帝國陸軍師団(11)

  第一〇〇師団
   通称号   
編成 昭和19年6月15日
編成地 ミンダナオ島
補充担当 名古屋
解説 昭和19年6月にフィリピン・ミンダナオ島に在った独立混成第三十旅団に本土で編成された諸部隊を合わせて編成された師団であり、師団編成後も引き続きダバオ駐留となった。
昭和20年4月、米軍がミンダナオ島西岸のコタバト上陸、同島を横断しダバオに進攻を開始した。第百師団は米軍に抵抗したが物量に圧倒され、ダバオ北西に退避。以後自活生活を余儀なくされる。
そのまま終戦となり、9月7日に米軍に投降、降伏調印となった。
部隊編成  創設時 
(終戦時)
   独立第一六三大隊 〜 独立歩兵第一六八大隊
独立第三五二大隊 〜 独立歩兵第三五三大隊

  第一〇一師団
   通称号   
編成 昭和12年9月1日
編成地 東京
補充担当 東京
解説 昭和11年の軍備充実計画で編成された特設師団の一つであり、東京の第一師団の留守部隊が編成を担当した。
編成後は第九師団第十三師団と共に上海派遣軍を編成し、直ちに上海戦線に投入された。
上海戦後、南京攻略戦の側面援護として揚子江沿いに西進して揚州攻略戦に参加する。その後掃討作戦に参加し、4月には佐藤支隊(歩兵第一〇一連隊・歩兵第一四九連隊基幹)を徐州会戦に派遣した。
その後も武漢攻略戦、南昌作戦に参加し、昭和14年11月に復員命令で東京に帰還。
翌昭和15年3月に解隊された。
部隊編成  創設時     歩兵第一〇一連隊(東京)
歩兵第一〇三連隊(東京)
歩兵第一四九連隊(甲府)
歩兵第一五七連隊(佐倉)

  第一〇二師団
   通称号   
編成 昭和19年6月15日
編成地 ビザヤ諸島
補充担当 熊本
解説 昭和19年6月、フィリピン・ビザヤ諸島(フィリピンのルソン島〜ミンダナオ島間に点在する7島(ギラマス・セブ・ボホール・マスバテ・サマール・レイテの各島々)と無数の小島を一括してピザヤ諸島と称する)を警備していた独立混成第三一旅団を改編して編成された師団である。師団司令部はセブ島。
昭和19年10月20日、米軍によるレイテ島上陸が開始されると直ぐに2個大隊を派遣、さらに師団砲兵隊を派遣する。第一師団による逆上陸作戦が奇跡的に成功するも、米軍のオルモック湾上陸(12月7日)により同島の根拠地を失い退路を絶たれた。以後レイテ島派遣部隊はカンギポット山に立て籠もっての自給生活を余儀なくされる。
昭和20年3月、米軍によるビザヤ諸島各島への進攻により師団は孤立、自活を余儀なくされた。司令部もセブ島でレイテから撤収した第一師団と共に北部に追い詰められ、終戦を迎えた。
部隊編成  創設時 
(終戦時)
   歩兵第七七旅団(熊本)
  独立歩兵第一六九大隊 〜 独立歩兵第一七四大隊
歩兵第七八旅団(熊本)
  独立歩兵第三五四大隊 〜 独立歩兵第三五五大隊

  第一〇三師団
   通称号    駿
編成 昭和19年6月15日
編成地 ルソン島
補充担当 熊本
解説 昭和19年6月、フィリピン・ルソン島に在った独立第三二旅団を基幹として編成された師団である。2個旅団で編成され、ルソン島西部を第七九旅団が、東部を第八十旅団が担当した。
昭和19年10月、米軍のレイテ上陸から始まる戦闘の間もルソン島防衛に任じており、昭和20年1月の防衛組織改編により尚武集団の一部隊としてルソン島北部西側と北端のアパリ防衛を担当することとなる。
昭和20年1月9日、米軍のリンガエン湾上陸以降、師団主力が抵抗するが6月に米空挺部隊がアパリに空挺降下し第八十旅団が孤立した。師団主力はカガヤン付近での攻防に敗れた以降は山岳地帯での持久戦に移行したが、そのまま終戦となった。
部隊編成  創設時 
(終戦時)
   歩兵第七九旅団(熊本)
  独立歩兵第一七五大隊 ・ 独立歩兵第一七六大隊 ・ 独立歩兵第一七八大隊 ・ 独立歩兵第三五六大隊
歩兵第八十旅団(熊本)
  独立歩兵第一七七大隊 ・ 独立歩兵第一七九大隊 ・ 独立歩兵第一八〇七大隊 ・ 独立歩兵第三五七大隊

