1月4日 大本営参謀本部にてインパール作戦に関する最終協議

第十五軍が開催したインパール作戦兵棋演習の結果、作戦決行を報告した綾部参謀副長は寺内元帥に決済を受ける。
そして作戦認可の上申書を携え上京し、大本営の認可を申請した。
大本営では作戦部長以下の主務参謀がこぞって反対し、作戦の成算無しと判断した。特に作戦部長真田譲一郎少将は強く反対する。だが杉山参謀総長の寺内元帥の初めての要望であるから、希望通りやらせてやれ。という人情論により認可されてしまう。

国運を賭け、後に世紀の愚作とも言われるインパール作戦は冷静な判断と検討の結果ではなく、一人の無謀とも言える発案(と執念)と、最高司令部の人情論によって決定することとなった。
参謀本部は翌1943年(昭和18年)1月7日、インパール作戦(ウ号作戦)]を認可した。

   

1月19日 南方軍、ビルマ方面軍命令を下達

ビルマ方面軍命令
 第十五軍司令官は、敵の反攻準備未完に乗じ、速やかにインパール付近に進攻し、当面の敵を撃破してアラカン山系内一帯の要域を領有し、その防衛を強化すべし。
 作戦は、雨期前に終了する如く、とくに指導の適正を期すべし。

命令は第十五軍司令官牟田口中将の希望したインド・アッサム方面進攻ではなく、ビルマ防衛の強化が目的とされていた。だがこの命令を受領した後でもインド進攻を諦めず、最後まで拘り続けた。この考え方の違いが本作戦の悲劇に続いた一因である。
   

3月3日 『5月末までに本土空襲を企図しあるがごとし。大型爆撃機の行動に関し警戒を要す』

一号作戦立案当時、支那派遣軍を悩ませていた米陸軍航空隊(在中国の第14航空軍)の動静に関し、大本営に対し敵情を報告した。
成都方面の敵の活発な動きを探知した支那派遣軍では敵の探知に余念が無かった。
2月ごろより成都南西地区・新津飛行場に飛来する輸送機の増加と、往来状況をもとに物資・燃料の蓄積状況を推算した結果、成都方面からの本土空襲の可能性をキャッチした。
3月の成都方面における米輸送機の飛来数は延657機を数えた。
   

3月19日 モール付近に進出した英印軍空挺部隊攻撃の命令を受領

英印軍空挺部隊が3月中旬、モールに進出し、ミートキーナ線を遮断した。
この為ミートキーナに展開する第十八師団は後方遮断され、補給が途絶してしまう。第十五軍、後にビルマ方面軍は混成第二四旅団(武兵団:旅団長 林 義秀少将)に対しモール付近の英印軍攻撃を命令した。
この旅団はビルマ南東方面海岸地帯防衛の為の部隊であったが、北ビルマ方面防衛の為第三三軍に増援として送られ、しかも兵站部隊を改編したばかりであった。その為旅団の将校は3月16日にモールメンに進出したばかりであり、訓練も部隊の団結も出来ていない状態で攻撃命令を受領することとなった。しかも3夜に渡る夜間連続機動で現地に進出した後、敵情の確認も禄にせず、準備不十分なまま攻撃をしかけてしまった。
攻撃は失敗し、モールから4〜5キロ離れた疎林に後退して以後攻撃することなく無為に時間を過ごすこととなった。
   

3月20日 一号作戦計画大綱(大陸打通作戦)、上申

支那派遣軍は一号作戦計画大綱を参謀総長東條大将に上申した。
だが計画が大陸鉄道打通の色が濃く残る作戦案であった為、東條に反対される。
曰く『余計な欲を出すな。目的は中国の米航空基地覆滅だけでいい。』
この時点で中部太平洋方面が米艦隊の空襲に曝され、本土に対する危機が迫っており、さらに大陸方面からも本土空襲の可能性がある状況では、とても日本軍が耐えられない状況であった。
まず大陸からの本土空襲の可能性を潰す為、東條は仏印への打通よりも西安方面への作戦を指示し、西安飛行場攻略を指示した。
この時の東條の判断は正鵠を得ていた。

翌21日に東條は支那派遣軍に対し、重ねて敵航空基地攻略の徹底を指示し、西安攻略を含めた計画の再考を言い渡した。
だが、結果的には大作戦の計画を練り直すこと適わず、翌4月にほぼ当初の計画のまま作戦実行に移されることとなった。
      

