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第一飛行師団 |
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通称号 |
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鏑 |
編成 |
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昭和18年1月16日 |
解説 |
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本土に展開する飛行部隊を統括する組織として昭和13年6月に新編された第一飛行集団であったが、これは太平洋戦争開戦直後の昭和17年4月に解隊となった。その後昭和18年1月に北海道・北千島方面を担当する航空部隊として新編されたのが第一飛行師団である。
本来日米がお互いの本土を直接攻撃する際に、もっとも近いルートになるのがこの北方地域ではあるが、その気象条件の問題と地形問題により主戦場となりえなかった。
昭和17年6月、アッツ島・キスカ島を占領。ここを基点に航空戦力を展開させる予定では在ったが、立ち消えになってしまう。そこに米軍による侵攻によるアッツ島玉砕、キスカ島撤収により北方地域の重要度が増してきた。だが、やはり気象条件の問題から日米双方共に主戦場としては扱われなかった。
第一飛行師団がもっとも奮戦したのが、昭和20年8月のソ連軍侵攻時である。突如侵攻を開始したソ連軍に対し、少数の航空戦力で対抗し、既に終戦を迎えたにも拘らず侵攻を止めないソ連軍に対して交戦を続けたのである。 |
部隊編成
(飛行隊のみ) |
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第二飛行師団 |
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通称号 |
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鷲 (威) |
編成 |
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昭和7年6月6日 昭和17年4月15日、第二飛行師団と改称 |
解説 |
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在満州航空戦力として対ソ連軍用航空戦力として配置された航空集(師)団。指揮下の戦力は順次南方戦線に引き抜かれ、昭和19年5月には師団がフィリピンに転用される。
昭和20年5月に廃止された。 |
部隊編成
(飛行隊のみ) |
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第三飛行集(師)団 |
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通称号 |
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隼 |
編成 |
昭和14年9月 昭和17年4月、第三飛行師団と改称 |
解説 |
従来、中国戦線で運用されている航空戦力は在満州の航空戦力を派遣して対応してたが、対ソ戦用航空戦力が不足してしまうため、新たに中国北部で運用できる航空集団を新設することとなった。それが第三航空集団である。
華北担当の第一飛行団、華中担当の第三飛行団、華南担当の第二一独立飛行隊で編成されている。
太平洋戦争開戦に当り、マレー半島方面での航空戦力として転用され、戦力の大幅な増強が行われた。開戦直前に南部仏印に展開し、開戦と同時にマレー半島にて航空撃滅戦を展開。またマレー半島上陸部隊の船団護衛任務にも行う。
マレー作戦、シンガポール攻略戦、パレンバン空挺作戦、スマトラ攻略戦、ジャワ攻略戦といった序盤戦の航空戦を担当し、この部隊に配備された航空戦力は当時の陸軍航空の実に30%近い戦力である。
運用上、航続距離の短い陸軍機を有効に活用する為に、地上部隊が敵飛行場を占領するとただちに航空基地を前進させ、地上部隊の行動と併せて前線に兵力を進めた。コレにより地上部隊は常に制空権を確保し、航空支援を受けられる状態で進撃を続けた。
その後、支那派遣軍の隷下に入り、師団司令部は南京に移動する。
昭和19年2月、師団は廃止され、第五航空軍が新設された。 |
部隊編成
(飛行隊のみ) |
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第四飛行師団 |
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通称号 |
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翼 |
編成 |
昭和17年1月(2月?) |
解説 |
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部隊編成
