解説 |
日中戦争により常設師団が大陸に派遣された結果、留守第二師団が編制を担当して復活した第十三師団(大正軍縮により一時解隊されていた)隷下の歩兵連隊として編成された。編成完結後、直ちに大陸に派遣、呉淞に上陸し、上海付近の戦闘に参加した。三家村、劉家行一帯の敵を撃破、追撃し江陰に進出。揚子江を渡河し津浦線を遮断して朱竜橋の警備に付いた。
1938年(昭和13年)、淮陽平地の作戦を経て臨淮関の警備に従事する。4月、徐州会戦に参加。8月、武漢作戦に参加。この会戦中、補給の困難から糧食不足に陥り、またマラリアに患者が大発生し、第二軍全体の半分が罹病し戦力が激減した。この作戦中、連隊は大別山を突破し、中国軍を駆逐、武漢平原に出て警備任務に従事するが、ゲリラ戦に転じた中国軍相手に苦戦を強いられることとなる。
1939年(昭和14年)4月、襄東作戦に参加。その後大洪山系を越え安陸地区に進出して警備任務に就く。
1940年(昭和15年)、宣昌作戦に参加。6月に師団中央部隊の前衛として安福市を経て宣昌に突入・占領を果たす。以後同地の警備任務に従事。
1941年(昭和16年)9月、宣昌周辺での中国軍からの防衛戦で苦戦するが、これの撃退に成功。
太平洋戦争勃発後、1942年(昭和17年)3月に東陽付近、10月には済渓河付近の警備に当たり、1943年(昭和18年)2月には連隊主力(第三大隊を除く)は江北殲滅作戦に参加。5月には江南殲滅作戦に従事する。
第三大隊合流後、沙市警備に付くが、一部を留守部隊として残し、他は12月からは常徳殲滅作戦に参加する。
1944年(昭和19年)5月、咸寧南方に終結し湘桂作戦に参加。9月には灌陽盆地に入り、10月の作戦再開後は貴州省まで追撃して独山を占領した。12月の作戦終了後は恩思付近の警備に従事する。
1945年(昭和20年)4月、都安作戦に参加。7月には桂林に駐留し、その後反転行動中に終戦を迎えた。連隊が終戦を知ったのは8月17日になってからだったという。
8月23日、軍旗の奉焼式を挙げたが、連隊は独自に行動し、長沙を経て10月にハ陽湖畔にて武装解除された。連隊は1946年(昭和21年)6月より内地帰還を開始、7月15日までに全員が帰国し、復員した。
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