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歩兵第一連隊 |
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通称号 |
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玉五九一四 |
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編成 |
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1874年(明治7年)12月19日 |
(軍旗拝受日) |
編成地 |
東京 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第一師団 |
フィリピン・セブ島 |
解説 |
明治の時代に徴兵制が施行されて間もない頃、東京鎮台に最初に誕生した歩兵連隊であり、この歩兵第一連隊を頭号部隊として後に多くの連隊が誕生することとなる。
西南の役に於いて、九州地方を転戦し田原坂の戦い、城山攻撃等に参加した。
1904年(明治37年)、日露戦争に従軍。第二軍に所属し金州・南山を攻撃し、遼東半島の分断に成功する。その後第三軍隷下の部隊として旅順攻略戦に参加し、多大なる被害を受けつつも二〇三高地攻略に成功する。さらに北進し、奉天会戦に参加。あまりに被害が多く、日露戦争では連隊長が2回も交代し、3人が連隊長の職についたほどである。
日露戦争終結後も連隊は長く満州に駐留することとなった。
1936年(昭和11年)2月、二.二六事件に於いて連隊から多くの関係者が出たこともあり、連隊は満州に送られることとなる。満州では孫呉を拠点とし、ソ満国境の警備任務に従事しすることとなる。この時期に起きた事件の一つに乾岔子島事件ある。
日中戦争では勃発直後に万里の長城を超え、張家口〜大同といった都市を占領する。
1939年(昭和14年)5月、ノモンハン事件にも連隊は出撃。8月末から連隊は派遣されハロンアルシャン(ノモンハンの南)に集結したが、この時点で既に事件は集結に向かっていた。
太平洋戦争開戦後も満州で対ソ戦に備えていたが1944年(昭和19年)に南方転用が決定した。連隊は上海に集結し、その後船団に乗船しフィリピンに向かう。最終的な目的地はレイテ島だったが、出港した10月20日はまさに米軍によるレイテ島上陸日であった。連隊は第二大隊(ロタ島に転用)を除く2,500名が11月1日にレイテ島オルモックに上陸。(第二次多号作戦) 上陸した連隊はリモンで第一師団主力と合流し米軍と交戦を開始する。連隊は善戦し敢闘したが、後続の補給が途絶えた状態では長く持ちこたえられず、リモンを撤退して西部カンギボット山系に集結したときには残存兵力は350名にまで減っていた。以後第一師団の撤収作戦(地号作戦)を行いつつ、1945年(昭和20年)1月にセブ島に脱出。以後終戦まで現地での自活生活が続く。セブ島に脱出出来た連隊長以下72名の内、戦後帰国できたのは僅か39名であった。
一方上海から別行動をとった第二大隊はロタ島(マリアナ諸島)に分派されたが、同島に米軍の上陸はなく、終戦まで空襲に耐えるだけの日々であった。この島も補給は無く、飢えと空襲により生き残ったのは僅か84名であった。
通常、各連隊では終戦時に連隊旗を奉焼とたのだが、歩兵第一連隊では米軍への降伏式の前に軍旗が奉焼されたが、これは旗竿のみの焼却であり、連隊旗を本土に持ち帰ることに成功している。これは軍旗を裁断し、お守り袋に偽装して米軍に気づかれること無く持ち帰ったためである。
連隊旗は現在も自衛隊第一師団資料室に保管されているいう。
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歩兵第二連隊 |
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通称号 |
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照七七四六 |
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編成 |
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1874年(明治7年)12月19日 |
(軍旗拝受日) |
編成地 |
水戸 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第十四師団 |
パラオ諸島ペリリュー島 |
解説 |
水戸を衛戍地とした最初の連隊であり、西南戦争・日清戦争・日露戦争に参加した歴戦の連隊である。
日露戦争では第一師団隷下の連隊として参加している。
1908年(明治41年)9月、軍備拡張に伴なう第十四師団の新設に伴ない所属を変更した。このとき、駐屯地を佐倉から水戸に転営した。
