帝國海軍の航空母艦(1) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鳳翔 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
世界初の航空母艦である。ただし、航空母艦として最初から計画・建造されたという意味でである。
大正6年の八六艦隊建艦計画で計画された艦であり、完成後は各種の運用実験に従事した日本空母の実験艦的存在である。昭和に入り、赤城・加賀等の大型空母の配備が始まると第一線から退いている。 作戦参加としてはミッドウェー作戦が唯一である。主力艦隊と行動を共にしたが、機動部隊の壊滅後に漂流中空母飛龍を偵察・発見をしている。以後は内地において訓練任務に従事し、終戦時に生き残った数少ない空母である。
(鳳翔の戦歴)
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赤城 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本機動部隊にあって艦隊旗艦として活躍した日本最初の大型正規空母である。 1920年(大正9年)に成立した『八八艦隊』計画の天城級巡洋戦艦の2番艦として同年起工された。しかし翌1921年のワシントン軍縮会議で主力艦の保有量を米英の6割に制限されたため、工事中止・廃艦処分にむされることとなった。しかし同条約によって空母の保有量が8,100tまで認められ、天城級の2艦『天城』『赤城』が空母にむ改造されることとなった。 (天城は関東大震災によって破損、計画中止となった。) 1927年(昭和2年)、空母として完成した赤城は世界でも珍しい3段飛行甲板を持つ空母であった。ただし運用の難しい構造のため、1936年からの大改造で全通飛行甲板を持つ大型空母へと生まれ変わった。 1941年(昭和16年)、僚艦加賀と共に第1航空戦隊を編成し、第1航空艦隊の旗艦としてハワイ作戦に従事したのである。開戦当初の破竹の勢いでラバウル・ポートダーウィン・チヤラチャップ等の港湾・基地攻撃。インド洋では英艦隊の撃滅等の戦果を上げ、無敵艦隊の名を欲しいままにした。 1942年6月(昭和17年)6月、運命のミッドウェー作戦に参加する。同島攻撃の第1次攻撃隊の発進後、空母攻撃に対する第2次攻撃隊を準備中に米空母部隊の空襲を受ける。断続的な攻撃を受け、急降下爆撃機の2発の直撃弾により艦内炎上を起こした。大破炎上した赤城は司令部を移した後、味方駆逐艦によって処分された。
(赤城の戦歴)
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加賀 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
赤城と共に大戦前半の機動部隊の中核をなした空母である。 1920年(大正9年)のワシントン軍縮会議において建造中止・廃棄が決定した加賀級戦艦の1番艦であり、僚艦土佐と共に長門級に続く40cm砲搭載戦艦として計画された。本来、土佐同様標的艦として処分されるはずであった本艦が空母に改造されたのは関東大震災によるものである。当時空母への改造が決定していた天城級巡洋戦艦の1番艦・天城が関東大震災によって損傷・放棄されため、急遽加賀が空母へと改造されることとなった。試行錯誤の連続で計画・建造された加賀は赤城同様当初3段飛行甲板を有していたが、実用性に乏しいため、全通飛行甲板形式に改造された。この際に煙突形状の変更、島型艦橋の設置も行われている。また飛行甲板中段に設置されていた20cm連装砲2基も撤去されたが、代わりに艦尾の20cm単装砲が6門(片舷3門)から10門(片舷5門)に増設されている。 1941年(昭和16年)12月の開戦時には、僚艦赤城と共に第1航空戦隊を編成、ハワイからインド洋まで縦横無尽の活躍をした。 1942年(昭和17年)6月5日、ミッドウェー作戦に参加。米機動部隊の空襲を受け、急降下爆撃機により被弾炎上。大爆発の後沈没した。
(加賀の戦歴)
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龍驤 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1920年(大正9年)のワシントン軍縮会議では主力艦以外に空母も保有量が米英に対し6割と制限された。しかし10,000t未満の艦と条約成立以前に建造中のものは試験的なものとし、保有数に入れないとされた。そこで水上機母艦『若宮』の代艦として予算成立していた分を条約外の補助空母として1隻建造することとなり、1929年(昭和4年)、基準排水量9,800tの小型空母が計画、起工されたのである。建造中、軍令部よりロンドン軍縮会議の成り行きから条約制限外の空母とするのは困難と判断されたため、計画変更。搭載機を24機から36機に増加するよう要請があった。 1933年(昭和8年)5月竣工。 1934年(昭和9年)3月の友鶴事件により復元安定性の改善を求められる。内容は大型のバルジを装着。搭載機の減少(3機)。前部格納庫を一部廃止して倉庫にする。12.7cm連装高角砲を6基から4基に減少等の改造を施された。 1935年(昭和10年)には第4艦隊事件が発生。演習中に大型台風に遭遇した結果、龍驤の艦橋前壁が大波によって大破してしまった。そのため再改修工事を行い、艦首甲板を一段増加して乾舷を高める等の工事によって航洋性を高めている。 1941年(昭和16年)12月の開戦時には第4航空戦隊としてフィリピン作戦に参加。 1942年(昭和17年)6月のミッドウェー作戦時には準鷹と共に支援作戦であるアリューシャン作戦に参加し、ダッチハーバーを空襲。第1航空艦隊(機動部隊)壊滅後は第3艦隊において再建された空母部隊の一翼を勤める。 1942年8月24日の第2次ソロモン海戦において米艦載機の攻撃を受ける。至近弾多数、魚雷1発命中により沈没している。
