主要人物事典

主に日本人以外の人物に関する資料です。
順番に関してはかなり適当になっています。



      
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米国・政治家関係
フランクリン・D・ルーズベルト
開戦時の米国大統領(第32代・民主党)
米国でただ一人4選された大統領であり、重度の身障者大統領としても知られる。任期中に『世界恐慌』『第二次世界大戦』という歴史的重大事件が起こり、これをもって20世紀における中心人物のうちの一人とされる。
世界恐慌から米国を回復させ、第二次世界大戦では『民主主義の兵器廠』として枢軸国と対立させた。
またナチス・ドイツの核保有の可能性を恐れたため原子爆弾開発計画『マンハッタン計画』を推進した。この計画はルーズベルトの死後も継続され、次代米大統領トルーマンによって日本に対する使用が決行されるに至る。
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)4月12日、脳卒中にて死去した。
   
ハリー・S・トルーマン
米国第33代大統領
先代のルーズベルト大統領の時代に第34代副大統領として就任した。ルーズベルトが第4期目に再選した際に副大統領となったのだが、元々は指名されるのを拒んでいた。だがルーズベルトの強い要望により副大統領に就任。だが、その期間は短く、僅か82日足らずでルーズベルトは急死、急遽副大統領から大統領に昇格した。
日本に対する2発の原爆投下はトルーマンによって指示された。
   



    
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米国:陸軍軍人関係
ジョージ・C・マーシャル(ジョージ・カトレット・マーシャル)
第2次世界大戦中の米陸軍参謀総長(最終階級は元帥)
第1次世界大戦では第1歩兵師団参謀としてフランスに派遣、後にヨーロッパ派遣軍最高司令部作戦計画担当参謀となる。このときサン・ミハイル地区の50万の兵力を短期間にドイツ側に気づかれることなくアルデンヌ地区に移動させるという離れ業をやってのけている。
大戦終結後は陸軍省勤務、ついで国防大学教官、中国駐在を経て参謀本部作戦部長となった。
第2次世界大戦勃発と同時に参謀次長に昇格。そして1939年(昭和14年)には異例の大抜擢として大将にに昇進、同時に参謀総長の職についた。
開戦時に僅か17万しかいなかった米陸軍を、最終的に825万人を超えるまでに成長し、これを教育・組織したのはマーシャル参謀総長であった。
ノルマンディ上陸作戦を始めとするヨーロッパ侵攻作戦を計画・立案し、自らヨーロッパ派遣軍総司令官に就任する予定であったが、米大統領ルーズベルトが彼を手放すことを良しとせず、終戦まで参謀総長であり続けた。

戦後は退役し国防長官に就任。マーシャルプラン(ヨーロッパ復興計画)を立案。この計画立案によりノーベル平和賞を受賞している。

冷淡にして無欲、公平で古代ローマ人のような気高さを持ち、だが親しみやすいと言われるような人物ではなかったが、かつて彼の上官で第1次世界大戦のヨーロッパ遠征軍の総司令官だったパーシング将軍は彼を『米陸軍史上最高の軍人』と賞賛を送っている。
    
ジョージ・パットン(ジョージ・スミス・パットンジュニア)
米陸軍の将軍にしてもっとも勇猛であったといわれる将軍である。
ウエストポイント陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、騎兵将校ととなった。第1次世界大戦ではパーシング将軍は、新たに編制された米戦車部隊の指揮官に任命している。
第2次世界大戦では少将として、米第1機甲軍団を指揮して北アフリカ戦線に参加、その後中将に昇進して第2軍団を指揮した。戦線がイタリアに移ってからは第7軍を指揮。その迅速な用兵ぶりは賞賛され、兵たちからも親しまれたが、ある時、兵を殴打する事件が発生し、一時指揮権を剥奪された。
指揮権を失った彼は、その状況を利用してノルマンディ上陸作戦における米第1軍集団という偽装部隊を指揮しているかのように振る舞い、欺瞞作戦に一役買う。その後第3軍の指揮をとって壊走する独軍を追撃してロレーヌ地方に進撃、『バルジの戦い』を経て西ボヘミア地方に進撃。さらにプラハへ進撃予定であったが、その前に終戦となった。

