三式戦闘機『飛燕』 五式戦闘機 |
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始めに・・・ | |||||||||||||||
陸軍航空隊にあって不運続きであった機体、液冷戦闘機『飛燕』 太平洋戦争を戦った数多くの日本陸軍戦闘機の中で唯一の液冷発動機を装備したのが本機、川崎航空機の作り上げた三式戦闘機『飛燕』である。 本機を語るのに『不幸』という代名詞がぴったりなのは残念な事だが、事実本機の歴史は不幸であった。そもそもの始まりは本機がその心臓部たる発動機にドイツからライセンス生産権を買った液冷発動機・ダイムラーベンツ『DB601』を選択した事であった。 優秀な発動機であったが・・・このあたりのことを踏まえて本機の解説をしたいと思う。 |
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重戦闘機『キ60』の開発 | |||||||||||||||
日本陸軍が太平洋戦争で実戦に使用した唯一の液冷戦闘機『飛燕』。そしてその改造型である『五式戦』。 この2つの不幸な戦闘機が誕生したのは1940年(昭和15年)2月のことであった。当時、ドイツから入手した液冷発動機DB601を国産化することに成功しそうだとの情報を元に、これを搭載する戦闘機の試作を川崎航空機に提示したのである。 当初はオリジナルのDB601Aa(ライセンス生産用のオリジナル発動機)を搭載する事にした『キ60』と、DB601の国産版『ハ40』を搭載する『キ61』の2機の試作要求であった。 この試作要求に対し設計を開始したのが川崎飛行機・第1設計課長、土井武夫技師であった。 では飛燕を説明する上で、絶対に欠かせないキ60から説明していこう。 陸軍から開発を要求された川崎航空機・土井技師はまずキ60の開発から着手する。キ60に対する指示は重戦闘機仕様であり、対してキ61は軽戦闘機仕様の要求である。 この指示は同一の性能の発動機を使用してまったく正反対の機体を開発せよという意味であり、本来陸軍のお家芸とされたのは軽戦闘機である。よってキ61が本命であった事は間違い無いであろう。おそらく重戦闘機の指示は本来このDB601が搭載されていた独空軍のメッサーシュミットBf109に刺激されたものではないだろうか。ただいきなり重戦闘機を作れとの指示も難しいと判断した陸軍側が試験的に開発を要求したと思われる。これをステップに本格的な重戦闘機は次期開発でということだろうか。 土井技師が2つの機体の内、先にキ60の開発から着手した理由ははっきりしていない。陸軍側はとくにどちらから開発せよとは指示していないためである。だが、既に現物の発動機が存在する以上キ60の開発から着手したのは当然の事だと思われる。 キ60に対する陸軍の性能要求 (1) 重戦闘機 (2) 速度:最大速度550km/h以上 (3) 武装:20o機関砲2門・12.7o機関砲2門 簡単に示せば上記のようなものであった。この時の指示に出てくる20o機関砲だが、これは陸軍航空機用として初めての事である。もっとも先に20o機関砲を搭載する事となる機体は存在するが、この要求指示でどのような機関砲が搭載予定だったのかは不明である。この時点で陸軍には航空機用20o機関砲の開発構想すら出来ていない為である。ただ、海軍が零式艦上戦闘機用にスイスのエリコン社製20oFF型機関砲のライセンス生産型の搭載が決定していた為、これに対抗して20o機関砲の搭載を指示したと思われる。 重戦闘機である以上、運動性よりもまず速度である。同じ発動機を搭載するメッサーシュミットBf109E型を比較対象とし、翼面荷重を162.2uという今までの日本機では考えられないほど高い数値を目指した。ただ土井技師が運動性能を完全に無視していたと言うわけではなく、必要な運動性能の確保に努めたことは各データからも判明している。 また液冷発動機を装備する本機の最大の問題が冷却器(ジェネレーター)の設置位置である。通常、多くの機体では発動機の真下か主翼付け根に設置される事が多いのだが、キ60では胴体下部に設置された。これは後から開発されたキ61も同様である。この位置に冷却器を装備した機種で有名なのはなんといっても大戦末期の最優秀機とも言われる米陸軍のP-51ムスタングであろう。また同時期に海軍の空技廠の13試艦爆(後の彗星艦爆)は発動機の真下に装備している。