帝國陸軍師団(2)

  第十師団
   通称号   
編成 明治31年10月1日
編成地 姫路
補充担当 姫路
解説 日清戦争後の軍備拡張計画によって編成された師団の1つであり、中国地方東部出身(兵庫・岡山・鳥取・島根の一部)の兵士によって編成された。
日露戦争では第四軍の指揮下にあって遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦に参加している。
満州事変では第八混成旅団を編成・派遣、続いて師団主力も渡満して松花江方面・吉林方面で作戦を展開した。
日中戦争では再び大陸に渡り華北方面に投入、台児荘の戦いに参加。続いて徐州会戦・武漢攻略戦に参加した後、華北方面での掃討作戦に参加している。
昭和15年、満州駐箚により再び渡満、満州防衛任務のまま太平洋戦争を迎えた。昭和19年2月、師団の一部(歩兵第十連隊)を中部太平洋方面に転出、その後師団主力も南方戦線に投入されることとなるが、配備先は台湾の予定であったが、フィリピン・ルソン島に配備された。尚武集団の指揮下で米軍と交戦、半年に及ぶ死闘を繰り広げたが圧倒的物量・火力の前に壊滅的な打撃を受けた状態で終戦を迎えた。
部隊編成  創設時     歩兵第十連隊(岡山) (第四師団より編入)
歩兵第三九連隊(姫路)
歩兵第四〇連隊(鳥取) (第二五師団に転出)
歩兵第六三連隊(松江)
終戦時   歩兵第十連隊(岡山)
歩兵第三九連隊(姫路)
歩兵第六三連隊(松江)

  第十一師団
   通称号   
編成 明治31年10月1日
編成地 善通寺
補充担当 善通寺
解説 日清戦争後の軍備拡張にて誕生した四国を師団管区とする師団である。
日露戦争では乃木希典大将指揮下の第三軍に属して旅順攻略戦に参加、その後奉天会戦に参加した。
大正9年にはシベリヤ出兵、昭和7年には第1次上海事変に参加した。その後日中戦争では再び上海に派遣されている。
太平洋戦争開戦時には満州に配備されていたが、戦局が厳しい昭和19年に一部兵力が引き抜かれグァム島に配備された。(第6派遣隊:第一師団・第十一師団の混成部隊。後に独立第十連隊)
師団主力はその後も満州に配備されたままであったが、昭20年4月、本土防衛戦に備える為転出。四国に配備されて、本土決戦の準備中に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時     歩兵第十二連隊(丸亀) (歩兵第十二連隊(丸亀) (第五師団より編入)
歩兵第二二連隊(松山) (第五師団より編入 後に第二四師団に転出)
歩兵第四三連隊(徳島)
歩兵第四四連隊(高知)
終戦時   歩兵第十二連隊(丸亀)
歩兵第四三連隊(徳島)
歩兵第四四連隊(高知)

  第十二師団
   通称号   
編成 明治31年10月1日
編成地 久留米
補充担当 久留米
解説 日清戦争後の軍備拡張にて誕生した九州北部(福岡・佐賀・長崎・大分県の一部)を師団管区とする師団である。
平時編成の師団は野戦重砲兵旅団(野砲兵連隊×1個・独立山砲兵連隊×1個・野戦重砲兵連隊×2個)と、重砲兵連隊(旧要塞砲連隊)×3個、高射砲連隊×1個、戦車連隊×1個が配備されていた。これは大陸に進出する際の重要師団に位置づけられていた。
昭和7年の第1次上海事変では、一部兵力をもって混成第二四旅団を編成し派遣されている。
太平洋戦争開戦時には満州にあってパルチザン掃討戦に従事していたが、昭和19年には台湾防衛の為転出することとなった。だが、輸送途中に米潜水艦によって輸送船が撃沈され、兵力の多くを失ってしまった。残存戦力は台湾の西海岸防衛の為に防御陣地を構築したが、そのまま終戦を迎えている。
部隊編成  創設時     歩兵第十四連隊(小倉) (第六師団より編入 後に第二五師団に転出)
歩兵第二四連隊(福岡) (第六師団より編入)
歩兵第四六連隊(大村)
歩兵第四八連隊(久留米)
終戦時   歩兵第二四連隊(福岡)
歩兵第四六連隊(大村)
歩兵第四八連隊(久留米)

