陸軍飛行戦隊一覧 | ||
飛行第十戦隊〜飛行第十九戦隊 |
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飛行第十戦隊 | |||||
飛行分科 | 偵察 軽爆 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月31日 飛行第十連隊を改編 | ||||
編成地 | 嫩江 | ||||
使用機種 | 九四偵 九七司偵 九八軽 一〇〇司偵 | ||||
終戦時の所在地 | 台北 | ||||
解説 | 昭和14年5月、ノモンハン事件に参加。 昭和16年7月、第十独立飛行隊本部・独立飛行第七十中隊・独立飛行第七四中隊・独立飛行第七六中隊に改編され、一度解隊となる。 昭和18年6月、ラバウルで第十独立飛行隊・独立飛行第七六中隊・飛行第八一戦隊司偵中隊により再編され、8月より東部ニューギニア・ウエワクに前進する。 昭和19年9月、フィリピン・ミンダナオ島ダバオに後退し、その後下志津に帰還して戦力回復に努める。 10月、台北に展開し、台湾沖航空戦後の米機動部隊を発見、写真偵察を行う。 昭和20年4月、沖縄航空戦に参加し、司偵による特攻隊を編成する。 |
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飛行第十一戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月31日 飛行第十一連隊を改編 | ||||
編成地 | ハルピン | ||||
使用機種 | 九七戦 一式戦 四式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 高萩 | ||||
解説 | 1932年(昭和7年)6月、関東軍飛行部隊である飛行第十一大隊が前身。後に飛行第十一連隊に昇格し日華事変に参戦。1個中隊を北支に派遣したが、連隊はハルピンに留まって錬成を続けた。 1938年(昭和13年)8月、改編に伴ない飛行第十一戦隊と改称。このころ九七式戦闘機に機種改編する。 1939年(昭和14年)5月、ノモンハン事件にに出動。ハイラルに終結後前線に出動し停戦までに撃墜確実530機、不確実撃墜50機という参加部隊随一の戦果を記録する。その後ハルピンに戻り錬成を続け、一時中支方面に派遣されるが、基本太平洋戦争直前まで満州の地に留まった。 太平洋戦争開戦時、南部仏印フコク島に集結してマレー半島上陸作戦、シンガポール攻撃に参加。引き続きジャワ島攻略戦に参加した後ビルマ攻略作戦へと出動する。 1942年(昭和17年)7月、一式戦への機種改編の為本土・明野に帰還する。9月にはシンガポールに進出し錬成を継続。雨季の明けた10月下旬に再びビルマに進出した。だが戦局の悪化したソロモン方面への進出が決定し、一戦隊と共にラバウルへの派遣が決定した。12月にはスラバヤに後退し、空母『雲鷹』に搭載されトラック島に進出。その後海軍の誘導を受けて全機ラバウルに進出を果した。 ソロモン方面ではガダルカナル島撤退までの期間を戦闘に従事したが、1943年(昭和18年)3月からは活動の場をニューギニアに移し、ウエワク、マダン方面で戦闘に参加する。相次ぐ損失により疲弊した十一戦隊は6月に内地帰還命令を受領。非力な一式戦T型から一式戦U型への機種改編が行われた。 改編後は9月より満州方面に移動し錬成を継続。11月末より中支・南支方面へ再進出し、武昌、広東を中心に各要地侵攻作戦に参加する。 1944年(昭和19年)3月、内地帰還。今度は四式戦への機種改編を行い、10月より台湾、そしてフィリピンの戦いに参加する。捷号作戦に参加したが僅か1ヶ月で戦力を消耗し、11月に内地帰還。その後再建を果たし、12月中旬には再びフィリピンルソン島に進出する。だが操縦員の技量が未熟な為。1945年(昭和20年)1月には壊滅状態に陥った。 残存人員は台湾経由で3月に地に戻り、下館で戦力回復を図る。後に高萩に移動し錬成を続けるが、戦力化することなく終戦を迎えた。 |
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飛行第十二戦隊 | |||||
飛行分科 | 重爆 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月31日 飛行第十二連隊を改編 | ||||
編成地 | 公主嶺 | ||||
使用機種 | 伊式重 九七重 一〇〇重 | ||||
終戦時の所在地 | 屏東 | ||||
解説 | |||||
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飛行第十三戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月30日 飛行第十三連隊を改編 | ||||
編成地 | 加古川 | ||||
使用機種 | 九五戦 九七司偵 九七戦 一式戦 二式複戦 四式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 屏東 | ||||
