真珠湾奇襲
[1941年(昭和16年)12月8日] 
 





この言葉からも分かるとおり奇襲により太平洋戦争が始まりました。
日本海軍・空母機動部隊によるハワイ諸島オワフ島真珠湾軍港攻撃によってです。
あまりにも有名な出来事ですので、誰でも一度ならず聞いたことはあるでしょう。
しかし管理人である私の周りでこのことを知らない人が一人ならずいました。
また名前は知っていても内容を全然知らない人もいました。
これこそが私がこのようなコンテンツを作成しようとしたきっかけでもでもあります。

ここを見てくれる方の多くは今更説明の必要も無いでしょうが、今一度私自身の資料の整理も含めてハワイ奇襲攻撃に関してまとめてみたいと思います。
長々と前置きが長くなりましたがさっそく行ってみましょう。



日本海軍は基本的には太平洋戦争開戦に反対であった。
しかし世界情勢、国内情勢ともに開戦は必至となってきた。
戦うからには勝たねばならない。しかし・・・
長らく海軍は仮想敵国をアメリカ海軍とし、太平洋を西進してくるアメリカ艦隊を迎撃することを目的して整備されてきたのである。
しかし条約により艦隊保有数をアメリカ・イギリス海軍に比べ6割に押さえられてきた日本海軍には数の不利があった。
その上資源のない日本は南方より資源を獲得せねばなら無い。
資源さえ確保出来れば長期戦も戦えるとの思いもあったのである。
しかしアメリカの国力・経済力・工業力を知る時の連合艦隊司令長官山本五十六大将は長期戦では万に一つも勝ち目はないと思っていた。そこで短期決戦・早期に戦果を上げ、アメリカ相手に少しでも有利な条件のもと和平交渉の糸口をつかもうとしたのである。
かねてより航空機の威力を知る山本大将は航空機・空母艦載機によるアメリカ艦隊撃滅を出来ないだろうかと考えた。
そして1940年(昭和15年)11月下旬口頭により、1941年(昭和16年)1月7日「戦備二関スル意見具申」として海軍大臣及川古志郎に構想を明らかにしている。また、海軍の航空派・第11航空艦隊参謀長大西瀧次郎少将に極秘に作戦計画の作成を命じている。

しかし一般にハワイ奇襲は山本大将の着想によるものと思われているが、空母艦載機によってハワイの在泊艦艇を攻撃するという戦術的発想が始めて世に出たのは1925年(大正14年)イギリス海軍記者・へクター・バイウォーター氏による未来戦記『太平洋戦わば』と言われている。

次に純粋に軍事上の用兵研究として初めて航空機による真珠湾攻撃を考案したのは1927年(昭和2年)の海軍大学校におけ第25期生の秋の卒業図上演習である。

そして元々が太平洋を進撃してくるアメリカ艦隊を迎撃する方針を持って戦備を整えていた日本海軍よりもむしろアメリカの方が真珠湾攻撃を強く意識していたと思われる。
1932年(昭和7年)当時のアメリカ太平洋艦隊司令長官ハリー・E・ヤーネル提督は日本が宣戦布告前に空母をもってハワイもしくはカリフォルニアを空襲するかもしれないと考空母2隻を用いて演習を行いその可能性を検証している。

よって真珠湾作戦は山本五十六提督の独創的発想から生まれたものではなく、十分に歴史的な内容もつ作戦構想であった。そしてアメリカ人の考え付かないような途方も無い作戦というわけではないのである。

ところがハワイ作戦幕僚達に反対される。海軍大学において研究されてはいるものの海軍の主流は明治以来の邀撃作戦であり、あまりにも投機的な作戦であると捉えられた。

しかし山本五十六長官のこの作戦にかける決意は固かった。開戦劈頭でアメリカ・海軍と国民にに大打撃を与え継戦意志をくじかない限り勝ち目はないと判断していた。
作戦にあたり次のような決意を出している。
 『自ら航空艦隊長官拝受を御顧ひしその直率戦隊のみにても実施せん』
自ら一艦隊の長官に格下げしてでもという意味である。これは余程のことであるとして永野修身軍令部総長は周囲が反対を続ける中、作戦承認に踏み切った。1941年(昭和16年)10月19日のことである。
結果として、この作戦は山本五十六長官に押し切られる形で行われることとなった。

さて、作戦が承認されてからも実行するには幾つもの困難な技術的問題点があった。
主に以下5つの点である。
  
 1.機密保持
 2.敵情動静
 3.燃料補給
 4.航空機の技術的問題
 5.使用兵力

このように様々な問題点が出てきた。しかしこれらの問題点を克服し作戦に臨んだのである。

[作戦行程]
 
