陸軍飛行戦隊一覧 | ||
飛行第六十戦隊〜飛行第六九戦隊 |
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飛行第六十戦隊 | |||||
飛行分科 | 重爆 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月1日 | ||||
編成地 | 彰徳 | ||||
使用機種 | 九七重 四式重 | ||||
終戦時の所在地 | 熊本 | ||||
解説 | 昭和13年8月、西安爆撃。その後重慶爆撃作戦の準備を行う。12月に重慶爆撃作戦を実施するも、雲に阻まれ投弾せずに終わる(2回) 昭和14年、重慶(2回)・蘭州(3回)爆撃と中国奥地に対する爆撃を実施。また戦隊編成を改編し、特別編成(36機編成)にする。 10月、運城に集結し、中国北部要地(西安・洛陽・瀋陽・陝県・蒲州・謂南・南鄭・宝鶏 等)を反復爆撃。 昭和15年6月〜8月、中国奥地要地(重慶・梁山・西安・成都)に対して集中爆撃を実施。 昭和16年、戦隊編成を通常の27機編成に戻す。 4月、昆明爆撃、及びメコン川上流部の橋梁爆撃を実施。また重慶爆撃と延安・天水・武功・宝鶏爆撃を実施。 |
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太平洋戦争開戦時、プノンペンに進出し、開戦と同時にアロルスターを爆撃。続いてラングーン港、ミンガラドン飛行場を爆撃した。 昭和17年、フィリピン・バターン半島攻撃に参加。バターン・コレヒドール爆撃に参加し、その後武昌に展開して再び重慶・昆明爆撃に参加した。 昭和19年2月、東部ニューギニア・ホーランジアに進出。だが3月29日の大空襲により戦隊は壊滅的打撃を受ける。 7月、本土に帰還後、水戸で戦力を回復し、再び中国・南京に展開し、奥地爆撃に従事する。 10月、再び本土に帰還。浜松に移駐。 昭和20年2月、硫黄島反撃作戦に参加。 3月、熊本に展開し、沖縄航空戦に参加する。 |
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飛行第六一戦隊 | |||||
飛行分科 | 重爆 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月31日 | ||||
編成地 | チチハル | ||||
使用機種 | 九三重 九七重 一〇〇重 四式重 | ||||
終戦時の所在地 | 嘉義 | ||||
解説 | |||||
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飛行第六二戦隊 | |||||
飛行分科 | 重爆 | ||||
編成時期 | 昭和16年11月14日 | ||||
編成地 | 帯広 | ||||
使用機種 | 九七重 一〇〇重 四式重 | ||||
終戦時の所在地 | 西筑波 | ||||
解説 | |||||
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飛行第六三戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和18年2月25日 | ||||
編成地 | 八戸 | ||||
使用機種 | 九七戦 一式戦 | ||||
終戦時の所在地 | サルミ | ||||
解説 | 1943年(昭和18年)2月、青森県八戸飛行場にて開隊。基幹要員は飛行第五四戦隊、第一〇四教育飛行連隊、飛行第二四四戦隊から抽出された要員であった。 4月には北海道札幌飛行場に移動。一部を苫小牧に派遣し室蘭防空任務や船団護衛任務に当たらせている。 7月、編制当初の九七式戦から一式戦U型への機種改編に着手。9月、第1中隊が千島列島幌筵島に派遣され飛行第五四戦隊の指揮下にて行動している。 11月、ニューギニア戦線への進出が決定。立川で新機材を受領し、明野で2週間の訓練を実施した後移動を開始する。ニューギニアのホーランジアに到着したのは12月30日であった。 1944年(昭和19年)1月13日、ウエワクに前進。以後ニューギニア航空戦に参加していく。だが急速に戦力を消耗して行き、3月30日、31日のホーランジア大空襲で保有機の大部分を失い壊滅状態となる。以後補充を受け数機で作戦行動を継続するが4月22日の米軍によるホーランジア上陸で残存隊員約150名(地上員含む)は 山中に脱出。徒歩で後方のサミル目指して移動を開始した。 途中倒れるものが続出し、ジャングル内での自活生活に入る。戦後、復員出来た者は僅かに3名だけであった。 戦隊は壊滅状態から再建されること無く、1944年(昭和19年)7月25日付けで解隊となった。 |
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飛行第六四戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月1日 | ||||