(飛行隊のみ) |
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第五飛行集(師)団 |
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通称号 |
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高 |
編成 |
昭和15年12月2日 昭和17年4月、第五飛行師団と改称 |
解説 |
開戦前に台湾南部に展開し、開戦と同時にフィリピン航空戦に参加する。
但し、戦闘機隊は海軍機のように渡洋進攻出来ないため、バシー海峡のバタン島を占領後に同島に進出し、第十四軍の船団護衛に従事する。
地上師団がルソン島に上陸し、飛行場を占領すると、直ちに前進し、フィリピン航空戦に参加し、作戦に協力した。
昭和17年1月1日、第十四軍がルソン島マニラを占領。この結果を持って第五飛行集団はビルマ方面への転用が決定し、一部戦力をルソン島に残してタイに進出。このとき、第三飛行集団に転出していた第十飛行団(元々の所属は第五飛行集団)が戻り、2個飛行団体制に戻った。
ビルマ方面では第十五軍のビルマ進攻に伴い、飛行集団も前進し、インド方面に対する航空戦と、第十五軍に対する地上作戦協力を行った。
その後、英印軍の反攻が始まるとビルマで航空戦が継続され、終戦まで続くこととなる。最後には戦力を殆ど失い、プノンペンまで後退して、終戦を迎えた。 |
部隊編成
(飛行隊のみ) |
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第六飛行師団 |
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通称号 |
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洋 |
編成 |
昭和17年11月30日 (昭和19年7月25日解隊) |
解説 |
海軍からの要請により南東方面(ソロモン・東部ニューギニア方面)に進出することとなった新編の陸軍飛行師団である。中心となる戦力は満州方面から引き抜いた戦力であり、教導部隊や地上支援部隊である。そして第一陣として派遣された第十二飛行団はビルマ戦線から引き抜いた戦力であった。
ただし、第六飛行師団の主目的は東部ニューギニア確保が第一であり、ガダルカナルを初めとしたソロモン諸島に関しては二次的なものであった。ニューギニアに固執した理由がオーストラリアに対して侵攻するための足場として捉えていたためである。
昭和17年12月にラバウルに到着し、初の陸軍機によるガダルカナル島攻撃や、東部ニューギニア方面の航空戦・船団護衛任務に従事する。、ラバウル展開直後の12月22日にラバウルに飛来した米陸軍のB−17爆撃機に対し、第十二飛行団の一式戦『隼』3機が迎撃に上がったが、機体装備の貧弱さゆえに撃墜することが叶わず、陸将兵に対し失望の色を深め、自信を無くさせていた。
陸軍機によるガダルカナル島攻撃には航続距離の問題から途中に中継基地を設ける必要があった。陸軍用にニュージョージア島ムンダとコロンバンガラ島の2つが充てられる事となる。だが第六飛行師団の展開から、ガダルカナル島の陸軍部隊撤収までの僅かな期間に甚大な被害を蒙り、以後ソロモン方面は海軍機が担当し、陸軍機は主にニューギニア方面を担当することとなる。
当時、既に東部ニューギニアのブナは連合国軍により進攻を受け、ニューギニア東岸は泥沼の地上戦と化していた。第六飛行師団が展開した時点で既に防衛しきれる状況に無く、ブナ放棄は決定した。だが、ポートモレスビー攻略の足がかりとして占領したブナ、そしてラエの放棄はポートモレスビー、そしてオーストラリア侵攻に拘る陸軍にとって容易に放棄出来るものではなく、ラエの絶対死守が決定する。このため、増援として第五一師団のラエ輸送が決定し、この船団護衛を海軍と第六飛行師団が行った。
ラバウル出港した船団は海軍の護衛を受けつつ、そしてまた海軍機と協力しつつ上空援護につくこととなる。3月1日、米軍の哨戒機に発見された船団は3月3日に米軍機の攻撃を受ける。当時交代で船団上空警戒を行っていた陸海軍機であったが、攻撃当時は海軍機の受け持ちであった。だが防衛ならず、船団は全滅してしまう。これがダンピールの悲劇と呼ばれる海空戦であった。交代の準備の為、陸軍機(第十二飛行団・飛行第十一戦隊の14機)は船団上空に差し掛かったときに船団全滅の状況を確認するが、機上無線機の不備から連絡がとれず、陸海軍間の連絡、さらに第十二飛行団と第六飛行師団との連絡もロクに取れなかった。恐らく陸軍機が早急に戦場に辿りけたとしても、この悲劇を防げたとは思えなかった。そのため、陸軍では積極防空の一環として敵飛行場制圧作戦を行うこととした。そのため、ラエに進出していた飛行第一戦隊にラバウルに引き返すよう下命。だが3月5日にラエを発進した飛行第一戦隊は上空で米軍機の奇襲を受け、戦隊長をはじめ、多くの損害を出す。