  第十三師団
   通称号   
編成 明治38年4月1日〜大正14年5月1日(廃止)
昭和12年9月10日(復活)
編成地 仙台
補充担当 仙台
解説 日露戦争により本土に存在した全ての常設師団が満州に投入された為、新たに増設された師団である。編成当初は独立第十三師団として樺太占領に投入された。これは日露講和を有利にしようという方針から樺太の占領を計画した為である。先遣隊として第二五旅団を編成、樺太南部に上陸。一方師団主力は樺太北部に上陸、攻略した。
日露戦争後は朝鮮駐箚を経て常設師団に昇格し、シベリア出兵に参加した。
だが、第1次世界大戦と、シベリア出兵に伴う財政逼迫により軍縮が実施された結果、第十三師団は廃止が決定した。
昭和12年、日中戦争により従来の常設師団が大陸に派遣された結果、いくつもの特設師団が常備師団・留守部隊を母体として編成された。第十三師団は第二師団を母体として編成された師団であり、上海戦線・南京攻略戦・徐州会戦・武漢攻略戦に投入された。
太平洋戦争開戦後も大陸にあって、昭和19年5月には大陸打通作戦の一環として湘桂作戦参加後揚子江沿岸に後退して終戦を迎えている。
部隊編成  創設時
(復活時)
   歩兵第五八連隊(高田)
歩兵第六五連隊(会津若松)
歩兵第一〇四連隊(仙台
歩兵第一一六連隊(新発田)
歩兵山砲兵第十九連隊
終戦時   歩兵第六五連隊(会津若松)
歩兵第一〇四連隊(仙台)
歩兵第一一六連隊(新発田)

  第十四師団
   通称号   
編成 明治38年7月6日
編成地 宇都宮
補充担当 宇都宮
解説 日露戦争により本土に存在した全ての常設師団が満州に投入された為、新たに新設された師団である。編成後、乃木希典大将の第3軍に編入され、日露戦争後は遼東半島警備に当たった。
大正8年からシベリア出兵、翌9年3月のニコライエフスクで起こった尼港事件に巻き込まれた。
昭和12年、蘆溝橋事件により日中戦争が勃発。これにより再び動員された第十四師団は華北戦線に投入さた。
太平洋戦争開戦時には満州に永久駐屯として配備されていたが、戦局の悪化に伴い満州の部隊から引抜を開始する。その第一陣に指名された第十四師団はパラオ諸島に転用されることとなる。
1944年(昭和19年)4月、パラオに到着した師団は部隊を3つに分け、師団主力はパラオ島防衛に、歩兵第二連隊はペリリュー島に、そして第五九連隊第一大隊はアンガウル島の防衛に任命された。パラオの師団主力は米軍の上陸を受けなかった為、被害は少ないが、空襲と、補給途絶による飢餓により多くの犠牲者を出して終戦を迎えた。
アンガウル島の第五九連隊第一大隊は1200名の兵員に対し、米第81師団(兵力20000人)が上陸、善戦するも33日間の戦闘の末全滅した。
一方歩兵第二連隊の米第1海兵師団の上陸を受けた。連隊指揮官 中川洲男大佐の指揮の下、洞窟陣地にて徹底抗戦した。当初4日間でペリリュー島を制圧する予定だった米海兵師団であったが、上陸後2週間で米海兵師団を退却させたのである。その後米軍の増援が送り込まれる中、最後まで抵抗し、連隊長が自決して終止符となった11月24日までの約70日間を戦い抜いたのである。
この洞窟陣地を利用したゲリラ戦術は後日硫黄島の戦いの際に教訓として利用された。
部隊編成  創設時     歩兵第二連隊(水戸) (第一師団より編入)
歩兵第十五連隊(高崎) (第一師団より編入)
歩兵第五〇連隊(松本) (第二九師団に転出)
歩兵第五九連隊(宇都宮)
終戦時   歩兵第二連隊(水戸)
歩兵第十五連隊(高崎)
歩兵第五九連隊(宇都宮)

  第十五師団
   通称号   
編成 明治38年4月1日〜大正14年5月1日(廃止)
昭和13年4月4日(復活)
編成地 名古屋
補充担当 敦賀
解説 日露戦争末期に新設された師団であったが、大正14年に軍縮の為廃止された師団である。
だが、日中戦争の規模が拡大するにつれ兵力再編成により復活した。
太平洋戦争開戦時には中国大陸にて警備・討伐任務に従事していたが、1943年(昭和18年)6月、ビルマ方面の第十五軍に編入、そしてビルマ・インパール作戦に投入された。師団長(山内正文中将)は補給に問題があるとして作戦に反対、計画変更を求めたが、聞き入れられなかった。1944年(昭和19年)3月15日、第十五師団はチンドウィン河を渡河して作戦を開始。3月28日にはコヒマ〜インパール街道を遮断したが、4月になってからの英印軍との本格的交戦状態となってからは損害が続出した。この時点で補給は途絶し、また例年より早い雨季により補給は益々困難になっていく。それでも進撃を続けた第十五師団ではあったが、インドを目前にした時点で進撃の足は止まった。
6月22日、師団長解任。(山内中将
その1ヵ月後には退却命令が出された。だが、進撃以上に悲惨を極める退却は、英印軍の追撃により戦力のほとんどを失ってしまう。
年末にイラワジ河まで退却した、翌年1月に英印軍とのイラワジ会戦により大損害を受けることとなった。
8月にタイへの撤退命令により後退したところで終戦を迎えた。
部隊編成  創設時    
終戦時   歩兵第五一連隊(京都)
歩兵第六〇連隊(京都)
歩兵第六七連隊(敦賀)