  第一〇四師団
   通称号   
編成 昭和13年6月16日
編成地 大阪
補充担当 名古屋
解説 昭和11年の軍備充実計画で編成された特設師団の一つであり、大阪の第四師団の留守部隊が編成を担当した。
編成後、直ちに満州に派遣された。派遣された当時、満州・朝鮮・ソ連国境が複雑に絡み合った地域で、張鼓峰事件が発生した。師団は不測の事態に備える為、大連から東部ソ満国境の琿春付近に展開した。事件は8月11日に停戦となり、師団は大連に帰還した。
昭和13年9月、師団は華南戦線に投入され、10月12日バイアス湾に上陸して広東攻略作戦に参加した。21日に広東攻略後、師団は従化付近に駐屯し、同地の治安維持活動に従事する。
昭和16年1月、師団改編が行われ、歩兵第一七〇連隊(篠山)が独立混成第二一旅団として改編され仏印に転用された。
以後、太平洋戦争中も華南にあって、治安維持任務に従事し、戦争末期に南京方面に転用されたが、移動中に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時 
(終戦時) 
   歩兵第一〇八連隊(大阪)
歩兵第一三七連隊(大阪)
歩兵第一六一連隊(和歌山)
歩兵第一七〇連隊(篠山 昭和16年1月転出)
野砲兵第一〇四連隊(大阪)
工兵第一〇四連隊(華南)
輜重兵第一〇四連隊(大阪)

  第一〇五師団
   通称号   
編成 昭和19年6月15日
編成地 ルソン島
補充担当 広島
解説 昭和19年6月、フィリピン・ルソン島に在った独立第三三旅団を基幹として編成された師団である。2個旅団で編成され、ルソン島南部防衛を担当したが、12月にマニラ郊外のラグナ湖北岸に移動した。この際、独立混成第二六連隊が師団に編入され、師団主力として尚武集団に所属してルソン島北部防衛に任じたが、歩兵第八一旅団・歩兵第八二旅団は振武集団に編入されマニラ付近の防衛にあたった。
昭和20年1月9日、米軍がリンガエン湾上陸。マニラに向かい南下を開始する一方、一部部隊が北上してサクラサク、バレテ峠に向かい北上を開始した。このため、師団は南北に分かれてバラバラに対応することとなる。米軍に対し、反撃しつつも持久戦状態となり、山岳陣地に立て籠もったまま終戦を迎えた。
部隊編成  創設時 
(終戦時) 
   歩兵第八一旅団(広島)
  独立歩兵第一八一大隊 〜 独立歩兵第一八三大隊 ・ 独立歩兵第一八五大隊
歩兵第八二旅団(浜田)
  独立歩兵第一八四大隊 ・ 独立歩兵第一八六大隊 ・ 独立歩兵第三五八大隊 ・ 独立歩兵第三五九大隊
独立混成第二六連隊※

  第一〇六師団
   通称号    (無し)
編成 昭和13年5月15日
編成地 熊本
補充担当 熊本
解説 昭和11年の軍備充実計画で編成された特設師団の一つであり、熊本の第六師団の留守部隊が編成を担当した。
編成後、直ち中支那派遣軍に編入され、華中戦線に出動。上海から揚子江を遡って九江付近に進出し、武漢攻略戦の側面援護に当たった。
昭和13年9月20日、徳安付近の中国軍攻撃の為に出動したが、山岳地帯で中国軍に包囲され壊滅の危機に陥る。地形の問題から砲兵部隊を伴わずに進撃した為である。この作戦中、歩兵第一一三連隊は兵力の2/3を失うという事態に陥った。
昭和14年3月、第一〇一師団と共に南昌作戦に参加。この戦いの後、本土に帰還する予定だったが、急遽華南戦線に派遣され、南支那方面軍の指揮下に編入された。汕頭方面での掃討作戦に参加し、昭和15年3月に復員した。師団は翌4月に解隊されている。
部隊編成  創設時      歩兵第一一三連隊(熊本)
歩兵第一二三連隊(都築)
歩兵第一四五連隊(鹿児島)
歩兵第一四七連隊(大分)
野砲兵第一〇六連隊(熊本)

  第一〇七師団
   通称号   
編成 昭和19年6月15日
編成地 満州
補充担当 弘前
解説 昭和19年6月、アルシャン駐屯部隊と独立混成第七連隊を基幹として編成された師団であり、元々満州に在った師団が南方戦線に転用されたことによってその穴埋めとして編成された師団である。
昭和20年8月9日、ソ連進攻開始時にはアルシャン南東50kmの五又溝に陣を構えていたが、撤退命令により後退しようとした8月12日には既に退路を絶たれ、ソ連軍によって包囲されていた。
退路を遮断している西口のソ連軍に対し攻撃を開始、いったんは撃退に成功するが逆襲によって後退を余儀なくされ北部山岳地帯に退避する。
終戦となった8月15日、孤立無援となった師団に終戦の報は届かず、25日になって音徳爾西方40kmでソ連軍と戦闘になった。この時点で日本軍は武装解除に応じていたが、突然の師団規模の攻撃にソ連軍側も驚いたと言う。直ちに関東軍司令部より参謀2名が派遣され、停戦を要請。これによりようやく師団は停戦した。
部隊編成  創設時 
(終戦時)
   歩兵第九十連隊(弘前)
歩兵第一七七連隊(弘前)
歩兵第一七八連隊(秋田)
野砲兵第一〇七連隊(満州阿繭山)
捜索第一〇七連隊(満州)
工兵第一〇七連隊(満州)
輜重兵第一〇七連隊(チチハル)

