帝國陸軍師団(5)

  第四十師団
   通称号   
編成 昭和14年6月30日
編成地 善通寺
補充担当 善通寺
解説 日中戦争が泥沼化し、占領した中国各地での警備任務に従事する為に増設された10個師団の1つであり、最初の6個師団(第三二師団〜第三七師団)に比べて5ヶ月遅れで編成された。これらの10個師団は『乙師団』と呼ばれ、通常の師団(『甲師団』)より装備の面で若干劣り、従来の4個歩兵連隊編成より1個連隊少ない3個連隊編成師団として誕生した。
編成後は華中方面に投入、第十一軍の指揮下で咸寧・武昌方面での警備任務に従事した。華中方面での主な治安任務に参加した後、昭和15年5月の宜昌作戦、翌年には子南作戦・第一次長沙作戦・第二次長沙作戦と参加する。
太平洋戦争開戦後の昭和17年4月、ドゥーリットル空襲による米陸軍航空隊のB25部隊が中国大陸に不時着した件により、同地域の飛行場を全て破壊する作戦を開始する。
昭和18年5月、師団の改編成が行われ、砲兵連隊が廃止、『丙師団』となった。
その後湘桂作戦に参加。以後広東に駐屯するものの昭和20年6月に南京方面に転進となった。南京に向かい移動中に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時     歩兵第二三四連隊(丸亀)
歩兵第二三五連隊(徳島)
歩兵第二三六連隊(高知)

  第四一師団
   通称号   
編成 昭和14年6月30日
編成地 龍山
補充担当 宇都宮
解説 日中戦争が泥沼化し、占領した中国各地での警備任務に従事する為に増設された10個師団の1つであり、最初の6個師団(第三二師団〜第三七師団)に比べて5ヶ月遅れで編成された。これらの10個師団は『乙師団』と呼ばれ、通常の師団(『甲師団』)より装備の面で若干劣り、従来の4個歩兵連隊編成より1個連隊少ない3個連隊編成師団として誕生した。
編成後は華北戦線に投入、第一軍の指揮下で山西省に駐屯し警備任務に従事する。
太平洋戦争開戦後、昭和17年12月よりニューギニア戦線への派遣が決定し第十八軍に編入された。歩兵第二三九連隊を先発隊として昭和18年2月にウエワクに進出した。(師団主力は5月頃)
当時東部ニューギニアには他に第二十師団・第五一師団が展開していたが、米豪軍との先頭により消耗し、尚且つ補給途絶やマラリア等により戦力を失いつつあった。
昭和19年1月、米豪軍のグンビ岬上陸により、第四一師団のマダン進出命令が発令。だが2月29日に米豪軍がウエワク対岸のマヌス島上陸により事態は急変。師団は急遽マダン手前のハンサに終結した。だが米豪軍は4月になるとホーランジア、アイタペへと上陸・進出したためハンサ防衛の戦略的価値がなくなった。これにより師団はウエワクへ戻ることとなる。この一連の行動(退却)はニューギニアのラム河・セピック河に挟まれた大湿地帯であり、何百キロにも及ぶ行程であった。当然徒歩による移動であったため、師団の将兵の多くが落命していった。ウエワクに戻った師団はさらに西進し、アイタペの米豪軍に対する総攻撃作戦に参加する。第十八軍指揮下の3個師団を投入したこの作戦は米豪軍の反撃により失敗、戦力は半減した。
以後師団はアレキサンダー山系に撤退。多くの将兵が飢餓や疫病に失われつつも持久戦態勢をとっていく。そしてそのまま終戦を迎えた。
部隊編成  創設時     歩兵第二三七連隊(水戸)
歩兵第二三八連隊(高崎)
歩兵第二三九連隊(宇都宮)

