東京初空襲 [1942/4/18] |
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真珠湾奇襲以後、日本軍に攻められっぱなしの米軍が唯一反攻作戦に用いる事が出来たのが空母任務群による中部太平洋での機動作戦であった。 マーシャル・ギルバート諸島をはじめ、いくつもの拠点に対し接近・攻撃・退避を繰り返してた米空母群であったが、この機動作戦の行き着くところが日本本土空襲、つまり東京空襲であった。 真珠湾を攻撃されて以来、これに見合う攻撃目標を攻撃することによって軍内部、そして国内の厭戦気分を吹き飛ばそうとしたのである。 一方、日本海軍も空母艦載機による本土空襲を恐れていた。 空母による奇襲攻撃、これが可能であることを証明してしまったのが、他ならぬ日本海軍であったからである。 連合艦隊司令長官山本五十六大将は本土防衛網の強化を図るべく本土の東方700海里に監視艇による哨戒線を敷いた。 たが、この哨戒艇は名ばかりであり、実際は民間漁船を徴用して無線機と海軍士官を乗せただけのものであった。 そして・・・日本海軍の危惧した通り米空母群が来たのである。 米海軍は東京空襲を企図するに当たり、幾つかの問題点を様々な方法で解決していた。 まずこの作戦の意図は真珠湾奇襲に対する復讐戦であったこと。この為、多少の無謀な作戦であっても実行され、兵士達の士気も高かった。 また最大の問題点が艦載機の航続距離不足であった。 当時の米空母艦載機では日本の近海300海里に接近しなければならない。しかしそれでは空母が容易に発見され、危険にさらされてしまう。当時空母だけが日本に対して反撃できる唯一有効な兵器だったのである。 結果、米海軍は航続距離延長のため尋常ならざらん方法を採用した。 航続距離の長い陸軍機の軽爆撃機を空母に搭載し、発艦させたのである。これにより空母からの発艦ポイントが日本本土から500海里にまで延長された。 ただし陸軍機であるから発艦は可能であっても着艦は出来ない。 一度空母を飛び立った爆撃隊は日本本土を横断し、中国大陸に抜ける。そして中国軍の飛行場に着陸するものと決められた。 塔載される陸軍機も選定の結果、B25ミッチェル双発軽爆撃機に決定された。 これは同じく候補に上がっていたB26よりも小型でありながらも高馬力であり、なによりも安定した操縦性が空母からの発艦に向いているという理由であった。 この爆撃隊の指揮官にはジェームズ・ドゥーリトル中佐が選出された。 ドゥーリトル中佐は飛行機レーサーとして有名であり、この手の作戦には彼のような人気と才能を持つものが有効と判断されたためである。 各機の搭乗員は彼の指揮する陸軍第17爆撃隊から選抜された。 『重要で、危険で、そして面白い任務』 作戦は極秘であったため、部下にこのように説明して志願兵を募集し、全員が志願したという。 訓練はフロリダで行われ、超短距離発進訓練・超低空飛行訓練・精密爆撃機訓練を中心に行われた。 機体にも改修が加えられた。 航続距離延長に向けた軽量化と燃料タンクの増設である。 その為下部及び機体後部の機銃座は撤去去れ、後部機銃にはダミーの機銃を取り付けた。 また下部銃座はそっくり撤去しその部分に燃料タンクを増設したという。 最終的には部隊から調子の良い機体16機を選出し作戦に投入すべく空母に搭載された。 空母群はウィリアム・ハルゼー中将指揮下の第16任務群。 新造空母の『ホーネット』が使用された。 『ホーネット』は甲板上にクレーンで16機のB25を塔載、格納庫内にはホーネットの飛行隊を塔載した。 甲板上に並べられたB25は作戦開始まで飛ばすことが出来ない。その大きさ故に格納庫内にも収まらない。その為護衛として空母『エンタープライズ』が同行する。 サンフランシスコでB25を搭載した『ホーネット』は出航、途中ミッドウェイ北西で『エンタープライズ』以下の艦隊と合流し東京を目指した。 