帝国陸軍 歩兵連隊(3)

歩兵第六十連隊 〜 歩兵第八九連隊

  歩兵第六十連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第六一連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第六二連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第六三連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第六四連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第六五連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第六六連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第六七連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第六八連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第六九連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第七十連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第七一連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第七二連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第七三連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第七四連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第七五連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第七六連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第七七連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第七八連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第七九連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第八十連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第八一連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第八二連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第八三連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第八四連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第八五連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第八六連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第八七連隊
通称号 命一三二八五
編成 1938年(昭和13年)11月10日
編成地 旭川
最終時の上級部隊と配置
第七一師団 台湾(南部)
解説 1938年(昭和13年)、琿春守備隊の基幹部隊として満州東南部の間島地区防衛任務に従事した。
1942年(昭和17年)5月、琿春守備隊の再編制が行われ、第七一師団が編制され隷下に編入された。
1945年(昭和20年)1月、師団が第十方面軍に編入され台湾に転用が決定。2月には連隊は台湾に移動し、台湾南部に布陣して防衛態勢をとる。しかし米軍が台湾を飛び越えて沖縄に侵攻した為、戦闘することなく終戦を迎えた。
   

  歩兵第八八連隊
通称号 命一三二七三
編成 1938年(昭和13年)11月10日  独立混成第一旅団(前身部隊):1934年(昭和9年)5月26日
編成地 旭川
最終時の上級部隊と配置
第七一師団 台湾(中部)
解説 独立歩兵混成第一連隊を前身とし、独立混成第一旅団に編合された。この旅団は陸軍初の機械化部隊である。
日中戦争勃発と同時に北京付近の掃討戦に参加。その後チャハル作戦に転戦する。
1939年(昭和14年)、歩兵第八八連隊と改編・改称。歩兵第八七連隊と共に琿春守備隊の基幹部隊として満州東南部の間島地区防衛任務に従事した。
1942年(昭和17年)5月、琿春守備隊の再編制が行われ、第七一師団が編制され隷下に編入された。
1945年(昭和20年)1月、師団が第十方面軍に編入され台湾に転用が決定。2月には連隊は台湾に移動し、台湾中部に布陣して防衛態勢をとる。しかし米軍が台湾を飛び越えて沖縄に侵攻した為、戦闘することなく終戦を迎えた。
      

  歩兵第八九連隊
通称号 山三四七六
編成 1939年(昭和14年)10月25日
編成地 旭川
最終時の上級部隊と配置
第二四師団 沖縄
解説 1939年(昭和14年)10月に編成が完結した連隊ではあったが、第三大隊欠の状態で第二四師団の隷下に編入された。
同年11月に満州東安に移駐し、東部ソ満国境の守備に従事する。翌1940年(昭和15年)2月に補充兵が北海道から到着し、第三大隊が編成された。
太平洋戦争では長く満州に在ったが、1944年(昭和19年)2〜3月に第三大隊が中部太平洋方面第一派遣隊に含まれた。第三大隊はポナペ島に向かう予定だったが、釜山から出港後にサイパンに行き先が変更。3月19日にサイパン島に上陸した。サイパン東南部のアスリート飛行場周辺の海岸陣地に配備された。その後部隊から楓部隊(第三二師団ハルマヘラ防衛部隊・歩兵第二一二連隊)に転属する者が輸送船で出港したが、途中米魚雷艇によって乗船していた『吉田丸』が戦没。、約200名が失われた。
6月、米軍によるサイパン攻略作戦が開始。日本軍は総反撃の失敗。防衛線の崩壊により第三大隊はナフタン山付近に孤立した。6月26日には大隊の残存兵力をもってアスリート飛行場に突入を敢行したが失敗。大隊主力は全滅し、夜襲突入に遅れた第一中隊はダンダン地区に孤立したが、これも全滅した。
7月6日、連隊主力に動員が下令。17日に出発し、8月5日に沖縄に上陸し、連隊は中頭地区頭部に展開した。
1945年(昭和20年)4月1日、米軍が沖縄に侵攻。連隊は首里陣地の東重要拠点である運玉森周辺で米軍を迎え撃ち、運玉森稜線で激烈な争奪戦を繰り広げた。
6月に入り連隊方面の戦況も逼迫し、残存部隊の奮戦も虚しく孤立化し、連隊将兵の殆どが戦死した為、組織戦闘が不能なった。
連隊長金山均大佐は新垣の洞窟で爆薬で自決。軍旗は歩兵第二二連隊の軍旗と共に宇江城で奉焼したと伝えられている。