1919年(大正8年)2月、シベリア出兵により沿海州方面に出征。連隊主力はハバロフスク方面、第三大隊はニコライエフスクの守備に従事する。この第三大隊が後に起こった『尼港事件』でパルチザンと交戦し、一般市民(約1,500名)と共に全滅することとなる。
1931年(昭和6年)9月、満州事変の勃発により戦火が飛び火した上海に増援部隊として第十四師団も派遣されることとなる。第二連隊は翌年3月に呉淞に上陸し上海派遣軍の指揮下に編入された。以後停戦が成立するまで第十四師団は満州各地を転戦し、関東軍の隷下にはいった。歩兵第二連隊は北満を転戦。特に第二大隊は特に熱河作戦ににも出動することとなる。歩兵第二連隊が内地に帰還したのは1934年(昭和9年)5月であった。
1937年(昭和12年)7月、蘆溝橋事件が発生。第十四師団にも動員下令され、第二連隊は塘沽港に上陸し、第一軍の隷下に編入され、その後保定会戦に参加する。翌年には山西作戦、徐州会戦に参加。中支派遣軍に移ってからは漢口攻略作戦や河北岸陽動作戦に参加する。内地帰還は1939年(昭和14年)9月であった。
1940年(昭和15年)8月、第十四師団の満州永久駐箚が決定。関東軍の隷下に入り、北満・嫩江に駐屯する。
太平洋戦争開戦後も満州の地に在って国境警備にあたるが、南方への兵力転用が決定した1944年(昭和19年)4月、南洋・パラオ諸島に派遣された。歩兵第二連隊は後に激戦地となるペリリュー島の守備につくこととなった。
ペリリュー島守備隊は歩兵第二連隊連隊長中川洲男大佐の指揮の下、他に歩兵第十五連隊第三大隊、独立歩兵第三四六大隊、師団戦車隊、海軍部隊と共に守備につく。
1944年(昭和19年)9月、米機動部隊による空襲が激化する中、艦砲射撃まで加わったペリリュー島は島全体が瓦礫の島と化したが、守備隊は健在であった。9月15日、米軍の上陸部隊を一度は撃退するほどの戦果をあげるが、第二次上陸部隊による強行上陸を受け、米軍2個師団が同島に上陸する。
ペリリュー島での防衛戦は米軍がサイパン島で経験した攻略戦を遥かに凌ぐ抵抗をもって行われた。サイパン島に比べて1/3程度しかない兵力でありながらも、米上陸部隊第一陣の米第1海兵師団は50%もの死傷者を出し僅か2週間で撤退している。サイパン島が僅か22日で組織的抵抗を終了したにもかかわらず、2ヶ月以上も抵抗をを続けた。
連隊がここままで抵抗を続けられた理由の1つにサイパン戦以前の各防衛戦に於ける戦訓を取り入れた、数線に及ぶ陣地を構築した縦深陣地を孤島の中に築いた点である。2つ目は日本陸軍のお家芸『万歳突撃』の中止である。この方針転換により洞窟陣地を利用したゲリラ戦をもって徹底抗戦をしたのである。
この従来の陸軍の孤島防衛戦法、水際殲滅戦法を止め、縦深陣地による抵抗とゲリラ戦法に転換したのは大本営参謀本部情報部の作成した米軍戦闘方法を研究し、その対処法を記した『敵軍戦法早分かり』の存在があった。同書はサイパン戦の戦訓を取り入れてから各隊に配布予定だったが、それ以前の1944年(昭和19年)3月に前線部隊に内容を説明するべく参謀(作戦課・朝枝参謀、情報課・堀参謀)が派遣されている。その際に歩兵第二連隊連隊長中川大佐も説明を受けており、4ヶ月の準備期間を経て米軍に多大なる損害を与え、抵抗を続けることとなった。
1944年(昭和19年)11月21日、中川大佐はパラオ本島の師団司令部に決別の電報を送った後、自決する。(死後二階級特進)
これにより連隊の70年に及ぶ歴史に幕が閉じた・・・のだが、組織的抵抗が終了した後も山口永少尉以下34名は連隊があらかじめ造った最後の砦である地下洞窟陣地を利用してゲリラ戦を展開。その抵抗は実に1947年(昭和22年)4月21日まで戦闘を継続したのである。
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歩兵第三連隊 |
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通称号 |
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豊五六二〇 |
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編成 |
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1874年(明治7年)12月19日 |
(軍旗拝受日) |
編成地 |
東京 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第二八師団 |
宮古島 |
解説 |
最初の従軍は西南の役であり、熊本方面を転戦する。
日露戦争では金州・南山攻撃に参加後、旅順攻略戦に参加する。その後奉天会戦に参加。
その後朝鮮半島、山東半島・青島に守備隊として1個中隊の派遣が行われるが、連隊としては東京の防衛の為、出動することはなかった。
1936年(昭和11年)、所属する第一師団の満州駐箚が決定し、具体的な移駐に関する師団命令が出された直後に二.二六事件が発生。同事件には歩兵第一連隊の青年将校と共に歩兵第三連隊の青年将校も多数参加していた。
