陸軍飛行戦隊一覧 | ||
飛行第一戦隊〜飛行第九戦隊 |
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飛行第一戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和13年7月5日 飛行第一連隊を改編 | ||||
編成地 | 各務原 | ||||
使用機種 | 九七戦 一式戦 四式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 高萩 | ||||
解説 | 日本陸軍最初の戦闘機隊として長い歴史を持つ精鋭部隊であり、その部隊史は1915年(大正4年)10月14日に編制された所沢一航空大隊までさかのぼる。当初は3個中隊で編制(内2個中隊が飛行機隊、1個は気球隊)。後に航空第一大隊、飛行第一大隊、飛行第一連隊と改称。1938年(昭和13年)7月に陸軍航空隊空地分離制度の導入により飛行第一戦隊と飛行第五九戦隊に2分されて編制された。 1939年(昭和14年5月、ノモンハン事件の発生に伴ない中国大陸に進出。最前線の採塩所飛行場に進出し、9月の停戦まで出撃を繰り返した。停戦後も満州に駐留を続けたが、太平洋戦争開戦直前に南部仏印コンポントラッシュ飛行場に進出する。(当時の装備機は九七式戦) 開戦後はマレー半島上陸支援、シンガポール攻撃、ジャワ攻略戦に参加し、1942年(昭和17年)3月よりビルマ攻略戦に参加する。5月に内地に帰還したときに明野にて一式戦T型に機種改編。8月には再び南方に進出してスマトラ島パレンバンの油田防空任務に従事した。10月より仏印から雲南省侵攻作戦に参加したが、作戦終了後はシンガポールに後退して防空任務に従事した。 1943年(昭和18年)1月より、激戦区となったソロモン方面に第十二飛行団(飛行第一戦隊・飛行第十一戦隊)が派遣され、ガダルカナル島方面攻撃、そして4月より東部ニューギニアの要衝ウエワクに進出してニューギニア航空戦を戦い抜く。だが急速に戦力を消耗していった9月中旬には第十四飛行団と交代して本土に引き上げることとなった。 本土に戻った戦隊は明野で一式戦U型に機種改編をし、11月初旬に満州北部の防空任務に従事する為、蒙古力飛行場に進出するが11月16日付けで帝都防空任務を与えられて、月末には千葉県・柏飛行場に急遽戻って展開することとなる。 1944年(昭和19年)4月、帝都防空任務に従事したまま四式戦への機種改編に着手する。 10月にはフィリピン戦に参加する為移動を開始し、23日には上海経由でルソン島リパに進出。レイテ島攻撃作戦に参加したが僅か1週間で壊滅状態となった。戦力回復の為11月には本土に帰還を命ぜられ、12月中旬には再びルソン島に進出する。その後もルソン島防空、レイテ島攻撃に参加するが翌年1月には再び戦力を消耗した為台湾に後退、3月には本土に帰還して戦力の再建にとりかかる。7月、埼玉県高萩飛行場で戦力を回復したがそのまま終戦を迎えた。 |
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飛行第二戦隊 | |||||
飛行分科 | 偵察 | ||||
編成時期 | 昭和13年7月31日 飛行第二連隊を改編 | ||||
編成地 | 各務原 | ||||
使用機種 | 九二偵 九七偵 九八直恊 一〇〇司偵 | ||||
終戦時の所在地 | 昭和20年7月15日 第十二独立飛行隊に改編(福岡) | ||||
解説 | 航空第二大隊(大正6年8月編成)→飛行第二大隊(大正11年8月改編)→飛行第二連隊(大正14年5月改編)を前身とし、昭和13年7月31日に飛行第二戦隊に改編された。 | ||||
太平洋戦争開戦時にはチチハル・佳木斯方面に配備。 昭和19年5月よりフィリピンに移動。レイテ作戦で戦力を消耗し、昭和20年1月には内地に帰還する。 その後飛行第一〇六戦隊・独立飛行第十九中隊・第四独立飛行隊を指揮下に入れ、九州・鹿屋に進出。沖縄航空戦に参加する。 |
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飛行第三戦隊 | |||||
飛行分科 | 軽爆 偵察 襲撃 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月31日 飛行第三連隊を改編 | ||||
編成地 | 八日市 | ||||
使用機種 | 九八軽 九九双軽 一〇〇司偵 キ一〇二双襲 | ||||
終戦時の所在地 | 能代 | ||||