冷却器1つにしても開発者の考えで随分変わる物だと言う事が良くわかる。 キ60の試作機が完成したのは1941年(昭和16年)3月のことであり、開発開始から1年が経過していた。 しかし初飛行では地上試運転の段階で冷却器の水温が異常上昇し、発動機の全開運転ができなかったと言う。これは機首下に装備された滑油冷却器用空気取入口廻りの設計ミスであった。一部設計変更を施し、若干の重量増加を招いたが飛行テストの結果は560km/h(高度4,500m時)、高度5,000mまでの上昇時間6分と一応の性能要求をクリアーした。(ただしこの時点では武装無しである) 同年7月には各務原飛行場にて輸入したBf109E−7との模擬空戦を行っている。当初Bf109に搭乗したドイツ人パイロット・ロージヒカイト大尉は日本の演習法に馴染めずドイツ空軍本来の飛行に終始、結果として性能比較にならないという結果に終ったが、数日後に日本人パイロットが搭乗しての比較結果、上昇力・速度で同等、空戦性能で同等以上との結果を示した。尚、この比較試験にはキ44(鐘馗)も参加しており、これも速度・加速性能・上昇力共に遜色なしと評価された。そしてこのキ44とキ60による比較性能試験が行われている。結果的には同じ重戦であってもキ44の方が空戦性能に勝り、速度もいくらか勝っていた。この格闘戦の結果はキ44に空戦フラップが装備されていた為といえる。 以上のような成績を収めたキ60ではあるが、結局試作機3機の生産をもって開発は中止された。原因は2つ。重戦闘機として開発された本機よりも先に開発され、既に審査段階まで進んでいるキ44が同等の性能を持っていると判断された為である。 そしてもう1つ、そして最大の理由がキ61がそれ以上の性能を示したからである。 |
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中戦闘機『キ61』の開発 | |||||||||||||||
液冷発動機DB601の本命機・キ61の開発はキ60に遅れる事1940年(昭和15年)9月のことである。各部署から関係各員があつまった懇談会で陸軍の軽戦闘機に対する要求性能が意見されたが、土井技師はこれにとらわれることなく設計を纏めていく。陸軍関係者が提示した要求が伝統的な格闘戦を主体とした構想であり、それはつまりノモンハンで負けたことへの経験と反省がまったく活かされていないものであったからである。武装よりも、速度よりも、なにより運動性の向上を要求したのである。 土井技師の目指したキ61、それはあらゆる状況下で敵機に勝ちうる戦闘機の開発であり、キ60との同時開発では最初からキ61を本命視していたように、この機体を軽戦・重戦にとらわれない『中戦』という新しいカテゴリーを作り上げ様としていた。 キ61に運動性と高速性能を確保すべくアスペクト比7.2という日本の戦闘機中最大の数値を採用した。これはキ60が高速性能を求めるあまりアスペクト比5.95と小さく設定したのに対しまったく逆の措置ともいえる。通常運動性を確保する為には翼面荷重を低くするのだが、キ61では翼面荷重よりも翼幅荷重を減らす事を目標とした。これにより高速性能を確保しつつ運動性と、そして高々度性能を確保しようとしたのである。 他にも生産上のいろいろな工夫が施された。 代表的なものとしては主翼の取りつけ方法である。これは翼の主桁・補助桁と胴体の主縦通材との固定方法に15cm間隔で固定したボルト締め工法であり、これにより比較的楽に主翼の取付位置を前後出来ると言う利点を狙ったものである。この方法は生産上の工夫というよりも、これにより後にキ61が改修され、全長や重心位置が変更した時に主翼の位置を変更する事で前後のバランスを簡単に変更出来たのである。この方法はキ61だけのものであり、他の戦闘機、特に海軍の零式艦上戦闘機のように胴体中央部分と主翼を一体に生産した機体ではなしえないものであった。 キ60で問題となった滑油冷却器も取付位置を変更し、胴体下に水冷却器と一体にした構造とし胴体下部に取付けた。その取付にしても空気抵抗値軽減の為胴体内に半埋め込み式とするなどの方法がとられた。 キ60が他の日本戦闘機と外観上の差と成っているものに、液冷発動機の採用という最大の違いの他に防風の形状の違いが有る。日本戦闘機はほとんどが水滴型防風を採用しているのに対し、ファスト・バック方式と呼ばれる形状となっている。