帝國陸軍師団(4)

  第三十師団
通称号   
編成 昭和18年5月14日
編成地 平壌
補充担当 平壌
解説 昭和18年5月に編成が命じられた増設師団の一つだが、実際に編成が完結したのは昭和19年になってからのことであった。これは指揮下に編入される予定だった歩兵第四一連隊が当時第五師団・南海支隊に加わっており、東部ニューギニア戦線でオーエンスタンレー山脈で悪戦苦闘していたからである。
編成完結後の昭和19年4月、フィリピン・ミンダナオ島に派遣が決定する。これは当初派遣が計画されていた第三二師団が急遽ニューギニア方面に転用されたためであった。師団は第三五軍の指揮下に編入され、ミンダナオ島防衛を担当する。
昭和19年10月、米軍がレイテ島に上陸すると、直ちに兵力を差し向ける。歩兵第四一連隊指揮下の2個大隊である。12月にはさらに2個大隊を増援として送り込むも米軍の前に全滅していった。
師団主力はミンダナオ島に駐留し続け、米軍のミンダナオ島上陸に対応して迎撃戦を展開する。だが次第に防戦一方に追い込まれ、持久戦態勢に移行した後、そのまま終戦を迎えるた。
部隊編成  創設時 
(終戦時)
   歩兵第四一連隊(福山) (第五師団より編入)
歩兵第七四連隊(咸興) (第十九師団より編入)
歩兵第七七連隊(平壌) (第二十師団より編入)

  第三一師団
通称号   
編成 昭和18年3月22日
編成地 タイ
補充担当 甲府
解説 昭和18年3月、タイ領内に在った第二六旅団(歩兵第五八連隊・歩兵第一三八連隊)と、ガダルカナル島から撤収してきた川口支隊(第三五旅団指揮下の歩兵第一二八連隊)の残存戦力、そして中国各地で編成された山砲兵連隊や工兵連隊によって編成された。
編成時バンコクに在った第三一師団はインパール作戦に参加する為、第十五軍の指揮下に編入された。作戦ではもっとも北よりのコースを進撃し、要衝コヒマの攻略を担当した。
師団の左翼攻撃部隊である宮崎支隊(指揮官:宮崎少将)はチンドウィン河を渡河、コヒマを目指す。途中英印軍との交戦があったものの4月6日には先方部隊がコヒマに進出し、インパール街道の遮断に成功した(コヒマを攻略したわけではない)
だがこの交通の要衝を攻略した宮崎支隊ではあったが、三叉路であり、高地でもある為、英印軍の砲撃によりこれ以上の進軍は不可能であった。補給を無視して進軍した結果、前線に武器・弾薬・食料が枯渇し、結局三叉路を放棄して後退する結果となった。
さらに師団長佐藤幸徳中将は軍司令部に対し補給を受けられるところまで後退する旨を伝えたが、第十五軍司令部(司令官:牟田口中将)はこれに反対した。だが命令に反して後退を指示した佐藤師団長は結果として師団長を解任させられる。
一方宮崎支隊は師団主力の後退を援護する為に殿を務めて英印軍と交戦を続ける。そして6月20日になって防御戦闘を中止、後退を開始した。
インパール作戦は失敗に終わり、師団はこの後イラワジ会戦に参加後さらに後退を続ける。この後退の最中に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時 
(終戦時)
   歩兵第五八連隊(高田)
歩兵第一二八連隊(福岡)
歩兵第一三八連隊(奈良)

  第三二師団
   通称号   
編成 昭和14年2月7日
編成地 東京
補充担当 東京
解説 日中戦争が泥沼化し、占領した中国各地での警備任務に従事する為に増設された10個師団の一つである。これらの師団は通常の師団より装備の面で若干劣っていた。
師団編成後は華北方面・山西省での治安維持活動に従事し、太平洋戦争開戦後もそれは続いた。
昭和19年4月、南方戦線の穴埋めの為に転出が決定。師団は第十四軍の指揮下に編入されフィリピンに転出された。だが途中で計画が変更し、配備されたのはハルマヘラ島であった。この時期、南方航路は米潜水艦隊による被害が急増しており、第三二師団も輸送途中に輸送船が被雷・沈没。多くの兵員を失った。
進出後、防衛体制を整える為陣地構築や訓練を行っていたが、米軍の飛び石作戦により後方に取り残される形となり、そのまま終戦を迎えた。
部隊編成  創設時
(終戦時)
  歩兵第二一〇連隊(甲府)
歩兵第二一〇連隊(東京)
歩兵第二一二連隊(佐倉)