以後、同地での戦力増強を行う為、師団司令部は戦闘機隊1個飛行団の増強を依頼いる。この増援依頼により派遣が決定したのが新鋭三式戦『飛燕』装備の第十四飛行団(飛行第六八戦隊・飛行第七八戦隊)であった。そしてこれが三式戦『飛燕』の実戦での最初の苦難と悲劇となった。
昭和18年4月、ガダルカナル島放棄後、ニューギニア方面に専念すべく師団司令部をラバウルからウエワクに移動させる。
戦力消耗の激しい第十二飛行団に交代して第十四飛行団が配備されることとなったが、実際にはさまざまな問題から進出が遅れ、ラバウルに到着したのは先発飛行第六八戦隊はともかく、第十四飛行団司令部と飛行第七八戦隊が到着したのは6〜7月になってからのことであった。その上増援部隊として送られてきた第七飛行師団と併せて指揮するために7月には上位組織として第四航空軍が新編された。そして第四航空軍の直轄戦力として第十四飛行団が取り上げられてしまう。
さらに進出してきた第七飛行師団が狭いウエワクに同居する形で進出した為、同地に戦力が集結することとなった。だが、この戦力終結は結果として悲劇を招くこととなった。
米第五空軍はウエワクの陸軍航空部隊に対して基本方針として手を出さず、刺激しないようにしてきた。だが、陸軍航空部隊が活発に動き出し、各飛行場に対して爆撃を行うようになってくると、ウエワクに対して一大攻撃を仕掛けることを決定した。
昭和18年8月17日、この日ウエワクの悲劇と呼ばれることとなる米軍機によるウエワク・ブーツ地区に対する一大空爆を行ってきた。結果として第六、第七の両飛行師団合計で稼動30機程度にまで戦力を失ったのである。(第六飛行師団は僅か18機のみ) 翌日も米軍機による空襲は続き、結果2日間で同地区の陸軍航空部隊は壊滅した。
以後も細々とでは在ったが航空戦は継続される。10月には第七飛行師団がウエワクから後退し、以後は第六飛行師団のみとなる。その第六飛行師団も昭和19年3月には後退し、後方のホーランジアに司令部を移す。同時に第四航空軍司令部もホーランジアに後退するが、それを追いかけるように米航空部隊にホーランジア空襲が起こる。この結果、第四航空軍司令部は逃げるように後退し、メナドまで下がってしまう。貧乏くじを引いた第六飛行師団であったが、さらに師団長の交代が行われ、4月11日に後任の師団長心得として稲田正純少将が着任し、今までの板花義一中将から交代した。だが、稲田少将は航空関係としてはスブの素人であった。
4月22日、ついに後退したホーランジアに対し、米陸軍部隊が上陸を開始。第六飛行師団は残存航空戦力を第十四飛行団長のもと後方、西に200km後退したサルミに脱出させ、自らは残存隊員・地上員と共に山中へ退却し、サルミへ行軍を開始した。現地守備隊を含めて7300名が4週間にもおよぶ死の行進の果て、サルミに辿り着いた時には多くの戦死者を出し、約半数の将兵を失った。
第六飛行師団は編成以来1年10ヶ月、昭和19年8月に解隊された。 |
部隊編成
(飛行隊のみ) |
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第七飛行師団 |
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通称号 |
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襲 |
編成 |
昭和18年1月28日 |
解説 |
第九飛行団を中心に一部背戦闘機隊、司偵部隊を加えて新編された飛行師団。南西方面(ジャワ島・スマトラ島・チモール島 等)を中心にオーストラリア北西地域を担当する航空部隊として編成され、陸軍機としては初めてオーストラリア(ポートダーウィン)爆撃を行った。同方面を担当していた海軍航空部隊がラバウル方面に転出していった結果として、ガラ空きとなった同地域の航空戦を担当した。第九飛行団は元々対ソ戦用として満州に展開していた航空団だったが、南方作戦の為に満州の第二航空軍から引き抜かれた部隊であり、スマトラ島に展開して海軍機の代わりにインド洋方面の哨戒飛行にも従事していた重爆飛行団である。
以後、シンガポールに司令部を置く第三航空軍の指揮下に在ったが、ニューギニア方面で苦戦する第六航空師団の増援部隊として新設される第四航空軍の指揮下に移って、昭和18年7月にニューギニア方面に展開することとなった。
但し、部隊の移動には全戦力をもって移動するわけではなく、パンダ海方面の哨戒任務洋として一部の司偵・軽爆戦隊、重爆中隊が残留することとなった。
ニューギニア進出に当たっては部隊の編成(重爆部隊が中心)上、司令部をブーツに移し、本隊はホーランディアに配置する。前線基地としてのウエワク、後方基地としてのセラム島を予定していた。これは重爆部隊故に、敵機に空襲されると被害が甚大となる為であり、後方基地の確保は必須であった。だが、現地地上部隊の上位組織である第八方面軍参謀により、この第七飛行師団案は却下される。曰く、一日でも早く激戦に慣らす為には前線であるウエワクに進出するべきだとのことであった。この航空部隊の実情を考えない提案は、結局押し通され、第七飛行師団はウエワクに進出することとなる。さらにウエワクは気象条件的に4月より雨季にはいっており、マラリア流行の兆しが見えていた。その上、既に第六航空師団や、第四航空軍の直轄部隊が展開している。そこに進出するのだから、現地の混乱は避けられなかった。