これは防風の後部が胴体のラインと一体になるようなラインで構成された防風であり、キ60や、海軍の14試局戦(のちの雷電)などでも採用されている。空気抵抗値が水滴型よりも軽減される為採用されたが、視界・・・特に海軍の雷電あたりでは格闘戦時に視界が悪いといわれて搭乗員に批判されたと言う。だがキ61では特に問題はなかったようだ。残念なのはこのファスト・バックの採用によってBf109に類似している為『和製メッサー』という有りがたくない渾名を付けられる事となったことだろう。 キ61の設計上、後の実戦での運用にあたって問題となったのが燃料搭載量である。当初キ61に搭載計画された燃料タンクは両翼内部及び主翼中央部(操縦席下付近)のタンク合計で620リットル。さらに機内タンクとして200リットル増加タンクが操縦席後方に設置出来た。陸軍の要求がキ60・キ61共に500リットルだったのに対し合計820リットルという大量の燃料を搭載出来たのである。これは土井技師が可能な限り大量の燃料を搭載出来るように配慮した為だ。燃料が多ければ、行動半径は当然大きくなる。行動半径が大きいということはそれだけで優秀な戦闘機であると言えるからである。 海軍の零式艦上戦闘機と比較してみるとさらにその凄さがわかる。その広大な行動半径から初の戦略戦闘機とさえ言われた零戦21型の機体内燃料タンクは518リットルである。これに落下式増槽330リットルを装備して航続距離3350キロと言われる。キ61ではDB601(ハ40)の燃費が零戦の『栄』とは比較にならないため航続距離は劣るものの、上記胴体内タンクに両翼下に200リットル落下式増槽を装備して航続距離3200キロ以上をなった。これだけでもキ61の高性能ぶりを評価できる。 だが、問題がなかったわけではない。胴体内、操縦席後方の機内増加タンクは実戦に投入された段階で問題が発生するようになったのである。 実は初期生産型のキ61にはこの機内増加タンク(200リットル)は装備していない機体がある。これは初期生産分が出荷に終れ、増加タンクを装備するまもなく部隊に引き渡されたケースがある。(これにより航続距離が不足し、遭難・機体損失という悲劇を起こしたケースもある) だが一番の問題は機内増加タンク内に燃料が満タンに入っていると飛行中の重心位置がかわり、飛行が不安定になり、悪性のキリモミ状態になってしまうことが判明したのだ。その為部隊では途中から機内増加タンクを撤去するようになり、1943年9月1日付で既存の機体からも撤去するように通達されるに至った。 キ61の実物大模型審査は1941年(昭和16年)6月5日、各務原の川崎航空機・岐阜工場において行われた。 12月初めには試作第1号機が完成、これは当初要求されていた予定より半年遅れであったが、搭載すべきハ40の完成が遅れた事もあり、まずまず順調であったと言える。 初飛行は12月11日、各務原において成功した(操縦者は川崎のテストパイロット・片岡載三郎)。 社内テストを繰返し、同時開発であったキ60よりも最大速度で20km/hを上回り、運動性能や上昇力も当然のようにキ60を上回る。これにより速度重視で開発されたキ60の開発中止が決定し、キ61の開発1本にシフトしていく。 試作機によるテスト飛行の結果、幾つかの問題点が表面化し、それを逐次潰していく。 燃料タンクもその1つである。翼内タンクの形状がセミ・インテグラル式方式と呼ばれるものであり、主翼構造の空間を利用したものである。これは独立したタンクを埋め込んだわけではなく重量を軽くする効果があったが、急激な旋回を行う事によって燃料が漏れるという事態が発生、のちに防漏対策が行われた。 また量産化の際に燃料タンクの防弾措置が取られるようになった為、搭載量が減少してしまう。それでも胴体内増加タンク込みで755リットル(試作機は820リットル)を搭載した。そして上記の機体内増加タンク問題の為タンクの撤去、最終的には機内積載量が合計500リットルにまで減少してしまう。 審査を終えたキ61は量産化に取り組む。試作機3機、増加試作機9機を完成させた後、量産機第1号が完成したのは1942年(昭和17年)8月のことであった。最初は月産1桁台の生産数でしかなかったが、同年12月からは生産数も増え、本格的量産化が進む事となる。