満州移駐後はチチハルに駐屯し、1937年(昭和12年)に発生した乾岔子島事件にも一部部隊が派遣された。
蘆溝橋事件発生後、連隊はチャハル作戦に参加。張北に終結後、万里の長城を超え進撃する。張家口、陽高城、大同を攻略した。
1939年(昭和14年)7月、ノモンハン事件にも出動。まず速射砲中隊1個が派遣され、翌8月に連隊主力も派遣される。
1940年(昭和15年)、軍備改編。この改編により所属が第二八師団に転属となった。
1941年(昭和16年)7月、関東軍特別演習が実施され、北安から孫家(ハルピン郊外)に移駐。以後対ソ戦に備え、国境防衛任務に従事しつつ太平洋戦争を迎えた。
1944年(昭和19年)8月、南方転用の方針転換により沖縄防衛のために転進。宮古島に上陸する。以後、同島に防衛陣地の構築と飛行場建設に着手する。
1945年(昭和20年)4月、米軍の沖縄侵攻に伴ない、宮古島にも空襲と艦砲射撃が行わる。連隊は米軍の宮子島上陸に備えて防衛態勢を敷くが米軍は素通りした。この為戦闘は行われず、そのまま同島にて終戦を迎えた。
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歩兵第四連隊 |
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通称号 |
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勇一三〇一 |
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編成 |
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1875年(明治8年)6月7日 |
(軍旗拝受日) |
編成地 |
弘前 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第二師団 |
サイゴン |
解説 |
仙台鎮台第一大隊及び第二大隊を併合して誕生した連隊である。西南の役にはこの2個大隊編成で従軍する。
1883年(明治16年)3月、第三大隊を編成し、3個大隊編成となる。
1888年(明治21年)5月、軍の編成改編が実施され、仙台鎮台が廃止される。これにより第二師団へと改称され、連隊も第二師団の隷下に編入された。
1894年(明治27年)、日清戦争に従軍。
1904年(明治37年)、日露戦争に従軍。第二師団は第一軍隷下に編入され、鴨緑江渡河作戦や九連城、鳳凰城、、魔天嶺、遼陽、沙河攻略戦に参加後、奉天会戦に参加した。
1909年(明治42年)以降、連隊は羅南、会寧、茂山などに駐屯し、日韓併合に併せて朝鮮半島での守備に従事する。
1922年(大正11年)6月より1年間、連隊は北樺太守備の為に派遣される。
1931年(昭和6年)4月、師団の満州駐箚の為、連隊は長春に派遣される。
1931年(昭和6年)9月、満州事変勃発。連隊も出動し、寛城子、南嶺、吉林、三間房、チチハル、ハルピン、敦化などの各地を転戦することとなる。
1937年(昭和12年)4月、再び満州駐箚により賓県、ハルビン、巴彦などに駐屯し警備任務に従事するが、7月に日中戦争勃発によりハルビン駐留の第一大隊が歩兵第十五旅団の指揮下に編入されチャハル作戦や北部山西作戦に従事する。
翌1938年(昭和13年)5月、徐州会戦に参加。
1939年(昭和14年)7月、ノモンハン事件に参加。
太平洋戦争開戦時、第二師団は第十六軍の指揮下に編入されジャワ島攻略戦(1942年(昭和17年)3月)に参加する。同島西部のメラク湾に上陸し、首都ジャカルタを経由してバンドンに入城した。6月にはフィリピン・ダバオに移動し、青葉支隊に編入となった。
1942年(昭和17年)8月、南東方面に移動。9月には分散してガダルカナル島に進出する。第二大隊は川口支隊に編入され、連隊主力がルンガ飛行場攻略に参加した。だが数日の戦闘で連隊長(中熊直正大佐)以下多くの犠牲者を出し、以後戦闘にならずガダルカナル島を彷徨うことになる。連隊がガダルカナル島から撤退したのは1943年(昭和18年)2月のケ号作戦の時である。
5月、マニラに到着し連隊の再建に着手するが、9月には連隊主力がジャワ島に、第二大隊はバリ島に移動して警備任務に従事することとなった。
1944年(昭和19年)3月、連隊主力(第一・第三大隊)インパール作戦への支援としてビルマに移動する。5月には第十八師団(菊兵団)への増援として北部ビルマのフーコン・ミイトキーナ方面に投入される。9月には第二師団の指揮下に戻り、第五六師団(龍兵団)と共に雲南方面での断作戦に参加し、現地部隊の撤退に協力する。以後も同方面の撤退戦に協力し、第五六師団の指揮下に編入され戦闘を継続する。
1945年(昭和20年)2月、第二師団の南部仏印への移動が決定するが、歩兵第四連隊はモールメン方面での反攻作戦に参加すべく第十八師団の指揮下に入って敵機甲部隊と交戦する。その後雨季に突入し、氾濫した泥濘の中で撤退を続け、シッタン河を渡河して河口付近に集結するまで苦戦を続けることとなる。