  第四二師団
   通称号   
編成 昭和18年5月14日
編成地 仙台
補充担当 仙台
解説 仙台・第二師団の留守部隊と独立第六二歩兵団(高田)を基幹に編成された師団である。太平洋戦争開戦後に編成された急増師団の中でも装備に恵まれた師団であり優秀であった。
編成後は北方軍(後に第五方面軍と改称)の指揮下に編入され千島列島中部の防衛部隊として配備された。
昭和20年5月、北海道の防衛強化の為に一部部隊を除いて北海道に引き上げた。稚内に駐留し、宗谷海峡沿岸に防衛陣地を構築するが、戦闘の機会なく終戦を迎えた。
部隊編成  創設時 
(終戦時)
   歩兵第一二九連隊(会津若松)
歩兵第一三〇連隊(仙台)
歩兵第一五八連隊(山形)

  第四三師団
   通称号   
編成 昭和18年5月14日
編成地 名古屋
補充担当 名古屋
解説 名古屋・第三師団の留守部隊と、独立第六三歩兵団(豊橋)を基幹として編成された師団である。
編成後は第三一軍の指揮下に編入され中部太平洋方面防衛任務につき、サイパン島に派遣された。だがサイパン島への輸送途中、米潜水艦の雷撃により多数の損失がでる。第1陣の歩兵第一三五連隊、歩兵第一三六連隊、そして師団司令部は無事到着したものの、第2陣の歩兵第一一八連隊他は兵員・装備の殆どを失った。(約1,000名程度が救出され、装備も無いままサイパン島に送り届けられた)
サイパン進出後は一部兵力(歩兵第一三五連隊の1個大隊)がテニアン島防衛に派遣、残りは防衛陣地を構築する。だが殆ど防御陣地を構築するまもなく米軍の上陸作戦が開始された。航空機及び戦艦を含む艦艇からの艦砲射撃により全島と、上陸地点を制圧した米軍であったが、この米軍橋頭堡に対し日本軍は夜襲を仕掛ける。だが命令伝達の不備から全軍による夜襲はならず、散発的な攻撃となった。2回の夜襲作戦がことごとく失敗し、数に勝る米軍が侵攻を開始すると、日本軍は徐々に北部に追い詰められていく。
7月7日、全軍による最後の突撃(万歳突撃)が行われ、日本軍守備隊は全滅した。
師団長 斉藤義次中将は突撃の前日に司令部にて自決した。
部隊編成  創設時
   歩兵第一一八連隊(静岡)
歩兵第一三五連隊(名古屋)
歩兵第一三六連隊(岐阜)

  第四四師団
   通称号   
編成 昭和19年4月4日
編成地 大阪
補充担当 大阪
解説 昭和19年になってから本土防衛体制強化の為に編成された師団である。
大阪・第四師団の留守部隊を基幹として編成された師団であり、装備の面では他の急増師団の中でも優秀な部類に属する。
東部軍の指揮下に変に有され、茨城県鹿島灘方面の上陸予想地点の防衛を担当する為に陣地構築を行ったが、本土決戦は行われず、そのまま終戦となった。
部隊編成  創設時 
(終戦時)
   歩兵第九二連隊(大阪)
歩兵第九三連隊(大阪)
歩兵第九四連隊(和歌山)

  第四五師団
          欠番

  第四六師団
   通称号   
編成 昭和18年5月14日
編成地 熊本
補充担当 熊本
解説 熊本・第六師団の留守部隊と、独立第六六旅団(小倉)を基幹として編成された師団である。
編成当初は西部軍の指揮下だったが、昭和18年10月に南方戦線転出が決定した。
歩兵第一二三連隊がまず第一陣として小スンダ列島東部のスンバワ島に進出。2ヶ月遅れで歩兵第一四七連隊も進出した。但し、第一四五連隊だけ派遣されなかった。これは船舶量の不足の為であった。そして昭和19年6月、歩兵第一四五連隊は小笠原兵団に転出、硫黄島に派遣された。
歩兵第一四五連隊は硫黄島の戦いに参加。栗林兵団の直轄部隊として運用され、米軍に対し徹底抗戦を行った。昭和20年3月26日、最後の総攻撃を米軍に対して行い、全滅した。
一方師団主力は昭和20年4月になってマレー半島警備の為に後退する。その後大規模戦闘に参加することなく終戦を迎えた。
部隊編成  創設時 
(終戦時)
   歩兵第一二三連隊(熊本)
歩兵第一四五連隊(鹿児島 但し昭和20年3月、全滅)
歩兵第一四七連隊(都城)