戦後、米国の民主共和党をナチスになぞらえる発言をしたため第3軍司令官を解任され第15軍司令官(書類上だけの独駐留部隊)に異動された。その後自動車事故により死去した。
    
ドワイト・D・アイゼンハワー(ドワイト・デーヴィッド・アイゼンハワー)
ノルマンディ上陸作戦の最高司令官 後の米第34代大統領
米陸軍士官学校と海軍士官学校の両方に合格(陸軍は1位、海軍は2位で合格)しながらも、本人が希望する海軍には年齢制限で入隊できずに陸軍に入った秀才。
第1次世界大戦では戦車隊に属したが、参戦の機会は与えられなかった。
その後ダグラス・マッカーサー将軍の下でフィリピン軍事使節団の一員として主任武官を勤める。
第2次世界大戦勃発と同時に本国に帰還、歩兵連隊長となった。その後第3軍司令官ウォルター・クルーガー将軍の首席補佐官、そして太平洋戦争開戦後はワシントンで太平洋防衛の主任代理参謀となった。
彼の転機となったのは、その後の作戦部門の首席補佐官ジョージ・C・マーシャル将軍の下、首席助手補佐官になってからである。彼の指揮管理統率能力に注目したマーシャルは彼をヨーロッパ戦域司令部の総指揮官に抜擢、トーチ作戦(モロッコ・アルジェリア上陸作戦)を計画・実行をして北アフリカにおける連合軍の陸海空3軍の最高司令官へと就任した。
1943年(昭和18年)12月にはオーバーロード作戦(ノルマンディ上陸作戦)の計画、連合軍最高司令官に指名された。
戦後は陸軍参謀総長、北大西洋条約機構最高指揮官に就任。その後退役して米第34代大統領となった。
    
オマール・N・ブラッドレー(オマル・ネルソン・ブラッドリー)
第1次世界大戦では参戦したが内地勤務の間に終結してしまい、戦機には恵まれなかった。
第2次世界大戦勃発時には戦争省勤務であり、その後1942年(昭和17年)2月、第82空挺師団師団長に就任した。1943年(昭和18年)4月からは第2軍団司令官に就任、北アフリカ戦線でのビゼルト攻略、イタリア戦線でのシシリー攻略戦に参加した。
1944年(昭和19年)のノルマンディ上陸作戦では第1軍団を指揮、その後第1軍団・第3軍団を統合した第12集団を編成しコブラ作戦と呼ばれるノルマンディ突破作戦でブルターニュへの突破口を切り開いた。
その後『バルジの戦い』で知られるアルデンヌの森で独軍の奇襲を受けるも、これを冷静に対処し、独軍の突破を防いでいる。

ノルマンディ上陸作戦の総司令官であったアイゼンハワーとは士官学校の同期でもあり、冷静かつ沈着で人々から深い信頼感を寄せられた将軍であった。
     
ダグラス・マッカーサー
米陸軍元帥  フィリピンの支配者  コーンパイプの親父  マザコン  フィリピンで将兵を見捨てて脱出した『アイ・シャル・リターン』の将軍  フリーメイソンのメンバー  ・・・でもある。

