陸軍飛行戦隊一覧 | ||
飛行第二十戦隊〜飛行第二九戦隊 |
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飛行第二十戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和18年12月1日 | ||||
編成地 | 伊丹 | ||||
使用機種 | 一式戦 四式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 小港 | ||||
解説 | 1943年(昭和18年)12月、飛行第二四六戦隊及び飛行第二四八戦隊から抽出された人員を基幹として編制された飛行戦隊。伊丹飛行場で編制されたが、編制完結と同時に大正飛行場に移動して阪神地区の防空任務に従事する。装備機は一式戦U型であり、当初は2個中隊編制であった。 1944年(昭和19年)2月、北方軍に編入され、4月には千島列島各地に分散配備された。だが同方面への空襲は散発的なものであり、直に逼迫している南方戦線に抽出されることとなった。6月下旬より南下を開始し、7月1日には沖縄に集結する。8月より台湾に移動して台湾南部の小港飛行場を拠点に防空任務に従事。10月の台湾空襲では米艦載機群と交戦したが殆ど戦果を上げることなく戦力の1/3近く(32機中、11機損失)を失った。その後台北で戦力を補充後、捷号作戦に参加すべくフィリピンに移動する。ルソン島バンバン飛行場に展開し、マニラ防空と船団護衛。そして特攻機援護に従事する。1ヶ月弱で戦力を消耗した二十戦隊は11月末より台湾に後退し戦力回復に努める。 1945年(昭和20年)2月より一式戦V型が補充され、機種改編が進むが、沖縄戦開始により特攻隊編制が命ぜられる。その後数次の特攻隊を出撃させ、戦力の大半が沖縄の海に散っていき、そのまま終戦を迎えた。 |
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飛行第二一戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和17年10月20日 | ||||
編成地 | ハノイ | ||||
使用機種 | 九七戦 二式複戦 | ||||
終戦時の所在地 | 桃園 | ||||
解説 | |||||
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飛行第二二戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和19年3月5日 | ||||
編成地 | 福生 | ||||
使用機種 | 二式単戦 四式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 晋州 | ||||
解説 | |||||
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飛行第二三戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和19年10月11日 | ||||
編成地 | 印旛 | ||||
使用機種 | 一式戦 二式単戦 | ||||
終戦時の所在地 | 印旛 | ||||
解説 | 1944年(昭和19年)10月に編制された飛行戦隊であり、当初は中島飛行機太田工場に隣接する飛行場で開隊した。その後印旛飛行場に移動して編制を完結。第十飛行師団の指揮下にあって関東地区防衛任務に従事する。 装備機は二式単戦『鐘馗』1個中隊と一式戦U型及びV型装備の2個中隊という混成編制であったが、この時点で一式戦はB-29邀撃戦には殆ど無力であった。 1945年(昭和20年)2月16〜17日の米艦載機群による関東地区空襲に全力出撃をするが、錬成不足もあり戦隊長以下、戦力の大半が失われた。 3月末より北九州防衛のために芦屋飛行場に進出したが、4月12日には再び印旛飛行場に戻り関東地区での邀撃戦に従事する。 5月24日の夜間邀撃戦に参加し、それなりの戦果を上げるが、それ以外には殆ど戦果を上げることなく、そのまま終戦を迎えた。 |
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飛行第二四戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和13年9月1日 | ||||
編成地 | ハルピン | ||||
使用機種 | 九七戦 一式戦 四式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 宜蘭 | ||||