7月、連隊への南部仏印への転進が決定するが、第一大隊(?・臨時再編成部隊)はビルマに残され、残りは泰緬鉄道でサイゴンに向かうこととなった。一方バリ島の第二大隊にも連隊主力と合流すべくタイに向かうが、輸送任務にあたった重巡『足柄』が米潜の雷撃を受け被雷戦没し、少なくない犠牲を出した。
ビルマ残留の臨時部隊=勇第一大隊はシッタン河東岸の防御陣地で英印軍からの砲撃に耐えつつ、第二八軍の撤退支援のためにシッタン河渡河作戦を敢行する。この作戦は奇跡的な成功を収め、撤退を成功させたが、その直後に終戦を迎えることとなった。
サイゴンに向かった連隊主力はサイゴンの北西80Km地点で終戦を迎え、軍旗奉焼を行った。
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歩兵第五連隊 |
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通称号 |
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杉四七一五 |
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編成 |
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1878年(明治11年)12月29日 |
(軍旗拝受日) |
編成地 |
青森 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第八師団 |
レイテ島 |
解説 |
1894年(明治27年)、第二師団隷下の部隊として日清戦争に従軍。
1896年(明治29年)、第八師団の新設が決定し、翌年第八師団隷下に入る。
1900年(明治35年)1月、日清戦争後の露仏独三国干渉により対露戦を重視した軍部は猛訓練を実施し、その結果第五連隊は冬の八甲田山中での耐寒訓練で未曾有の吹雪に襲われ、将兵210名中199人惨死という大事故に遭遇いる。これは軍事史に残る大惨事であった。
1902年(明治37年)、日露戦争勃発。第八師団も従軍するが、当初は戦略予備として待機状態であった。開戦から約1年、第八師団に出動命令が下り黒溝台会戦に参加する。
1922年(大正11年)5月、シベリア出兵。北樺太警備任務に従事する。
1925年(大正14年)、軍縮により解隊された歩兵第五二連隊の内、青森県で徴用された全ての兵が第五連隊に編入される。
1931年(昭和6年)、満州事変勃発。第八師団隷下の各連隊から1個大隊づつが抽出され、第五連隊からは嵯峨亮吉少佐率いる大隊が鈴木混成旅団の一隊として出動する。
1937年(昭和12年)、日中戦争により第八師団が満州に移駐すると第五連隊も佞陽に移駐するし、そのまま太平洋戦争開戦を迎えた。
1944年(昭和19年)9月、比島防衛戦に参加すべく転用が決定。連隊はルソン島北部サンフェルナンドに集結するが、同年12月にレイテ島逆上陸部隊に指定される。連隊主力は第三五軍隷下の高階支隊に編入されレイテ島に向う。この輸送は多号作戦・第9次作戦と呼ばれ、3隻輸送船に分乗していたが、途中空襲により2隻が沈没。多数の死傷者を出す。高階支隊はレイテ島上陸後、南マタコブの戦闘で全滅に近い被害を受ける。その後カンキボット山付近に陣地を構築し防衛戦を行うも弾薬が尽き、高階支隊長以下が軍旗と共に下山するも消息不明となり、支隊は消滅した。
一方、ルソン島増援に参加した連隊の一部は空襲により後退を続け、残存兵は山中で四散し、消滅する。
第五連隊の青森県出身兵で生還した者は僅か6名だけであったという。
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歩兵第六連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第七連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第八連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第九連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第十連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第十一連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第十二連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第十三連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第十四連