米陸軍士官学校史上最高の成績で卒業した優秀な軍人・・・だが、臆病者で自意識過剰でプライドが非常に高く、それでいて有能な同僚や部下に嫉妬することでも有名。
第1次世界大戦では歩兵師団を指揮して参戦。その後参謀総長まで出世して退役した。
退役したが、1935年(昭和10年)フィリピン軍の軍事顧問に就任。マッカーサーの虚栄心を満足させるためだけに『フィリピン軍元帥』なる称号を設けさせた。
太平洋戦争が始まる直前に米陸軍に現役復帰。フィリピンで日本軍と交戦したが、マニラからの撤退を余儀なくされる。その後立てこもったコレヒドール要塞からも脱出する羽目になるが、その際に家族と幕僚をつれ、『アイ・シャル・リターン』と言い残して脱出した。この脱出劇はマッカーサーの汚点として後々までついて回ることとなった。
1944年(昭和19年)、米軍はフィリピンに上陸し、マッカーサーの希望はかなえられたが、このフィリピン攻略作戦・・・というかフィリピン攻略ルート自体が米陸軍参謀本部にとって不要な作戦と判断されていた作戦であった。これはマッカーサーがフィリピンに固執したためだと言われているが、実際はフィリピン軍事顧問時代に築いたフィリピン利権と私的財産の確保のためであったとされている。また他にも噂としてはマッカーサーの人気を恐れたルーズベルトが1944年の大統領選挙への出馬を辞退させるための密約としてフィリピン攻略ルートが決定したとも言われている。
戦後は1950年(昭和25年)まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)総司令官として日本を支配した。
   
ロバート・L・アイケルバーガー
(詳細は後日記載予定)
  
ウォルター・クルーガー
(詳細は後日記載予定)
  
アルバート・ウェデマイヤー
(詳細は後日記載予定)
  
ジョセフ・W・スティルウェル
(詳細は後日記載予定)
  
カーチス・E・ルメイ
(詳細は後日記載予定)
  
(詳細は後日記載予定)
  



    
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米国:海軍軍人関係  
チェスター・W・ニミッツ(チェスター・ウィリアム・ニミッツ)
第二次世界大戦中の米太平洋軍及び連合軍における陸海空3軍の最高司令官  米海軍潜水艦の権威

太平洋戦争初日の真珠湾奇襲により衝撃を受けた米海軍はニミッツを太平洋艦隊司令長官に大抜擢して対日戦争に当たらせることとした。この際、真珠湾に奇襲を受けたことに対し将校に責任を取らせ解任するようなことは一切しなかった。これが部下への信頼感を与え、士気の回復に貢献したという。
ニミッツは失われた戦艦を中心とする従来の艦隊編成を空母中心の艦隊編成にいち早く対応し、航空兵力中心の戦略に切り替えた。
ニミッツの対日戦への強力な意思表示の表れがドゥーリットルの東京空襲作戦であり、これが山本五十六大将ミッドウェー作戦を決定付けさせた。
日本への侵攻はガダルカナル島から始まる一連の島伝いに飛び石作戦を展開、ギルバート諸島、マーシャル諸島、マリアナ諸島と侵攻した。一方で陸軍のマッカーサーと対立する形でニューギニア沿いにフィリピンにも侵攻したが、これはニミッツが折れる形で陸軍に協力し、中部太平洋を主侵攻とするニミッツ・ラインと、ニューギニア・フィリピン方面を主侵攻とするマッカーサー・ラインの2本立てで作戦は続行された。
ウィリアム・F・ハルゼー(ウィリアム・フレデリック・ハルゼー・ジュニア)
(詳細は後日記載予定)
  
レイモンド・E・スプルーアンス(レイモンド・エイムズ・スプルーアンス)
(詳細は後日記載予定)
  
フランク・フレッチャー
(詳細は後日記載予定)
  
トーマス・キンケード
(詳細は後日記載予定)
  



      
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独国:政治家関係
アドルフ・ヒトラー
ドイツ第3帝国、総統
(詳細は後日記載)
 



    
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独国:陸軍軍人関係



    
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独国:空軍軍人関係



     
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その他 政治家関係
ベニト・ムッソリーニ(ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ)
伊国の政治家であり、ファシストの創始者である。
(詳細は後日記載)
   
