一式戦闘機『隼』 |
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開発経緯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
陸軍初の全金属製低翼単葉戦闘機として誕生した九七戦(九七式戦闘機)の後継機として開発されることとなったのが中島のキ43であり、後の一式戦闘機である。 1937年、昭和12年の研究方針で定められた戦闘機計画の内の1機であり、翌13年に研究方針改正の後計画された軽単座戦闘機として開発がスタートした。 本機は中島飛行機1社に対してのみ試作発注された。 要求性能は以下の通り。 |
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軽戦の極致とまで言われた九七戦の格闘戦性能を残したまま速度性能の向上を狙う・・・現在の目から見れば無謀とも言うべき要求であったが、中島はこの陸軍の要求に対し九七戦を引込脚化し発動機を1000馬力に強化することによって速度性能の向上を狙い、徹底的な軽量化によって格闘戦性能の向上(九七戦の格闘戦性能を維持)を目指した。 キ43の第1号機は1938年(昭和13年)12月12日に初飛行した。だがこの試作機では要求された速度性能に達せず、水平旋回の半径及び時間も九七戦に及ばなかった。その上審査中に勃発したノモンハン事件において部隊配備の進んでいた九七戦部隊がソ連軍新鋭機を相手に大戦果を上げており、九七戦の評価は頂点に達している時期であった。 九七戦と比較されるキ43にとっては極めて不利な状況であった。この為陸軍では九七戦の更なる軽量化による性能向上案と、発動機強化による高速化を狙った案の2通りで検討を進めていくこととなった。 だが九七戦を運用している前線の部隊からは九七戦の航続力増大と武装強化を求める要望が上層部に上がってきており、運用部隊と開発陣の意見の相違が見られた。 実際、試作されたキ43は実戦部隊からの要望に充分答えられる資質を秘めていながらも、九七戦のノモンハンに戦果によって間違った方向に進もうとしていた。 結局キ43否定論が強く、改良は速度性能、上昇力を強化する方向で開発が進められていくこととなった。陸軍の考える主力戦闘機は格闘戦至上主義であったため、この点でキ43は陸軍戦闘機の主流からは大きく外れることとなり、陸軍主力戦闘機としての採用は絶望視されるようになる。 |
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キ43の復活 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
1939年(昭和14年)11月、増加試作機が完成し、試験飛行に入る。併せて『第三次審査計画』によるキ43の性能向上実験が行われた。 改修の第一案は引込脚を中止して九七戦同様の固定脚とすることによって重量軽減を行うこととなった。だが結果は最大速度の低下を引き起こし、また期待したほどの空戦性能の向上が認められなかった。この改修結果、急遽九七戦改造計画が持ち上がる。第一案徹底案と呼ばれる本計画はキ43で無理ならばより軽戦として理想的な九七戦をさらに軽量化することによって、より性能の高い軽戦を生み出そうとしたのである。3機が新規に製作され1940年(昭和15年)7月に第1号機が完成するが、その時点では情勢が変わっており、また本来のキ43の審査とは離れたものとなっていく。 第二案は発動機の強化による高速化が試みられた。高速化により九七戦には無い長所を延ばそうという計画であり、増加試作8号機(5号機説有)、9号機にハ105二速過給器付を搭載、また定速可変ピッチプロペラを装備して飛行実験を行う予定であった。だがハ105の供給が間に合わず、飛行実験は当初のハ25のままであった。 飛行実験の結果、九七戦に比べ旋回性能こそ劣るが他は当時の戦闘機として極めて良好であった。だが・・・ 遅れに遅れたハ105は結局失敗作であった。振動、油圧低下、異常加熱等により不採用となる。 速度と上昇力で九七戦を上回ろうとしたキ43(第二案)ではあったが、当初のキ43の評価を覆すことは出来なかった。この為キ43の採用は絶望視されるが、翌1940年(昭和15年)に入ると情勢の変化によりキ43は再評価を受けることとなる。