(龍驤の戦歴)
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蒼龍・飛龍 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蒼龍級である。ただし飛龍は準ではあるが、ここでは一緒に説明しよう。 蒼龍級は1933年(昭和8年)の海軍艦艇第2次補充計画(通称A計画)で計画された空母である。ワシントン軍縮条約にて定められた空母保有量を消化することを目的とし、残保有量12,000tに小型空母の鳳翔を廃艦にすることによって21,000tの建造枠を確保。この建造枠で10,500tの空母2隻が計画された。 当初軍令部から要求された原案は航空巡洋艦構想であり、以下のようなものであり、予算段階で計画縮小されたものが、『蒼龍原案』と言われるものである。(下記表参照)
起工準備中の1934年(昭和9年)3月に『友鶴事件』が起こった。結果海軍艦艇のトップヘビー問題が発生し改めることとなり、『蒼龍原案』も再検討されることとなる。最終的に纏まった案は基準排水量15,900tの中型空母であり、僚艦飛龍を建造すれば条約の保有量を超える計画であった。
(各艦の戦歴)
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翔鶴級 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1936年(昭和11年)1月、日本は第2次ロンドン軍縮会議より脱退したため、ワシントン条約の効力失効を待って翌年より建艦の自由化が始まった。無条約時代、最初の建艦計画が第3次海軍軍備補充計画(通称、B計画)であり、建艦された空母の1番艦が『翔鶴』、2番艦が『瑞鶴』である。完成は開戦間近の時期であったため瑞鶴の竣工を待って第5航空戦隊を編成し、ハワイ作戦に間に合わせたのである。 ハワイ作戦・南方攻略戦・インド洋作戦後、1942年(昭和17年)5月18日、南東方面作戦に伴って発生した珊瑚海海戦によって史上初の空母同士の航空海戦が発生する。この海戦は第1航空艦隊から分派された第5航空戦隊と米空母部隊との間で行われ、結果レキシントン撃沈、ヨークタウン中破の戦果を上げたが、日本も祥鳳沈没、翔鶴損傷の被害を受けた。この作戦の後、第5航空戦隊は当初予定されていたミッドウェー海戦に参加できなくなったが、米空母ヨークタウン大至急損傷を復旧、ミッドウェー海戦で第1航空艦隊撃滅の要因となったのは皮肉でもある。 ミッドウェー海戦後、再建された日本機動部隊・第3艦隊において新たに第1航空戦隊へと再編成された翔鶴・瑞鶴は瑞鳳と共に艦隊の主力として以後の海戦を戦っていくこととなる。 1942年(昭和17年)8月7日、米軍のガダルカナル島上陸の急報を受けた第3艦隊は翔鶴・瑞鶴と第2航空戦隊の龍驤と共にトラック島に前進、米軍の反攻に備えた。 8月24日には陸軍・一木支隊によるガダルカナル反攻作戦に呼応すべくガダルカナル空襲と周辺の索敵を行うが、米機動部隊と接触、戦闘状態になった。のちに第2次ソロモン海戦と呼ばれる戦いである。結果、本隊から分派された龍驤が米攻撃隊の空襲を受け沈没。 続く10月26日、再び米空母部隊との間に戦闘が起こった。日本側第3艦隊と米空母部隊(エンタープライズ・ホーネット)との戦闘である南太平洋海戦である。この戦いでは本隊(翔鶴・瑞鶴・瑞鳳)と別働隊(準鷹)が参加し、米空母ホーネットを撃沈したが、エンタープライズには損傷を与えたものまた取り逃がしてしまった。そして翔鶴この戦いでもまた損傷し、瑞鶴は無傷で戦い抜いたのである。 1943年(昭和18年)は空母にとっては日米両軍とも目立った活躍はなかったが、日本の場合航空隊を陸上・ラバウルに移しての航空撃滅戦に参加したため熟練パイロット大勢消失した。結果航空隊を新編したが、錬度は目立って落ちたのである。 1944年(昭和19年)6月、米機動部隊の反攻作戦が開始し中部太平洋・マリアナ沖にて日米が激突した。日本は大小9隻の空母を用意して挑んだが、パイロットの錬度低下が激しく、ほとんど戦果を上げることが出来なかった。開戦以来常にペアを組みながらも何度も損傷した翔鶴はついに沈没し、無傷の瑞鶴もついに損傷した。 10月には通常の作戦行動が取れなくなった日本機動部隊は戦艦部隊のレイテ湾突入を援護すべく米機動部隊を引き付ける囮部隊として出撃、瑞鶴はこの戦いで撃沈されたのである。
(各艦の戦歴)
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