ウエワクに展開した第七飛行師団は作戦行動を開始する。この作戦行動に即座に反応したのが敵対する米第五空軍であり、ウエワクへの一大空襲作戦へと結びつく。8月17日より行われた米第五空軍による全力爆撃の結果、2日間でウエワクの航空戦力は壊滅状態に追い込まれたのである。
その後も、戦力再建を行い、パラオ〜ウエワク間の船団護衛任務に従事する。
9月21日、司偵部隊がブナかに東部ニューギニア・フォン半島に位置するフィンシュハーフェンに向かう敵船団を発見。オーストラリア部隊を輸送する米第七艦隊である。翌22日にはフィンシュハーフェンに敵部隊が上陸。船団護衛任務についていた第七飛行師団はそこから戦力を引き抜き、敵への攻撃に飛行第十四戦隊の重爆部隊を少数機ずつ投入する。だがこの程度で対応できるはずも無く、地上戦はどんどん不利になっていった。現地を守備する第二十師団は包囲され、10月には食料も無くなっていた。そのため、重爆による食料の空中投下を行った。また敵後方基地にあたるポートモレスビーに対して夜間爆撃も行ったが、既にその程度で戦局を左右できるような状況には無かった。同月、第七飛行師団は後方基地であるセラム島アンボンへと後退することとなった。
アンボンへ後退した第七飛行師団はジャワ東方海域で小船団護衛任務に従事する。
昭和19年5月、米軍は西部ニューギニア北西岸ビアク島に上陸を開始した。現地に第三六師団・歩兵第二二二連隊を基幹としたビアク支隊が守備につき、飛行第二四戦隊が配備されていた。だが敵制空権下で爆撃隊は近づくことも出来ず、結果二式複戦『屠龍』を装備する飛行第五戦隊が爆装して船団攻撃に当てられた。5月27日、飛行第五戦隊戦隊長
高田勝重少佐率いる4機の『屠龍』は敵艦隊めがけて爆撃を敢行。3機が撃墜され、1機が米駆潜艇SC699号艇に体当たりを行った。これが陸軍航空最初の体当たり攻撃とされている。(高田少佐は後に漂流中を救助され、生還)
その後も6月13日まで少数機による夜間爆撃を繰り返したが戦火は上がらず、ビアク島陥落によって攻撃は打ち切られた。
続いてハルマヘラ島防空戦を戦い、そして米軍によるモロタイ島上陸が行われた。モロタイ島に進出した米第十三空軍はマッカーサー将軍のフィリピン侵攻の足がかかり的な存在であり、第七飛行師団ではコレに対して双軽部隊による夜間少数爆撃を繰り返した。
だが、稼動機数が極端に減少している師団に有効な攻撃は行えずにいた。
10月、フィリピン・レイテ島に上陸した米軍は同地に米第五空軍を進出させ、モロタイ島の米第十三空軍は側面援護に回るようになる。コレに対し、大本営は第七飛行師団に対して『義号作戦』下命した。但し、これは直前で中止され、代わりに台湾出身の高砂族による切り込み隊が海路で送り込まれ、ゲリラ戦が展開された。
以後、第七飛行師団はレイテ島、モロタイ島への攻撃を続けるが、夜間爆撃は敵夜戦の進出により被害が増大していく。昭和20年には殆どの戦力を失い、名前だけの存在となっていく。
昭和20年7月24日、本土決戦が叫ばれるようになると、南方戦線の名ばかりの部隊は整理され、解隊となった。 |
部隊編成
(飛行隊のみ) |
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(注)
第七飛行師団の編成、特に第九飛行団に関しては配備された飛行戦隊についての資料に関して不明な点(勉強不足)が多く、正確に分かっていません。間違いがあるかもしれません。ご了承ください。 |
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第八飛行師団 |
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通称号 |
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誠 |
編成 |
昭和19年6月10日 |
解説 |
昭和20年、沖縄航空戦当時、台湾にあった航空戦力であり、同力の特攻作戦を指揮。
但し、本土に在って第八飛行師団に配備を下命され特攻隊に編成された部隊もあったが、その多くが南九州に展開した第六航空軍の指揮下に編入されて特攻作戦に従事し、台湾にまで辿り着かなかった部隊もあるという。 |
部隊編成
(飛行隊のみ) |
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第九飛行師団 |
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通称号 |
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翔 |
編成 |
昭和18年2月10日 |
解説 |
日本が戦争に踏み込んだ理由の一つでもあり、生命線とも言える蘭印のの油田地帯。それがスマトラ島のパレンバンである。その重要拠点を守るべく編成された航空師団が第九飛行師団である。他の師団と違い、油田を守る為の防空戦闘機と、高射砲連隊で編成された飛行師団であり、現地の守備隊であった第二五軍のパレンバン防衛隊を格上げし、尚且つ増強して新編された。そのため装備機も防空戦闘に向いた二式単戦『鐘馗』と双発複座の二式複戦『屠龍』を主に編成された。