南方侵攻作戦である。 陸軍が東南アジア方面への進出(侵攻)を計画するに当たり、遠距離戦闘機の整備を行う必要性が出てきたのである。 参謀本部は1940年(昭和15年)8月頃、飛行実験部に対し南方作戦に必要な遠距離戦闘機の提案を求めた。仏印の基地からシンガポールまで往復可能な航続距離として行動半径1000kmを持つ重爆撃機護衛機を要求したのである。 そして飛行実験部はこの要求に対しいくつかの案を提案したが、その本命はキ43を用いた遠距離戦闘機構想であった。 飛行実験部はその方向性に合わせて再審査することとなり、復活となった。これがキ43遠戦仕様である。 遠距離進出を可能とした定速可変ピッチプロペラや、落下式増槽の装備により大航続力を持った侵攻戦闘機として、また垂直面での旋回性能を重視することにより格闘戦性能も再評価の対象となった。ただし発動機は不具合の多いハ105ではなくハ25のままとし、武装は13oと7.7oの交換装備とされた。これは13o機関砲の開発が間に合わないと予想された為の措置であった。 これらの結果としてキ43の評価は九七戦に劣らない戦闘機として落ち着き、量産体制へと移行していく。だが、このキ43の量産配備命令も陸軍のもう一つの新戦闘機キ44の補助戦闘機として考えていたと思われる。 最初の一式戦闘機T型は飛行第五九戦隊と飛行第六四戦隊に配備され、九七戦からの機種改編を行っていく。 余談だが、開発会社である中島飛行機ではキ43は不合格との内定を貰っており、『キ43遠戦仕様書』による急速整備が命じられたときには治具は片付けられてしまっていたという |
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一式戦T型 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
量産命令の下ったキ43ではあったが、試作機(増加試作機)の段階での急速整備を命じられた為、発動機の換装、機体の改設計も行わず、ほぼ試作機の状態のまま量産化された機体である。本来ならば量産されるはずの無かった機体とも言える。 その為、機体の強度不足が露呈し空中分解を繰り返すこととなる。一式戦闘機T型(キ43-1)として採用された機体は応急処置と武装の一部変更のみを行って太平洋戦争に突入することとなった。 根本的な改修はU型(キ43-2)から行われている。 T型は開戦前に約100機が完成していたが、南方戦線に投入された機体は少数機だけである。これは上記改修作業を伴なう大規模な機体入れ替え作業が行われた為である。ただ機体の強度不足による不安は完全には解消しなかったらしい。 T型は武装の違いによるタイプが存在するが、これは便宜上付けられたタイプであり、正式なものではない。陸軍内部に甲・乙・丙と付けられた名称は存在せず、戦後生産元である中島飛行機の社内記録と回想(その他各航空機製造メーカーの記録)によって編纂された『日本民間航空機工業史』に記録されたものであるとも言われているが、実際のところは不明。 |
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前述したように陸軍の公式文書に一式戦闘機T型に関する武装の指示をしたものは無く、有るのは乙型に相当する機関砲1門、機銃1丁となったものだけである。機関砲2門搭載の指示はU型からである。戦線の部隊、特に九七戦運用部隊からの武装強化の要望として12.7o機関砲2門搭載の要望があり、丙型はU型に先立っての武装強化改修であったと思われる。 |
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『隼』の命名 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
