帝國陸軍師団(20)

  戦車第一師団
   通称号   
編成 昭和17年6月24日
編成地 満州・寧安
補充担当 福岡
解説 昭和17年6月に臨時編成が下命された師団であり、第一戦車団を基幹に編成された。
編成された師団は機甲軍の指揮下に編入され、満州東部国境付近に配備され、教育訓練に専念し、有事の際には第一方面軍の指揮下に編入されることとなった。
昭和19年4月、戦車第九連隊がマリアナ防衛の為に引き抜かれ、第三一軍の指揮下に転出。さらに戦車第三連隊と師団防空隊が大陸打通作戦に参加するために転出していった。
昭和20年3月、本土決戦準備の為に本土に転用が決定。第十二方面軍第三六軍の指揮下に編入され佐野に師団司令部を開設した。これは連合国軍による九十九里浜上陸を予想した上での配置であり、また相模灘と鹿島灘へ上陸した場合の反撃にも準備をした。
師団は機動力を活用した偵察、機動要領の研究を実施すると共に、教育訓練、戦法研究実施。また敵制空権下での行動を鑑みて夜間機動を予定していた。
筑波山東側、多摩川西側地帯に掩蔽壕を構築し、準備を進めていたが、そのまま終戦を迎えた。
部隊編成  創設時    第一戦車旅団 戦車第一連隊(佐野)
戦車第五連隊(加須)
第二戦車旅団 戦車第三連隊
戦車第九連隊
機動歩兵第一連隊(栃木)
機動砲兵第一連隊(栃木)

  戦車第二師団
   通称号   
編成 昭和17年6月24日
編成地 満州・勃利
補充担当 大阪
解説 昭和17年6月に臨時編成が下命された師団であり、第二戦車団を基幹に編成された。
編成された師団は機甲軍の指揮下に編入され、満州東部勃利付近に配備され、教育訓練に専念し、有事の際には第一方面軍の指揮下に編入されることとなった。
昭和19年3月、戦車第十一連隊は北千島防衛の為に転出し、7月には師団が大本営直轄となってフィリピン・ルソン島の第十四方面軍の戦闘序列に編入された。ルソン島への移動中、一部兵力を上陸中に撃破されている。また一部兵力がレイテ島に派遣され、また一部は方面軍司令部直卒へと差し出された。師団主力はルソン島中部に配置され、戦車第六連隊はマニラ防衛隊に配属された。
また戦車第三旅団司令部(旅団長:重見伊三雄少将)と戦車第七連隊、機動歩兵第一大隊、機動砲兵第三大隊、工兵1個中隊を基幹とした重見支隊を編成し、リンガエン方面に配置し第二三師団の指揮下に配属された。米軍のリンガエン湾上陸に対し、猛烈な砲爆撃に耐えつつ反撃の機会を伺い、昭和20年1月16日、米上陸部隊の後方に逆上陸をかける挺身隊を支援する為に戦車1個中隊と歩兵1個大隊が夜間切込みを敢行するが、1両を除いて全滅した。(逆上陸も失敗) 翌日、進撃してくる米M4戦車に対しタッグイン戦法により3両を撃破したが、敵の反撃により増援部隊も含めて後退を余儀なくされる。以後重見支隊はサンマヌエルを20日間に渡って死守するが、第二三師団が後退すると、残存戦力をもって突撃を敢行し、第三戦車旅団と戦車第七連隊は壊滅した。
師団主力は上陸した米軍の南下を牽制、阻止すべく遅滞戦を行い、方面軍の対応が取れるまでの時間を稼ぐべく行動する。戦車第六連隊戦車第十連隊共に米軍の砲爆撃により次々と戦力を失っていき、2月4日には後方山地隊帯に後退した。後退中にほぼ全ての戦車を失い、以後は戦車から外した車載機関銃をもって歩兵として戦い続けることとなった。
一方、ルソン島への輸送途中に装備を失った戦車第七連隊第五中隊(桜井中隊)は、現地で補充された中古及び廃棄車両をもって部隊を再編し、バギオに展開した。4月になってイリサン峡谷の戦いでは特攻作戦を採用し、進撃してくる米戦車部隊に対して待ち伏せ・特攻攻撃を敢行して1週間進攻を遅らせることに成功する。
また3月から続くサラクサク峠での攻防戦では、既に戦車を全て失った後も機動砲兵第二連隊の九〇式野砲(2門)及び一式自走砲(4両)をもって効果的な砲撃戦を展開。6月3日に最後の1両が撃破されるまで戦い続けた。
部隊編成  創設時    第三戦車旅団 戦車第六連隊(アンチポロ)
戦車第七連隊(アンチポロ)
第四戦車旅団 戦車第十連隊(アンチポロ)
戦車第十一連隊(アンチポロ)
機動歩兵第二連隊
機動砲兵第二連隊

  戦車第三師団
   通称号   
編成 昭和17年6月24日
編成地 包頭
補充担当 津田沼
解説 昭和17年6月に臨時編成が下命された師団であり、蒙疆地区所在の騎兵集団を基幹に在支戦車連隊等をもって編成された。
師団は駐蒙軍隷下にあって、包頭付近の警備を担当した。
その後戦車第八連隊はラバウルに転出(終戦までラバウルに配備)される。
昭和19年春、大陸打通作戦の開始に伴って第十二軍に編入、黄河南岸の鄭州に集結したが、第五戦車旅団戦車第十二連隊は包頭に残留した。
大陸打通作戦では師団は騎兵第四旅団と共に黄河南岸から南下するように見せかけて敵を西方山岳地帯から誘致してから外翼から旋回・包囲・撃滅する予定であった。昭和19年4月30日、作戦を開始し5月7日には龍門高地を占領したが、敵主力は西方に脱出し、捕捉撃滅は失敗した。
続く洛陽攻撃では敵撃滅の為に西方への追撃戦を展開。洛河方面に進撃、騎兵旅団が長水鎮の隘路を占領して退路を遮断することに成功した。その後の洛陽攻撃で歩戦砲教導で堅陣を攻略する。
約1,400キロにおよぶ連続機動こなした本作戦は戦車師団として歩戦砲の統合戦力を発揮した最初で最後の作戦となった。
その後7月、第六戦車旅団は湘桂作戦に参加。師団主力は昭和20年3月に老河口作戦に参加した。
部隊編成  創設時    第五戦車旅団 戦車第八連隊
戦車第十二連隊
第六戦車旅団 戦車第十三連隊(北京)
戦車第十七連隊(北京)
機動歩兵第三連隊(北京)
機動砲兵第三連隊(北京)

  戦車第四師団
   通称号   
編成 昭和17年7月6日
編成地 千葉
補充担当 津田沼
解説 戦車第四師団は他の戦車師団と異なり、歩兵連隊、砲兵連隊を持たず、戦車3個連隊で編成される。
母体は戦車・騎兵・夜戦砲兵・工兵・輜重兵の各学校教導部隊を基幹に編成された、完全な車両編成部隊であり、各戦車連隊は自走砲・作業・整備の各中隊を含めて完全装甲装軌化連隊である。
第三六軍に編入され本土決戦、連合国軍の九十九里浜上陸に備えての夜間機動経路の偵察、道路整備、陣地構築作業に従事し、敵軍上陸に備えたが、その準備中に終戦を迎えた。
部隊編成  創設時    戦車第二八連隊(千葉)
戦車第二九連隊(船橋)
戦車第三〇連隊(習志野)