解説 |
姫路の第十師団の留守部隊を基幹に編成された師団である。
太平洋戦争後も本国に会った訓練等にあたっていたが、昭和18年2月、ジャワ方面に派遣された。先発した歩兵第一一一連隊は4月にジャワ島に進出したが、師団の残りは輸送船舶の都合により到着が遅れる。その間に歩兵第一五四連隊がマレー半島に転用される。
その後師団はビルマ戦線に投入が決定。ジャワ・マレー・本土とバラバラになっていた師団各部隊はそれぞれ別々にビルマに移動する。
当初はビルマ方面軍直轄予備部隊としてビルマ南西に展開したが、第二八軍が新設されると指揮下に移った。
昭和19年2月、インパール侵攻の為の予備作戦として第2次アキャブ作戦(ハ号作戦)に参加する。山岳地帯を進攻し、シンゼイワ盆地で印度軍と交戦、印度第七師団を包囲する。だが、印度軍は戦車をもって円陣(円筒陣地またはアドミン・ボックス)を組み、補給を空中投下によって頑強に抵抗した。師団はこの円筒陣地を攻略できず、やむ得ず包囲を解いて後退する。
その後インパール作戦の失敗により第二八軍は撤退、英軍の追撃を受ける。
昭和20年4月にはイラワジ河まで後退。渡河後山中に退避し、さらにシッタン河まで後退する。第三三軍の支援を受けつつシッタン河を渡河したとき、終戦を迎えた。 |