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第十五連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第十六連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第十七連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第十八連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第十九連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第二十連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第二一連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第二二連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第二四連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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歩兵第二五連隊 |
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通称号 |
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要二二二一 |
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編成 |
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1897年(明治30年)12月22日 |
(軍旗拝受日) |
編成地 |
札幌 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第八八師団 |
真岡(樺太) |
解説 |
第七師団隷下の連隊として編制された連隊であり、日清戦争後の軍管区改正に基づいて創設された。同師団は屯田兵を母体として誕生したが師団の野戦軍化が進められたことにより、兄弟連隊である歩兵第二六・二七・二八連隊と共に創設された。
当初は独立歩兵第一大隊として誕生したが、1896年(明治29年)に歩兵第二五連隊第一大隊と改称。次いで中隊の増設に伴ない1902年(明治35年)に連隊編制が完了した。
1904年(明治37年)10月、日露戦争に出兵する為に札幌を出発。第三軍の隷下に入り旅順攻略戦、ついで二〇三高地攻略戦に参加した。翌年には戦場を移動。北上して奉天会戦に参加し、その後各地の警備任務に従事する。
1917年(大正6年)4月、第七師団の満州駐箚が決定した為、連隊も奉天北方の鉄嶺及び満州里に出動する。
1920年(大正9年)には北部沿海州に派遣。翌年7月に帰還すると、以後は教育訓練に従事する。
1932年(昭和7年)、第二大隊が混成第十四旅団に編入され満州事変に参加する。その後同大隊は1934年(昭和9年)2月より1年間、満州黒河省に駐屯。
1936年(昭和11年)、日本陸軍最後となる特別大演習(演習地:札幌近郊)に参加。
1938年(昭和13年)3月、連隊は満州チチハル南部に移駐。5月に徐州会戦、7月に張鼓峰事件、そして翌年のノモンハン事変に参加する。
1940年(昭和15年)10月、札幌に帰還し、連隊の編成替えを実施し、翌11月には樺太の上敷香に移駐し、以後太平洋戦争の全期間を国境警備任務に従事することとなる。連隊は第七師団から抽出された樺太歩兵第一大隊・他を吸収し、樺太混成旅団を増強する形となった。
1945年(昭和20年)2月28日、第八八師団が編制され、樺太混成旅団(歩兵第二五連隊・歩兵第一二五連隊)は隷下に編入される。(他に歩兵第三〇六連隊も師団に編入)
4月には同地に歩兵第一二五連隊が進駐。同連隊も樺太混成旅団の隷下に編入され、歩兵第二五連隊は逢坂に移駐し、樺太中部地区の警備に従事することとなる。
停戦(終戦)後の8月20日、ソ連軍が艦砲射撃の掩護下で上陸を開始。連隊はやむなくこれを迎え撃ち交戦状態となる。23日になって日ソ停戦協定が成立。その為、この戦闘が日本軍最後の戦闘となった。
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歩兵第二六連隊 |
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通称号 |
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熊九二〇三 |
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編成 |