  第三三師団
   通称号   
編成 昭和14年2月7日
編成地 仙台
補充担当 宇都宮
解説 日中戦争が泥沼化し、占領した中国各地での警備任務に従事する為に増設された10個師団の一つである。これらの師団は通常の師団より装備の面で若干劣っていた。
編成後は華中方面に派遣、武昌、漢口方面の警備任務に従事し、昭和16年4月に華北方面・山西省に派遣された。
太平洋戦争開戦後はビルマ方面に派遣され、昭和17年1月にはバンコクに進出した。ビルマ方面へ進撃し、英印軍を撃破しつつ北上。エナンジョンを攻略後、掃討作戦に従事する。昭和17年末、英印軍の反撃が開始された際に、アキャブに配備されていた第二一三連隊を基幹とする宮脇支隊は第五五師団と協力してこれを撃退する。
昭和19年3月、インパール作戦の為に進撃を開始する。師団は3隊に分かれてアラカン山系(標高2〜3,000m級)の横断を開始する。南方ルートを経由してインパールを目指すが、英印軍の抵抗と、なにより補給の失敗から兵力の半分を失う損害を受けた。だがそれでもインパール南西のビシェンプールまで進出。同地の攻略には成功したが、その後のインパール攻撃を目前にして英印軍の反撃により師団はビシェンプールに釘付けにされた。
師団長 柳田中将は作戦の中止を訴えたが、この結果師団長は解任される。だが作戦そのものは昭和19年7月に中止が決定し、後退を開始する。後退は困難を極め、兵力は次々と失われ、事実上師団は壊滅した。残存兵力がタイ領内まで後退してきたときに終戦を迎えた。
部隊編成  創設時
(終戦時)
  歩兵第二一三連隊(水戸)
歩兵第二一四連隊(宇都宮)
歩兵第二一五連隊(高崎)

  第三四師団
   通称号    椿
編成 昭和14年2月7日
編成地 大阪
補充担当 大阪
解説 日中戦争が泥沼化し、占領した中国各地での警備任務に従事する為に増設された10個師団の一つである。これらの師団は通常の師団より装備の面で若干劣っていた。
編成後は武漢の警備に従事、その後昭和14年12月に南昌に移動し治安任務に従事する。
昭和16年3月、錦江作戦に参加。同作戦の主力部隊であったが、野砲兵部隊の1個中隊が中国軍部隊との交戦により全滅という損害を受けた。
太平洋戦争開戦後も華中方面にあって治安維持・警備任務に従事し続ける。その間、指揮下の野砲兵第三四連隊が解散、乙師団から丙師団編成へと改編された。以後は歩兵部隊のみの師団となる。
昭和19年5月、湘桂作戦に参加。だがこの戦いにおいて砲兵戦力を欠く第三四師団は苦戦を強いられた。作戦終了後は華中方面防衛強化の為、南京・上海方面に移動。この移動途中に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時
(終戦時)
  歩兵第二一六連隊(大阪)
歩兵第二一七連隊(大阪)
歩兵第二一八連隊(和歌山)
野砲兵第三四連隊(大阪 昭和18年5月1日廃止)