1941年(昭和16年)
10月19日   軍令部総長の承認を得た為、作戦の準備を始める。
11月2日 機動部隊に編入予定の各艦艇は有明湾に終結。
11月4日 特別訓練を開始。
艦載機部隊は通常の定着・接艦・着艦訓練のほかに鹿児島湾での仮想真珠湾攻撃訓練も行ったのである。鹿児島湾は地形的に真珠湾に似ており、低高度雷撃訓練等には最適であったという。
11月5日 軍令部にハワイ作戦が承認された。
11月20日頃 終結していた各艦艇は数隻づつ九州を離れる。
この日太平洋戦争中最強といわれた南雲機動部隊が編成されたのである。
11月26日 南雲機動部隊本隊は第1警戒警戒航行序列を港外にて編成、進撃を開始する。
12月2日 作戦開始を命令が午後8:30に発令。
有名な『新高山登レ1208』である。
12月8日
午前1:00
(現地時間12/7 午前5:30)
  直前偵察機発艦。
午前1:25(午前5:55) 艦隊各艦一斉回頭。
午前1:30(午前6:00)   第1次攻撃隊発艦。
午前2:45(午前7:15)   第2次攻撃隊発艦。
午前3:19(午前7:49) 攻撃隊総隊長、淵田中佐機より「トトト・・・」のト連送。攻撃開始。

以上が攻撃開始までの簡単な行程である。
また、真珠湾攻撃の作戦内容は以下の通りである。

12月8日
   午前1:00(現地時間12/7 午前5:30)
  重巡『利根』『筑摩』より2機の零式水上偵察機が発艦。
この直前偵察に関しては発見されれば奇襲失敗の可能性があった。
しかし敵艦隊に対する最後の絶対的情報が必要であった為あえて実施された。
そして発見されたのである。ハワイのレーダーに映ったらしい。
だが、幸運にも無視されたのである。
 
午前1:30(午前6:00)
第1次攻撃隊発艦 
淵田中佐率いる183機の攻撃隊である。
  
午前2:32(午前7:02)
ハワイのレーダー基地が大編隊を捕捉。
しかし当直士官が米本土から空輸移動中のB17の勘違いし無視してしまう。
  
午前2:45(午前7:15)
第2次攻撃隊発艦
嶋崎少佐率いる167機の攻撃隊である。
  
午前3:00(午前7:30)頃
重巡『筑摩』所属の零式水上機より偵察報告入電。
真珠湾上空の天候及び米太平洋艦隊の正確な情報を報告。
『筑摩』所属機はさらに南下し米空母を捜索するも発見ならず。
『利根』所属機はラハイナ泊地を偵察。帰路オアフ島東方で味方の攻撃を確認。
  
午前3:10(午前7:40)
第1次攻撃隊、攻撃展開下令
  
午前3:19(午前7:49)
全軍突撃下令『トトト・・・』のト連送。
第1次攻撃隊、攻撃開始。
  
午前4:13(午前8:46)
第2次攻撃隊、展開下令
  
午前4:25(午前8:55)
突撃下令
第2次攻撃隊、攻撃開始

 
この作戦は戦史上、数少ない完全試合とも言える内容であり、たった一回の攻撃によアメリカ太平洋艦隊の戦艦戦力は一挙に壊滅している日本側の損害も作戦規模から行けば非常に軽微であったといえるだろう。またなにより6隻もの空母を集め、航空機による絶対的な強さを世界に示したことも特筆すべきことである。
しかし戦術上、戦略上、まったく問題が無いわけでもなかった。

1.   攻撃がたった一回(2波の攻撃)しか行われず第2次攻撃を行わなかったこと。
2. 宣戦布告の通達が遅れ、宣戦布告なき開戦となってしまったこと。
3. 米空母を取り逃がしてしまったこと。

などである。これらは色々と問題もあったが、当時としては仕方の無いことであったと思われる。
最近よく言われる米政府の陰謀説などはなんら確証の無いデマであると私は思っている。

この作戦がもたらしたものは機動部隊がもたらした大勝利と南方攻略に当たっての当面の敵戦力の排除であり、そして無敵日本軍(無敵機動部隊)という慢心であった。



そしてもう一つこの作戦に参加した部隊が存在する。
潜水艦部隊と潜水艦から発進した特殊潜航艇『甲標的』である。
この作戦に投入された潜水艦部隊は全部で30隻(内3隻は機動部隊に編入)であり、甲標的5隻が真珠湾軍港内に突入している。
ただし当初期待されていたほどの戦果をあげることは出来なかった。
もとより戦果を期待出来ない作戦であったことは否めない。結果として投入された甲標的5隻はいづれも未帰艦であり、戦死9名捕虜1名の損害を出したのである。