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1897年(明治30年)12月22日 |
(軍旗拝受日) |
編成地 |
旭川 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第七師団 |
帯広 |
解説 |
第七師団隷下の連隊として編制された連隊であり、日清戦争後の軍管区改正に基づいて創設された。同師団は屯田兵を母体として誕生したが師団の野戦軍化が進められたことにより、兄弟連隊である歩兵第二五・二七・二八連隊と共に創設された。
1899年(明治32年)12月に第一大隊、翌年11月に第二大隊の編制され、連隊の編制が完結した。兵員の徴兵は函館連隊区で行われたが、同管区内だけでは充足できなかった為、昭和の初期までは東北・関東・甲信越地方からの徴募が行われた。
1904年(明治37年)11月、日露戦争で激戦区となった旅順攻略戦に於いて戦局打開の為の増援戦力として第七師団が投入されることとなった。その為歩兵第二六連隊も投入され二〇三高地、赤坂山攻撃に投入され、多大な被害を被った。
さらに連隊は北上し奉天会戦に参加。連隊長以下700余名を失う激戦を戦い抜いた。
1917年(大正6年)、第七師団に満州駐箚が決定し、連隊は満州里にあって治安維持と鉄道警備に従事することとなる。
1918年(大正7年)のシベリア出兵には混成支隊の中核としてチタに進出。黒龍省、沿海州地域でパルチザン軍と戦闘を交える。
1932年(昭和7年)、第二大隊が混成第十四旅団に編入され満州事変に参加し、熱河作戦、河北作戦、山海関から通州へと転戦する。その後同大隊は1934年(昭和9年)2月より1年間、熱河省に駐屯し警備にあたる。
1938年(昭和13年)以降、北満警備の為、チチハルなどに駐屯していたが、その後徐州会戦、張鼓砲峰事件に参加。翌1939年(昭和14年)5月にはノモンハン事変に於いてハルハ河右岸に陣地を構築してソ連軍と対峙した。
1942年(昭和17年)、太平洋戦争に於いて穂積少佐を隊長とする北海支隊を編制する。
1944年(昭和19年)、峯木少将を隊長とする東支隊の中核として北千島に移駐。第二七軍の千島作戦の掩護を実施する。その後は帯広に帰還し北海道東部の防衛任務に従事し、そのまま終戦を迎えた。
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歩兵第二七連隊 |
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通称号 |
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熊九二〇五 |
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編成 |
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1897年(明治30年)12月22日 |
(軍旗拝受日) |
編成地 |
旭川 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第七師団 |
帯広 |
解説 |
第七師団隷下の連隊として編制された連隊であり、日清戦争後の軍管区改正に基づいて創設された。同師団は屯田兵を母体として誕生したが師団の野戦軍化が進められたことにより、兄弟連隊である歩兵第二五・二六・二八連隊と共に創設された。連隊の兵員充足にあたっては道内の徴募兵をもって満たし、1903年(明治36年)10月に編制が完了した。
日露戦争に於いては、第三軍の戦闘序列に入り大連に上陸したが当初は第九師団に配属された。(注:詳細不明) 第三軍の旅順攻略戦において、二〇三高地攻撃に際し第七師団に復帰、歩兵第二八連隊と共に高地攻撃に参加した。旅順要塞陥落後は奉天会戦に参加し、1906年(明治39年)3月に旭川に凱旋した。
1917年(大正6年)、満州駐箚に第七師団が選ばれ渡満。ハルピン付近に駐屯し、南満州鉄道の警備と、満州における権益保護の任務に従事する。翌年8月にはシベリア出兵に参加。約1年間ザバイカル地方に派遣される。1919年(大正8年)5月帰還する。また沿海州方面のソ連軍の蠢動に呼応する形で尼港を鎮圧するために多聞支隊(歩兵1個大隊基幹)を派遣した。
満州事変に於いては混成1個旅団の派遣が求められ、歩兵第二七連隊からは第一大隊(大隊長:松尾勝明少佐)が参加する。同旅団は東辺道粛清、大興安嶺作戦等に参加し、その後万里の長城線に沿って中国軍と激戦を展開する。喜峰口関門をめぐる戦闘では宗哲元軍との間で石を投げ合う激戦となり語り草になったという。
1920年(大正9年)、混成旅団が帰国すると、師団主力が熱河省の警備に付く為に出動し、朝陽付近に駐屯した。
1938年(昭和13年)2月以降、満州・歃江に駐屯。その後第二次ノモンハン事件に出動し、七六一高地付近でソ連軍と戦闘を展開。停戦協定が成立後はソ満国境付近のハンダガイ付近の警備に従事した。旭川には1940年(昭和15年)11月に帰還する。