  第四七師団
   通称号   
編成 昭和18年5月14日
編成地 弘前
補充担当 弘前
解説 弘前・第八師団の留守部隊を基幹とした第五七師団が戦線に出撃した為、その留守部隊と独立第六七歩兵団を基幹として編成された師団である。
編成後の昭和19年6月、指揮下の部隊から第十二派遣隊を編成(後の独立混成第五八旅団となる。歩兵3個大隊・山砲兵1個大隊基幹)し、南方戦線に投入され、フィリピン・ルソン島の戦いに参加した。
一方師団主力部隊は昭和19年11月、中国・華北戦線に派遣され作戦に参加した。
同師団の一部将兵は終戦後も動乱の続く中国大陸で国共内戦に参加している。
部隊編成  創設時 
(終戦時)
   歩兵第九一連隊(秋田)
歩兵第一〇五連隊(弘前)
歩兵第一三一連隊(弘前)
山砲兵第四七連隊(弘前)

  第四八師団
   通称号   
編成 昭和15年11月30日
編成地 海南島
補充担当 台湾
解説 昭和15年11月に台湾混成旅団(台湾歩兵第一連隊・台湾歩兵第二連隊)と、第六師団から派遣された歩兵第四七連隊を基幹に編成された師団である。
昭和16年3月、援蒋ルート遮断作戦の為に華南の雷州・北海に上陸した。同地の掃討作戦を実施後、4月には福州作戦に参加した。
その後台湾の高雄に移動し訓練に従事する。
太平洋戦争開戦時にはマレー・シンガポール作戦に参加する予定だったが、途中で変更されフィリピン攻略作戦に参加した。師団は田中支隊・菅野支隊を編成しアパリ(ルソン島北部)とビガン(ルソン島北西部)を攻略した。一方師団主力はリンガエン湾に上陸、マニラに向け進軍したが、米軍のマニラ無防備都市宣言を行った。マニラの米軍はバターン半島に撤収したが、第四八師団はバターン半島には向かわず、蘭印攻略作戦に転用された。バターン半島攻略任務は第六五旅団に引き継がれた。
昭和17年3月、クラガン(ジャワ島東部)に上陸した師団主力は要衝スラバヤの攻略を開始する。蘭印軍の抵抗は弱く、1週間後の3月8日にはスラバヤ市内に突入、まもなく蘭印軍は降伏した。
さらに1個大隊規模の金村支隊を編成、セレベス島マカッサルとバリ島攻略を行った。
蘭印作戦後はジャワ島の警備任務に就いたが、その後チモール攻略作戦に参加。同島の掃討作戦に従事したのち、師団はチモール島に司令部を移す。一部兵力をシンガポール派遣したが、そのまま終戦まで同島の警備に就いた。
部隊編成  創設時 
(終戦時)
   台湾混成旅団 台湾歩兵第一連隊(台北)
台湾歩兵第二連隊(台南)
歩兵第四七連隊(大分) (第六師団より編入)

  第四九師団
   通称号   
編成 昭和19年1月6日
編成地 京城
補充担当 京城
解説 昭和19年1月に臨時編成が命じられ、京城・第二十師団の留守部隊と独立第六四歩兵団を基幹として編成された指弾である。
昭和19年5月、ビルマ戦線投入が決定した第四九師団は中継地であるサイゴン及びシンガポールへの海上輸送中に米潜水艦の雷撃により1,600名もの兵員を失った(輸送船2隻海没)。
ビルマに進出後、吉田支隊(歩兵第一六八連隊・山砲兵1個大隊基幹)は第三三軍の指揮下に編入され雲南方面に派遣された。林支隊(歩兵第一五三連隊・山砲兵1個大隊基幹)はエナンジョン油田北方での作戦に参加した。
その後師団はメークラーテ奪回作戦に参加。だがこの作戦は頓挫し南方に退却した。その後シッタン河東岸での防衛作戦中に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時 
(終戦時)
   歩兵第一〇六連隊(京城)
歩兵第一五三連隊(京城)
歩兵第一六八連隊(京城)
山砲兵第四九連隊(龍山)