。これも満州事変首謀者による計画的な行動であった。
9月12日には奉天に進出し、翌年1月には錦州攻略作戦に参加した。
昭和12年、蘆溝橋事件が勃発。師団は華北戦線に投入された。
太平洋戦争開戦後に第七七連隊が第三十師団に転出し、以後3個連隊体制となる。
昭和17年末にはニューギニア戦線に投入。ウエワクに上陸後飛行場設営に従事し、その後マダンに移動した。
昭和18年9月、連合国軍がフィンシュハーフェンに上陸した際に、同地を警備していた第八十連隊が迎撃。師団主力が応援に駆けつけるも撃退叶わず、シオに撤退する。翌年1月、連合国軍がグンビ岬に上陸した際に退路が遮断された。以後マダンに向け退却中に多くの兵士が密林の中で落伍していった。
その後アイタペへの進出命令により再びジャングルを踏破しようとしたが、再び多くの戦力を失う。その上連合国軍が先回りしてホーランジア、アイタペに上陸したため、師団は窮地に陥る。これにより第十八軍司令官 安達二十三中将は決戦を命じアイタペ攻撃を行うが失敗した。
その後ジャングル内で飢えとマラリア、豪州軍の追撃により次々と戦力を失っていき、終戦まじかの7月25日、安達中将の『全員玉砕命令』が発せられた。
生き残った将兵は25,000名中785名だけであった。
部隊編成  創設時  歩兵第七七連隊(平壌) (第三十師団に転出)
   歩兵第七八連隊(龍山)
歩兵第七九連隊(龍山)
歩兵第八十連隊(大邱
終戦時   歩兵第七八連隊(龍山)
歩兵第七九連隊(龍山)
歩兵第八十連隊(大邱

  第二一師団
   通称号   
編成 昭和13年4月4日
編成地 金沢
補充担当 金沢
解説 日中戦争勃発後の昭和13年編成が完結した師団である。
編成直後から北支那方面軍に編入され、徐州の警備に従事した。以後昭和14年に蘇北作戦、昭和16年には中原会戦に参加した。
太平洋戦争会戦直前に北部仏印に進駐を命ぜられ、開戦後の昭和17年2月、ハイフォンに上陸を果した。
その後フィリピンの第2次バターン半島攻略戦のために増援部隊として永野支隊を編成(歩兵第六二連隊・山砲兵第五一連隊第3大隊)し派遣している。
その後印度支那駐屯軍が編成された際に編入され、北部及び南部仏印の警備に従事する。
昭和20年3月、仏印軍の武装解除(明号作戦)に参加し、その後連合国軍の上陸に備えて陣地を構築中に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時     歩兵第六二連隊(富山)
歩兵第八二連隊(富山)
歩兵第八三連隊(金沢)
山砲兵第五一連隊
終戦時   歩兵第六二連隊(富山)
歩兵第八二連隊(富山)
歩兵第八三連隊(金沢)

  第二二師団
   通称号   
編成 昭和13年4月4日
編成地 宇都宮
補充担当 仙台
解説 第十四師団の管理下で編成された師団である。編成されたのは昭和13年4月。そして編成完了後直ちに大陸・中支那派遣軍に編入され武漢攻略戦に参加した。その後杭州に駐屯し、昭和15年10月、江南作戦に参加した。翌年3月には太湖西方作戦にも参加。
太平洋戦争開戦後も中国大陸にあり続け、昭和18年には杭州の警備を第七十師団と交代して金華に進駐した。
昭和19年からは第二三軍の指揮下で香港防衛につく。だが、香港への海上輸送途中、米潜水艦により輸送艦が撃沈。歩兵第八六連隊に甚大な被害が出た。
香港進駐後、大陸打通作戦の一環として湘桂作戦に参加。昭和20年には仏印に移動して明号作戦に参加。その後ビルマ戦線に増援として投入されることが決定し、タイに移動したが、タイで終戦を迎えた。
部隊編成  創設時     歩兵第八四連隊(仙台)
歩兵第八五連隊(会津若松)
歩兵第八六連隊(山形)
終戦時   歩兵第八四連隊(仙台)
歩兵第八五連隊(会津若松)
歩兵第八六連隊(山形)