  
ウィンストン・チャーチル(ウィンストン・レオナード・スペンサー=チャーチル)
英国の政治家であり、第2次世界大戦中の内閣首相。
保守党の政治家として出発したが、のちに自由党に移籍。植民地相次官、商務相、内務相を歴任したのち第1次世界大戦を海軍相として迎える。戦時中の英海軍惨敗により一時失脚したが、ロイド・ジョージ内閣の時に軍需相として政権に復帰した。
以後、各内閣で大臣を歴任。この間に反社会主義の立場を鮮明にして再び保守党に移籍している。
第2次世界大戦の時に海軍相として再び政権の一翼についたが、1940年にはネヴィル・チェンバレン首相の後任として首相に任命され、挙国一致内閣を率いた。
だが対独が終了後、日本が敗戦になる直前の1945年7月26日、チャーチルの属する保守党は総選挙で惨敗。内閣総辞職して政権を退くこととなった。
  
毛沢東
中国の政治家・思想家。
中国共産党の創立メンバーの一人で中華人民共和国建国の父である。
(詳細は後日記載予定)
   
孫文
中国の革命の父と呼ばれる政治家・革命家
辛亥革命を起こし、中華民国(アジア発の共和国)を建国した。だが中国では絶対視され革命指導者とされているが、実際は民主主義は時期尚早と考え、必ずしも民主制を絶対視していたわけではない。そのため政権内部でも他者との対立があった。そのため常に対立する宋教仁らと新国家の方針をめぐって争っていた。
   
蒋介石
中華民国の主席 
戦前は日本の陸軍士官学校へ留学し、その後辛亥革命に関わったことで孫文からの信頼ることとなる。中華民国の主席となった。
中国共産党と敵対関係にあったが、日中戦争勃発によりは毛沢東と一時休戦・協力体制(国共合作)をしいて日本との戦争を継続する。
(詳細は後日記載予定)
   
ネヴィル・チェンバレン
1937年、保守党党首として英国首相に就任。
宥和政策の推進者。ただしこれによりドイツに軍事力増大を行わせる時間的猶予を与えたとされ、また英国がドイツの近隣諸国侵攻を容認させたと勘違いさせる原因となったと非難される。
第二次大戦勃発後、ノルウェー作戦失敗により首相を辞任した。
スバス・チャンドラ・ボース
インドの独立運動家。
第二次世界大戦勃発後、インドを脱出しソ連に向かいスターリンにインド独立の協力を求める。だがスターリンはこれを断った為、次にナチス・ドイツに亡命した。だがヒトラーにはインド独立は150年はかかると言われる。
その後日本の参戦が報じられると日本に協力を求め移動することを願うが、既に独ソ戦が開戦していた為、陸路(アフガン経由)での移動は不可能となる。このため独潜水艦による移動を決意。途中インド洋で日本の伊二九潜と会合・乗り換えて東京に向かう。
シンガポールにて『自由インド仮政府』の首班に就任。また捕虜として捕まっていたインド兵を中心に編制した『インド国民軍』の最高司令官にも就任し、1944年(昭和19年)のインパール作戦に参加した。
日本の敗戦後、日本の協力によるインド独立は不可能となった為、イギリスに対抗するためソ連と協力を求めた。そしてソ連に向かう途中、台湾にて飛行機事故に遭遇し死去。
    



     
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その他 軍人関係
ルイス・マウントバッテン(ルイス・フランシス・アルバート・ヴィクター・ニコラス・マウントバッテン)
英海軍軍人
第二次世界大戦勃発時に少佐として現役復帰した貴族軍人(伯爵であり、ヴィクトリア女王の曾孫にあたる。)
太平洋戦争では1943年(昭和18年)10月より東南アジア地域連合軍 (SEAC) 総司令官に就任し、ビルマ戦線で日本軍との戦いの総指揮を執った。
戦後はインド総督を経て地中海艦隊司令長官となった。
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