解説 | 太平洋戦争前半は樺太・落合飛行場に前進。 昭和18年4月、第1中隊を基幹として第三八戦隊(偵察)が編成され、第三戦隊は軽爆戦隊へと改編された。 昭和19年10月、フィリピン・リパ飛行場に12機が展開。24日、第一次レイテ航空総攻撃に参加したが全機未帰還となる。 |
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飛行第四戦隊 | |||||
飛行分科 | 偵察 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月31日 飛行第四連隊を改編 | ||||
編成地 | 芦屋 | ||||
使用機種 | 九四偵 九五偵 九七戦 九七司偵 二式複戦 | ||||
終戦時の所在地 | 小月 | ||||
解説 | 太平洋戦争開戦前より北九州に展開し防空任務に従事した戦隊であり、昭和19年6月15日深夜に中国大陸・成都より出撃した米陸軍航空隊B−29による本土初空襲に対して邀激戦を展開。以後終戦まで防空戦に従事する。 | ||||
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飛行第五戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月31日 飛行第五連隊を改編 | ||||
編成地 | 立川 | ||||
使用機種 | 九七戦 二式複戦 五式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 清洲 | ||||
解説 | 開戦時には千葉県柏に展開。 昭和18年7月よりジャワ島マランに進出し、チモール・ラングーン・バボに各中隊を分散配備。輸送援護や防空に従事した。 昭和19年2月、米軍のビアク島上陸作戦が開始されると高田戦隊長は独断で出撃。二式複戦4機をもって艦船に体当たり攻撃を敢行した。 昭和19年9月、本土に帰還し、小牧・清洲に移駐。以後名古屋地区の防空にあたる。当初二式複戦で防空邀激戦に従事するが、途中で五式戦に機種改編を行った。 |
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飛行第六戦隊 | |||||
飛行分科 | 軽爆 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月31日 飛行第六連隊を改編 | ||||
編成地 | 平壌 | ||||
使用機種 | 九五戦 九七軽 九八軽 九九襲 | ||||
終戦時の所在地 | 大邱 | ||||
解説 | |||||
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飛行第七戦隊 | |||||
飛行分科 | 重爆 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月31日 飛行第七連隊を改編 | ||||
編成地 | 浜松 | ||||
使用機種 | 九三重 九七重 一〇〇重 四式重 | ||||
終戦時の所在地 | 伊丹 | ||||
解説 | |||||
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飛行第八戦隊 | |||||
飛行分科 | 司偵 軽爆 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月31日 飛行第八連隊を改編 | ||||
編成地 | 屏東 | ||||
使用機種 | 九七司偵 九七軽 九九双軽 一〇〇司偵 | ||||
終戦時の所在地 | 屏東 | ||||
解説 | |||||
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飛行第九戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和13年7月1日 飛行第九連隊を改編 | ||||
編成地 | 会寧 | ||||
使用機種 | 九五戦 九七戦 二式単戦 | ||||
終戦時の所在地 | |||||
解説 | 太平洋戦争開戦時に満州に展開していた。 昭和19年2月、安慶、新郷、漢口などに進出し、1号作戦に参加。 6月、米軍のB−29が成都から出撃するようになると邀撃戦を展開。在中国飛行戦隊としては最高の撃墜数を記録する。 11月、湘桂作戦に協力後広東に移駐。 昭和20年5月、南京に移動して、そのまま終戦を迎えた。 |
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