陸軍飛行戦隊一覧 | ||
飛行第三十戦隊〜飛行第三九戦隊 |
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飛行第三十戦隊 | |||||
飛行分科 | 襲撃 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和18年10月1日 | ||||
編成地 | 東京城 | ||||
使用機種 | 九九襲 一式戦 他 | ||||
終戦時の所在地 | 屏東? | ||||
解説 | 1943年(昭和18年)7月、満州の東京城飛行場で編制された襲撃機戦隊であり、九九式襲撃機3個中隊で編制される予定だったが、根拠地となる敦化飛行場に移動し、編制と補充を行う過程で戦闘機隊への変更が決定された。一式戦U型3個中隊からなる戦闘機隊として編制を完了したのは1944年(昭和19年)になってからであった。 第十三飛行団隷下の部隊としてフィリピン進出が決定した同戦隊は5月より移動を開始。7月中旬にルソン島、7月末にはネグロス島に展開した。だが9月12日13日の米機動部隊による空襲で戦力の2/3を失ってしまう。その後ルソン島に後退し戦力の補充を行うも、10月に入ってからのフィリピン航空戦で戦力を失っていく。11月には内地に帰還を命ぜられ、所沢にて再度戦力回復を行う。一式戦V型を装備し、翌1945年(昭和20年)1月上旬には再びフィリピンに進出する。ルソン島北部のツゲガラオに展開し、リンガエン湾の米艦船に対する夜間攻撃を行うが、これは既に昼間航空戦を行うだけの戦力を同戦隊、そして日本軍が有していなかったからである。 2月、部隊は台湾に後退。3月にはタイに移動しビルマ方面の航空戦に参加。ビルマから撤退する日本軍の援護に従事するが、部隊は5月30日付けで解隊となった。 |
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飛行第三一戦隊 | |||||
飛行分科 | 軽爆 襲撃 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月 | ||||
編成地 | 南苑 | ||||
使用機種 | 九七軽 九九襲 一式戦 | ||||
終戦時の所在地 | シンガポール? | ||||
解説 | 1937年(昭和12年)7月、飛行第七連隊内で臨時編制された飛行第五大隊(九三式軽爆2個中隊編制)が母体である。編成後、直ちに北支・中支に派遣され、漢口攻略戦・広東攻略戦に参加する。 1938年(昭和13年)8月、在支航空部隊の改編に伴い軽爆3個中隊に増強され、同時に飛行第三一戦隊へと改編された。11月より南支作戦に参加。 1939年(昭和14年)7月には満州・嫩江に展開し、ノモンハン事件に参加する。 |
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太平洋戦争開戦後、南部仏印シェムレアに移動。その後ビルマ作戦に従事する。 昭和17年3月、エナンジョン油田地域攻略に参加。 その後満州に移動し、1943年(昭和18年)12月、戦闘機隊に改編を命ぜられ、一式戦U型への機種改編を行った。 1944年(昭和19年)7月、フィリピン方面に移動。ルソン島を経てネグロス島ファブリカに展開するが、9月12日13日の米機動部隊艦載機群と交戦により戦力の大半を失う。その後ルソン島に後退し、アンヘレス飛行場で戦力回復を図る。10月下旬、再びネグロス島に再進出し、レイテ航空総攻撃に参加。11月初旬には再び失われた戦力を回復すべくルソン島マバラカット飛行場に後退し、戦力回復後の11月末に三度ネグロス島に進出する。 戦力消耗後に一度本土に戻った後、昭和20年4月にシンガポールに進出したが、5月30日付けで解隊となった。 |
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飛行第三二戦隊 | |||||
飛行分科 | 軽爆 | ||||
編成時期 | 昭和14年10月5日 | ||||
編成地 | 杏樹 | ||||
使用機種 | 九七軽 九九襲 | ||||
終戦時の所在地 | |||||
解説 | 1938年(昭和13年)8月、飛行第十六連隊(満州・牡丹江)の第二大隊を母体とし、九五式戦闘機3個中隊からなる戦闘機隊として新編された。 編制後杏樹飛行場に移動。1939年(昭和14年)8月下旬にノモンハン事件に参加すべくトボス飛行場に前進する。 1940年(昭和15年)9月、九七式戦闘機に機種改編。 1942年(昭和17年)5月、一式戦T型に機種改編。9月に南支派遣命令により広東に移動する。各地の侵攻作戦、防空任務に従事し、翌1943年(昭和18年)3月に中支方面に移動するまで南支方面の航空作戦に参加した。 中支方面に移動後は飛行第二五戦隊と共同で防空任務、侵攻作戦に参加する。(この時期に一式戦U型に機種改編を行った) 7月〜10月の夏期航空撃滅戦に参加。 10月、第三航空軍に編入され仏印のサイゴンに移動。一部はパレンバン方面、また一部をビルマ方面に派遣しつつ戦力の回復に努め、11月にビルマ全戦力の移動を行う。以後米英航空部隊と航空戦を戦うが2ヶ月程の戦闘で戦力2/3を失ってしまう。 1944年(昭和19年)1月、タイのバンコクに後退。その後第九飛行師団に編入された為、スマトラ島メダンに移動する。2月、ブーツ、ウエワクに進出するが再び戦力の大半を失い4月下旬には残存隊員はフィリピンに後退した。 6月、スマトラ島ゲルンバンに移動。補充人員、機材を受けつつ戦力の回復を図る。 10月、フィリピン航空戦に参加すべく移動を開始。10月下旬にルソン島マニラ郊外に集結した同戦隊はネグロス島に移動してレイテ航空総攻撃に参加する。戦隊長以下大部分が戦死し、戦力の殆どを失った為、1945年(昭和20年)1月にシンガポールに後退した。この時の残存機数は僅かに4機だけであった。 1月下旬にはスマトラ島ベトン飛行場に移り戦力再建を図るが、再建されることなく6月2日付けで解隊となった。 |