解説 | 1937年(昭和12年)12月、日華事変勃発後に編制された飛行第十三連隊を前身とし、1938年(昭和13年)7月に飛行第十三戦隊に改編された。 当初は本部と1個中隊のみ中隊のみの変則編制であったが、後に練習部が設置され、下士官操縦員の戦技教育わ担当していた。 太平洋戦争開戦時には九七式戦闘機を装備した阪神地区防衛任務担当部隊として大将飛行場に配備され防衛総司令部の指揮下にあった。 1942年(昭和17年)4月、ドゥーリットルによる帝都初空襲の影響から防空戦力の増強が叫ばれ、十三戦隊の二式複戦『屠龍』への機種改編が決定する。だが『屠龍』の配備は遅々として進まず、最初の3機が部隊に配備されたのは8月になってからであった。 1943年(昭和18年)3月中旬、南東方面進出が内示される。(正式な発令は4月2日) だがこの時点でも戦隊の主力機は九七式戦であり、早急に『屠龍』への改編が進められた。また操縦員の技量も最前線に投入するには低く、最終的には部隊の定数が揃うまでラバウル進出は延期される。4月20日、戦隊の先発部隊20機が大正飛行場から進出を開始。台湾、フィリピン、ニューギニアと島伝いの大迂回ルートにてラバウル進出を果すが、途中で故障機が続出する。最初にラバウルに到着したのは5月11日と、出発から3週間近くかかり、到着した機数も僅か5〜6機でしかなかった。その後も少数機づつがラバウルに到着し、戦隊全機がラバウルに集結するのは6月下旬であった。(後発の12機は本土から空母『雲鷹』『冲鷹』に搭載されトラック島に進出し、その後重爆の誘導を受けてラバウルに進出した。) ラバウル進出後はニューギニアのウエワクに移動し、迎撃戦や船団護衛任務に従事する。だか米戦闘機、とりわけ単発戦闘機との交戦が多い同方面では『屠龍』では戦闘にならず、8月には壊滅状態(稼動機数の激減)となった。その為、戦隊は一式戦を現地補充し、中心戦力としていく。一方で『屠龍』を少数機併用という変則編制となった。 11月まで東部ニューギニアで転戦を続けた後、第七飛行師団に編入されパンダ海方面に移動。再び『屠龍』を主力機材として同方面で防空・船団護衛任務に従事する。 1944年(昭和19年)4月、ハルマヘラ島に移動。再び一式戦U型に機種改編を行い、西部ニューギニアのソロン、マノワクリ方面の作戦に参加するが、米軍との先頭により次第に後退し、8月にはアンボン島、続いてセレベス島に後退する。可動機が3機にまで低下した10月、戦力回復の為本土に帰還した。 伊丹飛行場で一式戦V型を受領したのち錬成を務め、フィリピンの戦いに進出する。11月末台湾に移動。12月3日にフィリピン・ルソン島のポーラック飛行場に進出。だが僅か10日間の戦いで戦隊長以下幹部の殆どが戦死し、12月末には壊滅状態となった。 残存隊員は台湾に引揚げ戦力回復を図るが、1945年(昭和20年)3月に第三航空軍への転入が決定しシンガポールに移動する。この時点で四式戦の導入が進められるが、主力は一式戦V型であった。 3月末、仏印に移動。6月末には台湾に移動し、本土決戦に備えて8月中旬の九州への移動を計画していたが、その直前に終戦を迎えた。 |
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飛行第十四戦隊 | |||||
飛行分科 | 重爆 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月31日 飛行第十四連隊を改編 | ||||
編成地 | 嘉義 | ||||
使用機種 | 九七重 四式重 | ||||
終戦時の所在地 | 新田 | ||||
解説 | |||||
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飛行第十五戦隊 | |||||
飛行分科 | 偵察 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月31日 飛行第十五連隊を改編 | ||||
編成地 | 新京 | ||||
使用機種 | 九四偵 九七司偵 九七軽 九八直協 一〇〇司偵 | ||||
終戦時の所在地 | サイゴン | ||||
解説 | |||||
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飛行第十六戦隊 | |||||
飛行分科 | 軽爆 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月31日 飛行第十六連隊を改編 | ||||
編成地 | 海浪 | ||||
使用機種 | 九七軽 九九双軽 二式複戦 四式重 | ||||
終戦時の所在地 | 平壌 | ||||
解説 | |||||
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飛行第十七戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和19年2月10日 | ||||
編成地 | 各務原 | ||||
使用機種 | 三式戦 五式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 花蓮港 | ||||