この時点でキ61は正式に採用機として陸軍に採用される事となるが、実際には1943年(昭和18年)半ばまでかかることとなった。これはキ61の発動機が液冷発動機という陸軍が久々に扱う形式であった事、部隊に配備され整備兵が慣れるまではまともに運用する事も出来ないだろうと判断された事、そしてなにより1942年(昭和17年)には陸軍が2つの戦闘機を採用しており(2式単座戦闘機『鐘馗』と2式複座戦闘機『屠龍』)、3機目の採用にはまったがかかったこと、なによりも1943年(昭和18年)採用として『3式戦闘機』の名称を与えたかったと言うのが本当だろう。そのころには一定数の機体が引き渡し終わり、部隊としての陣容も揃えているであろうと判断したのかもしれない。 陸軍飛行実験部/陸軍航空審査部による各種審査は1943年(昭和18年)2月に一通り終了、続いて部隊への配備が進められるが、部隊への配備は審査終了前の1月から行われた。 キ61・3式戦闘機『飛燕』を最初に装備した部隊は陸軍航空隊・第14飛行団所属の第68戦隊・第78戦隊の2個戦隊であり、まず第68戦隊から機種改編で97式戦闘機から3式戦闘機に改編を行った。 3式戦を装備した第68戦隊の赴く戦場、3式戦のデビューの場所、それが地獄のニューギニア戦線であった。 |
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3式戦1型の武装と形式 | |||||||||||||||
当初陸軍が要求した武装は軽戦闘機は12.7o機関・7.7o機銃各1丁程度と言うものであったが、計画段階で予定されたものは12.7o機関砲(ホ103)を機首に2丁装備、翼内に7.7o機銃(89式7.7o機銃)2丁というものであった。 海軍に比べ大口径砲の開発・装備の遅れた陸軍であったが、12.7oの選択は間違ったものではなかった。なによりも陸軍の操縦者が大口径砲の装備を嫌った面もある。重量が嵩み、運動性が劣ると考えたからだ。だが12.7o自体に問題が無いわけではない。海軍が早期に開発・装備した20o砲に比べ、弾丸1発あたりの弾丸効率は100:27と格段に劣る。もっともその20oにも問題を抱えてはいたのだが。 だが陸軍は同じ口径の弾丸でも他国の製品に比べ、20〜30%程度軽く作っていた。これは銃本体の性能を弾丸を犠牲にする事で水準を上げようとしていた傾向があり、当然他国に比べて破壊力・弾道特性の面で劣る。それを補う為マ弾と呼ばれる特殊実包弾の開発を行ったのが日本らしいとも言えるのたが。 キ61には正式採用後、幾つかの形式が存在する。それらについて簡単に説明しておく。 3式戦闘機
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3式戦2型の開発 | |||||||||||||||
3式戦2型は1型の全面改修型であり、1型丙以降の生産機は2型になる予定であった。だが実際には2型の完成が遅れ、1型丁がピンチヒッターとして登場し、3式戦の中でもっとも大量に生産された。 では2型の開発状況はどのようなものであったのだろうか。 2型の開発は比較的早い時期に行われた。1型の生産が開始される前、まだ増加試作機が作られていた1942年(昭和17年)4月に構想は練られた。それは1型に搭載される発動機『ハ40』の出力が予定よりもあと200馬力ほど向上すれば速度・武装・実用性全てにわたってバランスの取れた優秀な機体となる・・・といった点から基本構想が練られた。 実際にこの構想に陸軍が試作を提示したのは5ヶ月後の1942年(昭和17年)9月のことであった。3式戦の性能向上型は『キ61−2』として開発がスタートした。 本計画で最大速度640km/h、横の運動性能と高々度性能の向上を目指した。具体的には翼弦長の延長による主翼面積の増加・機体延長・垂直安定版の増積・水冷却器の能力向上・武装強化であったが、最大の問題は発動機『ハ40』の性能向上型発動機『ハ140』の開発であった。 主翼面積の増加は運動性能向上が目的とされているが、実際には翼内に20o機関砲(ホ5)を搭載しようとした結果、翼厚を増加する必要有りとされた。その為翼型を維持する為に翼面積増加に繋がったとされている。 また発動機は『ハ140』とされているが、最終的にはさらなる性能向上型である『ハ240』の搭載を最終目的としていた。 武装面でも強化案があり、一部には機種に37o砲(モーターカノン式)の搭載計画もあった。