  第二三師団
   通称号   
編成 昭和13年4月4日
編成地 熊本
補充担当 熊本
解説 日中戦争勃発後の昭和13年編成が完結した師団であり、前年に編成された第二六師団に続く3単位師団である。
当初編成完了後直ちに中国大陸の戦線に投入される予定であったが、北満・ハイラルの騎兵集団が中国戦線に投入された結果、その穴埋めとして満州に派遣された。
ハイラルでの警備任務に従事していたが、昭和14年5月、満州-外蒙古の国境地帯であるノモンハンでソ連軍の越境事件(ノモンハン事件)が発生した。第二三師団は直ちに師団捜索隊を基幹とする東支隊を編成・派遣した。
だがソ連軍の姿は無く、引き換えした直後に再びソ連軍が現れた。これに対し師団長 小笠原中将は歩兵第六四連隊を派遣。先の東支隊と合わせてあらたに山形支隊として現地に向かわせた。
5月28日、ソ連軍との戦闘により支隊主力はバラバラとなり後退わ余儀なくされる。その結果、関東軍は部隊の再編成と、戦車連隊(戦車第三・四連隊)を増援して安岡支隊を編成。さらに第二三師団主力の投入も決定した。
7月2日、2回目の総攻撃を開始したが、ソ連軍の前に敗退。戦車連隊も半数も失った。歩兵部隊もソ連砲兵部隊の砲撃を受け大損害を蒙る。そして8月20日のソ連大反攻により師団は壊滅した。(損害は総兵力の79%にも及ぶ)
このノモンハン事件後、師団を再建。砲兵、工兵、輜重兵を機械化し、師団戦車隊まで編成するという当時としては破格の装備強化が行われた。但し、歩兵連隊に関しては従来のままであり、陸軍の歩兵第一主義というか、頑迷さが伺える。
師団は太平洋戦争開戦後も満州に駐屯し続けるが、昭和19年、台湾派遣が決定し、満州を離れる。だが、師団がたどり着いたのはフィリピン・ルソン島であった。しかも輸送途中に米潜水艦の雷撃により輸送船が撃沈。歩兵第六四連隊野砲兵第十七連隊の内の1個大隊が失われた。
フィリピンの尚武集団に配属された師団は米軍のリンガエン湾上陸の際に迎撃戦を展開。約1ヶ月の戦闘ののち後退して持久戦態勢に移行し、そのまま終戦を迎えた。師団の損害率は非常に高く、現地補充兵を含めて30,000人中、生き残ったのは5,000人足らず、生還率16%であった。
部隊編成  創設時
   歩兵第六四連隊(二代目(復活) 熊本)
歩兵第七一連隊(二代目(復活) 鹿児島)
歩兵第七二連隊(二代目(復活) 都築)
野砲兵第十三連隊(熊本)
終戦時   歩兵第六四連隊(熊本)
歩兵第七一連隊(鹿児島)
歩兵第七二連隊(築城)
野砲兵第十七連隊(ハイラル)

