帝国陸軍 戦車連隊(1)


  戦車第一連隊
通称号 宅一二〇七一部隊
編成 大正15年5月1日  戦車第一大隊として創設
昭和8年8月1日 戦車第一連隊に改称
編成地 久留米
最終時の上級部隊と配置
戦車第一師団 栃木県佐野
解説 日本初の戦車連隊として誕生し、太平洋戦争では開戦時のマレー作戦に第三戦車団に所属して参加した。ジットラ陣地突破作戦に参加、この作戦に勝利した連隊は続く150kmに及ぶ追撃作戦等に戦果を重ね、マレー作戦勝利に貢献する。
再編成後、第十五軍戦闘序列に編入されランクーンに上陸。第十八師団に所属して中部ビルマにおける侵攻作戦を転戦した。
昭和17年9月、奉天に移動し改編される。戦車第一師団隷下に入り寧安県に駐留。
昭和20年3月、内地防衛任務に就く為に新潟経由で前橋に移動し、7月には栃木県佐野に移動したところで終戦を迎えた。

  戦車第二連隊
通称号 顕一二三八五部隊
編成 大正14年5月1日 千葉歩兵学校戦車隊として創設
昭和12年8月1日 戦車第二連隊に改編
編成地 千葉
最終時の上級部隊と配置
独立戦車第二旅団 神奈川県・戸塚
解説 太平洋戦争開戦直前、第五五師団に配属されカムラン湾に進出し、マレー作戦に参加する。
昭和17年3月、第十五軍戦闘序列に編入され、ビルマへ転戦する。このとき軽戦車1個小隊がペグー北方で英印軍のM3戦車と交戦し全滅した。
8月、独立戦車第一中隊を編制、ガダルカナル作戦に参加する。
昭和20年4月6日、独立戦車第二旅団隷下に編入、内地防衛の為、神奈川県戸塚に展開したが、そのまま終戦を迎えた。

  戦車第三連隊
通称号 拓一二〇七五部隊
編成 昭和8年10月1日 戦車第三大隊として編制
昭和12年8月1日 戦車第三連隊に改称
編成地 久留米
最終時の上級部隊と配置
支那総軍第十一軍 南支の全県
解説

  戦車第四連隊
通称号 海五〇五八部隊
編成 昭和9年4月1日 戦車第四大隊として編制
昭和13年8月1日 戦車第四連隊に改称
編成地 習志野
最終時の上級部隊と配置
第二戦車団 チモール
解説 昭和14年6月、ノモンハン事件における安岡支隊の基幹部隊として活躍。翌年第二戦車団の隷下でソ満国境警備の任務に就くが、太平洋戦争開戦直前に南方抽出戦力として移動し、台湾の高雄で待機状態となる。開戦時フィリピン・ルソン島のダルモテスに上陸し園田支隊として戦車第七連隊と共にマニラ攻略戦に参加した。
その後第十六軍隷下に移り、連隊主力は第四八師団に配属され東部ジャワ・スラバヤ攻略戦に参加した。(第一中隊は東海林支隊に配備、第二中隊は第三八師団に配備。主力隊には戦車第二連隊第三中隊とマニラで鹵獲したM3軽戦車が増加装備された。)
ジャワ制圧後はスラバヤにて警備任務に従事するが、昭和17年12月にチモール島に前進する。以後警備と次期作戦に備えるが、そのまま終戦まで同地にあった。

  戦車第五連隊
通称号 拓一二〇八三部隊
編成 昭和12年8月2日
編成地 久留米
最終時の上級部隊と配置
戦車第一師団 埼玉県加須町
解説 編制後の昭和13年1月、牡丹江省愛河に移駐。翌年ノモンハン事件ではハイラル方面に出動した。
昭和17年6月24日、新設された戦車第一師団に所属。以後満州東部国境付近での警備と訓練に従事する。
昭和20年3月、内地防衛の為栃木県金丸原に移駐し、6月より埼玉県加須町に配属されるが、そのまま終戦を迎えた。