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飛行第三三戦隊 | |||||
飛行分科 | 戦闘 | ||||
編成時期 | 昭和13年8月1日 | ||||
編成地 | 杏樹 | ||||
使用機種 | 九四戦 九七戦 一式戦 二式単戦 | ||||
終戦時の所在地 | メダン | ||||
解説 | 1938年(昭和13年)8月、満州・牡丹江に在った飛行第十六連隊第二大隊を母体とした戦闘機戦隊。当初は九五式戦闘機3個中隊からなる部隊であった。 1939年(昭和14年)8月、ノモンハン事件に参加すべくトボス飛行場に移動し、同事件末期の航空戦に参加する。ノモンハン事件終結後は杏樹に戻り九七式戦に機種改編を行う。 太平洋戦争開戦時には同戦隊は杏樹に在ったが、1942年(昭和17年)5月より一式戦T型に機種改編を行った後、9月より南支方面に移動を開始する。 南支では広東天河飛行場に進出し各地進攻作戦や要地防空に従事する。 1943年(昭和18年)3月、中支の武昌飛行場に移動する。同地で飛行第二五戦隊と共同で進攻作戦、要地防空に従事する。(同時期に一式戦U型に機種改編を実施) 7月〜10月の夏期航空撃滅戦に参加。広東と武昌を交互に移動し進攻作戦に従事する。 10月より第三航空軍の隷下に編入され仏印・サイゴン飛行場に移動開始。部隊の一部はパレンバンやビルマに派遣され、その間に戦力回復に努める。 11月3日、部隊は全力でビルマに移動開始。マウビ、続いてロイレンに移動する。その後2ヶ月近い戦闘で戦力が1/3以下となり、保有機が10機にまで減少する。その為1944年(昭和19年)1月上旬にはタイのバンコクする。 その後第九飛行師団に編入されスマトラ島メダンに移動した。これはニューギニア戦線が壊滅したため、補充として急遽同戦隊に転進命令が下った為である。2月下旬にはブーツ、ウエワク地区に進出し進攻作戦、要地防空に従事するが僅か1ヶ月半で壊滅状態に陥った。4月17日、残存操縦員がホランジアから脱出しフィリピン・マニラに引き上げた。 6月13日、スマトラ島ゲルンバンに移動した戦隊は補充人員、機材を受け入れつつ戦力再建に着手する。(8月末に回復) 10月、フィリピン決戦に参加すべく戦隊にルソン島への移動命令が下る。マニラ郊外のニルソン飛行場に集結した戦隊は、以後年末までネグロス島に前進してレイテ航空決戦に参加する。戦隊長以下大部分が戦死し、壊滅状態となった戦隊は1945年(昭和20年)1月にシンガポールに後退する。このとき戦隊の保有機は僅か4機であった。 1月下旬にはスマトラ島ベトン飛行場に移動し再び戦力再建を図るが、再建されること無く6月2日付けで解隊となった。 |
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飛行第三四戦隊 | |||||
飛行分科 | 軽爆 | ||||
編成時期 | 昭和17年10月15日 | ||||
編成地 | プノンペン | ||||
使用機種 | 九九双軽 | ||||
終戦時の所在地 | |||||
解説 | 太平洋戦争開戦直前に起こった仏印進駐に伴ない、その直前に北部仏印に進出した第二一独立飛行隊。その指揮下にある独立飛行八二中隊(九七軽爆)を吸収。 | ||||
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飛行第三五戦隊 | |||||
欠番 | |||||
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飛行第三六戦隊 | |||||
欠番 | |||||
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飛行第三七戦隊 | |||||
欠番 | |||||
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飛行第三八戦隊 | |||||
飛行分科 | 司偵 | ||||
編成時期 | 昭和18年4月15日 | ||||
編成地 | 大谷 | ||||
使用機種 | 一〇〇司偵 | ||||
終戦時の所在地 | 昭和20年7月10日 帯広にて第三八独立飛行隊に改編 | ||||
解説 | |||||
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飛行第三九戦隊 | |||||
欠番 | |||||