  第一〇八師団
   通称号   
編成 昭和12年8月26日
編成地 弘前
補充担当 弘前
解説 昭和11年の軍備充実計画で編成された特設師団の一つであり、弘前の第八師団の留守部隊が編成を担当した。
編成後、直ち第一軍に編入され、華北戦線に出動。山西省の掃討作戦、治安維持作戦に従事した。
昭和15年1月、本土に帰還して2月に師団は解体される。

昭和19年7月、満州の第九独立守備隊を基幹として新師団を編成する際に、第一〇八師団が復活した。以後、関東軍の指揮下に編入され満州と中国の国境守備・警備・防衛任務に従事する。
昭和20年7月、師団は第三方面軍の直轄部隊となり、8月9日のソ連軍侵攻を迎えたが、本格的な戦闘を迎える前に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時
(第1次)  
   歩兵第五二連隊(弘前)
歩兵第一〇五連隊(弘前)
歩兵第一一七連隊(秋田)
歩兵第一三二連隊(山形)
野砲兵第一〇八連隊(弘前)
創設時
(第2次)
歩兵第二四〇連隊(弘前)
歩兵第二四一連隊(秋田)
歩兵第二四二連隊(秋田)
野砲兵第一〇八連隊(満州海城)

  第一〇九師団
   通称号   
編成 昭和12年8月26日
編成地 金沢
補充担当 金沢
解説 昭和11年の軍備充実計画で編成された特設師団の一つであり、金沢の第九師団の留守部隊が編成を担当した。
編成後、直ち第一軍に編入され、華北戦線に出動。大原攻略戦、汾陽攻略戦に従事した。その後山西省の掃討作戦、治安維持作戦に従事し、昭和14年12月、本土に帰還して師団は解体される。

昭和19年5月、父島要塞守備隊を基幹に再び、第一〇九師団が復活した。栗林忠道中将の小笠原兵団である。
硫黄島は米軍にとって、マリアナ諸島から出撃し、日本を空襲するB−29爆撃隊の中継基地として、また編隊を護衛する戦闘機隊の発進基地として是が非でも手に入れたい場所であった。逆に日本軍にとっては航空部隊を南東方面、ラバウル・ニューギニア他に送り込むのに格好の中継基地であったが、昭和19年後半からは非常に厄介な、それこそ島ごと無くしてしまいたいほどに重要な防衛拠点として重要視されていた。
米軍は昭和19年後半より繰り返し硫黄島に対して爆撃を繰り返して行い、日本軍はその隙間を縫うようにして硫黄島全体に地下トンネルを張り巡らせ、要塞化を進めていた。
昭和20年2月19日、米軍は艦砲射撃により島全域に砲撃を、そして爆撃を実施した後、海兵隊2個師団が上陸を開始した。守備隊は海兵隊を引き付けてから砲撃戦を展開、米軍に対して多大な損害を与えることに成功する。だが、23日には硫黄島南西に位置する摺鉢山山頂に星条旗が立ち、27日には元山飛行場が占領された。
その後も守備隊は徹底抗戦を続けるが、3月3日には島の2/3が制圧される。
3月17日、栗林中将は大本営に対して訣別電を送り、25日夜半に守備隊最後の総攻撃が行われた。
その後も生き残った兵士は地下トンネル陣地に立て篭もり徹底抗戦を続けた。
この硫黄島の戦いは、過去に玉砕していった日本軍守備隊のなかで、唯一攻撃側である米軍が守備側である日本軍の損害を上回る被害を被った戦いとして記録されている。
尚、第一〇九師団は栗林中将(師団長)が訣別電を送り、戦死されたとした後、父島の第一混成旅団長 立花少将が引き継ぎ、終戦まで小笠原に布陣していた。
部隊編成  創設時
(第1次)  
   歩兵第六九連隊(富山)
歩兵第一〇七連隊(金沢)
歩兵第一一九連隊(敦賀)
歩兵第一三六連隊(鯖江)
山砲兵第一〇九連隊(金沢)
創設時
(第2次)
混成第一旅団(父島配備)
  独立歩兵第三〇三大隊 〜 独立歩兵第三〇八大隊
混成第二旅団(硫黄島配備)
  独立歩兵第三〇九大隊 〜 独立歩兵第三一四大隊
混成第一連隊(母島配備)