  第二四師団
   通称号   
編成 昭和14年10月6日
編成地 満州
補充担当 熊本
解説 昭和14年に編成が命じられ、満州・ハルピンで編成された師団である。編成完結後、第五軍の指揮下に編入され東安省に移動、ソ満国境線の東部防衛にあたった。太平洋戦争開戦まで満州にあって訓練を続けたが、昭和19年2月に転用が決定した。師団戦力の一部を持って第七派遣隊を編成、メレヨン島に派遣した。一方師団主力も沖縄に転出が決定。第三二軍の指揮下に編入された。
沖縄戦では当初中頭地区防衛を担当、陣地構築を行っていたが、太平本営が第九師団の台湾移動を決定した為、それまで第九師団が担当していた島尻地区に移動した。
米軍の沖縄侵攻時には第三二軍は兵力不足、そして水際防衛の不利を悟って島内での地の利を生かした長期持久方針を採用した。第二四師団は軍予備兵力として待機していた。
第二四師団は4月22日に戦線投入。首里北西部で米軍の侵攻に対応していた。5月4日の総攻撃の際に歩兵第三二連隊の一部が米軍陣地の奥深くに侵入、棚原高地攻略に成功した。だが、この総攻撃自体は失敗し、以後第三二軍は首里を放棄。島尻地区での持久戦の為に後退を開始した。
6月30日、真壁付近で最後の抵抗線を張っていたが、師団長・参謀長の自決により師団は壊滅した。
部隊編成  創設時     歩兵第二二連隊(松山) (第五師団より編入)
歩兵第三二連隊(山形) (第八師団より編入)
歩兵第八九連隊(旭川)
 

  第二五師団
   通称号   
編成 昭和15年7月10日
編成地 満州
補充担当 大阪
解説 昭和15年7月、満州にて編成され、関東軍の指揮官に編入される。その後第五軍に編入され昭和16年7月の関東軍特種演習(関特演)に備える。だが、極東ソ連軍に対して待機していが、状況が変わらない為、対ソ戦を諦めてそのまま待機状態となる。
太平洋戦争開戦となっても満州に駐屯しつづけるが、昭和20年3月、本土決戦に備えて九州に転出が決定した。宮崎県小林に移駐し、陣地構築に従事していたがまもなく終戦を迎えた。
部隊編成  創設時    
終戦時   歩兵第十四連隊(小倉) (第十二師団より編入)
歩兵第四十連隊(鳥取) (第十師団より編入)
歩兵第七十連隊(篠山) (第四師団より編入)

  第二六師団
   通称号   
編成 昭和12年9月30日
編成地 華北
補充担当 名古屋
解説 日中戦争が全面戦争へと発展し、急遽師団の増強が必要になった。第二六師団は蘆溝橋事件直後に行われたチャハル省出兵作戦での後備戦力(警備目的)として編成された独立混成第十一旅団を基幹として編成された。
師団は編成後包頭包囲戦に参加、その後駐蒙兵団に編入される。内蒙古、チャハル省、華北方面で治安作戦に従事して、それは太平洋戦争が開戦しても続いた。
太平洋戦争末期の昭和19年7月、フィリピンに転出が決定、ルソン島マニラに配備される予定だったが米軍のレイテ島上陸に対応する為レイテ島に振り向けられた。
だが米軍が既に上陸している島に対しての強襲上陸となった為、苦難を極めた。
先行した独立第十二歩兵連隊を基幹とした今堀支隊は上陸に成功したものの、師団主力部隊は輸送中に輸送船が空襲により撃沈。重火器を失い、満足な装備も持たぬまま残存戦力が上陸した。
以後は第十六師団と共にブラウエン飛行場奪回作戦を行うも米第7歩兵師団との交戦により敗退、奪回作戦は失敗した。
さらにオルモック湾にも米軍が上陸した為退路を絶たれてしまう。以後はカンギポット山に立て籠もって持久戦態勢に移行し、そのまま終戦を迎える。
部隊編成  創設時     独立歩兵第十一連隊
独立歩兵第十二連隊
独立歩兵第十三連隊
終戦時   独立歩兵第十一連隊
独立歩兵第十二連隊
独立歩兵第十三連隊

  第二七師団
   通称号   
編成 昭和13年6月21日
編成地 華北
補充担当 東京
解説 北支那駐屯混成旅団を前身とする師団である。師団への改編後は華中方面へ転出され、第十一軍の指揮下で武漢攻略作戦に参加した。割く戦後は華北方面に戻り天津方面での警備任務につく。支那派遣軍が編成され、第二七師団は軍直轄部隊に指定されたが、華北方面での警備任務は変わらなかった。
太平洋戦争開戦前に満州に駐屯、以後同方面での警備任務に着く。
昭和19年2月、大陸打通作戦の為に再び華北に転出。京漢作戦、第1次湘桂作戦に参加した。
昭和20年には広東に移動、連合国軍の上陸に備えへ、南京方面の防衛の為に南京に後退中に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時    支那駐屯歩兵第一連隊(佐倉)
支那駐屯歩兵第二連隊(東京)
支那駐屯歩兵第三連隊(甲府)
終戦時   支那駐屯歩兵第一連隊(佐倉)
支那駐屯歩兵第二連隊(東京)
支那駐屯歩兵第三連隊(甲府)