4月26日 日本軍、B-29と初の接触

成都・広漢飛行場を目指してチャクリアを発進したB-29 2機の編隊がインド・ビルマ国境上空にて日本軍の小型機12機を発見、攻撃を受けた。
この日本軍機はインパール作戦においてインパール攻撃の為に出撃した飛行第六四戦隊及び飛行二〇四戦隊の合同部隊であり、使用機体は一式戦『隼』であった。
12機は進撃途中で大型四発機と遭遇。6機はヒマラヤ方面に飛行を続け、飛行第六四戦隊飛行隊長宮辺大尉率いる6機は追跡を開始。10分ほど同航した後、突撃を開始した。攻撃は各個に行われ、45分間の間に12回もの反復攻撃が行われたが撃墜にはいたらなかった。
日本側判断では敵機のエンジン1基が停止、墜落していったと思われた。(実際には被弾8発のみ)
米側報告では尾部銃手が1機撃墜を報告。(実際には全機帰還)
この接触は直ちに陸軍航空本部に伝えられ、航空本部では『B-29の可能性大なり』と判断された。
尚、当初宮辺大尉は接触した銀ムクの大型機をB-17と判断していたという。

また同日第五航空軍特種情報部では敵の無線傍受によりB-29の中国到着を探知した。各種情報の総合結果から、インドにはB-29が約130機送り込まれていると判断した。(5月8日の時点でインドに到着したB-29は130機であった。)
    

6月5日 B-29初出撃・バンコク空襲

B-29による初の作戦行動。
目標はタイ・バンコクの鉄道操車場・日本軍造船施設に対する昼間精密爆撃。
カルカッタ近郊の各飛行場を出撃したB-29 ×98機(計画は100機だったが、事故焼失と故障により2機減)は途中洋上を飛行し、将来の対日本土空襲作戦の予行演習を兼ねた作戦であった。
途中故障により21機が引き返し、目標上空に達したB-29 ×77機は各機4.5トンの爆弾を抱えており、厚い雲に遮られた為、目視爆撃が出来ないと判断した機体の殆どがレーザー照準に切替えて高度5,200m〜8,300mで投下した。
日本側の邀撃機は少なく、高射砲も盲撃ちの為当らなかった。帰路、エンジン不調や操作ミスにより4機が途中不時着した。
数日後、偵察機による戦果確認では何処を爆撃したのか分からないほど無傷の目標が確認された。だがこの作戦によりB-29部隊のウォーミングアップが終了したとされ、作戦から3日後の6月8日には6月15日にサイパン上陸に協力する為に日本本土に対する空襲命令が発せられた。
  

7月2日 威作命第一〇一号を下達

威作命第一〇一号
  (威=南方軍の秘匿名)
 ビルマ方面軍司令官は、自今マニプールの敵に対し、概ねチンドウィン河河畔以西地区において持久を策しつつ、怒江西岸地区及び北ビルマにおいて、敵の印支地上連絡企図を破砕封殺すべし。
 威作命第一〇一号に基づく総参謀長指示
 ビルマ南西海岸における戦備は、適宜これを強化するものとする。
インパール作戦の失敗を認めた大本営は、同作戦の中止を決定。今後は印支連絡線の遮断に徹するように命令することとなった。そこで南方軍ではビルマ方面軍に対し、上記命令を下達する。
この命令によってビルマ方面軍の任務は南西海岸に対する多少の危険には目をつぶってでも雲南及び北ビルマにおける印支連絡ルートの遮断に充填を志向することが命ぜられた。

尚、さらに命令を徹底する為、7月15日に南方軍総参謀副長 和知中将をビルマに派遣し、同遮断作戦(断作戦)の徹底強化を要望している。
   

7月21日 海軍防空戦闘機隊の防衛総司令官の指揮下への編入

海軍の防空戦闘機部隊に指定されている下記航空を防空戦闘の作戦時に限り防衛総司令官(陸軍)の指揮下に入るように定められた。
横須賀鎮守府管轄区域 第三〇二航空隊
呉鎮守府管轄区域 呉航空隊戦闘機隊(後に第三三二航空隊に改編)
佐世保鎮守府管轄区域 佐世保航空隊戦闘機隊(後に第三五二航空隊に改編)
これにより一部とはいえ、陸海軍の指揮系統が統一されることとなった。
だが、この組織改編は形式的なものであり、十分な連携が取れたわけではない。防衛総司令官の指揮の下、陸軍の飛行師団が指揮を執るのだが、海軍に対しては待機空域を指定する程度であり、電探網や通信なども陸海軍が並設され、別個に運用された。
   

7月29日 鞍山空襲

成都から発進したB-29に60機による満州・鞍山にある昭和製鋼所爆撃作戦。
同製鋼所は八幡製鉄所につぐ生産規模を持つ製鉄所であった。
  
米軍
第20爆撃兵団は北九州発爆撃以降、ワシントンからの命令により鞍山にある昭和製鋼所爆撃を目指し、燃料の備蓄に専念する。当初は輸送量が少なく苦労したが、6月当時に比べて追加の輸送機の手配もあり、3倍近い輸送量を確保していた。

