陸軍飛行戦隊一覧 | ||
飛行第五十戦隊〜飛行第五九戦隊 |
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飛行第五十戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和15年9月10日 | ||||
編成地 | 台中 | ||||
使用機種 | 九七戦 一式戦 四式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 嘉義 | ||||
解説 | 1940年(昭和15年)8月、台湾駐留の飛行第八戦隊(戦闘・爆撃混成部隊)の戦闘機中隊を基幹として編制された戦闘機部隊であり、当初は九七式戦2個中隊からなる部隊であった。 太平洋戦争海戦直前の1941年(昭和16年)8月に第3中隊が編成され3個中隊編制となった。開戦時にはフィリピン上陸船団の護衛部隊として上空哨戒任務に従事する。 1942年(昭和17年)1月、部隊は第1、2中隊がビルマ攻略作戦に参加するためにタイに前進し、第3中隊はフィリピンに残留する。ラングーン攻略戦に参加するが米義勇飛行隊との交戦でかなり損害を出した為、台湾に後退。第3中隊とも合流して4月に本土に帰還。所沢で一式戦T型に機種改編を行い6月末に再び南方に進出する。シンガポールに進出した戦隊は一部をパレンバン防衛に派遣しながら練成を続ける。 9月、雨期の明けた為、ラングーン公害のミンガラドン飛行場に進出。以後中部ビルマの各前進飛行場を拠点に侵攻作戦、防空任務、船団護衛任務に従事する。 1943年(昭和18年)1月、保有戦力が1/3にまで落ち込んだ為、一部戦力をラングーンに残して戦隊主力はシンガポールに後退する。本土から送られてきた一式戦U型に機種改編を行い、3月末には再びビルマのメイクラーテ西飛行場に進出する。 5月末、チッタゴン進攻作戦を最後に雨期のビルマを離れジャワ島バンドン飛行場に後退した戦隊は休息と戦力回復に努める。 10月、雨期が明けた為、ミンガラドン飛行場に前進。再びビルマ航空戦を戦い抜く。 1944年(昭和19年)3月、インパール作戦の開始に伴い戦隊も支援作戦を行うが、後半は敗北し後退する地上軍を支援すべく輸送機代わりの物資投下任務まで負わされるようになり、かなりの消耗を強いられることとなる。 8月、仏印のサイゴンに後退し、戦力回復に努める。このときに四式戦『疾風』が配備され機種改編に着手する。 10月、ミンガラドン飛行場に再進出し、ラングーン防空任務に従事。12月になってから英軍による北部ビルマからの進攻作戦に対処すべくメイクラーテ付近での対地攻撃任務に専念するようになる。 1945年(昭和20年)1月、米機動部隊による仏印来襲に備えサイゴンに移動。一部部隊をツーランや三亜に送り船団護衛任務にあたらせる。 4月下旬、各所で戦線が崩壊し後退するビルマ方面軍を援護すべくモールメンに移動。タイ北部のタクリに前進して英軍攻撃に従事するが5月3日のラングーン陥落によってビルマ航空戦は終了した。 6月26日、本土決戦に備えるべく南方軍航空部隊の内地・台湾への移動が決定する。7月より移動を開始し、広東経由で台湾に集結。本土への移動前日に終戦を迎えた。 |
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飛行第五一戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和19年4月28日 | ||||
編成地 | 小月 | ||||
使用機種 | 一式戦 四式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 下館 | ||||
解説 | |||||
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飛行第五二戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和19年4月28日 | ||||
編成地 | 防府 | ||||
使用機種 | 一式戦 四式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 調布 | ||||
解説 | |||||
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飛行第五三戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和19年4月3日 | ||||
編成地 | 所沢 | ||||
使用機種 | 二式複戦 | ||||
終戦時の所在地 | 藤ヶ谷 | ||||
解説 | |||||
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飛行第五四戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和16年7月26日 | ||||
編成地 | 柏 | ||||
使用機種 | 九七戦 一式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 札幌 | ||||