この武装計画案は後にキ88計画として独立した別機体の開発と発展していく。(計画は中止されたが) 『キ61−2』は1943年(昭和18年)8月に完成。だが、発動機の故障が頻発し、審査は遅々として進まなかった。結局翌年1月には開発は失敗、中止となる。製作された『キ61−2』は全部で8機だけであった。 失敗の原因は発動機『ハ140』であったが、他にも主翼の面積増加がかえって空戦性能に影響を与え、結果的に1型に劣るというものであった。 この開発失敗により3式戦2型を1944年(昭和19年)6月には実戦部隊に配備するという当初の予定が崩れたため、前記の1型丁で急場をしのぐ事となった。 だが、川崎側も3式戦の性能向上を諦めた訳ではない。『キ61−2改』の開発である。 『キ61−2』の開発が中止になった1944年(昭和19年)1月、すぐに別の方法が考案された。翌月から開発が再開された『キ61−2改』は主翼の面積増加を諦め、『キ61−2』の胴体に1型の主翼を装着した。これは20o機関砲(ホ5)の供給問題も有り、翼内砲を12.7o機関砲(ホ103)に決定した為である。 その上で問題児であった『ハ140』の内、特に吟味し、調子の良い発動機を搭載したのである。結果、1型丁に比べて自重で225kg(全備重量では355kg)ほど増したが、最高速度で610km/h(高度6,000m)を記録した。上昇力・高々度性能、共に1型丁を上回ったが、武装は同様(『ホ5』×2 『ホ103』×2)であった。ただし、『ホ5』の20mm砲弾の弾数が1型丁の120発から200発に増加されている。他にも1型丁で回復した積載燃料は耐弾性能向上のため再び減少した。 ますまずの成績をおさめた『キ61−2改』試作機は、続けて増加試作機の開発に着手、30機が発注された。そしてそのまま量産型の生産が1944年(昭和19年)9月から開始された。本機は正式に3式戦2型(キ61−2改)と命名された。 途中、増加試作機製作中に後方視界の改善が行われ、キ84(後の四式戦闘機『疾風』)と同様の水滴風防の採用が決定した。量産型の機体は水滴風防型へと変化していく。 当然2型が量産されれば、本来ピンチヒッターだった1型丁の量産は終了していく。徐々に生産は縮小され、ピーク時には月産245機(1944年7月)も生産されたが、1945年(昭和20年)1月の19機生産で終了した。 だが、順調に2型に移行したわけではない。当初より危惧されていた発動機『ハ140』は量産が進むうちに工員の質の低下、材質の低下により完全品として量産される数は非常に少なかった。このため機体のみの生産が進み、発動機を搭載しない『首なし機』の数が増えていく。 本来1944年(昭和19年)末には実戦部隊に配備される予定であったが、実際に部隊に配備されたのは1945年(昭和20年)4月になってからである。数も非常に少なく、完成した2型は僅か99機だけであった。(この完成機99機も諸説あり、実際に製造・完成したかは不明) 発動機以外の機体製造数は374機(岐阜工場生産分(都築工場生産分以外)の合計機数。他に試作機3機、増加試作機30機、都築工場生産分(機数不明))もあったのにである。その上完成した99機(?)のうち、実際に部隊に引き渡されたのは60機程度だったといわれている。 (2009/12/2追記・修正 12/5加筆修正) 制式採用機である2型を『3式戦2型』と称する場合と、『3式戦2型改』と称する場合があります。資料によって表記が違うようで。 ここでは2型の制式採用機を『3式戦2型(キ61-2改)』としてしてあります。ご了承ください。 |
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2型の機体製造機数374機。その内2型として完成したもの99機。残りの275機は5式戦に改修されて就役しています。 |
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5式戦の開発 | |||||||||||||||