解説 | 1938年(昭和13年)9月、飛行第十一戦隊から抽出された人員を基幹要員として編成された戦隊であり、満州のハルピンで編制された。 開隊まもなくノモンハン事件に参加。九七式戦2個中隊で編制された部隊であり、5月20日〜9月15日の間に192機の撃墜(損失:戦死21名)を果たし、陸軍戦闘機部隊の精鋭として名声を高めた。 同戦隊はその後もハイラルに駐留し満州国境の防空任務に従事し、日華事変には参加しなかった。 太平洋戦争開戦直前に南方への移動が命令され、台湾に集結する。だが装備機が九七式戦の為フィリピン侵攻作戦には参加できなかった。 1942年(昭和17年)4月、内地に帰還し、明野で一式戦T型を受領し機種改編を行う。6月に一度ハイラルに戻るが直に南支方面に移動。夏期航空撃滅戦に参加後、9月にはスマトラ島パレンバンに進出する。以後同地の油田地帯防空任務に従事した。 1943年(昭和18年)2月、機種改編の為内地に帰還。一式戦U型に改編後南東方面への進出が決定し、パレンバン経由で5月にニューギニアのブーツ飛行場に集結する。以後東部ニューギニアのマダン、ウエワク、ラエなどを移動しつつ米軍攻撃、船団護衛、要地防空任務に従事する。だが戦力の消耗が激しく、9月には可動機数が1/3にまで落ち込んだ為、一旦内地に帰還し戦力回復を行うこととなる。11月には九州・芦屋飛行場で再建を果すが、その後は北方軍に編入され、1944年(昭和19年)2月より千島列島進出が決定した。耐寒装備の実施が行われたが、同戦隊の北方進出は中止され、5月には一転して南方への再進出が命令された。 1944年(昭和19年)5月、フィリピン経由でハルマヘラ島に進出。その後西部ニューギニアのソロンに展開する。以後海軍の指揮下に入ってビアク島を巡る航空戦に参加するが、めぼしい戦火を挙げることなく1ヶ月程度で壊滅状態に陥った。その後ハルマヘラ島で戦力回復に務めるがフィリピン方面の戦局が悪化した為、10月にはネグロス島に移動し、レイテ島攻撃や船団護衛任務に従事する。この作戦参加により11月末には再び戦力を消耗し、フィリピンからの航空部隊脱出に合わせて台湾に後退する。 1945年(昭和20年)2月から3月末にかけて南支方面に移動。広東わ拠点に香港方面の船団護衛や防空任務に参加する。 4月から始まった沖縄戦では宮古島に進出し、特攻隊援護と夜間攻撃に参加。だが5月中旬以降は沖縄攻撃に意味が無くなり、台湾に戻って連合軍の台湾侵攻に備えるが、そのまま終戦を迎えた。 |
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飛行第二五戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和17年10月20日 | ||||
編成地 | 漢口 | ||||
使用機種 | 一式戦 四式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 水原 | ||||
解説 | 日華事変勃発後に緊急動員された独立第十飛行中隊(飛行第八連隊から基幹要員を抽出して編制)が前身であり、太平洋戦争開戦時には独飛十中隊として香港攻略部隊に参加した。 1942年(昭和17年)5月、内地に帰還した独飛十中隊は明野で一式戦T型に機種改編し、7月〜8月にかけて南支方面の夏期航空撃滅戦に参加する。 10月、独飛十中隊は解隊となり、その要員、機材を基幹として飛行第二五戦隊へと改編された。 当初の編制は一式戦T型2個中隊編制であったが、翌年には3個中隊編制となる。編制以来ずっと漢口にあって錬成に務めていたが、1943年(昭和18年)4月からは敵地侵攻作戦に参加。6月に一式戦U型に機種改編し、7月〜10月の夏期航空撃滅戦では所属する第三飛行師団の撃墜数の半数を二五戦隊が記録した。 それ以後も同戦隊は漢口を拠点に、広東、運城などを前進基地とし防空任務や侵攻作戦に参加していく。だが1944年(昭和19年)春以降は中国空軍の戦力が急速に増加し、以後次第に制空権を失っていく。 1944年(昭和19年)12月18日、漢口がB-29を含む戦爆連合の空襲を受け、この日の空襲だけで二五戦隊、そして八五戦隊の保有機の大半が失われることとなった。 1945年(昭和20年)1月、南京に後退し、南京、上海方面の防空任務に従事する。この間、四式戦闘機の導入が始まり、3月までに四式戦への改編が完了した。 5月に北京郊外の南苑、6月には朝鮮半島の水原へと移動後退し、水原で終戦を迎えた。 二五戦隊は編制以来、終始中国大陸だけを行動した戦闘機部隊であった。 |