編成地 | 彰徳 | ||||
使用機種 | 九七戦 一式戦 二式単戦 | ||||
終戦時の所在地 | クラコール | ||||
解説 | 1937年(昭和12年)7月、立川の飛行第五連隊飛行第二大隊(九五式戦2個中隊)が前身である。 1938年(昭和13年)8月1日、飛行第二大隊と独立飛行第九中隊を合併して飛行第六四戦隊が編制された。当初は第1中隊のみが九七式戦を装備。第2・3中隊は九五式戦装備であったが、年末までに順次機種改編を実施し、全機九七式戦装備となる。 1939年(昭和14年)7月、ノモンハン事件に参加すべく駐屯地てあった広東から台湾、南京、北京、奉天を経由して最前線であるホシウ飛行場に展開する。事件終結後は満州東部の東京城に移動し、練成を努める。 1940年(昭和15年)1月、第1中隊が広東に派遣され、独立飛行中隊として行動をする。 1941年(昭和16年)4月、第四代戦隊長 加藤少佐が着任。8月より一式戦T型への機種改編に着手する為、各中隊が順次本土に帰還して機種改編に努める。 |
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太平洋戦争開戦時、仏印フコク島に展開し、マレー作戦に参加する。(尚、開戦前に南部仏印進駐に伴ない、その直前に北部仏印に進出した第二一独立飛行隊、その指揮下にある独立飛行八四中隊(九七戦)を吸収している。) 以後ラングーン航空戦、シンガポール攻略戦、パレンバン作戦、ジャワ作戦を経て、1942年(昭和17年)4月、ビルマのローウィンに進出し米義勇飛行隊と交戦する。5月、トングー及びマグエに前進、展開し、一部をアキャブに派遣して防空任務に就かせる。 以後、終戦までほぼビルマ戦線に在って進攻作戦、迎撃作戦に従事する。 1943年(昭和18年)1月、一式戦U型への機種改編の為、各中隊が順次交代で本土に帰還する。 1944年(昭和19年)秋、現地にて一式戦V型の補充を受け、順次機種改編が進められる。 1945年(昭和20年)3月、ビルマ戦線崩壊に伴い仏印のプノンペンに後退。5月にはバンコク、7月にはクラコールに後退し、終戦を迎えた。 第4代戦隊長、加藤建夫中佐の時に太平洋戦争開戦を迎え、その活躍は『加藤隼戦闘隊』として陸軍航空隊の中でも一際有名であった。戦時中の第六四戦隊による総撃墜数は283機、他に地上撃破144機。部隊感状9回。部隊感状の数は全戦隊の中で最も多い。 |
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飛行第六五戦隊 | |||||
飛行分科 | 襲撃 軽爆 | ||||
編成時期 | 昭和13年7月27日 | ||||
編成地 | 会寧 | ||||
使用機種 | 九四偵 九八軽 一式戦 二式複戦 九九襲 | ||||
終戦時の所在地 | 目達原 | ||||
解説 | 1938年(昭和13年)7月、九四式偵察機、九三式(九八式?)双発軽爆撃機を装備する戦隊として編制。 太平洋戦争開戦後、九九式襲撃機を装備し、大陸方面で作戦に従事。 1944年(昭和19年)10月、フィリピン航空決戦に参加。戦力を消耗して内地に帰還し、茨城県鉾田で戦力再建に努める。その後原ノ町飛行場に移動。戦力再建時に機種改編を行い、一式戦V型を装備する戦闘爆撃機隊に転科する。 1945年(昭和20年)4月、沖縄戦に参加すべく九州の知覧、目達原に移動。特攻編制を含む夜間攻撃を行い艦船攻撃に従事する。7月11日、残存戦力を目達原に引き上げ、本土決戦準備に備えつつ終戦を迎えた。 |
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飛行第六六戦隊 | |||||
飛行分科 | 襲撃 | ||||
編成時期 | 昭和17年3月31日 | ||||
編成地 | 平壌 | ||||
使用機種 | 九九襲 | ||||
終戦時の所在地 | 大刀洗 | ||||
解説 | |||||
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飛行第六七戦隊 | |||||
飛行分科 | 襲撃 | ||||
編成時期 | 昭和18年2月25日 | ||||
編成地 | 八戸 | ||||
使用機種 | 九九襲 二式複戦 | ||||
終戦時の所在地 | ザンボアンガ(ミンドロ島) | ||||
解説 | |||||
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飛行第六八戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和16年7月29日 | ||||
編成地 | 会寧 | ||||
使用機種 | 九七戦 三式戦 | ||||
終戦時の所在地 | サルミ | ||||
解説 | |||||
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飛行第六九戦隊 | |||||
欠番 | |||||