3式戦最大の特徴・・・それは液冷発動機『ハ40』とその発展型『ハ140』である。 だが、まったく経験がない訳ではないが、基礎技術の問題からか、日本の陸海軍航空機は空冷発動機中心で進められてきた。不慣れな液冷発動機は、それを整備する整備部隊の運用能力(整備力が無いというわけではなく、基本的に空冷が中心のため、基本が備わっていない整備隊員が多かった)不足から、実戦部隊からは不評であった。もちろん内地に展開した防空部隊等では整備力も高く、またメーカーからの技術提供も受けられるため、稼動率も高くまずまずの戦果を上げていたが、ニューギニア・フィリピンに展開した外戦部隊にとっては問題児であった。 また生産技術不足から生産遅延の可能性があり、部隊配備の始まった1943年(昭和18年)の暮れには航空審査部飛行実験部長 今川大佐によって航空本部に空冷発動機への換装が進言されている。事実『ハ40』の生産は徐々に遅延し、『ハ140』になるとその度合いはますますひどくなっていった。3式戦の生みの親である土井武夫技師も1944年(昭和19年)初めには空冷化を検討していたほどである。これは同じDB601系液冷発動機を国産化し、搭載している海軍の艦上爆撃機『彗星』でも同様であった。 そして海軍の『彗星』空冷化計画を知った航空本部は土井技師に3式戦の空冷化を提案した。 だが、3式戦の空冷化を阻むものとして2つの要素があった。 一つ目が『数の確保』であった。航空機の生産を管理するのは軍需省(1943年8昭和18年)11月、設置)の管轄である。増産促進を目的として設立された軍需省が空冷化を拒んだ理由は、空冷化改修作業中の生産遅延と、発動機を生産している川崎飛行機・明石工場の遊休化であった。さらに空冷化のために候補に挙がった空冷発動機『ハ112』はこの時点で数が足りていない状況であり、これに関しては航空本部整備部からも反対があった。 さらに川崎の社内事情もある。液冷発動機を生産している明石工場では『ハ40』の生産ノルマ達成と、『ハ140』の実用化を目指してがんばっている最中である。苦闘している明石工場の状況を考えれば、これを切り捨てて他社(『ハ112』は三菱製発動機)に切り替えることは出来るものではなかった。 航空本部審査部の今川大佐は『ハ140』試作品の状況を見るに完治は不可能と判断、1944年(昭和19年)4月に空冷発動機への換装を内々に川崎に依頼した。軍需省や航空本部の横槍を恐れての処置であった。 だが完成した『ハ140』は『ハ40』を大きく下回る生産数しか出来ずに流石に軍需省もこの状況を鑑み、3式戦の大量生産を諦め予定生産数の減少を川崎に指示した。しかしすでに生産されていた3式戦2型もあり、このまま行けば『首なし機体』の増加は明らかであった。ついに軍需省・航空本部ともに折れ、空冷化が決定した。1944年(昭和19年)10月1日付で『キ61−2改』を空冷化、『ハ112−2』を搭載した『キ100』の試作が命じられたのであった。 『キ100』の開発にあたり、問題となったのは換装することとなった空冷発動機『ハ112−2』のその大きさであった。同じ空冷の『栄』を大型化した『金星』と、機体本体をスリムに仕上げた『キ61−2改』では、胴体部と発動機で40センチ近い段差が出来てしまう。だが、欠点ばかりではない。土井技師自ら『天佑』とまで語った発動機本体の固定方法が、胴体から伸びている4本の発動機架を切断・除去することによって『ハ112−2』の補機類を弄ることなく鋼管製発動機架を主縦通材に結合できたのである。さらに先に問題となった発動機と胴体の大きさの差からくる段差はカウルを被せる事によっ生じる段差部分に排気管を集め、段差があることによって発生する飛行時の過流を制御。その上ロケット効果により性能向上につながったのである。これは参考用にと輸入した独空軍のフォッケウルフFw190A−5のカウリング形状を参考にしたという。 他にも空冷化に伴い不要となった胴体下部の冷却機は撤去や、プロペラ軸の変更に伴いプロペラ直径が10cm短い幅広タイプに変更を行った。 以上のように『キ100』の改修項目は機首及び胴体前部に集中し、後部と翼は3式戦2型(キ61-2改)のままとされた。 『キ100』の換装設計は1944年(昭和19年)12月中末に完成し、試作1号機は1945年(昭和20年)1月下旬完成し初飛行が2月1日(2月11日説あり)に各務原行われた。 試作1・2号機で洗い出された問題点は試作3号機で改修され、2月下旬には早くも福生の審査部に引き渡され、実用テストに廻された。元々機体・発動機共に定評のある機材だけに、相性さえ良ければテストは順調に進んでいったのである。 『キ100』を3式戦2型と比較して、その予想以上の高性能に関係者を驚かせた。 