  第十六師団
   通称号   
編成 明治38年7月18日
編成地 京都
補充担当 京都
解説 明治38年、日露戦争による兵力増強計画の一環で新設された師団であり、編成後直ちに満州に派遣されたが、直ぐに講和条約が結ばれた為、日露戦争には実質参加していない。
大正8年と昭和4年に満州駐箚により派遣。
昭和12年7月、日中戦争が全面戦争となった際に華北戦線に投入された。子牙河沿いの戦闘に第二軍の指揮下で参加。11月には上海戦線に転用され、南京攻略戦に参加した。
翌年1月、再び華北戦線にて徐州会戦に参加し、今度は華中戦線に回されて武漢攻略戦に参加した。昭和14年、本土に帰還するまでに大陸中を駆け巡った。
太平洋戦争開戦時にはフィリピン攻略戦に参加。指揮下の3個歩兵連隊はそれぞれ独立して戦闘に参加・フィリピン上陸を果たし、マニラを目指していった。マニラ攻略後はバターン半島攻略戦・フィリピン掃討作戦に従事する。以後もフィリピンに駐留して治安維持にたった。
昭和19年、フィリピン・レイテ島に移動。米軍のレイテ攻略作戦を対抗したが、連合国軍4個師団に対し、僅か1個師団では上陸阻止は不可能であり、後退を余儀なくされる。その後もレイテ防衛作戦は続いたが、損害は増大の一途を辿る。また連合国軍がミンドロ島・ルソン島と進むにつれレイテ島防衛の意味はなくなり、大本営は第十六師団に『自活自戦・永久抗戦』を命ずる。だが、既に師団に戦力と呼べるようなものはなく、僅かに残った将兵は山中に立てこもってのゲリラ戦を展開した。
師団兵力約13,700名に対し、生き残ったのは僅かに620名ほどであった。
部隊編成  創設時     歩兵第九連隊(京都) (第四師団より編入)
歩兵第二〇連隊(福知山) (第四師団より編入)
歩兵第三三連隊(津)
歩兵第三八連隊(奈良) (第二九師団に転出)
終戦時   歩兵第九連隊(京都)
歩兵第二〇連隊(福知山)
歩兵第三三連隊(津)

  第十七師団
   通称号   
編成 明治40年11月30日〜大正14年5月1日(廃止)
昭和13年4月4日(復活)
編成地 姫路
補充担当 姫路
解説 日露戦争後の軍備増強計画にて新設された師団である。
大正4年より満州駐箚として派遣されたが、大正軍縮により廃止されてしまった。
昭和12年の動員令に基づく特設師団編成により廃止された師団が復活、泥沼化する日中戦争の為、中支那派遣軍に編入され芸備任務に従事したが、一部の部隊は武漢攻略戦に参加した。
太平洋戦争開戦後も中国大陸にあって、治安維持に当たったが、昭和18年ニューブリテン島に派遣された。第五三連隊はツルブ、第五四連隊はガスマタに派遣。第八一連隊はブーゲンビル島に派遣されたが後に独立混成第三八旅団に編入された。
米軍は1943年(昭和18年)12月15日、ブーゲビル島・マーカス岬に上陸。その後同島の主要根拠地であるラバウルを包囲する。第十七師団は第八方面軍の指揮下にあって持久戦を展開。海軍航空隊がラバウルを撤退した後もラバウルに立てこもったが、米軍もラバウルは包囲するにとどめた為、終戦まで自活し続けることとなった。
部隊編成  創設時
(復活時)
   歩兵第五三連隊(鳥取)
歩兵第五四連隊(岡山)
歩兵第八一連隊(姫路) (後に独立混成第三八旅団に編入)
終戦時   歩兵第五三連隊(鳥取)
歩兵第五四連隊(岡山)
混成第二旅団
混成第六旅団