また高射砲部隊も他の陸上部隊に配備される野戦高射砲部隊ではなく、固定陣地に据え付ける拠点防衛用の陣地高射砲部隊によって編成されていた。特に防空第一〇一連隊は新型の三式十二センチ高射砲を装備していた。(他の連隊は九九式八センチ高射砲) さらに防空用阻塞気球50個を配備する気球隊も配備されていた。
第九飛行師団は開隊後も開店休業状態のまま訓練に明け暮れる。そのため最初の実戦は昭和19年8月になってからであった。
8月む10日、インド・セイロン島に進出した米第一〇空軍・第二〇爆撃集団所属のB−29『超空の要塞』、39機によるパレンバン空襲であった。
但し、来襲が夜間であった為、迎撃に出撃できたのは飛行第二一戦隊所属の『屠龍』9機だけであった。この迎撃戦は良い所がなにも無く、ただ狼狽するだけの結果となり、戦果は上がらなかった。だがこの空襲以降B−29による空襲は無く、敵にとっては予行演習程度の空襲でしかなかった。むしろインドから成都に進出し、日本の北九州の工業地帯を狙う空襲が本命だった為である。
次の戦闘は昭和20年1月になってからであった。
昭和18年9月、同盟国であったイタリアが降伏する。この結果、地中海方面で活動していた英国空母部隊がインド洋方面に回されたのである。インド洋セイロン島コロンボを拠点にした英機動部隊はインド用東部のニコバル諸島に対してたびたび空襲をかけてきた。この作戦事態が米軍によるフィリピン進攻作戦(レイテ上陸)における陽動作戦の一環であった。
シンガポールに司令部を置く第三航空軍はこの英国機動部隊に対して、泊地に停泊中に奇襲攻撃を行おうと計画し、その実行部隊に第九飛行師団を指名した。但し、師団はその任務上爆撃部隊を装備していない。そのためスマトラ島に配備してあり、インド洋哨戒任務を行ってきた飛行第五八戦隊を第九飛行師団の指揮下に編入させたのである。
飛行第五八戦隊が装備する九七式重爆撃機の爆弾搭載量を500kgに減らして航続距離の延長をはかり、洋上飛行訓練を実施して陸軍版真珠湾奇襲とも言うべきプランを練ったのだが、いざ実施という直前、昭和20年1月に重爆は仏印方面に取り上げられてしまう。米軍によるフィリピン・ルソン島リンガエン湾への上陸が開始された為である。
そしてその直後、1月24日、英国機動部隊の4隻の空母から発艦した艦載機群がパレンバンを空襲したのである。第九飛行師団は迎撃機を上げ交戦するも、空中戦で14機を失い、地上で35機が撃破されてしまう。戦果は空戦・高射砲合わせて7機だけであった。さらに29日にも空襲を受け、精油所は炎上し、操業はストップした。(復旧し、操業が再開されたのは5月になってからであった。)
一方で一〇〇式司偵による索敵の結果、英機動部隊の位置を突き止めた師団では第三航空軍の特攻隊・皇楯隊所属の一式戦『隼』、二式複戦『屠龍』、九七式重爆による少数機ずつの攻撃隊を空母攻撃に向かわせる。積乱雲によりレーダーを持たない日本機による捕捉は困難を極めたが、九七式重爆の1機が空母を発見し、『われ突撃す』の打電後、特攻を行った。その後他の1機も突入したが、戦果は上げられなかった。(この特攻隊は空母『イラストリアス』至近の海面に突入したらしい。だが日本側では空母を損傷させたものとして誤認し、特攻隊に対して南方軍総司令官
寺内元帥から感状が授与された。)
一方、第九飛行師団では、第三航空軍がこの特攻隊を最終局面まで温存しておく予定であったところ、独断専行で全滅させたとされ、風当たりが強くなったらしい。
航空戦力をほぼ失った第三航空軍により、第九飛行師団では独立飛行第七四中隊(一〇〇式司偵3機・独飛七一中隊とする資料あり。)を取り上げられ、スマトラ島メダンからインド洋哨戒任務を実施する。この司偵部隊が昭和20年2月28日、再び英機動部隊を発見する。但し、それは護衛空母より編成される部隊であった。
この部隊に対して一式戦『隼』で編成される特攻隊が出撃した。(戦果なし)
続いて4月11日、北スマトラ島が英機動部隊の空襲を受け、独立飛行第七一中隊による特攻隊が出撃した。(特攻2機、直掩5機、損失3機、戦果2隻撃沈(日本側報告による))
他の航空部隊部隊はビルマ・ニューギニア方面での地上戦に対しての協力の為、戦力を抽出しており、第九飛行師団も、もはやパレンバン防空だけとは行ってられない状況であった。このため、本来海軍が行っていた任務まで行った結果の艦船攻撃であった。
第九飛行師団は終戦を迎え、オランダ軍に降伏し、降伏調印式を行った。 |
部隊編成
(飛行隊・他) |
昭和19年5月ごろの編成 |
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パレンバン防衛隊 |
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飛行第二一戦隊(戦闘機) |
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飛行第二六戦隊(戦闘機) |