4/1 サンフランシスコ出航 4/13 第16任務群の指揮下に編入 4月17日、今まで順調に航海してきた艦隊は、日本本土東方1000海里の海上で燃料補給をした後補給艦と駆逐艦を分離した。航続距離の問題であり、ここからは空母『エンタープライズ』『ホーネット』、重巡『ノーザンプトン』『ソルトレークシティ』『ヴィンセンス』、軽巡『ナッシュビル』の6隻だけでの進撃となる。 翌18日早朝、第16空母任務群は日本海軍の哨戒線にひかかった。日本本土東方650海里の地点である。 発見したのは哨戒線上に展開していた『第二十三日東丸』であり、0630に空母『エンタープライズ』を発艦した哨戒機がまず『第二十三日東丸』を発見、つづいて0650に空母2隻を確認した『第二十三日東丸』が犬吠崎東方650海里に空母2隻発見と通報した。 『第二十三日東丸』は軽巡『ナッシュビル』の砲撃によって撃沈された。 通報を受けた日本軍では直ちに対応した。最初に通報を受けたのは北方部隊であり、司令官細【?】戊子郎中将は指揮下の艦隊を出動、旗艦である室蘭の重巡『那智』、厚岸の第21戦隊(軽巡『木曽』『多摩』)は1800には合流して米艦隊に向かっていった。 一方横須賀でも第2艦隊(司令長官:近藤信竹中将)が本土在泊艦艇他をもって前進部隊を編成、ただちに米艦隊に向かうよう連合艦隊から命令を受けた。 戦力は以下の通り
また陸海軍の航空部隊も上空警戒のために飛び立った。 しかし敵が空母部隊である以上、本土近海に接近しない限り攻撃は無いものと判断、恐らく翌19日に攻撃が来るだろうと予想したのである。また上空警戒高度が3000〜6000mであった。 そして・・・米軍機の攻撃が始まったのだ。 ハルゼー中将は日本軍の哨戒線に察知された時点で直ちに予定変更した。 当初本土東方500海里から発進する予定でいた為、18日午後の発艦予定であったが、650海里からの出撃を決定、ドゥーリトル中佐もこれに同意。ただちに攻撃隊の発艦が始まった。 0818 B25 16機の発艦が終了すると直ちに艦隊は反転、帰途につき付近の哨戒艇12隻を艦載機で攻撃した。 18日、正午過ぎ・・・米空母『ホーネット』を飛び立ったB25、16機の内13機が高度450mという低空から東京方面に侵入、東京府・横浜・横須賀などの臨海工業地帯及び海軍基地を空襲した。 他の3機は中京方面・名古屋に2機、神戸に1機が侵入し、空襲を行った。 B25が東京方面に侵入した際に陸軍航空隊の迎撃機は上空警戒に当っていたが、高度3,000m〜6,000mの高度を警戒していた為完全に虚をつかれる形となった。 また迎撃機が旧式化していた九七式戦であり、殆ど戦果を上げられなかった。 当時の日本本土の防空態勢は陸軍が担当しており、海軍は鎮守府・軍港等の局所防空だけが担当であった。 つまり陸軍が主であり、海軍が従である。 それでも海軍航空隊も防空は担当していたし、事実、入手した情報に基づき迎撃待機していた。 しかし前述のように米軍の来襲は翌19日だろうと予想していた為、結果として迎撃の機会を逃す事となった。 当時、本土の防空を担当していた戦力は以下の通りである。 |
(開戦時の陸軍防空戦力)
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これだけである。 尚、高射砲・照空中隊の部隊数は装備機材の数から算出したものであり、正確な部隊数というわけではないらしい。 他にも防衛総司令部隷下の戦力も存在するが、ここでは省略した。 次に海軍の防空戦力である。 開戦時の航空戦力(練習航空隊を含む)に、ドゥーリトル空襲当時の航空戦力を合わせたものは以下の通りである。 |
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以上が開戦時に本土に配備されていた海軍航空戦力である。 | |||
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