陸軍飛行戦隊一覧 | ||
飛行第一四四戦隊〜飛行第二四八戦隊 |
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飛行第一四四戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和16年7月30日 | ||||
編成地 | 豊岡 | ||||
使用機種 | 九七戦 | ||||
終戦時の所在地 | 昭和16年11月、飛行第二四四戦隊へと改称 | ||||
解説 | |||||
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飛行第二〇〇戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和19年10月12日 | ||||
編成地 | 明野 | ||||
使用機種 | 四式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 所沢 | ||||
解説 | |||||
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飛行第二〇四戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和19年2月22日 教導飛行第二〇四戦隊を改称 | ||||
編成地 | ラングーン | ||||
使用機種 | 九七戦 一式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 花蓮港 | ||||
解説 | 1942年(昭和17年)4月、満州西部の白城子近郊の鎮西飛行場で編制された戦隊であり、当初は九七式戦2個中隊からなる教導飛行第二〇四戦隊として編制された。(10月に3個中隊となる。) 同戦隊は軽爆2個中隊より編制される教導飛行第二〇六戦隊と共に白城子教導飛行団を編制した。 1943年(昭和18年)9月、ビルマ方面派遣が決定。10月に千葉県柏飛行場で一式戦U型に機種改編を行い台湾、仏印、シンガポール経由で11月下旬よりラングーン郊外のミンガラドン飛行場に進出した。 12月よりラングーン邀撃戦、カルカッタ進攻、昆明進攻、アキヤブ進攻といった作戦に従事するが、この間に戦隊長以下幹部の多くを失う。 1944年(昭和19年)2月22日、飛行第二〇四戦隊と改称し、実戦部隊へと改編された。 インパール作戦に従事したが、日本軍の惨敗となり、8月上旬にはタイのドムアン飛行場に後退した。以後戦力回復に努めるが、10月にフィリピン方面にへの派遣が決定する。18機がルソン島マニラ郊外のニルソン飛行場に進出するが、僅か4日で戦力の大部分を失ってしまう。(15日のマニラ上空邀撃戦で6機被撃墜、7機が地上で大中波) 直ちに補充され、18日よりネグロス島に13機が進出。レイテ航空戦に参加する。だが11月10日には可動機0となり、内地への帰還が命ぜられた。 生存者は輸送機で茨城県水戸飛行場に後退。以後一式戦V型を受領して戦力再建に着手する。 1945年(昭和20年)2月末、再び南方派遣が決定し、仏印サイゴンに進出したが、本土を出撃した24機の内、サイゴンに到着した機は僅か10機程度でしかなかった。(機体の不調・粗悪乱造により途中で落伍した為。) 仏印で船団護衛任務に従事するが、7月末には本土決戦に備える為本土への移動が決定する。その後台湾に移動した時点で終戦を迎えた。 |
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飛行第二〇八戦隊 | |||||
飛行分科 | 軽爆 | ||||
編成時期 | 昭和16年3月31日 | ||||
編成地 | 牡丹江 | ||||
使用機種 | 九七軽 九八軽 九九双軽 | ||||
終戦時の所在地 | 所沢 | ||||
解説 | |||||
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飛行第二四四戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和16年11月 飛行第一四四戦隊を改称 | ||||
編成地 | 調布 | ||||
使用機種 | 九七戦 三式戦 五式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 八日市 | ||||
解説 | 陸軍が帝都に配置していた帝都防空戦闘機隊。 昭和17年4月18日のドゥーリットル空襲迎撃戦に参加し、1機撃破した。以後、内地に在って防空・訓練に従事し、前線の各飛行戦隊に熟練者を送り出していく。 昭和19年11月24日、マリアナを出撃したB−29による東京初空襲の際に1機撃墜の戦果を上げた。これが以後終戦まで続くB−29との戦いの最初の迎撃戦である。 超高空を飛行するB−29に対し、有効な迎撃が出来なかった為、装備機である三式戦から武装を撤去した軽量機による体当たり部隊を編成し、迎撃戦を展開した。(空対空特攻の場合、操縦者は体当たり後、パラシュート降下により生還することもある。体当たりによる戦死者は7名。) 戦隊の一部は浜松に移動し、名古屋地区の防空にも当たった。 米機動部隊が本土近海を遊弋し、艦載機群を発進させると戦果は上がらなくなり、出撃を禁止されるケースもあった。 3月10日未明、夜間に行われた東京大空襲ではなすすべも無かったが、翌月の4月15日に行われた夜間空襲に対しては16機撃墜8機撃破という戦果をあげた。 5月、沖縄航空戦協力の為、大刀洗に移動。特攻機の援護任務に従事する。 沖縄戦終了後は八日市に移動した。 7月25日、八日市上空迎撃戦で米艦載機と交戦し12機を撃墜した。だがこの時期、本土決戦を間近に控え、航空戦力温存の為に出撃を禁止されていたが、訓練の名目で出撃した。この結果軍規違反で問題となるところだったが、天皇の御嘉賞により不問となった。 |
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飛行第二四六戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和17年6月30日 | ||||
編成地 | 加古川 | ||||
使用機種 | 九七戦 二式単戦 四式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 大正 | ||||
解説 | |||||
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飛行第二四八戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和17年8月10日 | ||||
編成地 | 小月 | ||||
使用機種 | 一式戦 | ||||
終戦時の所在地 | ホーランジア | ||||
解説 | 1942年(昭和17年)8月、飛行第四戦隊を母体として編制され、当初は九七式戦2個中隊からなる戦隊。(第3中隊は12月に新編) 編制完了と同時に第十九飛行団に編入され北九州防空任務に従事する。 1943(昭和18年)7月、一式戦U型に機種改編が行われる。10月、ニューギニア戦線への派遣が決定され、台湾、フィリピン経由でウエワク飛行場に進出。11月6日より同方面の航空作戦に参加した。だが19日には早くも可動機数が1/3に減少(可動11機)し、同方面の消耗率の高さを感じさせた。以後補充と行いつつ戦闘を継続したが、1944年(昭和19年)1月には将校操縦者全滅という事態になる。以後も戦い続けるが4月には可動機僅か3機という有様であった。 4月22日、ホランジアへの米軍上陸により生存者は山中に脱出。徒歩でサルミ目指して後退するが途中で落伍者が続出する。 部隊は1944年(昭和19年)7月25日付けで解隊となった。だが山中に脱出した隊員たちは部隊の解隊も知らずに後退を続け、翌1945年(昭和20年)に内地に帰還できたものは僅か数名という有様であった。 |
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