陸軍は国民に対して宣撫する際に正式名称(一式戦闘機)では難しいと考え、新聞報道などで新鋭機に愛称を付けて宣伝することにした。 『隼』は陸軍戦闘機最初の愛称であり、当初は飛行第六四戦隊(所謂加藤隼戦隊)の部隊名であったが後に一式戦闘機を『隼』と呼称するようになった。国民の前に初めて『隼』の名前が公表されたのは太平洋戦争開戦直後の各新聞紙上であり、一式戦の写真と共に1942年(昭和17年)3月8日に公表された。 この命名は陸軍航空本部のスポークスマン 西原勝少佐の独断によるものであったと言われている。その背景には前年に公表された海軍の新鋭戦闘機(零戦)に対抗して陸軍の新鋭戦闘機としてインパクトある名前を付けた為とも言われている。またもう一つの理由として公表した1942年(昭和17年)にはもう一つの新鋭機、二式単戦(キ44、後の『鐘馗』)が存在し、一口に新鋭機と表記した場合に混乱が生じる可能性があったためとも言われている。 以後、陸軍戦闘機にはこうした愛称が付けられていくこととなった。 |
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一式戦U型 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
南方作戦を考慮して準備を進めたキ43だが、急速準備を進め、T型量産を行う一方で第三次審査計画第二案による高速化改修作業も行われていた。キ43Uとして試作が開始された。1941年(昭和16年)6月のことである。 二速過給器付発動機に換装し、試作段階で判明したキ43の改修箇所を根本的に改修した機体とされた。改修箇所はだいたい以下の通りである。 |
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既にT型の項目で書いたが機体強度の問題はT型の配備後に頻発し、徹底的な機体強度問題を解決させる必要が生じた。 また発動機もハ105が不適格と判断された時点で直ぐに別の発動機選定が開始された。ハ25に代わる発動機として選定されたのがハ105の改良型ハ115である。これは海軍の栄二一型発動機の陸軍版である。この発動機を搭載したU型の量産型第1号機で全備重量で515km/hを記録した。(但しこの機体は主翼形状等がT型と同じ機体) U型は発動機関係の差異によりいくつかのタイプが存在する。 |
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以上のような分類に分けられているが、U型は製造期間が非常に長く、各タイプの過渡期にあたる機体では装備によって形状が違う機体が存在するものと思われる。また着陸灯、爆弾投下装置の形状なども途中改良されている為、正確に分類は不可能と思われる。またこの区分も陸軍内部の呼称ではなく、戦後記録を纏めた際に使われたものであり、中島飛行機での社内名称とされているが詳細は不明である。 そして実戦部隊に配備されたU型は上記の分類とは別の区分が存在し、上記分類は瑣末的なものでしかなかった。最大の区分は機体に下げる落下式タンクの違いによるものであった。 中島製6150号機付近からと思われる機体より落下式タンクの形状が変わったのである。(昭和18年10月頃:多分 乙型?) それ以前の落下式タンクを「専用型」、これ以降の形状を「統一型」とし、落下式タンクの規格化、合理化を目的としていたが、最大の目的は戦闘機の運用変化であり、統一型タンク用の懸吊架は爆弾架と同じものであった。すなわち戦闘爆撃機としての使用を前提としたものであった。 内翼に搭載されるタイプが専用型であり、外翼に搭載されるタイプが統一型である。そして両者に互換性が無く、混用することが出来ない為、明確に分ける必要性があった。しかも一式戦闘機はその運用上長距離侵攻が多く、落下式タンクは必須装備の一つである。それが旧型(専用型)を装備する部隊に統一型タンクが補充されるという事態が発生した為、部隊では「専用型」「統一型」と区分する必要性が生じたのである。 上記の件を含め、U型の部隊における区分は「専用型」「統一型」そして速度性能が違う「単排気型」の3種類に区分されたのである。 |
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一式戦V型 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