解説 | 1941年(昭和16年)7月、千葉県・柏飛行場に駐留する飛行第五戦隊から抽出された人員を基幹要員として編制された戦闘機部隊。九七式戦3個中隊で編制され、当初は練成の為に11月より漢口に移動して、そこで太平洋戦争開戦を迎える。 開戦直後の長沙攻略作戦、翌1942年(昭和17年)3月からは広東地区防空、4月からの『せ号』作戦に参加する。 1942年(昭和17年)9月、独立第二十飛行団が新設され、同飛行団の隷下に編入。北部方面防空任務の為、北海道に移動し、11月に千歳及び苫小牧に展開する。翌1943年(昭和18年)1月には帯広に移動し、防空任務の傍ら練成に努める。 2月、一式戦U型に機種改編。 4月、第2中隊が南方に進出した飛行第十三戦隊の代わりに阪神地区防空任務の為、大正飛行場に移動。また第1中隊が台湾防空のために派遣される。(第1中隊は後日スマトラ島パレンバン油田防衛の為派遣され、1944年(昭和19年)2月29日付けで独立飛行第二四中隊として五四戦隊から分離・独立する。) 5月末、戦隊主力(第2中隊)の北方復帰が命ぜられ帯広に移動。アッツ島玉砕とキスカ島撤収といった北太平洋アリューシャン方面の戦況が逼迫した為である。 7月11日、アリューシャン列島アッツ島を出撃した米陸軍航空隊のB-24及びB-25の混成編隊合計15機が幌筵海峡に侵入し爆撃を行った。これが北千島航空戦の始りとなる。7月20日、千島列島幌筵島の北ノ台飛行場(柏原飛行場)に移動する。 8月12日、米軍による幌筵島空襲。この邀撃戦で撃墜したB-24こそが本土防空戦における初戦火となった。次の空襲は1ヶ月後の9月12日に行われた。この邀撃戦の後防空戦力増強として飛行第六三戦隊第1中隊が幌筵に進出し五四戦隊の指揮下にはいる。だが厳しい気象条件の下での航空戦の為、以後米軍の来襲も無く練成に努める日々が続いた。 10月、捷号作戦発動によりフィリピン進出が決定。一部の北千島派遣隊を除く全戦力が南方戦線に抽出されていく。所沢に移動して一式戦V型に機種改編を行った後、11月にルソン島マニラ郊外のサブラン飛行場に進出する。その後ネグロス島に前進し船団護衛と防空戦に参加するが急速に戦力を消耗していき、1945年(昭和20年)1月には生存者が僅か数名と壊滅状態に陥る。1月15日付けで内地帰還が命ぜられ3月までに苫小牧に到着する。以後ただちに戦力再建が図られ、北千島に残されていた派遣隊も札幌に後退して本隊と合流を果す。(それでも占守島片岡飛行場には残置隊として一式戦4機と地上員50名が残留。) 7月上旬には2個中隊にまで回復し、米軍の本土上陸に備え特攻隊の編制までされるが、8月9日のソ連参戦の報に急遽南樺太・落合に進出が命ぜられる。8月14日に進出予定であったが、悪天候のため進出は延期。翌15日の離陸直前に終戦を迎えた。 だが終戦となったにも関わらずソ連軍の樺太侵攻は止まらず、15日以降もソ連軍相手に戦闘は継続された。17日に占守島、18日に幌筵島にソ連軍が上陸を開始する。北千島残置隊は海軍の北東空艦攻隊(北千島配備の海軍部隊)と共にソ連上陸船団に対し爆撃を行う。自衛戦闘であったが北千島防衛の第九一師団がソ連軍と交戦、防衛戦闘に移行した後ソ連軍と停戦交渉を開始。21日に交渉が纏まった為、司令部からの帰還命令に従って片岡飛行場を離陸。残置隊は北海道に脱出して北千島航空戦に終止符が打たれた。 |
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独立飛行第二四中隊 スマトラ島パレンバンに派遣された第1中隊が独立飛行第二四中隊として改編されたのは1944年(昭和19年)2月29日付である。以後もパレンバン防空に従事した中隊は10月より開始されたフィリピン航空決戦に参加すべくネグロス島ファブリカへの派遣が決定された。 10月30日以降特攻隊直掩、船団護衛、防空といった任務に従事するが12月上旬に戦力の大半を失う。以後原駐地であるスマトラ島ガラン飛行場に戻った中隊は四式戦『疾風』の補充を受け機種改編と再建を目指す。 1945年(昭和20年)7月中旬、本土決戦に備え内地への帰還が命ぜられる。台湾に移動し、本土決戦に備えたが、そのまま終戦を迎えた。 |
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飛行第五五戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和19年4月30日 | ||||
編成地 | 大正 | ||||
使用機種 | 三式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 佐野 | ||||
解説 | 1944年(昭和19年)4月、大正飛行場で編制された三式戦『飛燕』を装備する戦隊。編制完了後は小牧に移動し、中京地区の防空任務に就く。 編制当初は第十八飛行団の所属であったが、7月に第十一飛行師団に昇格している。その後8月からは第二三飛行団所属となる。 10月、フィリピン航空決戦に参加すべく本戦隊も移動を開始。11月中旬までに三式戦38機がフィリピンに進出した。だが進出直後の初陣で戦力の半数を失うという被害を受け、以後は少数機による戦闘を継続することとなる。 一方小牧に残った本戦隊残置隊は少数機ではあったが12月以降のB-29邀撃戦に出撃している。 1945年(昭和20年)1月、本隊は航空部隊のフィリピン脱出に伴ない本土帰還を開始するが、本土に戻り原隊に復帰した者は僅か5名であったという。また一部の脱出者は台湾で飛行第十九戦隊への編入となった。 3月以降、残置隊は本隊の復帰者を加え再建を図っていく。4月初旬にはある程度戦力の回復が図られた後、九州方面に増援として進出する。以後万世飛行場に展開し沖縄戦終結まで特攻機の直掩任務に就く。尚、この時期に本隊は三式戦U型への機種改編を実施している。 沖縄戦終結後、小牧に戻った戦隊は8月に大阪・佐野飛行場に移動し阪神地区防空に従事するが、この時期には本土決戦準備の為戦力温存策をとり、空戦の機会はほとんどなく、そのまま終戦を迎えた。 |
