本土防空戦
1945年(昭和20年)1月〜4月

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1月3日
※空襲・防空戦の概要
  
米軍 ※米軍の作戦目標・機数・戦果・損失等を記載

    
日本軍 ※防空・邀撃部隊の全体的な経緯と戦果・損失・被害等を記載
     
陸軍_
出撃機数不明。詳細不明。
海軍
備考
     







1945年(昭和20年)1月
       
1月3日
マリアナを発進したB-29による大阪・名古屋方面空襲。
市街地に対する焼夷弾爆撃の実験を兼ねた爆撃であった。
  
米軍 精密爆撃を固守した第21爆撃兵団司令官ハンセン准将も、第20航空軍司令部からの要求を拒みきれなくなり、市街地に対する焼夷弾爆撃の実験を受け入れることとなった。
この実験空襲の目標としたのは名古屋であり、出撃機97機。各機が2,240kgの焼夷弾と破砕爆弾1発を搭載しての出撃となった。
一部の機体は航法を間違え、大阪市街地に対して14:00より投弾を開始。予定通り名古屋に対して投弾に成功したのは57機であった。
名古屋に対して3600戸を全半焼させたが、第20航空軍にとっては期待したほどの効果はあげられなかった。
この爆撃作戦で5機を失った。
    
日本軍 中部軍管区所属の第十一飛行師団が邀撃を担当した。同飛行師団では空対空特攻隊を編成していなかったが、自主的な特攻攻撃が相次いで行われた。
総出撃数、戦果報告、被害は不明。
         
陸軍_ 飛行第五戦隊
『屠龍』にて邀撃を開始。伊藤藤太郎中尉機が2機撃墜破を果し、その際の被弾数は80発を越えたという。
坂口喜生曹長機がB-29の主翼付け根に37mm砲弾を撃ち込み撃墜に成功する。この敵機が編隊から離れ墜落していくところが写真に撮られ、新聞の紙面を飾ることとなる。
出撃機数不明。
 
飛行第五五戦隊残置隊
フィリピンに進出した本隊とは別に本土に残留した錬成中の隊員達によってB-29邀撃戦に参加。
指揮官となった代田実中尉を中心に邀撃に出撃し、中尉はB-29に体当たりを行って戦死した。他に安達武夫少尉が1機撃墜の戦果をあげる。
出撃機数不明。
  
飛行第五六戦隊
伊丹から出撃した『飛燕』は偏西風の乗る形でたちまち名古屋上空に達した。
機首を西に向けつつ高度10,000mまで達した編隊は邀撃を開始する。
涌井俊郎中尉機が体当たり攻撃を敢行し、B-29と共に名古屋東方方面に墜落、戦死した。
高向好雄軍曹機はB-29の尾部に体当たりを敢行。左翼端を失ったが帰還に成功する。
出撃機数不明。
  
飛行第二四四戦隊
浜松に進出した戦隊も邀撃に参加する。高度を下げ遠州灘方面に離脱するB-29の編隊に4機編隊(編隊長:第三中隊長白井長雄大尉)で攻撃を仕掛け、撃墜3機、撃破1機の戦果をあげた。
出撃機数不明。
   
海軍 第二一〇航空隊
明治基地を出撃し、零戦12機他、『月光』『彗星』を含む合計27機が出撃。
被弾3機の損害で撃墜1機、他に陸軍機と協同で1機撃墜の戦果をあげた。
  
備考
   
1月9日
中島・武蔵製作所への5回目の空襲。
  
米軍 マリアナの第21爆撃兵団による中島・武蔵製作所への5回目の空襲であり、出撃数72機で高々度(高度8,900m〜13,000m)からの精密爆撃。
だが、また偏西風に襲われ編隊が乱れた。日本側の邀撃もあって、目標である中島・武蔵製作所に爆撃できたのは僅か18機だけであった。戦果は殆ど無しと判定され、さらに損失はB-29を6機失った。
      
日本軍
   
陸軍_ 飛行第四七戦隊
空対空特攻隊・震天隊員である幸真寿美軍曹が軽量化した『鐘馗』で体当たりを敢行。B-29の左翼外側エンジンをもぎ取るように損害を与え、敵機は白煙を上げるように墜落していった。
栗林尊准尉がプロペラでB-29の昇降舵を破壊し、損傷を与えた。栗林准尉は体当たり後落下傘降下したが、そのままゆくえふめいとなり戦死と認定された。
出撃機数不明。
その他の飛行戦隊
出撃機数不明。詳細不明。
   
海軍 出撃機数不明。詳細不明。
備考
    
1月14日
三菱・名古屋航空機製作所への2回目の空襲。
  
米軍 マリアナの第21爆撃兵団による三菱・名古屋航空機製作所への空襲。
B-29、40機による高々度精密爆撃であったが、照準精度を欠き、戦果は少なかった。
  
日本軍
   
陸軍_ 出撃機数不明。詳細不明。
海軍 第三〇二航空隊
名古屋空襲を終えて遠州灘方面に抜けるB-29の8機編隊に対し、『月光』による撃墜王であった遠藤幸男大尉機が攻撃を仕掛ける。1機撃墜、1機撃破の戦果を挙げたが、自らも被弾炎上する。渥美半島上空まで後退した時点で偵察員西尾治上飛曹が落下傘降下で脱出するが、落下傘の紐が尾翼で切断され開傘せずに落下し、戦死する。
一方遠藤大尉は機体を操って山間部まで移動してから脱出したが、落下傘が燃え、そのまま落下し戦死した。

出撃機数不明。詳細不明。
  
備考
    
1月19日
川崎航空機・明石工場への空襲。
更迭が決定した第21爆撃兵団司令官ハンセン准将、最後の爆撃作戦。
  
米軍 日本空襲を開始して以来、遅々として戦果の上がらないB-29部隊に対し、その指揮官である第21爆撃兵団司令官ハンセン准将の能力不足と判断した第20航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将はハンセン准将の更迭を決定した。後任にルメイ少将を充てる事を決定したが、更迭は1月20日であり、この19日の爆撃はハンセン准将、最後の作戦となった。

この空襲は今までの失敗続きだった高々度昼間精密爆撃戦法が成功を納めた最初の作戦であった。
出撃機数80機、内62機が目視照準で爆撃に成功する。152.5tの通常爆弾を投下し、工場の1/3を破壊することに成功する。この爆撃成果として生産能力の90%が失われる結果となった。
更にB-29の損失は0であった。

だが、この作戦を指揮したハンセン准将は、この作戦の戦果を知ることなく、ルメイに指揮権を譲って翌20日に本国に帰国することとなった。
     
日本軍
    
陸軍_ 出撃機数不明。詳細不明。
海軍 出撃機数不明。詳細不明。
備考
     
1月23日
※空襲・防空戦の概要
  
米軍 ※米軍の作戦目標・機数・戦果・損失等を記載

    
日本軍 ※防空・邀撃部隊の全体的な経緯と戦果・損失・被害等を記載
     
陸軍_
出撃機数不明。詳細不明。
海軍
備考
     
1945年(昭和20年)2月
         
1945年(昭和20年)3月
       
1945年(昭和20年)4月