1943年(昭和18年)末、一式戦に関わる装備で一つの動きがあった。 搭載発動機である『栄』に水エタノール噴射装備することが決まった。これは海軍で栄三一型として生産され、零戦五三型丙に搭載されるようになるが、同様に『栄』の陸軍版であるハ115も新たに水エタノール噴射装置付ハ115Uとして一式戦に搭載されることが決まった。これが一式戦V型である。 発動機の変更に伴なって研究が進められた一式戦V型は1944年(昭和19年)3月の『一式戦性能向上』打合せから本格的に始動し、まず3機が試作されることとなった。だがこの時点ではハ115Uの詳細がはっきりしていなかった。また機体は単排気管型に改造・用意され、試作機が完成したのは同年4月中旬(15日?)のことであった。最終的に発動機の仕様が決定すれば6月から生産に入れる見通しがたった。 V型の生産に当たっては当時四式戦『疾風』と、その搭載発動機であるハ45(海軍名称『誉』)の生産に追われる中島飛行機に負担を掛けないようにする為、一式戦U型の転換生産を行っていた立川飛行機で行われることとなった。また発動機であるハ115Uの川崎航空機にて転換生産されることに決定した。(川崎は同じハ115を九九双軽用に生産していた為) また武装に関しても変更が計画され、20o砲搭載型か研究された。この20o砲搭載の機体はV型乙と呼ばれる機体となる。 ハ115Uの水エタノール噴射装置の仕様に合わせて2機の試作機が生産され、まず立川飛行機内で生産されていたU型の内、50機分がV型に改造されることとなった。単排気管もU型用の推進式単排気管を流用出来るとの見込みがついた為、僅かとはいえ工期の短縮も可能となる。またこの頃からハ115Uは陸海軍統合名称によりハ35発動機三二型と呼称が変更となった。 V型での航空審査部からの要望により無線装備も従来の『九九式飛三号』から『四式飛三号』に換装されたと言う。 立川製一式戦はV型の生産を7月より開始し、合わせて生産していたU型は9月に最後の引渡しが行われて生産を中止した。 V型は武装により甲・乙の2種が存在する。だが乙型は上記の20o砲2門を搭載したタイプを指すが、実際に搭載を研究し、計画されたのは11月になってからである。陸軍機試作機整理が行われたときに一式戦の性能向上としてV型計画時に研究課題となっていた20o砲搭載案を実施し、2機の試作機が改造された。だが当時既にフィリピン航空戦において一式戦を特攻部隊用に運用する方針が固まりつつあった為、無用の改造計画としてV型乙は中止となった。結局乙型は試作機2機のみであり、その他のV型は全て甲型となっている。 |
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一式戦四型 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
四型は軽金属材料節約のために胴体後部の木製化を検討した機体である。これは四式戦『疾風』などにも計画されたが、結局上記の試作機整理が行われた際に中止にとなったらしい。(その後も開発を行っていたのかは不明) |
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一式戦の部隊配備と評価(1) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
太平洋戦争開戦当時から運用し、終戦の日まで戦い続けた一式戦だが、部隊での評価はどうだったのか。 最初に一式戦T型を運用した部隊は前記の飛行第五九戦隊と飛行第六四戦隊である。その後次々と九七戦部隊が一式戦に機種改編していくが、戦前に疑問視されてい九七戦との比較評価は実戦での戦績により完全に一式戦が勝った。だがT型について回った構造的な強度不足は深刻であり、多数の機体が空中分解によって失われている。元々格闘戦至上主義に陥っていた陸軍航空では旋回性能を重視していた為、特に強度不足は深刻であった。 また12.7o機関砲にも問題があった。元々7.7oだった機銃だが、武装強化のために12.7oに変更され、開戦時には少なくとも1丁は12.7oに交換した乙型で戦争に臨んだ。だが初期の新しい機関砲は整備上の不手際も重なり、故障が続発した。いざ戦闘という段階になって機関砲が発射されないのである。この為、部隊によっては2丁搭載している12.7o(丙型)の内、1丁を7.7oにして運用していた部隊もあったようだ。 一式戦本来の形式ともいえるU型の部隊配備はT型からの機種改編という形で行われた。部隊単位で配備が行われ、特にビルマ航空戦では雨季により航空戦が中断される時期に合わせて機種改編している部隊もある。