成都を出撃したB-29編隊(出撃総数不明)の内、約60機が鞍山に対し昼間爆撃を決行。その他に少数機が天津付近の港湾施設などに爆撃を行った。
日本軍機による邀撃は殆ど受けず、爆撃は概ね成功。後の戦果確認偵察によると昭和製鋼所内に爆弾95発が命中し、生産能力を半減させたと判断した。
    
日本軍 
状況 在満州の第二航空軍の戦闘機部隊は南方戦線に引抜かれており、鞍山防空を担当する第十五飛行団の防空戦力はこの空襲時に僅かに二式単戦 ×9機のみであった。
この空襲の後、東京の第十飛行師団に派遣中であった飛行第七十戦隊を呼び戻すことになる。(鞍山への移動は8月1日)
    
陸軍 第十五飛行団
二式単戦『鐘馗』9機が出撃。
B-29の爆撃高度は7,600mであったが、一撃を掛けるのが精一杯であり、追撃することは出来なかったという。
 

8月10日 バレンバン空襲

成都方面より日本空襲を狙う米第20爆撃兵団は対日戦略爆撃の一環として一部爆撃隊がセイロン島前進基地に移動。同島よりスマトラ島バレンバン精油所を空襲した。
出撃総数は不明。
内31機がバレンバン精油所に対し爆撃を行い、他に8機がムシ川河口に機雷を投下した。
この作戦の成果は芳しくなく、セイロン島からの出撃はこの1回限りで終わった。
    

9月8日 第二次鞍山空襲 & 成都空襲

成都から発進したB-29に108機による満州・鞍山にある昭和製鋼所爆撃作戦。
この作戦では8月29日に第20爆撃兵団に着任したカーチス・E・ルメイ少将が自らB-29に搭乗して指揮をとった作戦である。
  
米軍
新たに着任したカーチス・E・ルメイ少将の陣頭指揮による爆撃作戦。
第20爆撃兵団はB-29 ×107機を出撃させ、うち98機が鞍山にある昭和製鋼所を爆撃し、別働隊9機が本渓湖の製鉄所・炭鉱を空襲した。
爆撃高度7,000m〜8,500m。日本軍の邀撃を受けたが、構わず回避行動も行わず爆撃コースを突き進んで絨毯爆撃を行った。
この作戦において日本軍機撃墜8機、不確実撃墜9機、撃破10機を報告した。損失はB-29 ×4機。

ルメイ少将はこの作戦の後、B-29の運用方法を変更していくこととなった。

従来の4機単位による菱形編隊を12機編隊とし、編隊の防御力を向上。
夜間爆撃から昼間爆撃へのシフト。
目標確認の徹底と、爆撃先導機搭乗員の教育。
整備力の向上。などである。
    
日本軍 
状況 B-29による本土空襲以降、その発進基地である成都爆撃構想を抱いていた第五航空軍では鞍山が再び爆撃を受けことにより意を決し、B-29が成都に帰還したところを叩くべく第八飛行団に成都夜間爆撃を命じる。
第八飛行団隷下の飛行第十六戦隊飛行第六十戦隊飛行第九十戦隊の各選抜部隊による爆撃機は同日夕方に前進基地である山西省運城に進出した。
陸軍 第十五飛行団
二式単戦『鐘馗』が出撃。
『B-29 ×30機以上を撃墜。我が方の未帰還4機』と報告。
 
飛行第九戦隊
河南省開封付近で鞍山に向かうB-29を邀撃。
往路で8機撃破、復路で撃墜2機、不確実撃墜1機、撃破1機を報告した。
  
第八飛行団
九九双軽 合計10機を出撃。(飛行第十六戦隊飛行第九十戦隊)
九七重爆 8機が出撃(飛行第六十戦隊
航続距離の足りない九九双軽は空中勤務者を定員4名から2名に減らし、武装を撤去して軽量化を図った。また200L増加燃料タンクを3個積み、航続距離延長を行った。
8日23:30から各機が発進。揚子江の流れを頼りに成都まで夜間長距離飛行を行い、煙霧や敵邀撃機の妨害を振り切り成都飛行場群に侵入。B-29を5機炎上、9機撃破。他に数箇所の施設を炎上させたと報告した。
未帰還機は九七重爆2機。
戦果は少ないが、B-29基地を爆撃したことに対し陸軍中央部は注視し、第五航空軍には陸軍大臣、参謀総長からの祝電が舞い込んだ。
  
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