太平洋戦争では北方警備任務に従事し、旭川から動くことはなく、第三大隊の中線島に派遣されたり、その他小部隊が根室、網走、釧路方面に派遣されただけだった。
1944年(昭和19年)4月、第七師団の北海道東部への展開命令により連隊は十勝沿岸の警備のために釧路郊外の天寧に駐留す。終戦直前にソ連軍の南樺太進撃に対し1個大隊の派遣が命じられたが、派遣することなく終戦を迎えた。
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歩兵第二八連隊 |
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通称号 |
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熊九二〇七 |
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編成 |
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1897年(明治30年)12月22日 |
(軍旗拝受日) |
編成地 |
旭川 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第七師団 |
帯広 |
解説 |
第七師団隷下の連隊として編制された連隊であり、日清戦争後の軍管区改正に基づいて創設された。同師団は屯田兵を母体として誕生したが師団の野戦軍化が進められたことにより、兄弟連隊である歩兵第二五・二六・二七連隊と共に創設された。
日露戦争では乃木将軍の第三軍に編入され、二〇三高地攻撃に参加。この攻撃で連隊長村上正路大佐が900名(他の連隊や工兵からの選抜)による白樺隊を組織、奮戦した。
旅順攻略後は奉天会戦に参加。この会戦で村上連隊長が露軍に囚われ、ロシア本国に護送。その後日本軍捕虜達の指揮官として過ごすことになる。戦後帰国したが審判に付されるが、『敵弾に倒れ、人事不省に陥って敵の手に落ちた』とされ軍法会議に付されなかったという逸話がある。
1918年(大正7年)シベリア出兵。
1937年(昭和12年)、日中戦争勃発により翌1938年(昭和13年)に第七師団が満州に駐箚する。張鼓峰事件に応急派兵されたが、停戦協定が成立した為戦闘することなくチチハルに引き上げている。
ノモンハン事件では第二大隊が先陣部隊となり連隊主力が続いたが、機動力、火力の相違により辛うじて停戦に持ちむことが出来たという負け戦であった。
太平洋戦争手において、連隊長一木清直大佐を指揮官とする一木支隊として大本営直轄部隊としてミッドウェー作戦に組み込まれる。だが同作戦の失敗により一木支隊は南東方面に転用。ガダルカナル島奪還命令を受け、ガダルカナル島に向かう。
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一木支隊: |
歩兵第二八連隊を基幹とし、工兵第七連隊(旭川)第一中隊、独立速射砲第八中隊(京都)を加えた2,507名で編制。 |
米軍に奪われたガダルカナル島の飛行場を奪回する目的で上陸した一木支隊第一梯団(916名)だったが、貧弱な装備しか持たない一木支隊では米海兵隊第一海兵師団相手に如何ともしがたく、僅か半日の戦闘で玉砕。一木連隊長は自ら軍旗を奉焼し、拳銃自決を遂げた。
水野鋭士少佐に率いられた第二梯団は後続部隊として送られた川口支隊(第十八師団・歩兵第一二四連隊基幹)の右翼部隊としてヘンダーソン飛行場に突撃を敢行するが、これも惨敗する。その後戦線を離脱し後方に下がるも補給の途絶から飢えとの戦いが始まる。
その後日本軍のガダルカナル島撤退の際に第十七軍の最後方部隊としてガダルカナル島を離れる。連隊将兵で旭川に辿り着いたものは僅か140余名であった。
1944年(昭和19年)3月1日、連隊旗を再親授される。
以後北海道東部に展開してオホーツク海の海岸に上陸が予想される連合軍に対して備えていたが、そのまま終戦を迎えた。
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歩兵第二九連隊 |
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通称号 |
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編成 |
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(軍旗拝受日) |
編成地 |
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最終時の上級部隊と配置 |
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解説 |
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