解説 | 1944年(昭和19年)2月に編制された戦闘機部隊であり、当初より三式戦『飛燕』を装備する部隊として各務原で編制された。編制完了後は小牧に移動し、以後5月まて錬成を続ける。 5月12日、大陸令によりフィリピン進出が命令され、台湾経由で移動を開始。6月上旬には一部がマニラに進出したが、後続部隊は機材供給が遅れ実際に部隊進出が完了したのは7月以降であった。 8月、アンヘレス南飛行場に移動。同地防空任務に従事し、併せて錬成を続ける。9月にはいり、米機動部隊の空襲が始まると瞬く間に戦力が消耗していく。その為下旬以降は積極的な戦闘を控えるようになった。 10月の台湾沖航空戦、及び比島・レイテ航空戦に参加する。この戦闘で機材の殆どを消耗し、またマラリア等で操縦員の多くが倒れた為12月には内地に帰還し戦力の回復を図った。 1945年(昭和20年)1月、小牧で戦力回復に努め、同時に名古屋地区の防空戦闘に参加するが、特に大きな戦果を挙げるには到らなかった。 2月16日、従来所属していた第二二飛行団から台湾の第八飛行師団に編入が決定する。その為3月7日に台湾の花連港北飛行場に移動する(進出機は三式戦T型18機) 3月末より始まった沖縄戦では特攻隊として沖縄方面の艦船攻撃に出撃。石垣島と八塊基地(台湾北部)を前進基地として3次に渡る特攻攻撃を実施した。(戦果不明) 沖縄戦後は残存戦力をもって錬成に務め、そのまま終戦を迎えた。 |
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飛行第十八戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和19年2月10日 | ||||
編成地 | 調布 | ||||
使用機種 | 九七戦 三式戦 五式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 松戸 | ||||
解説 | 1944年(昭和19年)2月、帝都防空戦闘機隊として調布で編制された部隊。第十飛行師団の隷下に入り、錬成に務めるが、操縦員の練度不足と、なにより機材が三式戦『飛燕』ということもあり、整備力の問題からか錬成は思うように進まなかった。 10月、調布から千葉県柏飛行場に移動。フィリピンの戦局悪化により、同戦隊の派遣が決定した為である。11月18日より戦隊長以下31機がフィリピンにに進出。第二飛行師団の隷下に編入されアンヘレス西飛行場及びバコロド飛行場に展開した。以後レイテ航空決戦に投入されるが、特に大きな戦果を挙げることなく戦力を消耗していき、翌1945年(昭和20年)1月には戦力回復の為に内地に帰還する。だが引揚げ途中の台湾で同地に在った飛行第十九戦隊への転属を命ぜられたものが多く、原隊に復帰したのは戦隊長以下僅か5名だけであった。 一方柏に残った同戦隊残置隊は1944年(昭和19年)12月以降の本土防空戦に参加。僅かな機数ながらも相応の戦果を挙げている。 1945年(昭和20年)3月、機材に順次五式戦が配備され始める。機種改編は6月に完結するが、その時期に柏から移動し松戸に拠点を移動している。 また機種改編後は本土防空戦に変化が訪れていた。4月より硫黄島に進出した米陸軍機P-51がB-29の護衛に就く様になり、以前ほどの戦果は挙げられなくなっていた。 同戦隊は終戦まで本土防空戦を継続しつつ、終戦を迎えた。 |
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飛行第十九戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和19年2月21日 | ||||
編成地 | 明野 | ||||
使用機種 | 三式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 花蓮港 | ||||
解説 | 1944年(昭和19年)2月、飛行第十七戦隊と共に編制され、第二二飛行団を構成するすることとなる三式戦『飛燕』を当初より装備する部隊である。明野飛行学校で編制を完了した部隊は3月より兵庫県伊丹飛行場に移動して阪神地区の防空に就くこととなる。その後5月に第二二飛行団のフィリピン進出が決定した為、錬成不足ではあったが5月下旬より移動を開始。途中多数の落伍機を出しながらも7月3日に展開を完了する。(進出機合計:38機) 進出直後より防空任務、船団護衛任務に従事するが7月末の大規模空襲により戦力を消耗、早くも戦力再建の必要が出てきた。 9月中旬、戦力がある程度回復したときに再び米機動部隊による空襲を受け、再び戦力を消耗する。 10月になるとフィリピン航空決戦により僅か1週間で壊滅状態となり、11月1日に本土帰還が命ぜられる。この時点で将校操縦者が皆無となるほど消耗していた。 本土で再建を行った部隊は12月31日、再び30機をもってフィリピンに再進出する。だがこの時期フィリピン全土は壊滅状態となり、実際に進出した機数は約半数であった。残余機は台湾までの進出となる。尚、フィリピンに進出した機は全機特攻を合言葉に次々と散っていった。 1945年(昭和20年)2月、戦隊の残存戦力は台湾の第八飛行師団に組み込まれ、台湾南部での防空戦闘に従事しつつ戦力回復に努める。フィリピンを脱出した飛行第十八戦隊及び飛行第五五戦隊の生存者が編入され、3月末には可動40機にまで回復している。 4月、天号作戦により本戦隊は特攻隊を編制。通常攻撃と特攻攻撃により沖縄方面の艦船攻撃に従事し、作戦終盤の6月初旬には保有機数は11機にまで減少した。以後、本戦隊は沖縄方面への作戦を中止する。 その後は米軍の台湾侵攻に備え戦力温存を行い、戦闘を控えた。そしてそのまま終戦を迎えた。 |
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