  第三五師団
   通称号   
編成 昭和14年2月7日
編成地 旭川
補充担当 東京
解説 日中戦争が泥沼化し、占領した中国各地での警備任務に従事する為に増設された10個師団の一つである。これらの師団は通常の師団より装備の面で若干劣っていた。
編成後は北支那方面軍直轄部隊として河南省新郷付近の警備任務に従事する。その後魯西作戦、晋東作戦等、華北の戦闘に従事する。
太平洋戦争後も華北方面での治安維持任務に従事しつつけたが、昭和18年の師団改編の際に乙師団から丙師団編成に改編。それにより野砲兵第三五連隊は廃止された。
昭和19年2月、師団の南方戦線への転出が決定。だが丙師団編成の為砲兵力を欠いているため関東軍より独立山砲兵第四連隊を編入された。
転出先は第三一軍が担当するマリアナ諸島の予定であったが、途中行き先が変更、第二軍指揮下に編入されハルマヘラ島に配備された。この輸送の途中、米潜水艦に輸送船が撃沈され、独立山砲兵第四連隊の装備の殆どを失ってしまう。さらに同島到着後、大本営の命令により西部ニューギニアへの転出が決定。歩兵第二二〇連隊と師団本部以下主力部隊はソロンに配備され、歩兵第二一九連隊はヌンホル島、歩兵第二二一連隊はマノクワリへと分散配備された。さらに昭和19年5月の米軍のビアク島上陸により歩兵第二二一連隊から1個大隊が派遣、その後さらにもう1個大隊が派遣された。だがこの2個大隊は共に全滅してしまった。7月にはヌンホル島に米軍が上陸を開始。歩兵第二一九連隊も全滅している。さらにサンサホールに上陸した米豪軍の進攻により師団主力は交戦状態となる。だがその後後退を続け、昭和20年5月にソロンに撤収、以後防衛態勢に移行して準備中に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時
(終戦時)
   歩兵第二一九連隊(東京)
歩兵第二二〇連隊(甲府)
歩兵第二二一連隊(佐倉)
野砲兵第三五連隊(旭川 昭和18年5月1日廃止)
独立山砲兵第四連隊(遼陽 昭和19年3月編入)

  第三六師団
   通称号   
編成 昭和14年2月7日
編成地 弘前
補充担当 弘前
解説 日中戦争が泥沼化し、占領した中国各地での警備任務に従事する為に増設された10個師団の一つである。これらの師団は通常の師団より装備の面で若干劣っていた。
昭和14年4月、編成後の第三六師団は華北戦線に投入された。山西省の治安維持任務の為に現地に合った第一〇八師団と交代して駐屯する。以後山西省にて国民党政府軍及び共産党軍を相手に戦闘、治安維持任務に従事する。
昭和18年10月、大陸の兵力引き抜きは第三六師団にも及び、上海・ハルマヘラ島経由でサルミ及びビアク島に進出した。師団主力はサルミ防衛任務に就き、歩兵第二二二連隊を基幹とした部隊はビアク支隊として同島防衛任務に就く。
昭和19年4月、連合国軍がホーランジア、アイタペに上陸。更にサルミ東方のトムに上陸を開始した。当初歩兵第二二四連隊をホーランジア方面に派遣するもトム上陸で、同連隊トムに向かって進撃する。
一方ビアク島は5月に米軍が上陸。当初は有利に迎撃を進めたが、物量の差により圧倒され押し返される。約40日間に及び激戦の末、連隊長 葛目直幸大佐は自決し、守備隊は玉砕した。
サルミ方面の師団主力は以後も攻撃を続行するも6月には攻撃を断念した。以後は小康状態となり、米軍もこれ以上の攻撃を行わなかった。そのまま終戦を迎えるにいたった。
部隊編成  創設時
(終戦時)
   歩兵第二二二連隊(弘前)
歩兵第二二三連隊(青森)
歩兵第二二四連隊(秋田)

  第三七師団
   通称号   
編成 昭和14年2月7日
編成地 久留米
補充担当 熊本
解説 日中戦争が泥沼化し、占領した中国各地での警備任務に従事する為に増設された10個師団の一つである。これらの師団は通常の師団より装備の面で若干劣っていた。
華北戦線に投入、第二〇師団に変わって山西省南西部での警備任務に従事した。
太平洋戦争開戦後も同地にあって治安維持任務に従事したが、昭和19年2月に大陸打通作戦に参加する為に同地の警備を第六九師団に委ねて第十二軍の指揮下に移った。3月より京漢作戦(北京〜漢口間の鉄道打通作戦)に参加、7月には第十一軍の指揮下に移って湘桂作戦に参加した。以後、桂林・柳州・南寧等の攻略戦に参加したが、大陸打通作戦後は華北に戻らず印度支那駐屯軍(後の第三八軍)の指揮下に編入されて北部仏印に駐屯した。
昭和20年4月、ビルマ戦線への転用が決定。作戦参加の為タイに移動し待機していたが、その後マレー半島への転用が決定した。だがマレー半島への移動中に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時
(終戦時)
   歩兵第二二五連隊(熊本)
歩兵第二二六連隊(築城)
歩兵第二二七連隊(鹿児島)

