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戦車第二二連隊 |
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通称号 |
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達一二六一四部隊 |
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編成 |
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昭和17年8月1日 |
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編成地 |
盛岡 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第五方面軍 |
帯広 |
解説 |
昭和19年8月より帯広に移駐。
米軍の北海道防衛に就き、根室地区上陸に備えての研究を行っていた。 |
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戦車第二三連隊 |
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通称号 |
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鋭敏一二〇五三部隊 |
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編成 |
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昭和16年10月1日 |
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編成地 |
牡丹江 |
最終時の上級部隊と配置 |
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独立戦車第八旅団 |
静岡 |
解説 |
戦車第五連隊を母体として編制。後に公主領に移駐して警備任務に就く。
昭和20年5月、内地防衛の為、静岡県引佐郡に移駐。 |
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戦車第二四連隊 |
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通称号 |
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鋭敏一二〇五四部隊 |
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編成 |
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昭和17年3月30日 |
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編成地 |
四平楊木林 |
最終時の上級部隊と配置 |
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独立戦車第八旅団 |
豊橋 |
解説 |
編制後、関東軍直轄部隊となるが、昭和17年6月より機甲軍教導戦車旅団所属となる。
四平戦車学校の研究教育の支援を行った後、本土決戦の為に独立戦車第八旅団の隷下に配属される。
昭和20年5月に内地に戻り、豊橋付近に展開したまま終戦を迎えた。 |
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戦車第二五連隊 |
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通称号 |
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台五三〇七部隊 |
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編成 |
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昭和19年4月12日 |
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編成地 |
包頭 |
最終時の上級部隊と配置 |
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第十方面軍 |
台湾 |
解説 |
戦車第十二連隊の一部を基幹戦力として編制された連隊であり、当初包頭付近の警備を担当していた。
昭和19年8月、台湾に移駐し、新竹州、高雄州の警備にあたった。
昭和20年5月、連隊を基幹とした臨時戦車撃滅連隊を編制、7月には第十方面軍直轄部隊として独立混成第四二連隊に改編される。主に歩兵部隊に対し陣地構築、対戦車肉薄攻撃等の指導にあたった。 |
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戦車第二六連隊 |
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通称号 |
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膽一二〇七六部隊 |
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編成 |
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昭和19年3月17日 |
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編成地 |
牡丹江 |
最終時の上級部隊と配置 |
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小笠原兵団 |
硫黄島 |
解説 |
戦車第一師団捜索隊を改編して編成された連隊。編制後サイパン防衛の為朝鮮半島釜山に移動したがマリアナ海戦に破れ、奪回の見込みが無い為、小笠原諸島防衛に回された。以後硫黄島に進出し、同島防衛にあたることとなるが、昭和19年7月輸送中に輸送船が沈没し28台の戦車が失われた。西連隊長は残存戦車を集め、23両で硫黄島に展開した。
昭20年2月、米軍の硫黄島上陸に対し応戦。連隊長(西竹一中佐)以下、激戦を展開し、戦車を失った後は切り込みを行って玉砕した。
(連隊長:西中佐は米軍の投降呼びかけに応じず、3月21日に自決したと伝えられている。) |
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戦車第二七連隊 |
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通称号 |
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球一二一〇二部隊 |
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編成 |
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昭和19年3月17日 |
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編成地 |
勃利 |
最終時の上級部隊と配置 |
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- |
宮古島(第三中隊のみ) |
解説 |
戦車第二師団捜索隊を改編して編成された連隊 |
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戦車第二八連隊 |
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通称号 |
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鋼一二三七〇部隊 |
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編成 |
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昭和19年7月6日 |
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編成地 |
千葉 |
最終時の上級部隊と配置 |
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戦車第四師団 |
千葉県黒砂町 |
解説 |
千葉陸軍戦車学校教導隊を基幹として編制。
昭和20年4月、改編により臨時動員となり千葉県に配備された。 |
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戦車第二九連隊 |
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通称号 |
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鋼一二三七一部隊 |
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編成 |
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昭和19年7月6日 |
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編成地 |
(不明) |
最終時の上級部隊と配置 |
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戦車第四師団 |
千葉県二宮町 |
解説 |
習志野陸軍騎兵学校教導隊を基幹に編制。 |
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