解説 |
テスト書込みです。
内容は全て歩兵第28連隊のものです。
第七師団隷下の連隊として編制された連隊であり、日清戦争後の軍管区改正に基づいて創設された。同師団は屯田兵を母体として誕生したが師団の野戦軍化が進められたことにより、兄弟連隊である砲兵第二五・二六・二七連隊と共に創設された。
日露戦争では乃木将軍の第三軍に編入され、二〇三高地攻撃に参加。この攻撃で連隊長村上正路大佐が900名(他の連隊や工兵からの選抜)による白樺隊を組織、奮戦した。
旅順攻略後は奉天会戦に参加。この会戦で村上連隊長が露軍に囚われ、ロシア本国に護送。その後日本軍捕虜達の指揮官として過ごすことになる。戦後帰国したが審判に付されるが、『敵弾に倒れ、人事不省に陥って敵の手に落ちた』とされ軍法会議に付されなかったという逸話がある。
1918年(大正7年)シベリア出兵。
1937年(昭和12年)、日中戦争勃発により翌1938年(昭和13年)に第七師団が満州に駐箚する。張鼓峰事件に応急派兵されたが、停戦協定が成立した為戦闘することなくチチハルに引き上げている。
ノモンハン事件では第二大隊が先陣部隊となり連隊主力が続いたが、機動力、火力の相違により辛うじて停戦に持ちむことが出来たという負け戦であった。
太平洋戦争手において、連隊長一木清直大佐を指揮官とする一木支隊として大本営直轄部隊としてミッドウェー作戦に組み込まれる。だが同作戦の失敗により一木支隊は南東方面に転用。ガダルカナル島奪還命令を受け、ガダルカナル島に向かう。
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一木支隊: |
砲兵第二八連隊を基幹とし、工兵第七連隊(旭川)第一中隊、独立速射砲第八中隊(京都)を加えた2,507名で編制。 |
米軍に奪われたガダルカナル島の飛行場を奪回する目的で上陸した一木支隊第一梯団(916名)だったが、貧弱な装備しか持たない一木支隊では米海兵隊第一海兵師団相手に如何ともしがたく、僅か半日の戦闘で玉砕。一木連隊長は自ら軍旗を奉焼し、拳銃自決を遂げた。
水野鋭士少佐に率いられた第二梯団は後続部隊として送られた川口支隊(第十八師団・砲兵第一二四連隊基幹)の右翼部隊としてヘンダーソン飛行場に突撃を敢行するが、これも惨敗する。その後戦線を離脱し後方に下がるも補給の途絶から飢えとの戦いが始まる。
その後日本軍のガダルカナル島撤退の際に第十七軍の最後方部隊としてガダルカナル島を離れる。連隊将兵で旭川に辿り着いたものは僅か140余名であった。
1944年(昭和19年)3月1日、連隊旗を再親授される。
以後北海道東部に展開してオホーツク海の海岸に上陸が予想される連合軍に対して備えていたが、そのまま終戦を迎えた。
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