  第二八師団
   通称号   
編成 昭和15年7月10日
編成地 満州
補充担当 東京
解説 昭和15年7月、満州・新京で編成された師団である。関東軍直轄部隊に編入された師団はハルピン、チチハル方面に駐屯し、北満防衛任務にあたった。
指揮下の3個連隊は全て他の師団から抽出された歴戦部隊である。
太平洋戦争開戦後も満州の地に在り続けたが、戦局が傾きかけた昭和19年から満州方面から兵力抽出が始まった。
昭和19年にマリアナ諸島サイパンが陥落すると、歩兵第三六連隊が抽出されサイパン奪回作戦の為に派遣された。作戦そのものは中止され、連隊は師団に復帰したが、その後北大東島・南大東島の防衛の為に派遣された。
一方師団主力は南西諸島防衛の為に転出された。宮古島、石垣島防衛の為配備される。師団司令部は宮古島に配備された。
米軍の沖縄侵攻前に宮古島・石垣島を攻略するだろうとの読みにより防衛陣地を構築していたが、直接沖縄に上陸してきた為裏をかかれることとなった。以後宮古島は孤立し終戦まで戦闘することなく過ごす事となる。
部隊編成  創設時     歩兵第三連隊(東京) (第一師団より編入)
歩兵第三十連隊(高田) (第二師団より編入)
歩兵第三六連隊(鯖江) (第九師団より編入)
終戦時   歩兵第三連隊(東京)
歩兵第三十連隊(高田)
歩兵第三六連隊(鯖江)

  第二九師団
   通称号   
編成 昭和16年2月25日
編成地 満州
補充担当 名古屋
解説 昭和16年に編成開始された師団であったが、編成までに1年近くかかっている。当時第十八連隊は第三師団の指揮下からの編入予定だったが、当時華中方面で作戦中であり、他にも歩兵第三八連隊の元の所属であった第十六師団は本土であった。
編成完了後は満州で防衛任務についていたが、戦局が悪化した昭和19年、南方戦線に対して満州から兵力を抽出する際の第1陣として第十四師団と共に第二九師団も転出が決定した。
師団は第三一軍の指揮下に編入されマリアナ諸島防衛につく。昭和19年3月、グァム島に進出した。だが歩兵第十八連隊は輸送途中に米潜水艦によって撃沈され、多数の兵員を失った。連隊はサイパンで再建に着手、再建後グァムに再進出したが、一部兵力(第1大隊)はそのままサイパン島に残された。
その後歩兵第五十連隊はテニアン島防衛の為に移動している。
昭和19年6月、米軍がサイパン上陸。同島の守備隊が全滅すると次はグァムに上陸を開始した。防衛任務についていた歩兵第十八連隊は米軍の上陸初日にほぼ壊滅した。以後グァム島防衛は不可能と判断した第三一軍司令官 小畑大将と、師団長 高品中将は7月25日に総攻撃を開始したが失敗した。 小畑大将、高品中将共に北部マタグアク山に追い詰められて自決。これにより日本軍の組織的抵抗は終了した。
歩兵第五十連隊もテニアン島に上陸してきた米軍により壊滅している。
部隊編成  創設時
(終戦時) 
   歩兵第十八連隊(豊橋) (第三師団より編入)
歩兵第三八連隊(奈良) (第十六師団より編入)
歩兵第五十連隊(松本) (第十四師団より編入)
終戦時   歩兵第十八連隊(豊橋)
歩兵第三八連隊(奈良)
歩兵第五十連隊(松本)