だがそのまま現地でT型を使用しているケースもあり、一概には言えない状態となっている。 U型を受領した部隊では従来のT型に比べ武装が12.7o2丁になったことにより強化されたことを喜ぶ声もあったが、それでも武装の貧弱さを嘆き、せめて4門装備の要望を上げている。 肝心の速度性能は向上しているが、それに関する感想等は特に無いようだ。むしろ100オクタン燃料を使用したことによる好調さを記録している。同時に固定式爆弾架を装備していることにより速度が低下しているとも報告している。 整備に関しても発動機に圧縮比が増大したことによる無理が生じていることや、空輸中に整備不良で半数が前線まで届かないなどの報告もある。だがこれは生産体制が悪化し、乱造品が多くなった戦争中期以降どの部隊、どの航空機にも見られる状況である為、特にU型だけの問題とは言えないだろう。 V型への機種改編はU型の場合とは違い、一式戦部隊への逐次補充という形で行われた。従来のT型・U型が失われていくことにより順次主力機となっていった感じである。部隊におけるV型の評価は正直余り良くはない。通常新型機が配備されれば最初に搭乗するのは戦隊長を初めとする指揮官クラスなのだが、部隊によってはそのままU型改を使用しているケースも見られる。(U型改の場合、発動機以外はほぼV型と同じ) これは発動機に装備されている水エタノール噴射装置の整備に経験の少ない部隊が多く、生産開始直後の不具合が重なっての評価と思われる。 これらの整備上の問題と、乱造が重なり、フィリピン戦(昭和19年10月以降)の一式戦部隊の稼働率が低くなっていく。 また一部の部隊では襲撃飛行戦隊からの機種転換部隊も存在する。襲撃機、重爆撃機の損傷率が高まり、規模の縮小と戦闘機部隊への改編が要望された。その結果、襲撃飛行戦隊の戦闘機への機種改編を参謀本部が認め、一部の部隊が一式戦を装備するようになる。U型の後期生産型、及びV型は統一型落下増槽装備機であり、これは爆弾架兼用であった。その為戦闘爆撃任務と邀撃任務を兼用したのである。フィリピン戦で活躍した元襲撃飛行戦隊の一つが飛行第三一戦隊である。そしてこの一式戦による襲撃戦法こそ戦争末期の一式戦部隊の典型とも言える。可能な限り大量投入を目指し邀撃戦と爆撃・襲撃戦を行う軽戦闘機。もはやかつての単機格闘戦なぞろくに訓練することなく、いや必要なく、そして特攻機として使われることとなる。 |
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一式戦の評価(2) 零戦との比較 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
(以下は管理人の個人的評価がかなり含まれます) 海軍の零戦(零式艦上戦闘機)に次ぐ日本第2位の生産数を誇る一式戦だが、零戦と比べての評価はどうなのだろうか? かつての零戦無敵神話はかなり崩れてきている昨今だが、では一式戦はどうなのか。日本のレシプロ機といえばまず『零戦』、そして『隼』であるが・・・実際には『零戦』と『その他』と言っても良いだろう。そして『その他』の代表が『隼』と言われている。(・・・と書いている資料本もある。まぁこれには異論もあるだろうし、『隼』以外の機種が上がることもあるだろう。) 一式戦の特徴と言えば・・・貧弱な武装、脆弱な構造、遠大な航続距離・・・と言ったところだろうか。私自身そう思っていた時もある。 だがあまり語られていないこともある。たとえば防弾装備について。零戦といえば贅肉をそぎ落とし、武装に大口径20o砲を搭載し、防弾性能は無く、攻撃こそ最大の防御とし運用され、米軍にしてクレイジーと言わしめた化け物である。そしてその防弾性能が皆無故に後期型になって防弾を施したら重量が増加して運動性能が落ち、また練度の落ちた搭乗員にとって扱いづらく多数の将兵の命を失ってしまった。 では一式戦の防弾性能はどうだったのか? 一式戦は当初よりごく普通に防弾装備を備えていた。時代的なものもあり、7.7oクラスに対応したものだったとはいえ、開戦時には7.7oを受けても発火しない程度の防弾性能は有していた。これは陸軍戦闘機では初の防弾装備戦闘機である。また操縦席背面の防弾装甲は昭和18年度の段階で標準化されている。