解説 |
昭和15年11月に台湾混成旅団(台湾歩兵第一連隊・台湾歩兵第二連隊)と、第六師団から派遣された歩兵第四七連隊を基幹に編成された師団である。
昭和16年3月、援蒋ルート遮断作戦の為に華南の雷州・北海に上陸した。同地の掃討作戦を実施後、4月には福州作戦に参加した。
その後台湾の高雄に移動し訓練に従事する。
太平洋戦争開戦時にはマレー・シンガポール作戦に参加する予定だったが、途中で変更されフィリピン攻略作戦に参加した。師団は田中支隊・菅野支隊を編成しアパリ(ルソン島北部)とビガン(ルソン島北西部)を攻略した。一方師団主力はリンガエン湾に上陸、マニラに向け進軍したが、米軍のマニラ無防備都市宣言を行った。マニラの米軍はバターン半島に撤収したが、第四八師団はバターン半島には向かわず、蘭印攻略作戦に転用された。バターン半島攻略任務は第六五旅団に引き継がれた。
昭和17年3月、クラガン(ジャワ島東部)に上陸した師団主力は要衝スラバヤの攻略を開始する。蘭印軍の抵抗は弱く、1週間後の3月8日にはスラバヤ市内に突入、まもなく蘭印軍は降伏した。
さらに1個大隊規模の金村支隊を編成、セレベス島マカッサルとバリ島攻略を行った。
蘭印作戦後はジャワ島の警備任務に就いたが、その後チモール攻略作戦に参加。同島の掃討作戦に従事したのち、師団はチモール島に司令部を移す。一部兵力をシンガポール派遣したが、そのまま終戦まで同島の警備に就いた。 |