解説 |
1939年(昭和14年)、編成完結後、北支派遣軍第一軍の隷下に入り、河北省塘沽に上陸して太原、平遙を経て三交鎮、呉城鎮地区の警備についた。その後黄河東岸の山西軍主力殲滅作戦、五台作戦(第四期共産軍討伐作戦)、「ニシ」作戦、高平作戦、晋南作戦、路晋作戦、晋中作戦、中原作戦等に参加する。
1943年(昭和18年)、西部ニューギニアに転出が決定。南京経由で上海に移動したところで海上機動打撃連隊への編成改正が行われ、約1ヶ月の猛訓練が実施される。
同年11月に呉淞港を出港、第三六師団輸送船団と共にビアク島に上陸した。この輸送中に連隊は師団の指揮を離れ、第二軍直轄に指定。兵力、装備の増強を受ける。以後、ビアク支隊主力として同島での飛行場建設と築城作業を進める。
1944年(昭和19年)5月27日、連合軍の砲爆撃が一斉に開始され、ビアク島南東部より米軍(約3万)の上陸が開始される。(ビアク支隊は海軍部隊、後方部隊を合わせても12,800名)
ビアク支隊は寡兵をもって肉薄奮戦したが、将兵の消耗が激しく次々と各指揮官が失われていく。米軍上陸から26日目には食料弾薬が尽き、組織的抵抗は不可能になった。その為、軍旗奉焼し、支隊全員玉砕することを申し合わせる。7月2日、葛目支隊長自決。残存兵力は自活しつつ攻撃準備すべしとの軍命令により、各隊は島内のジャングルに散った。以後島内を彷徨い、将兵が終戦を知ったのは翌年9月上旬であった。
生存者は80余名だけであった。
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