帝国陸軍 歩兵連隊(4)

歩兵第九十連隊 〜 歩兵第一一九連隊

  歩兵第九十連隊
通称号 凪二〇〇〇八
編成 1942年(昭和17年)1月27日 (軍旗拝受日)
編成地 弘前
最終時の上級部隊と配置
第一〇七師団 索倫(満州)
解説 関東軍直轄部隊として編制。
1944年(昭和19年)6月、第一〇七師団に編合され、満州西部国境(アルシャン・ハンダガヤ)警備に従事する。
1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍の参戦により新京(長春)に後退中にソ連軍と交戦。大損害を被ったがこれを突破し興安南省のイントールに後退した時点んで終戦を迎えた。


  歩兵第九一連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第九二連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第九三連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第九四連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第九五連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第九六連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第九七連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第九八連隊
通称号 稔九二五八
編成 1944年(昭和19年)4月26日 (軍旗拝受日)
編成地 旭川
最終時の上級部隊と配置
第七七師団 鹿児島県加治木
解説 本土防衛部隊として編成された連隊であり、歩兵第九九連隊・歩兵第一〇〇連隊とは兄弟連隊である。
北海道防衛戦力の充実の為に、第七師団が道東地区に移動したのにともない編成されたのが第七七師団隷下の連隊の一つである。
防衛担当地域は大雪山系の西側地域であり、苫小牧東方に対上陸戦用の陣地を構築した。
1945年(昭和20年)5月、本土決戦に備えて九州に移動が決定。鹿児島県加治木にて防衛陣地構築にあたるが、本土決戦は起こらず、そのまま終戦を迎えた。
    

  歩兵第九九連隊
通称号 稔九二六〇
編成 1944年(昭和19年)4月26日 (軍旗拝受日)
編成地 旭川
最終時の上級部隊と配置
第七七師団 鹿児島県加治木
解説 本土防衛部隊として編成された連隊であり、歩兵第九八連隊・歩兵第一〇〇連隊とは兄弟連隊である。
北海道防衛戦力の充実の為に、第七師団が道東地区に移動したのにともない編成されたのが第七七師団隷下の連隊の一つである。
防衛担当地域は大雪山系の西側地域であり、苫小牧東方に対上陸戦用の陣地を構築した。
1945年(昭和20年)5月、本土決戦に備えて九州に移動が決定。鹿児島県加治木にて防衛陣地構築にあたるが、本土決戦は起こらず、そのまま終戦を迎えた。
    

  歩兵第一〇〇連隊
通称号 稔九二六二
編成 1944年(昭和19年)4月26日 (軍旗拝受日)
編成地 旭川
最終時の上級部隊と配置
第七七師団 鹿児島県加治木
解説 本土防衛部隊として編成された連隊であり、歩兵第九八連隊・歩兵第九九連隊とは兄弟連隊である。
北海道防衛戦力の充実の為に、第七師団が道東地区に移動したのにともない編成されたのが第七七師団隷下の連隊の一つである。
防衛担当地域は大雪山系の西側地域であり、苫小牧東方に対上陸戦用の陣地を構築した。
1945年(昭和20年)5月、本土決戦に備えて九州に移動が決定。鹿児島県加治木にて防衛陣地構築にあたるが、本土決戦は起こらず、そのまま終戦を迎えた。
    

  歩兵第一〇一連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一〇二連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一〇三連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一〇四連隊
通称号 鏡二六八〇四
編成 1937年(昭和12年)9月16日 (軍旗拝受日)
編成地 仙台
最終時の上級部隊と配置
第十三師団 衡山
解説 日中戦争により常設師団が大陸に派遣された結果、留守第二師団が編制を担当して復活した第十三師団(大正軍縮により一時解隊されていた)隷下の歩兵連隊として編成された。編成完結後、直ちに大陸に派遣、呉淞に上陸し、上海付近の戦闘に参加した。三家村、劉家行一帯の敵を撃破、追撃し江陰に進出。揚子江を渡河し津浦線を遮断して朱竜橋の警備に付いた。
1938年(昭和13年)、淮陽平地の作戦を経て臨淮関の警備に従事する。4月、徐州会戦に参加。8月、武漢作戦に参加。この会戦中、補給の困難から糧食不足に陥り、またマラリアに患者が大発生し、第二軍全体の半分が罹病し戦力が激減した。この作戦中、連隊は大別山を突破し、中国軍を駆逐、武漢平原に出て警備任務に従事するが、ゲリラ戦に転じた中国軍相手に苦戦を強いられることとなる。
1939年(昭和14年)4月、襄東作戦に参加。その後大洪山系を越え安陸地区に進出して警備任務に就く。
1940年(昭和15年)、宣昌作戦に参加。6月に師団中央部隊の前衛として安福市を経て宣昌に突入・占領を果たす。以後同地の警備任務に従事。
1941年(昭和16年)9月、宣昌周辺での中国軍からの防衛戦で苦戦するが、これの撃退に成功。
太平洋戦争勃発後、1942年(昭和17年)3月に東陽付近、10月には済渓河付近の警備に当たり、1943年(昭和18年)2月には連隊主力(第三大隊を除く)は江北殲滅作戦に参加。5月には江南殲滅作戦に従事する。
第三大隊合流後、沙市警備に付くが、一部を留守部隊として残し、他は12月からは常徳殲滅作戦に参加する。
1944年(昭和19年)5月、咸寧南方に終結し湘桂作戦に参加。9月には灌陽盆地に入り、10月の作戦再開後は貴州省まで追撃して独山を占領した。12月の作戦終了後は恩思付近の警備に従事する。
1945年(昭和20年)4月、都安作戦に参加。7月には桂林に駐留し、その後反転行動中に終戦を迎えた。連隊が終戦を知ったのは8月17日になってからだったという。
8月23日、軍旗の奉焼式を挙げたが、連隊は独自に行動し、長沙を経て10月にハ陽湖畔にて武装解除された。連隊は1946年(昭和21年)6月より内地帰還を開始、7月15日までに全員が帰国し、復員した。


  歩兵第一〇五連隊
通称号 弾一二〇一七
編成 (1)1937年(昭和12年)8月30日 (軍旗拝受日)
(2)1941年(昭和16年)9月10日 (軍旗再拝受日)
編成地 弘前
最終時の上級部隊と配置
第四七師団 湖北省
解説 日中戦争勃発に伴ない留守第八師団が編制を担当した特設師団・第一〇七師団隷下の歩兵連隊であり、華北方面に出動し、山西省南部地区の治安作戦に参加する。
1940年(昭和15年)に復員したが、翌年に再度動員され北部軍の隷下に編入れた。
1943年(昭和18年)、第四七師団に編合、翌1944年(昭和19年)11月、湖北省に移動し、湘西作戦に従事。さらに対ソ戦に備え反転、北上した途中で終戦を迎えた。


  歩兵第一〇六連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一〇七連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一〇八連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一〇九連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一一〇連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一一一連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一一二連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一一三連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一一四連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一一五連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一一六連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一一七連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一一八連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説

  歩兵第一一九連隊
通称号
編成
編成地
最終時の上級部隊と配置
解説