ダッチハーバー空襲 (アリューシャン[AL]作戦) 1942年(昭和17年)6月4日〜8日 |
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ミッドウェイ(MI)作戦の支作戦、撹乱作戦の一環として行われたのが本作戦・アリューシャン(AL)作戦である。 本作戦の目的は上記のものが主だが、他に北方からの米長距離爆撃機による日本本土空襲阻止、米機動部隊の北方海域進出、米ソ連絡線の遮断の為のアッツ島・キスカ島攻略、北方警戒線の前進などが上げられた。 ダッチハーバー空襲作戦はミッドウェー作戦の前哨戦として米軍基地のあるダッチハーバーとアダック島を空襲し、敵の目を北方に向けさせようというものであった。その後アッツ島・キスカ島を占領しようというものであったが、両島占領は一時的なものであり、冬までには撤収する予定であった。 本作戦は第五艦隊司令官 細萱戌士朗中将(36期)が北方部隊指揮官としてAL作戦全般を指揮。指揮下の第二機動部隊が第四航空戦隊司令官 角田覚治少将(39期)の下、空母『隼鷹』『龍驤』の2隻がダッチハーバー空襲を担当することとなる。 尚、本作戦に参加する空母の内、『隼鷹』は竣工後間もない、しかも商船を改造した軽空母である。だが『隼鷹』に乗り組んだ艦載機搭乗員の多くはベテラン搭乗員であり、その艦載機群の能力はほとんど問題のないレベルであった。 |
作戦参加兵力 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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本作戦(AL作戦)は、同時に実施された主作戦(MI作戦)同様、米国の暗号解読によりほぼ全てが敵によって知られていた。支作戦であるAL作戦に対しては米国もさほど重要視してはいなかったが、作戦目標であるアリューシャン列島は米国内でもあり、国内世論の問題から無視するわけにはいかなかった。そこで太平洋艦隊司令部では巡洋艦を中心とした第8任務部隊(指揮官:ロバート・シオボルド少将)をダッチハーバーに向け、陸海軍の陸上航空部隊と共同して日本軍のダッチハーバー上陸を阻止せんとする布陣を敷く。 以下、ダッチハーバー方面に配備された米陸海軍兵力である。
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作戦の開始 第一日目 |
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5月26日、角田少将率いる第二機動部隊(空母部隊)が先陣として陸奥湾を出撃した。翌27日にアダック・アッツ攻略部隊が、28日にキスカ攻略部隊が出撃する。キスカ攻略部隊は一端幌筵島を経由し、給油を済ましてから侵攻する。 全般支援を担当する艦隊旗艦『那智』に座乗する細萱中将は補給部隊と共に6月2日に出撃し、アリューシャン列島西部の南方海域に定めた補給会合点に進出する。 アリューシャン列島は一年中濃霧が発生することで知られる地である。 その為日米共に航空機を出して索敵を密にするも、お互いに敵を発見する事は出来ずにいた。 攻撃予定日6月3日(N-1日(MI作戦予定日の前日))、予定海域に進出した第二機動部隊はダッチハーバー目指し全速で突進していた。 だが第二機動部隊司令部では攻撃隊の発艦に関し混乱を極めた。日の出と同時に攻撃隊を出撃させる予定ではあったが、濃霧のが晴れず、夜が明けたのか、明けてないのかさえ不明な状態が続いたのである。 しかも攻撃隊の搭乗員に渡された現地の資料が大正年間に入手した古い不完全な地図と、その当時の古い写真が一枚だけであった。島の形さえ不鮮明で、ところどころ憶測で線引きされた地形図は不安以外の何物でもない。その為、霧による悪天候下で出撃させた場合、目標に到達出来ないどころか、帰艦さえ危ぶまれる状況であった。だが・・・ 6月3日23時43分頃(現地時間で4日早朝、日の出15分前)、ダッチハーバーまで180浬の海域に達した日本の第二機動部隊は霧の晴れ間をついて第一次ダッチハーバー攻撃隊を発艦させた。 |