  第十八師団
   通称号   
編成 明治40年11月13日〜大正14年5月1日(廃止)
昭和12年9月9日(復活)
編成地 久留米
補充担当 久留米
解説 日露戦争終結後の明治40年に軍備増強計画の一環として第十七師団と共に編成された師団である。
第一次世界大戦が勃発し大正3年、独立第十八師団として戦力を増強、当時独軍が守備していた青島要塞攻略戦に参加した。
だが大正軍縮により師団は廃止される。
昭和12年、動員令に基づく特設師団編成により廃止された師団が復活際に第十八師団も復活し泥沼化する日中戦争にした。緒戦は第十軍の指揮下で上海戦線に投入。その後敗走する敵軍を追撃しそのまま南京攻略戦に参加した。
昭和13年から華南戦線に転出、広東攻略戦に従事した。
太平洋戦争開戦時には第二五軍に編入され、マレー半島・シンガポール攻略作戦に参加する。真珠湾攻撃の1時間50分前にマレー半島コタバルに上陸したのは指揮下の歩兵第五六連隊を基幹とした侘美支隊(指揮官:侘美浩少将)であった。(歩兵第五五連隊は木庭支隊として編成される)
シンガポール攻略後、ビルマ戦線(第十五軍に編入)に投入され、ラングーン上陸後、マンダレーを占領。その後掃討作戦を実施する。昭和18年、英軍空挺部隊『ウィンゲート旅団』による北部ビルマの撹乱作戦が実施されると、第十八師団は捜索・撃滅作戦に投入された。だが、戦果は上がらず、その上米中軍がフーコンから進出したため包囲されてしまう。半年に及ぶ戦闘で補給が途絶、栄養失調と疫病により戦力は失われ、昭和19年7月に撤退を開始した。一方独立部隊としてミートキーナ方面に派遣されていた歩兵第一一四連隊も連合国軍により包囲される。他に同連隊が「ら孟」に派遣していた守備隊も存在したが全滅し、連隊主力も8月になって敵戦線を突破して脱出を試みたが壊滅的な打撃をうけてしまった。
翌年2月、ミートキーナ奪回を試みるも失敗。後退を続け、やはりビルマ南西部より後退してくる第二八軍の救援に当たりつつ8月の終戦を迎えた。
部隊編成  創設時
(復活時)
   歩兵第五五連隊(大分)
歩兵第五六連隊(久留米)
歩兵第一一四連隊(福岡)
歩兵第一二四連隊(福岡) ※第三五旅団(川口支隊:1941年(昭和16年)11月編制)に編入される
終戦時   歩兵第五五連隊(大分)
歩兵第五六連隊(久留米)
歩兵第一一四連隊(福岡)

  第十九師団
   通称号   
編成 大正4年12月24日
編成地 羅南(朝鮮半島)
補充担当 羅南
解説 日露戦争後、日本は朝鮮半島を併合した。当時朝鮮半島には陸軍1個師団が交代で駐留していたが、明治末期から大正初期にかけて朝鮮半島に2個師団の増設が検討されていた。だが、財政難からなかなか実現しなかったが、大正4年になってやって編成されたのが第十九・二十師団である。
編成地朝鮮半島北部の羅南であるが、初期の兵力抽出は本土の東北地方出身者によって編成されている。
昭和9年、満州事変が勃発すると一部部隊が参加した。混成第三八旅団の編成である。第二十師団の指揮下で出撃し、長春・ハルピン・海倫方面に出撃した。
昭和13年7月、張鼓峰事件に出動。事件の拡大と共にソ連との戦争勃発を恐れた大本営は部隊に駐屯地への引揚命令をあたえる。だが、その直後にソ連軍による張鼓峰の要地占領が起こった為、師団長 尾高亀蔵中将の独断によりソ連軍との戦闘状態に突入した。このときの戦闘により師団は2割近い兵力を失った。
太平洋戦争勃発後も主に朝鮮半島の防衛に当たっていたが、昭和17年には指揮下の歩兵第七四連隊が第三十師団に転出された。
師団は昭和19年のフィリピン戦でルソン島に転出、尚武集団の一部隊としてリンガエン湾北部サンフェルナンド地区に配備された。
昭和20年1月、米軍のリンガエン湾上陸の際に迎撃に当たったが、圧倒的な戦力差に後退を余儀なくされ、北部山岳地帯での持久戦状態になり、そのまま終戦を迎えた。
部隊編成  創設時     歩兵第七三連隊(羅南)
歩兵第七四連隊(咸興) (第三十師団に転出)
歩兵第七五連隊(会寧)
歩兵第七六連隊(羅南)
終戦時   歩兵第七三連隊(羅南)
歩兵第七五連隊(会寧)
歩兵第七六連隊(羅南)