  第三八師団
   通称号   
編成 昭和14年6月30日
編成地 名古屋
補充担当 名古屋
解説 日中戦争が泥沼化し、占領した中国各地での警備任務に従事する為に増設された10個師団の1つであり、最初の6個師団(第三二師団〜第三七師団)に比べて5ヶ月遅れで編成された。これらの10個師団は『乙師団』と呼ばれ、通常の師団(『甲師団』)より装備の面で若干劣り、従来の4個歩兵連隊編成より1個連隊少ない3個連隊編成師団として誕生した。
師団編成後、第二一軍の指揮下に編入され、台湾混成旅団に替わって広東省仏山の警備任務に従事した。以後同方面にあって治安維持作戦や援蒋ルート遮断作戦に従事する。
太平洋戦争開戦時には第二三軍指揮下で香港攻略作戦に参加、九龍要塞を攻略した。
その後歩兵第二二八連隊を基幹とした東方支隊を歩兵歩兵第二三〇連隊を基幹とした東海林支隊を編成する。師団主力・東方支隊・東海林支隊の3隊は別行動をとって蘭印攻略作戦に参加する。
蘭印を攻略後、師団は第十七軍に編入、ガダルカナル島奪回の為に派遣されることが決定する。まず東海林支隊がジャワ攻略作戦後、第二師団に編入されてガダルカナル島に投入されたが、昭和17年10月24日の総攻撃に参加。右翼攻撃隊として攻撃に参加したが、この総攻撃は米軍の防御陣地の前に失敗する。
第三八師団主力は11月にガダルカナル島に派遣されたが、輸送途中に米潜水艦により輸送船7隻沈没が沈没。揚陸中にも空襲により重火器の殆どが海没した結果手ぶらの部隊としてガダルカナル島に上陸した。このため攻撃を行うことも出来ず、島の一角にて持久戦態勢をとるが、補給が途絶した同島では餓死者が続出した。
昭和18年2月にガダルカナル島からの脱出に成功し、以後ブリテン島ラバウルにて師団の再建に着手する。そのまま陣地構築・持久戦態勢をとったまま終戦を迎えた。
部隊編成  創設時     歩兵第二二八連隊(名古屋)
歩兵第二二九連隊(岐阜)
歩兵第二三〇連隊
終戦時   歩兵第二二八連隊(名古屋)
歩兵第二二九連隊(岐阜)
混成第三旅団

  第三九師団
   通称号   
編成 昭和14年6月30日
編成地 広島
補充担当 広島
解説 日中戦争が泥沼化し、占領した中国各地での警備任務に従事する為に増設された10個師団の1つであり、最初の6個師団(第三二師団〜第三七師団)に比べて5ヶ月遅れで編成された。これらの10個師団は『乙師団』と呼ばれ、通常の師団(『甲師団』)より装備の面で若干劣り、従来の4個歩兵連隊編成より1個連隊少ない3個連隊編成師団として誕生した。
編成後、華中戦線に投入され、湖北省の警備に従事した。
太平洋戦争開戦後は宜昌に移動、警備任務に就く。その後も武漢方面の治安維持任務に従事するが、太平洋戦争末期の昭和20年4月、上海方面防衛強化の為に上海に送られた。だが、5月には対ソ戦線の為に関東軍に編入、満州に進出して第三十軍の指揮下に編入された。以後四平街に駐屯する。
昭和20年8月9日、ソ連軍の侵攻が開始され、まもなく終戦となる。8月24日に四平街で武装解除なり、将兵の殆どがシベリアに抑留されてしまった。
部隊編成  創設時
(終戦時)
   歩兵第二三一連隊(広島)
歩兵第二三二連隊(浜田)
歩兵第二三三連隊(山口)