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飛行第八七戦隊(戦闘機) |
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独立飛行第二四中隊(戦闘機) |
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独立飛行第七四中隊(司偵) |
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高射砲第一〇一連隊(高射砲) |
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昭和19年4月19日、防空第一〇一連隊(高射砲)を改称 |
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高射砲第一〇二連隊(高射砲) |
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昭和19年4月19日、防空第一〇二連隊(高射砲)を改称 |
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高射砲第一〇三連隊(高射砲) |
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昭和19年4月19日、防空第一〇三連隊(高射砲)を改称 |
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機関砲第一〇一大隊(高射機関砲) (*配備時期不明) |
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第一〇一防空気球隊(気球) |
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バンカランプランタン防衛隊 |
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独立飛行第七一中隊(戦闘機・司偵) |
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野戦高射砲第六七大隊(高射砲) |
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昭和19年8月7日、高射砲第一〇四連隊(高射砲)に改編 |
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機関砲第一〇二大隊(高射機関砲) |
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第十飛行師団 |
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通称号 |
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天翔 |
編成 |
昭和19年3月8日 |
解説 |
帝都防空担当の航空師団 |
部隊編成
(飛行隊のみ) |
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第十一飛行師団 |
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通称号 |
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天鷲 |
編成 |
昭和19年7月15日 |
解説 |
関西及び中京地区の防空担当航空師団 |
部隊編成
(飛行隊のみ) |
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第十二飛行師団 |
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通称号 |
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天風 |
編成 |
昭和19年7月15日 |
解説 |
西部地域・九州方面担当の防空師団 |
部隊編成
(飛行隊のみ) |
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第十三飛行師団 |
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通称号 |
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隼魁 (隼?) |
編成 |
昭和20年3月7日 |
解説 |
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部隊編成
(飛行隊のみ) |
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