  戦車第六連隊
通称号 撃一二〇九四部隊
編成 昭和12年12月1日
編成地 青野原(姫路)
最終時の上級部隊と配置
戦車第二師団 サラクサク、クラーク地区で壊滅
解説 開戦直前に第二五軍の戦闘序列に入り第三戦車団に編入、海南島三亜に集結。開戦時のマレー半島攻略戦でタイ、シンゴラに上陸した。
昭和17年1月6日、スリムの激戦と呼ばれる戦いに参加する。連隊の第一中隊(九五式軽戦車)、第四中隊(九七式中戦車)で編制された島田戦車隊が安藤支隊に配属され、スリム台地に布陣した英印軍に対して無謀とも言える夜襲作戦を実施した。歩兵、工兵と共に戦車隊は英軍陣地を突破し、途中5箇所の爆破装置が仕掛けられた橋梁を突破。縦深6kmを3時間で突進してトロラクに突入し、さらに奥のスリム鉄橋を確保すると共に英軍旅団司令部、砲兵司令部を撃破、100両におよぶ車両を撃破することに成功した。これにより以後主力部隊の進撃の基となった。
シンガポール攻略後は戦車第二師団の隷下に入り満州に移駐。ソ満国境警備にあたった。
昭和19年10月、マニラに移動した連隊はルソン島南部防衛に就く。翌年1月の米軍リンガエン湾上陸の際に防衛戦を展開、米戦車団と激闘を繰り広げムニオス死守をはかる。だが連隊長(井田大佐)も戦死し、後方山地隊に撤退したときには車両の多くを失っていた。戦車を失った戦車兵たちは車載機関銃を降ろして歩兵として戦い続けることとなる。一方レイテ島に派遣された第一中隊もレイテ島内を転戦し全滅した。

  戦車第七連隊
通称号 撃一二〇九五部隊
編成 昭和12年7月27日 戦車第一大隊として編成
昭和13年7月2日 戦車第七連隊と改称
編成地 久留米
最終時の上級部隊と配置
第二三師団 リンガエン湾にて玉砕
解説 開戦時に戦車第四連隊と共に園田支隊(連隊長)を編成しフィリピン攻略作戦に参加。カバン市、マニラ市攻略戦に参加する。その後バターン攻略戦に参加し、コレヒドール攻略作戦では戦車による強行上陸作戦を行った。
昭和17年6月、戦車第二師団の隷下に入り満州に移動したが、昭和19年9月には再びフィリピンに戻った。
昭和20年1月、米軍のリンガエン湾上陸に対して防戦を開始。連隊を中心とした重見支隊を編成し第二三師団に配属されて奮戦を続ける。だが度重なる激戦により戦力を消耗していく。1月27日夜、重見旅団長及び前田連隊長以下の将兵は残存戦力を率いて米軍に突撃を敢行したが玉砕した。

  戦車第八連隊
通称号 剛一七〇部隊
編成 昭和12年7月27日 戦車第二大隊として編制
昭和13年7月2日 戦車第八連隊と改称
編成地 北支
最終時の上級部隊と配置
第十七軍 ニューアイルランド島
解説 北支方面軍の隷下に有ったが、昭和17年9月よりラバウルへ移駐し警備に就き、以後ポートモレスビー、ガダルカナル島作戦の準備を進める。
昭和19年7月、ニューアイルランド島に移動し、以後戦闘に従事することなく終戦を迎えた。

  戦車第九連隊
通称号 備一二〇八九部隊
編成 昭和14年8月1日
編成地 鉄嶺
最終時の上級部隊と配置
第三一軍 サイパン
解説 戦車第三連隊戦車第五連隊から抽出された要員によって編制された連隊である。
昭和19年4月、第三一軍の隷下に入り、第四三師団に配属された。第一、第二中隊はグァム島に配備され、残りは連隊主力としてサイパン島に配備された。6月15日、米軍のサイパン上陸に対しオレアイ海岸で迎撃をしただったが、米軍からの艦砲射撃により後退を余儀なくされる。翌16日夜、跨乗歩兵を伴なって反撃を開始、一時米軍指揮所付近まで進出するが、米軍のバズーカ砲、75o対戦車砲により大部分の戦車を失い、連隊長も戦死し連隊は壊滅的となる。その後消耗戦が2週間ほど続いたが連隊は全滅した。
グァム島の戦闘も8月11日には組織的な抵抗は終わっている。連隊員の生き残りは終戦時で僅か21名だったという。