解説 |
大本営直轄部隊として編制された中部太平洋方面を担当する軍であり、南洋庁・北部支庁管内の『南部マリアナ地区集団』『北部マリアナ地区集団』、東部支庁管内の『トラック地区集団』、その他直轄部隊から構成されている。
作戦地域全域に配備されている為、総数は非常に多いが、纏まった戦力としては活用できず、また各島々に取り残される形となったなった為、多くが遊兵になっていた。
1944年(昭和19年)6月に起きた米軍によるマリアナ諸島侵攻作戦において、同方面を担当する海軍の中部太平洋方面艦隊(司令長官:南雲中将)の指揮下に入り、陸海軍共同作戦を行ったが、実際には陸海軍がそれぞれに司令部の指揮下で戦闘を継続する。
初代軍司令官小畑中将は米軍の侵攻が始まった時、ビアク島当面の作戦指揮のためパラオ島に出張しており、急ぎサイパン島に帰還しようとしたが適わず、グアム島に戻って作戦指揮をとることとなる。
その為最初の侵攻地であるサイパン島では参謀長井桁少将が第四三師団(師団長:斎藤中将)を指揮して戦闘を行うという変則的な指揮系統が生まれた。
水際陣地を敷いた日本軍は米軍の圧倒的火力により敗退。主力は中部〜北部に後退し、一部が南部地区に孤立することとなった。早々に飛行場まで失った防衛部隊は南北に分断されるかたちとなる。また日本海軍機動部隊(第一機動艦隊)のマリアナ沖海戦による敗退は日本軍のマリアナ救援を断念させることとなり、大本営は6月24日を持ってサイパン島の放棄を決定した。
翌25日以降、中部山岳地帯にある洞窟陣地で抵抗していた防衛隊ではあったが米軍が奪取した飛行場を利用するようになると各地で戦線が突破されるようになる。飛行場奪回の為、一部大隊が夜襲を行うが、逆に包囲殲滅させられた。追い詰められた日本軍守備隊は7月7日に最後のバンザイ突撃を敢行。だがこの突撃も待ち構えていた米軍により撃退され失敗に終わる。上級指揮官達の自決によって組織抵抗は終り、7月9日に米軍によるサイパン島占領が宣言された。
続くグアム島では7月21日より米軍の上陸が開始され戦闘が行われた。グアム島防衛に配備されていた部隊は第二九師団であったが、その戦力は乏しく、歩兵第十八連隊は輸送途中に装備の大半を失い、戦力回復後も一部はサイパン島に残留してサイパン防衛戦に参加。歩兵第五〇連隊はテニアン島に配備され、残されたのは歩兵第三八連隊を中心とする部隊であった。
防衛戦は計画通り水際陣地での戦闘となったが、サイパン同様に圧倒的火力の下戦線が崩壊、内陸部での抵抗戦へと推移していく。米軍は陸軍歩兵1個師団、海兵1師団+1個旅団であった。マリアナ諸島における日本軍の中心はサイパン島であったが、戦前は米国領であったグアム島は米軍にとって重要な奪回すべき島であった。
サイパン戦で第三一軍司令部は壊滅しており、残された小畑中将は軍司令部を再建し、戦闘を継続する。
7月29日、第二九師団師団長、高品中将が戦死。以後同師団の指揮は小畑中将が引き継ぐが組織的抵抗は既に出来なくなっていた。8月11日、小畑中将と井桁参謀長の後を引き継いだ田村参謀長の自決をもって抵抗は完全に停止した。だが残された兵士たちの一部にはゲリラ戦を展開し、その後も抵抗を続けていく。(この中には戦後27年を経て発見された横井伍長が含まれていた。)
グアム島に引き続き7月24日よりテニアン島にも米軍2個海兵師団が上陸を開始。歩兵第五〇連隊を中心とする守備隊も他島同様水際陣地で一部戦力を失った後内陸部で抵抗を行う。さらに民間義勇隊を編成し、戦闘協力させたが7月30日には市街地を占領され、31日にはもはや継戦不可能な状態に追い込まれた。第三一軍司令部に最後の報告を打電した後、8月1日から最後の突撃を敢行。2日の突撃で第五〇連隊長緒方大佐も戦死する。
また海軍側も角田中将をはじめ多くの幕僚が戦死・自決し、8月3日に日本軍玉砕となった。
小畑中将の後を継いだのは第五二師団師団長麦倉中将であったが、第三一軍の守備範囲はそれぞれの島に分散配備され、また米軍の侵攻が行われず放置される形となった。その為戦闘が行われること無く、そのまま終戦を迎えた。
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