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飛行第五六戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和19年4月26日 | ||||
編成地 | 大正 | ||||
使用機種 | 一式戦 三式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 伊丹 | ||||
解説 | |||||
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飛行第五七戦隊 | |||||
欠番 | |||||
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飛行第五八戦隊 | |||||
飛行分科 | 重爆 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月31日 飛行第十二連隊第二大隊を改編 | ||||
編成地 | 公主領 | ||||
使用機種 | 伊式重 九七重 | ||||
終戦時の所在地 | 草屯 | ||||
解説 | |||||
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飛行第五九戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和13年7月1日 | ||||
編成地 | 各務原 | ||||
使用機種 | 九七戦 一式戦 三式戦 五式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 芦屋 | ||||
解説 | 昭和13年9月、漢口攻略戦に参加し、その後広東に展開。 昭和14年9月、ノモンハン事件に後半から参加。 昭和15年、広東に展開し、仏印進駐作戦に参加。 |
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日本陸軍最初の戦闘機隊として長い歴史を持つ精鋭部隊であり、その部隊史は1915年(大正4年)10月14日に編制された所沢一航空大隊までさかのぼる。当初は3個中隊で編制(内2個中隊が飛行機隊、1個は気球隊)。後に航空第一大隊、飛行第一大隊、飛行第一連隊と改称。1938年(昭和15年)7月に陸軍航空隊空地分離制度の導入により飛行第一戦隊と飛行第五九戦隊に2分されて編制された。当初は九七式戦2個中隊編制であった。 1941年(昭和16年)5月、太平洋戦争を控え急遽制式採用された一式戦T型の最初の装備部隊に選ばれ、6月末より立川に帰還して機種改編に着手した。最初のT型甲を装備して8月には漢口に戻ったが、初期生産分の主翼強度不足により空中分解事故が発生した為、再び立川に帰還。主翼の補強と、武装の強化(乙型武装)を行ってから再進出。南部仏印のコンポントラッシュへの終結が完了したのは開戦前日の12月7日であった。 太平洋戦争開戦時、コンポントラッシュからコタバル地区に対して航空戦を展開。以後マレー作戦に協力する。 昭和17年1月〜2月、シンガポール攻略戦及びパレンバン攻略戦に参加。この航空戦は飛行第六四戦隊と共同して行われ、両部隊による戦果は撃墜70機以上と言われる。その後ジャワ攻略戦に参加した後、1943年(昭和18年)までジャワ防空、一部をスマトラ島パレンバン、チモール島クーパンに派遣し任務に当たる。 1942年(昭和17年)9月、第3中隊が新設。3個中隊編制となる。 1943年(昭和18年)2月、現地にて一式戦U型に機種改編を実施する。 7月、東部ニューギニアに進出。ブーツに展開し、第六飛行師団の隷下に編入される。防空戦と船団護衛任務に従事し、同地での防空戦で徐々に損害を重ねていく。9月末の段階で戦力が半減した為、10月にフィリピン・マニラに後退する。11月に戦力を補充して再進出するが、その後2ヶ月足らずで再び戦力を消耗し、1944年(昭和19年)1月に本土帰還が命ぜられる。 1944年(昭和19年)3月、雁の巣飛行場に帰還後、芦屋に移動して戦力再建に着手する。このとき装備機材として割り当てられたのが三式戦『飛燕』であった。 7月より第十二飛行師団の隷下に編入され、北九州・京阪神の防空任務に従事する。だが機材の不調から可動率が低く、可動機数は常に7〜8機という状態が続き、B-29による北九州爆撃に対する邀撃戦も含めてめぼしい戦果は上げられなかった。 1945年(昭和20年)3月、沖縄航空戦に参加するために鹿児島県・知覧に展開、沖縄特攻の護衛任務に従事する。 6月、芦屋に帰還。装備機の五式戦への機種改編に着手する。その後戦力補充と維持に努め、本土決戦の為に戦力温存策を採りつつ終戦を迎えた。 |