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飛行第二六戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 軽爆 | ||||
編成時期 | 昭和17年10月2日 | ||||
編成地 | 衙門屯 | ||||
使用機種 | 九七戦 九七軽 九九襲 一式戦 三式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 台東 | ||||
解説 | 1942年(昭和17年)10月、満州北部のチチハルで編制された戦闘機と軽爆撃機の混成部隊。編制当初は第1中隊を九七式戦闘機、第2・3中隊は九七式軽爆撃機で編制された。 編制完了後、フィリピンに進出。主に船団護衛とゲリラ掃討戦に従事しつつ錬成に務めた。 1943年(昭和18年)5月、第2・3中隊は機種改編の為内地に帰還し、九九式襲撃機に改編する。同中隊は10月にはニューギニア戦線への転出が決定し、11月にニューギニア・ブーツ飛行場に集結した。だが九九襲撃機では期待以上の働きは出来ず、戦力を消耗していき、後に第九飛行師団に編入されてシンガポールに後退した。 一方、フィリピンに残留していた第1中隊(戦闘機隊)は9月に内地に帰還して一式戦U型に機種改編を行った。 1944年(昭和19年)3月、二六戦隊は全中隊が一式戦U型に改編し、純然たる戦闘機部隊となる。6月にはスマトラ島ベトン飛行場に集結しパレンバン地区の防空任務に従事する。 10月より始まったフィリピン航空戦に参加すべく、半数がマニラ近郊のサブラン飛行場に進出。続いてネグロス島に移動しレイテ侵攻作戦と船団護衛任務に従事する。だが1ヶ月足らずの戦闘で戦隊長以下戦力の大半を失なってしまう。 12月、戦力回復の為内地に帰還し明野で一式戦V型を受領する。同時に三航軍隷下に復帰し1945年(昭和20年)3月以降順次シンガポールに移動する。 以後シンガポールにあって防空任務に従事するが、一部が特攻隊として沖縄戦に投入された。 7月、本土決戦に備え本土に移動開始するが、台湾に移動し段階で終戦を迎えた。 |
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飛行第二七戦隊 | |||||
飛行分科 | 軽爆 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月1日 | ||||
編成地 | 石家荘 | ||||
使用機種 | 九四偵 九八軽 九九襲 二式複戦 | ||||
終戦時の所在地 | 所沢 | ||||
解説 | |||||
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飛行第二八戦隊 | |||||
飛行分科 | 偵察 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和14年6月1日 | ||||
編成地 | 新京 | ||||
使用機種 | 九七偵 九七軽 九八直協 | ||||
終戦時の所在地 | 東金 昭和20年7月10日 第二八独立飛行隊に改編 | ||||
解説 | 昭和16年7月、第二八独立飛行隊本部、独立飛行第六三中隊、独立飛行第八一中隊に改編し、解隊となる。 昭和19年4月、上記部隊をもって第二八戦隊を再編する。 昭和20年7月10日 第二八独立飛行隊に改編。 |
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飛行第二九戦隊 | |||||
飛行分科 | 偵察 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和14年7月15日 | ||||
編成地 | 各務原 | ||||
使用機種 | 九七司偵 九七軽 九八直協 九九襲 二式単戦 四式戦 | ||||
終戦時の所在地 | 台中 | ||||
解説 | ノモンハン事件に参加。 昭和16年7月、第二九独立飛行隊本部、独立飛行第六六中隊、独立飛行第八七中隊に改編し、解隊となる。 昭和19年2月、第二九独立飛行隊本部、独立飛行第八七中隊、独立飛行第九十中隊をもって第二九戦隊(戦闘機隊)を再編する。 10月、フィリピン・クラークに進出。フィリピン航空戦における特攻隊の援護にあたる。 昭和20年3月、戦力消耗により後退した台湾・台中にて展開。沖縄航空戦に特攻隊を出撃させる。 |
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