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各飛行隊は悪天候により集合しての進撃が不可能となったため、各個に進撃を開始する。また出撃時に『龍驤』艦攻隊の1機が発艦に失敗し、海没している。(搭乗員救出された) 攻撃隊の出撃後、米飛行艇が1機、艦隊上空に飛来し、執拗な接触を続ける。離脱時に艦隊に対し爆弾の投下を実施したが、被害は無かった。 出撃後、日の出を迎えたが太陽は見えず、雲の切れ間を利用して進撃した第一次攻撃隊だが、ダッチハーバーまで到達できた『龍驤』攻撃隊(指揮官:山下正幸大尉)は、偶然にも雲の隙間からダッチハーバーを視認、無線電信所と油タンクを爆撃。また戦闘機隊が繋留中の飛行艇を銃撃した。この時敵航空兵力や艦船は見当たらず、攻撃は出来なかった。 だが帰投途中にウナラスカ島マクシン湾に停泊中の駆逐艦5隻を発見、これを無線で報告する。 一方『隼鷹』攻撃隊(指揮官:志賀淑雄大尉)は進撃途中に敵飛行艇と遭遇する。これを攻撃し撃墜に成功するが、悪天候と時間切れによりダッチハーバーにたどり着くことは出来ずに帰投することとなった。 攻撃隊では敵地の撮影に成功し、予想以上の施設、埠頭、倉庫群、道路を確認し、図らずも米国の国力、豊かさを確認することとなった。 攻撃隊からの無電報告により敵駆逐艦攻撃を決意した第二機動部隊指揮官 角田覚治少将は、艦隊が使用出来る全ての航空機を用いてでも撃沈することを決意する。 第一次攻撃隊の収容後、直ちに第二次攻撃隊が発艦していく。尚、この第二次攻撃隊には空母艦載機のみならず、随伴する2隻の重巡洋艦『高雄』『摩耶』に搭載する水上偵察機まで攻撃参加が求められた。
被害状況 艦爆×1機、発動機不調にて艦戦×1機の誘導にて帰投する。 艦爆×2機、空戦により自爆。 艦爆×1機、被弾により発動機不調、帰路不時着自爆。 艦爆×1機、単独帰路、機位を見失い不時着自爆。 水偵×2機、非撃墜。 水偵×2機、帰投・着水時に大破、機体放棄。 第二次攻撃隊は出撃直後から天候の急変により編隊を組んでの進撃不可能となり、海面近くを這うように母艦に引き返してきた。 一方で夜間単独飛行をこなす水偵隊は全機悪天候中を進撃する。悪天候を突いて突入を果たそうとしたが、敵戦闘機と交戦し、2機が撃墜された。残る2機も被弾しつつも後退し、帰投に成功するが着水時に大破し失われた。(機体放棄、搭乗員は救出済み) ダッチハーバー空襲の第一日目はこうして終了した。 攻撃目標であるウナラスカ島ダッチハーバーにも敵飛行場は有ると判明はしていたものの、詳細は不明であった。 一方で米軍は日本空母部隊の所在を掴めずにいた。もとより濃霧の発生するダッチハーバー周辺での艦隊行動は難しいと判断され、その艦隊位置をダッチハーバーの北方、ベーリング海だと判断していた。実際にはダッチハーバーの南西、再接近時には100浬の至近距離にまで接近していたのである。 ミッドウェー攻略作戦の支作戦であった本作戦に関し、第二機動部隊側では牽制目的で有った為、一応の成功であったと判断していた。だが実際には米国側の暗号解読によってミッドウェー作戦そのものが既に察知されていた為、牽制目的は果たせて居らず、無用に戦力を分散させただけであった。 |
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作戦 第2日目 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第二機動部隊では前日の悪天候を考慮し、ベテラン搭乗員を選抜して攻撃隊を編成した。 選抜それた26機の攻撃隊は再び悪天候を突破しダッチハーバーを目指す。僅かな雲の切れ間からダッチハーバーを攻撃した各機は地上施設を爆撃し、相当の戦果を収めたと判断したが、帰投中に米戦闘機隊と交戦した。P-40数機と交戦した攻撃隊では敵機4機撃墜の戦果(日本側判断)と引き換えに空戦により零戦×1機、艦爆×2機が失われた。また、その他に艦爆×2機が失われた。