元々スマートで空気抵抗の少ない液冷発動機から正面抵抗が大きくなる空冷に換装した結果、最大速度は580km/h(高度6,000m)と、30km/h程低下したが、それでも現行の3式戦1型丁と同等であった。上昇性能は2型と同等(高度5,000mまで6分)であり1型丁よりも1分も早かった。これは当時大東亜決戦機の名で大量生産が行われていた4式戦『疾風』を上回っていた。 他に運動性能が格段と向上、機首短縮に伴い前方下方視界が向上した結果、離着陸の容易化というおまけもついた。これを全て評価して『燃料と潤滑油さえ入れれば、いつでも飛べる』と評価されたのだが、これは稼働率の向上と、未熟者でも容易に乗りこなせるといった結果を生み、大変魅力的な機体に仕上がった。 だが、部品供給問題により部隊での使用では思ったより稼働率が向上していなかったともいう。 その性能故に実用審査の段階で生産が決定。2月中旬に『5式戦闘機』として制式採用が決定した。
一方、完成直前の3式戦2型は5式戦用に転換され、『ハ140』の不足故に野ざらしとなっていた『首なし機』も5式戦用に廻された。(全ての『首なし機』が改修された訳ではなく、一部の機体は空襲によって破壊されている。昭和20年5月の段階では49機が野ざらし状態であり、この多くは空襲によって喪失したものと思われる。 5式戦の量産化決定に際し、さらに2つの改設計をはじめた。 |
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ファストバック方式は抵抗減少を目的として採用された形式であったが、水滴型風防に比べて後方視界が良くないという欠点があった。運動性能が良くなった5式戦の視界向上を目的としての改設計であったのだろうが、実際のところ操縦者達にはファストバック方式でも影響なかったと言われている。
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この変更は便宜上、従来のファストバック方式機体を5式戦1型甲、水滴型風防の機体を5式戦1型乙と呼称している。だが、これは制式な区分ではなかった。 (2009/12/5加筆修正) 風防の形状変更は5式戦開発前の3式戦2型増加試作機の段階で決定しており、5式戦開発決定してからの改修項目ではないとのことです。 |
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さらにもう一つの改修計画が行われた。制式採用後直ぐに設計が開始された5式戦2型と呼ばれる高々度戦闘機の開発である。 『ハ112−2』に『ル102』ターボ過給器を装着した出力向上型の『ハ112−2−ル』を装備することにより高々度性能を向上しようとした機体であった。機首砲の空薬莢受けを除去することにより『ハ−112−2−ル』搭載スペースを確保、中間冷却機の設置を諦め、過給器用空気取り入れ口を設けて開発された。 1945年(昭和20年)4月に設計完了、実機の試作に取り掛かり試作1号機の完成は5月のことであった。自重増加に伴い中高度での性能は1型に劣るものであったが、高度10,000mまでの上昇が僅か18分を記録した。同高度で最高速度565km/hを記録し、今後の戦果に機体が寄せられ9月には量産化される予定であった。 だが設計を開始した4月の段階で既に敵機B−29の来襲高度は6,000m程度に下がっており(護衛戦闘機が随伴)、高々度戦闘機の必要性がなくなっていたのは皮肉であった。 本機は日本が太平洋戦争に投入した唯一の液冷戦闘機であり、名機と言える機体ではあったが、元々日本が空冷発動機主体で進んできたことが不幸であった。 そしてその液冷発動機に拘り続けた故に5式戦の登場が遅れてしまった。もし早期に空冷化を実現していれば1年は早い時期に登場していても不思議ではない機体であったからだ。 だが、あえて言うなら、当時整備力に問題があった前線の部隊から本機(3式戦)を配備していったのがやむ得ない事情とは言え惜しいことをしたといえる。過酷なニューギニア・フィリピン戦線ではなく、防空戦力の中核として本土防空部隊で運用・整備実績を付けてからであれば、また違った展開になっていたかも知れないからだ。
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