人命無視が日本機の特徴のように捕らわれていることもあるが、日本機の半数を占める陸軍機では当たり前のように防弾性能を有しているのだ。 零戦を戦略戦闘機たらしめている航続距離に関してだが、零戦では航続距離3,000kmを誇る遠大な航続距離を持っていた。では一式戦ではどうだったか? 一式戦の前身、キ43が不採用の内定を受け、採用に待ったを受けた昭和15年8月、参謀本部の欲した南方作戦用の遠距離戦闘機の開発に飛行審査部が回答した案の一つがキ43の使用であった。これは元々キ43が遠距離運用に適していた為である。ではキ43の試作段階で求められた航続性能とは? 要求仕様によれば行動半径800km以上であった。これは胴体内タンク+落下式増槽の合計を巡航速度・燃費で計算すると航続距離は2,554kmに相当する。さらに第三次審査計画において要求された遠距離戦闘機仕様、そして量産化されもっとも航続性能の高かった一式戦U型の専用型落下増槽を装備した機種ではカタログ値で3,267kmを誇っていた。元々航続性能を求めた理由の一つが広大な中国大陸での運用にあった為である。なにより日中戦争当時の前線から要望に航続性能と、そして防弾性能があった為である。(航続性能に関しては海軍機も同様) 次に武装である。初期のT型は12.7oと7.7oの混用だが、U型以降は12.7o×2門である。 一方零戦は五二型以降強化されていくが、前半は20o×2 7.7o×2である。またこれはかなり強引な考え方だと自覚しているが、零戦の20oは弾道のタレが大きく、対戦闘機戦闘では必ずしも有効とは言えなかったと言われている。よほどのベテラン搭乗員でないと20oは敵戦闘機との空戦で当てられず、またベテランほど7.7oを重宝していたとする記録・回想がある。 一方、敵爆撃機邀撃にこそ火力不足を感じるが、敵戦闘機との空戦においては12.7o2門を持つ一式戦の方が有利なのではないかとさえ思える。ただ実際には一式戦部隊は敵爆撃機迎撃にかなり苦戦している為、この指摘が正しいとは言えないが。 結局、一式戦と零戦を比較した場合、零戦と同等(いや、それ以上)の航続距離を持ち、日本機には無いとさえ思われている防弾性能を持ち、火力不足ながらもある意味では零戦以上とも言える12.7o2門を有する一式戦。贅肉を落とした零戦とは言われるが、それ以上に翼に銃を搭載することも出来ないほど軽量化を徹底したのが一式戦である。もっとも軽量化しすぎたせいか、構造強度不足に陥ったのだが。 一式戦は言われているほど零戦に劣る機種ではないと思っている。 もし一式戦に零戦に劣っていた所が有るとすれば、それは運用・教育面が大きいだろう。広大な大陸での運用を目指した陸軍航空隊にとっては地形を見て位置を把握する方法が取られており、目標物の無い海上での運用が不可能だったこと。(それでも運用した部隊は有る) さらに陸軍機が一式戦以降も順次新型機を開発・配備していったことだろう。海軍は事実上零戦だけで戦ったといっても良い為(実際には紫電・紫電改・雷電・月光等がある)、ネームバリューと生産数で零戦に軍配が上がっている。 そして太平洋戦争の主戦場が中部太平洋とソロモン方面であり、そこは海軍の担当区域でもあった。もちろん陸軍機もソロモン・ニューギニア方面に進出してはいるが、ソロモンでは海という難敵によって阻まれ、ニューギニアでは派遣した部隊にいささか問題もあった。(二式複戦や三式戦部隊) 一式戦と零戦、単純に比較しても意味の無いことではあるが、零戦に比べて不運だったのは間違いが無い・・・色々な意味で。だがハードウェアとしてみた場合、決して零戦に劣る機種だとは思えない。 |
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(・・・と自分に言い聞かせてみている(笑)) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
一式戦の諸性能 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
以下に示す数値は参考程度に・・・機種によって計算条件が違う場合もある為。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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