艦爆×1機、発動機不調にて艦戦×1機の誘導にて帰投する。 艦爆×2機、空戦により自爆(沼田-高野機、原野-中島機) 艦戦×1機(古賀忠義一飛曹機)、被弾により発動機不調、帰路不時着自爆。(アクタン島の湿地帯に不時着、後米軍により回収・調査) 艦爆×1機、被弾により発動機不調、帰路不時着自爆。(大石-山本機) 艦爆×1機、単独帰路、機位を見失い不時着自爆。(岡田-杉江機) この第二次攻撃隊の攻撃中、ミッドウェーでは悲劇が起こっていた。 第一機動部隊(南雲部隊)の正規空母4隻が失われようとしていたのである。 以下、6月5日の第一機動部隊と、連合艦隊司令部、そして第二機動部隊の時系列である。 |
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上記時系列はミッドウェー作戦に関するものが殆どである。その内容に関しては別のページにて行うが、同時進行しているアリューシャン作戦に関しては基本的になんら影響がないものであった。 ミッドウェー方面に対しての牽制が主目的ではあったが、結果的にはなんら寄与することなく、主作戦は失敗し、主力空母4隻を一挙に失うという失態を招いた。 アリューシャン作戦は、ミッドウェー方面の支援に駆けつけるべく第二機動部隊が南下を開始したが、作戦海域が広大で、お互いに直接支援できるような距離ではなかった。その為、北方部隊全てがミッドウェー作戦における遊兵となってしまったのである。 敢えてアリューシャン作戦に意義を見出すとすれば、ミッドウェーに於ける敗戦を隠すべく……、作戦成功を謳い上げる為に、アッツ島・キスカ島という2つのなんら戦局に寄与しない島を占領しただけである。 そして、当初は一時的に占領するだけだった両島を長期に渡って占領する結果となり、防衛兵力常駐による遊兵化と補給の為の船舶抽出で日本軍の厳しい船舶事情をさらに圧迫していくこととなる。そして後にアッツ島玉砕の悲劇と、キスカ脱出作戦へと続いていくこととなった。 そして、本作戦最大の悲劇が以下に示す、零戦の損失…いや、零戦の正体が米軍に露見する一大失態だった。 |
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失われたDT-108号機 | |||
ダッチハーバー攻撃の第2日目、攻撃隊に参加した航空部隊のうち、『龍驤』零戦隊の1機、古賀忠義一飛曹機が被弾により発動機不調となり、母艦への帰投が不可能となった。 艦隊ではこのような場合に備え、あらかじめ指定された地点(アクタン島)まで飛行し、搭乗員回収任務に当てられている潜水艦によって救出される手筈となっていた。 だが古賀機はアクタ島に不時着する際に機体がひっくり返り、裏表逆になったまま滑りながら停止した。古賀一飛曹はこの時首の骨を折ったか、頭部強打により死亡したと思われる。 何故このような事態になったか… 被弾した古賀機に随伴しアクタン島まで同行したのは僚機である遠藤飛曹長機(1機機)、鹿田二飛曹(3番機)である。 当初アクタン島の草地帯に不時着すべく着陸動作に入った古賀機ではあるが、そこは予想された固い地盤とは逆に湿地帯であった。本来湿地帯への着陸であれば、胴体着陸とすべきところだが、それに気付いたのは着陸直前であり、そのときには古賀機の脚は既に下りた状態であった。 零戦の脚が沼地に捕られ、その衝撃で前からひっくり返るように不時着したのである。 本来であれば、このような状態になった零戦は絶対に破壊しなければならない。機密保持の面からも絶対に必要なことであった。だが上空の僚機からは古賀一飛曹の生死は不明である。生死不明の段階で僚機が機銃にて古賀機を破壊するのは躊躇われたのである。 結果的に僚機は古賀機を破壊することなく母艦に帰投した。搭乗員回収任務の潜水艦も古賀機を探し続けたが、結局発見することは出来ずに、米駆逐艦に追い回されるようにアクタン島から離れたのである。 古賀機が米軍によって発見されたのは7月10日のことである。実に不時着から1ヶ月以上経ってからの発見であった。 直ちに回収チームが派遣され、沼地からほぼ無傷に近い零戦が米軍の手に渡ったのである。 古賀機は米本土で徹底的に調査・分析され、当時悪魔の如く恐れられたゼロ・ファイターの秘密が徐々に明らかになっていった。これが零戦神話の崩壊へと繋がっていくのである。 ミッドウェー作戦及びアリューシャン作戦全般を通して、もっとも失点となったのは、この零戦がほぼ無傷のまま米軍の手に渡ったことだとさえ言われている。 |